朱の騎士と白き御座の子   作:ぶーく・ぶくぶく

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守ると決めた嘘

 オルトレンの屋敷へ戻った時、帝都の夜はすでに深かった。

 

 門は閉じられ、見張り台には弓兵が立ち、水路口には鉄格子が落とされている。昼の商家の屋敷ではない。今は、金と人と情報で固められた小城だった。

 

 門番は朱い竜鱗の鎧を見て、一瞬だけ槍を構えかけた。

 

 だが、すぐに気づく。

 

 朱の騎士だ。

 

 門が開く。

 

 キーツは血と埃をまとったまま、屋敷の内庭へ入った。

 

 そこではオルトレンが、いくつもの帳簿と地図を広げていた。寝るつもりなど最初からなかったらしい。

 

 彼はキーツを見るなり、片眉を上げる。

 

「戻ったか。生きているね」

 

「ああ」

 

「セイラム香薬商会は?」

 

「潰した」

 

「だろうね」

 

「元老バルデロスまで潰してきた。安全だ」

 

 オルトレンの手が止まった。

 

 広げていた帳簿の上で、細い指がぴたりと静止する。

 

「……元老バルデロス?」

 

「ああ」

 

「ドン・エステバン・デ・バルデロス?」

 

「そうだ」

 

「潰した、というのは、どういう意味で?」

 

「屋敷へ行った。門を割った。護衛を倒した。ランと親衛隊が入った。叛意の証拠が出た。あとはレヴィが裁くだろう」

 

 オルトレンはしばらく無言だった。

 

 そして、ゆっくりと椅子へ背を預ける。

 

「なるほど」

 

 声は低い。

 

 だが、その目に宿った光は、恐怖ではなかった。

 

 商人の目だった。

 

「元老が神輿を担いで反逆しようとしていたのか。そして今さっき潰されたと」

 

「ああ」

 

「買い付けの量が増えていたのは、兵を動かすためだったか。籠城には少なく、遠征には多すぎる。あれは帝都内で動かす私兵、抱き込む衛士、封鎖する門、そして万一の皇城騒ぎに備えた食料だったわけだ」

 

 オルトレンは卓上の地図を指でなぞった。

 

「北倉。香薬商会。元老院区。皇城。奴隷市場。なるほど、線が汚い。だが太い」

 

 彼は笑った。

 

 先ほどまでの警戒した笑みではない。

 

 獲物を見つけた商人の笑みだった。

 

「……それが潰れたとなると」

 

 オルトレンの声が少し弾む。

 

「食料は余る。薬草も余る。買い付けに噛んでいた小商会は震える。元老院筋の商人は尻尾を切る。レヴィ陛下の親衛隊は帳簿を押さえる。セイラムは死んでいないなら喋る。バルデロス派の資金路は一晩で腐る」

 

 キーツは黙って聞いていた。

 

 オルトレンは立ち上がった。

 

「ふふふ」

 

「何だ」

 

「今夜は眠れそうにないな」

 

 オルトレンは手を叩いた。

 

「書記! 起きろ! 全員だ! 商いの計画を立てるぞ!」

 

 奥の部屋から、眠そうな書記たちが顔を出す。

 

「旦那様……今からでございますか」

 

「今からだ。バルデロス派の買い付けが崩れる。穀物、油、薬草、荷馬車、人足、倉庫、全部動く。先に押さえた者が勝つ。今夜は徹夜だ!」

 

 書記の一人が青ざめた。

 

「何があったので?」

 

「反逆が潰れた!」

 

「はい?」

 

「細かい説明は後だ。まず北倉筋の帳簿を出せ。セイラム香薬商会と取引のある小商会一覧。あと、薬師組合への貸し借りも洗え。バルデロス派の商人が投げ売る前に、こちらで受け皿を作る」

 

 オルトレンは、すでに楽しそうだった。

 

「それから、女帝陛下側へ献上する名目の食料支援案を組む。高く売るな。恩を売れ。今、金より価値があるのは信用だ」

 

「旦那様、徹夜ですか」

 

「徹夜だ。喜べ。歴史が値動きしているぞ」

 

 そう言って、オルトレンは本当に嬉しそうに奥へ走っていった。

 

 キーツはそれを見送った。

 

「元気だな」

 

 フェーゼフが、柱の影から静かに言う。

 

「彼は戦場ではなく帳簿で血が騒ぐ男だ」

 

「そうか」

 

「君と似ている」

 

「似ていない」

 

「似ているよ。狩場が違うだけだ」

 

 キーツは答えなかった。

 

 内庭に面した部屋では、レリーエがメイエを寝かせていた。

 

 メイエは疲れ切って眠っている。青い硝子玉の髪紐を、小さな手で握ったまま。

 

 レリーエはキーツの姿を見ると立ち上がった。

 

 朱い竜鱗の鎧はすでに腕輪の中へ戻っていたが、彼の衣にはまだ戦いの名残がある。

 

 血。

 

 埃。

 

 石粉。

 

 そして、戻ってきた者の静けさ。

 

「終わったのね」

 

 レリーエが言った。

 

 その声は、祈るようでもあり、確認するようでもあった。

 

「終わった」

 

 キーツは答えた。

 

「バルデロスは親衛隊が押さえた。セイラムも折った。今夜すぐに、君たちを奪いに来る者はいない」

 

 レリーエは目を閉じた。

 

 長く、長く息を吐く。

 

 けれど、その安堵は完全ではなかった。

 

「今夜すぐに、なのね」

 

「ああ」

 

「明日は?」

 

「分からない」

 

「正直ね」

 

