## /*/ 知恵の国ラウウ 王都ラウー北方 北の森 /*/
王都ラウーの北壁を離れて半日も行かぬうちに、道は森に呑まれる。
サルフの白い石壁と乾いた陽光とは違う。
ラウウの北の森は、湿った土と苔と、古い木の匂いがした。
空は高いが、枝葉が光を濾す。
風は冷たく、草の露はいつまでも消えない。
馬車の車輪は柔らかい土を噛み、道端には白い小花と、薬草を示す赤い紐が結ばれた枝が見える。
レリーエは外套を胸元で押さえた。
サルフのラケジアの陽に慣れた身には、この湿った涼しさが少し怖い。
だが、メイエは違った。
「姉さま、木が大きい」
「ええ。大きいわね」
「あっちにも。こっちにも。全部おうち?」
「木は家じゃないわ」
メイエは真剣な顔でキーツを見た。
「キーツ、森って全部、北の森?」
「ああ」
「じゃあ、キーツの家はすごく大きいね」
「俺の家ではない」
「でも帰ってきたんでしょ?」
キーツは少しだけ黙った。
馬上のフェーゼフが、長い杖を肩に預けたまま静かに言う。
「間違いではありません。キーツにとって、ここは帰る場所です」
キーツは否定しなかった。
森の奥で、鳥が一声鳴いた。
その鳴き声に、キーツが顔を上げる。
続いて、別の枝から小さな笛の音。
フェーゼフが軽く息を吐いた。
「気づかれていますね」
「森に入った時からだ」
レリーエは思わず周囲を見回した。
人影はない。
だが、見られている。
殺気ではない。
値踏みでもない。
もっと古く、もっと静かな視線。
森そのものがこちらを見ているようだった。
「怖い?」
メイエが小声で聞いた。
レリーエは、嘘をつこうとして、やめた。
「少し」
「私も少し。でも、サルフの怖い人たちよりいい」
「どうして?」
「木は金貨で私を買わないから」
レリーエは一瞬、返す言葉を失った。
キーツが短く言う。
「ここでは、子供を金貨で量らない」
その言葉に、レリーエは胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
やがて森が開けた。
小さな集落がある。
畑。
蜂箱。
薬草を干す棚。
炭焼き小屋。
革を張った作業場。
弓の弦を干す横木。
数十人ほどの領民が暮らす、森の中の開けた土地だった。
子供たちが駆け回り、老いた猟師がこちらを見て帽子を上げる。
女たちは薬草を束ね、男たちは薪を割る。
彼らはキーツを見ると、驚いた顔をして、それから笑った。
「キーツが戻ったぞ!」
「朱の騎士様のお帰りだ!」
「また厄介ごとか!」
最後の声に、キーツは眉一つ動かさず答えた。
「そうだ」
集落の者たちが笑った。
レリーエは驚いた。
普通なら、厄介ごとと聞けば顔を曇らせる。
だが、ここの者たちは笑う。
慣れているのだ。
厄介ごとを持ち帰る者。
それを迎える者。
その厄介ごとを森ごと噛み砕く者たちに。
さらに森の奥へ進むと、ついに館が見えた。
三階建ての大きな木造建築。
黒樫と古杉で組まれた、古く太い館。
急勾配の屋根には苔がつき、壁には古い戦いの傷と補修跡が残っている。
正面扉には、剣、杖、弓、鍵、竪琴、薬草、竜の爪、蔓草紋が彫られていた。
門はない。
だが、レリーエは分かった。
ここは開かれているのではない。
森そのものが門なのだ。
館の前の広場では、若者たちが訓練していた。
木剣を振る者。
弓を引く者。
荷物を担いで走らされている者。
その横で、太い腕を組んだドワーフが大声で笑っている。
「足が止まってるぞ! まだ死んどらん! なら走れる!」
ボルガー・カッパーヴェインだった。
冷えたエールと揚げたジャガイモを愛し、若者を特訓で泣かせる神聖戦士。
彼はキーツを見るなり、歯を見せて笑った。
「おお、キーツ! 帰ったか! また顔が面倒くさくなってるな!」
「面倒を連れてきた」
「はっはっは! 知ってる! お前が手ぶらで帰る方が怖いわ!」
メイエがレリーエの後ろに隠れた。
「姉さま、あの人、声が大きい」
「ええ。とても」
ボルガーはその声を聞きつけ、膝に手を置いてメイエを見た。
「小さいの。飯は食えるか」
メイエはびくっとした。
「……食べられる」
「歩けるか」
「歩ける」
「よし。なら生きていける」
「それだけ?」
「最初はそれで十分だ!」
ボルガーは大笑いした。
メイエは怖がっているのか、面白がっているのか分からない顔で、レリーエの袖を掴んだ。
館の扉が開く。
長い銀髪の青年が出てきた。
年若く見える。
だが、その立ち姿は森の古木に似ていた。
エフィルファール・シグ・カーヴェルラ。
北の森の辺境伯。
その後ろには、長い銀髪の少女――ティリスがひょいと顔を出す。
シグはキーツを見て、穏やかに微笑んだ。
「おかえり、キーツ。無事に戻ってるよ」
「ああ」