「嘘をつく理由がない」

 

 レリーエは小さく笑った。

 

 疲れた笑みだった。

 

「あなたらしいわ」

 

 キーツは少し沈黙した。

 

 それから、低く言った。

 

「だが、この国にいる限り、血はつき纏う」

 

 レリーエの表情が変わる。

 

 分かっていた。

 

 分かっていたが、言葉にされると重い。

 

 サルフ。

 

 白き御座。

 

 元老院。

 

 レヴィ。

 

 メイエの血。

 

 自分が隠してきたもの。

 

 姉妹という嘘。

 

 母であることを隠し続けた日々。

 

 それらは、バルデロス一人を潰せば消えるものではない。

 

 キーツは続けた。

 

「レヴィが強くなれば、反対する者はまた別の神輿を探す。元老院の一人を潰しても、全部ではない。商会を折っても、別の商会が金で動く。君たちが帝都にいれば、誰かがまた匂いを嗅ぎつける」

 

「……なら、どうすればいいの」

 

「俺と一緒に北の森へ来い」

 

 レリーエは顔を上げた。

 

「北の森……ラウーの?」

 

「ああ。カーヴェルラ辺境伯の領だ。森が深い。道は少ない。誰が来たか、すぐ分かる。勇士たちは外の血を値踏みしない。守ると決めた者を守る」

 

「でも、私たちは……」

 

「サルフの血に追われている」

 

 キーツは静かに言った。

 

「だから、サルフの外へ出る」

 

 レリーエはメイエを見た。

 

 眠る幼子。

 

 自分の娘。

 

 妹と呼ばせてきた子。

 

 皇族の血を持つ子。

 

 この子を玉座に乗せようとする者がいる。

 

 この子を神輿にして、自分たちの手を白く保とうとする者がいる。

 

 そんな場所に残る理由が、どこにあるのか。

 

「北の森へ行けば、メイエは安全なの?」

 

「絶対はない」

 

「そう言うと思った」

 

「だが、帝都よりはましだ。俺の知る者たちがいる。俺の名が通る。俺が守りやすい」

 

 レリーエは、キーツを見た。

 

「あなたが、守るの?」

 

「ああ」

 

「どうして、そこまで」

 

「買ったからではない」

 

 キーツは先に言った。

 

 レリーエの言葉を封じるように。

 

「同情でもない。帝国の御座のためでもない」

 

「なら、何」

 

「俺は君たちを俺の館に入れた。食卓に座らせた。メイエと串焼きを食べる約束をした。君は俺に故郷の料理を作った」

 

 キーツは少しだけ言葉を探した。

 

 彼にしては珍しく、すぐに続かなかった。

 

「だから、守る」

 

「それだけ?」

 

「それで足りないか」

 

 レリーエは答えられなかった。

 

 足りないはずだった。

 

 普通なら。

 

 だが、この男にとって、それは十分すぎる理由なのだと分かってしまった。

 

 守ると決めた。

 

 だから守る。

 

 奪いに来るなら斬る。

 

 舐めるなら折る。

 

 その単純さが、今は恐ろしく、そして救いだった。

 

 キーツは言った。

 

「俺は君たち姉妹を守ろう」

 

 姉妹。

 

 その言葉に、レリーエの胸が痛んだ。

 

 キーツは知っているのか。

 

 知らないのか。

 

 少なくとも何かは察しているだろう。

 

 けれど、メイエの前では姉妹と呼ぶ。

 

 その嘘を、今は壊さない。

 

 それもまた、守るということなのだと、レリーエには分かった。

 

「……北の森は、寒い?」

 

「ああ」

 

「メイエ、寒いのは苦手よ」

 

「毛布を買う」

 

「食べ物は?」

 

「芋と肉が多い」

 

「それは、あの子は好きかもしれない」

 

「森の蜂蜜もある」

 

「それは絶対に好きね」

 

 レリーエは、そこで少しだけ笑った。

 

 涙が出そうだった。

 

 だが、泣かなかった。

 

「私、針仕事しかできないわ」

 

「できるなら十分だ」

 

「帳簿も少し」

 

「役に立つ」

 

「料理も」

 

「うまい」

 

 その短い言葉に、レリーエは目を伏せた。

 

「……なら、行くわ」

 

 キーツは頷いた。

 

「そうか」

 

「でも、ひとつだけ」

 

「何だ」

 

「メイエには、私から話す。いつか。今ではないけれど」

 

「分かった」

 

「あなたが勝手に言ったら、怒るわ」

 

「言わない」

 

「本当に?」

 

「俺は、守ると決めた嘘まで勝手に斬らない」

 

 レリーエは息を呑んだ。

 

 その言葉は、あまりに不器用で、あまりに正確だった。

 

「……そう」

 

 彼女は寝台へ戻り、眠るメイエの髪を撫でた。

 

「北の森へ行きましょう、メイエ」

 

 小さな声だった。

 

 メイエは眠ったまま、何も知らずに青い硝子玉の髪紐を握っている。

 

 キーツはその姿をしばらく見ていた。

 

 外では、オルトレンが書記たちを叩き起こし、帳簿と地図を広げ、歴史の値動きを商いに変えようとしている。

 

 皇城では、ランがレヴィへ反逆の証を運んでいる。

 

 元老院では、今夜から血の匂いを嗅いだ者たちが震え始める。

 

 そして、この部屋では。

 

 北へ逃げることを決めた母と子が、まだ姉妹という名の中で眠っていた。

 

 キーツは扉の外に立った。

 

 守るべき者と、来るべき血の間に。

 

 その位置だけは、昨夜から変わらなかった。

 

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