「無事というには、また血の匂いが濃いけれど」
「サルフの元老を一人潰した」
「うん。聞いてるよ。ランから先触れが来てる」
レリーエは息を呑んだ。
早い。
自分たちがここへ着くより先に、もう話が届いている。
シグはレリーエとメイエへ視線を移した。
値踏みする目ではない。
血筋を見る目でもない。
森に入ってきた者の疲れと傷を、まず見る目だった。
「レリーエさん。メイエさん。ようこそ、北の森へ」
丁寧な口調。
柔らかい声。
けれど、その言葉の奥には、はっきりとした境界があった。
「事情は聞いてるよ。サルフの元老が、子供を神輿に担ごうとした。女帝の御座に、別の血を載せようとした。ならば、ここではまず、その子を森の客として扱います」
レリーエは、思わずメイエを抱き寄せた。
「客……ですか」
「ええ。奴隷でも、神輿でも、証拠品でもありません。森に入った客です」
シグは微笑んだまま、少しだけ目を細めた。
「追ってくる者があるなら、まず僕の森に礼を尽くしてもらいます。礼を知らない者は、道に迷う前に矢で止まるよ」
レリーエは、その言葉の意味を理解した。
優しいのではない。
守ると言っている。
そして、来るなら殺すと言っている。
ティリスが横からひょいとメイエを覗き込んだ。
「あなたがメイエ?」
「うん」
「私はティリス。森の中で迷ったら、泣く前に呼ぶといい。三回までは迎えに行く」
「四回目は?」
「迷った理由を聞く」
「怒る?」
「面白ければ怒らない」
メイエは少しだけ笑った。
それを見て、レリーエの肩からほんの少し力が抜けた。
フェーゼフがシグへ歩み寄り、短く報告する。
「サルフ帝都での件、概要はランから届いている通りです。バルデロス元老は親衛隊が拘束。セイラム香薬商会は機能停止。レヴィ陛下側が文書庫を押さえました」
「分かったよ。詳しい記録は後で聞く。今は休ませよう」
館の中から、乾いた女の声がした。
「休ませる前に検診だ。サルフの薬商に狙われた子を、何も見ずに寝かせる気かい」
アデル・レスターが現れた。
黒に近い濃紺の衣。
年齢不詳の魔女。
召喚系を得意とする北の森の大魔術師。
彼女はレリーエとメイエを見ると、面倒くさそうに言った。
「毒、呪い、追跡印、香薬の残り。全部見る。泣くなら見終わってからにしな」
メイエが小声で言った。
「怖い人?」
キーツが答える。
「怖いが、腕はいい」
アデルは鼻で笑った。
「褒め言葉として受け取っとくよ」
その奥から、元気な少女の声。
「お湯、沸かしてます! あと甘い粥もあります!」
光神ライファースに仕える若い神官、アニー・シャゼンだった。
元気に手を振っている。
レリーエは、その明るさに少し戸惑った。
ここには、強い者が多い。
怖い者も多い。
だが、誰もメイエを玉座の駒として見ていない。
それだけで、サルフとは違っていた。
キーツが言う。
「レリーエ。メイエ。中へ入れ」
レリーエは館を見上げた。
木造三階建ての古い館。
窓の奥には書棚が見える。
壁には魔物の角と、古い剣と、死者の名札。
地下には、シグとアデルが作った迷宮が広がっているという。
王都の地下下水道や、王家の秘密通路に繋がっているという噂もある。
ここはただの屋敷ではない。
記録と武器と魔術と、百年以上の生き残り方が積もった場所。
レリーエはメイエの手を握り直した。
「メイエ」
「なあに、姉さま」
「ここで、少し休みましょう」
「ずっと?」
レリーエは答えに迷った。
その時、キーツが横から言った。
「少なくとも、串焼きを食べるまではいる」
メイエが顔を上げた。
「約束、覚えてた?」
「ああ」
「北の森にも串焼きある?」
ボルガーが後ろから大声で言った。
「肉ならある! ジャガイモも揚げるぞ!」
メイエの目が少し輝いた。
「揚げジャガ?」
「冷えたエールはまだ早いがな!」
「エールはいらない」
「そうか! よし、見どころがある!」
何の見どころか分からないが、ボルガーは満足そうだった。
レリーエは思わず笑った。
それは、サルフを出てから初めての、怯えではない笑みだった。
キーツはそれを見て、何も言わなかった。
ただ、館の入口に立つ。
内側へ入るレリーエとメイエ。
外へ広がる北の森。
その間に、いつものように立つ。
守るべき者と、追ってくる血の間に。
シグが隣へ立ち、穏やかに言った。
「おかえり、キーツ」
「ああ」
「また厄介ごとを持ってきたね」
「そうだ」
「いいよ。森は、厄介ごとを食べて太るものだから」
キーツは少しだけシグを見た。
「食い過ぎるな」
「それは君に言いたいよ」
ティリスがくすりと笑い、フェーゼフが静かに杖を鳴らした。
北の森の館の扉が閉まる。
その音は、檻の音ではなかった。
追っ手と血筋と玉座から、ひとまず一枚、世界を隔てる音だった。