朱の騎士と白き御座の子   作:ぶーく・ぶくぶく

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欲しかったから

 帝都最大の奴隷市場を離れ、人通りの少ない路地を抜けた先に、朱の騎士キーツ・ウォルフェルのこじんまりとした館はあった。

 

 サルフの帝都は、南のラケジアらしい強い陽光に白く灼かれた街である。

 

 遠くにはアキーム湖の青が見え、湖面を渡る湿った風が、石畳の熱をわずかに和らげていた。大通りには尖塔を持つ神殿と、半円の鐘楼を備えた聖堂とが並び立ち、蒼い陶片を嵌め込んだ壁面には、蔓草模様と獅子の紋章が絡み合うように描かれている。

 

 市場の周囲には、香辛料、羊脂、焼いた麦菓子、革、汗、獣、葡萄酒の匂いが混じり合っていた。だが、そこから一本、また一本と路地を折れるにつれ、喧騒は遠ざかっていく。

 

 背の高い白石の壁。

 

 日差しを遮る布天蓋。

 

 家々の二階から張り出した木格子の窓。

 

 そこから漏れる冷えた水の音と、見えない中庭で揺れる糸杉の影。

 

 その一角に、キーツの館はあった。

 

 館と言っても、貴族の邸宅というほど大仰ではない。だが、粗末ではなかった。

 

 外壁は淡い蜂蜜色の石で積まれ、門口にはノルド風の直線的な獣紋と、サルフ風の蔓草紋が奇妙に混ざった彫りが施されている。重い木扉には鉄鋲が打たれ、扉の上には、半月形の小さな色硝子が嵌め込まれていた。

 

 石造りの壁には蔦が這い、中庭からは、濡れた土と柑橘の花、そして初夏の香りが微かに漂っている。

 

 市場の喧騒と暴力的な熱気から解放されたその場所は、あまりにも静かだった。

 

 広間は、南方の館らしく外から見た印象よりも涼しかった。

 

 白い漆喰の壁。高い天井を支える細い柱。柱頭には葡萄の葉と、エダンの剣を思わせる鋭い紋様が彫られている。

 

 床は赤褐色と青灰色の石を組み合わせた簡素なモザイクで、中央には小さな水盤があった。水盤の水は細く湧き、絶えず浅い音を立てている。そこに落ちる光は、色硝子を通って、薄い金と青の斑になって揺れていた。

 

 壁際にはノルドから持ち込まれたらしい頑丈な木椅子と、サルフ風の低い長椅子が同居している。武人の館でありながら、どこか旅人の仮住まいめいた落ち着きがあった。

 

 その広間で、マルコキアスの配下によって清掃され、清らかな白い柔布を纏わされた姉妹が、キーツと向き合っていた。

 

 ぼろを脱ぎ捨て、汚れを落とした姉の美しさは、先ほどの市場での確信が正しかったことを証明していた。

 

 南方の白布は薄く、肌を隠しながらも、日差しを透かすような柔らかさがある。濡れた金の髪は丁寧に梳かれ、今は背に流されていた。その色は、湖に沈む夕陽よりも冷たく、磨いた金属よりも柔らかい。

 

 だが、その藍の瞳に宿る不信の火までは、消えていなかった。

 

「ねぇ。私たち、貴方たちのどちらに買われたの?」

 

 姉が、挑戦的な視線をキーツと、その傍らで退屈そうに爪を整えているオルトレンに投げた。

 

 幼い妹は姉の布の端を握り、広間の水音に怯えるように、時折びくりと肩を震わせている。清められたとはいえ、見知らぬ館で、見知らぬ男たちの前に立たされているのだ。安心できるはずがない。

 

 それに応えたのは、冷笑を浮かべたオルトレンだった。

 

「……お前のような躾のなっていない傷物を買う趣味は、僕には無い。自分たちの幸運に感謝するんだな」

 

 容赦のない言葉が突き刺さる。

 

 姉は屈辱に唇を噛んだ。

 

 だが、オルトレンはそれ以上彼女に関心を払わず、退屈そうに親友の方へ向き直った。彼の背後では、透かし彫りの窓格子越しに、白い路地を行く駱駝の鈴の音が小さく鳴っている。

 

「ねぇ、キーツ。人間、なんでも物の弾みということがある。君は弾みで、その子供まで買ってしまった。そうだろう? その子は僕が引き取ろう」

 

「! そんなこと、させないわ!」

 

 身を乗り出すように叫んだ姉を、オルトレンの冷たい視線が射抜いた。

 

「勘違いするな。お前に決定権は無い」

 

 広間に沈黙が流れた。

 

 水盤の水音だけが、細く、静かに響いている。

 

 キーツは、ゆっくりと歩み寄った。

 

 南方の館の影に入ってなお、彼の金の髪は、外の陽光を覚えているように淡く光っている。戦場と闘技場をくぐり抜けた男の歩みには、不思議な重みがあった。威圧ではない。だが、そこにいるだけで、空気が彼を避けるように整う。

 

 彼は怯える幼女の頭に、そっと大きな手を置いた。

 

 幼女は身を竦めたが、キーツの手は乱暴ではなかった。剣を握る手でありながら、今は、壊れ物に触れるように静かだった。

 

「ありがとう。……けど、気にしなくていい」

 

 短く友人に告げる。

 

 そして、その手で妹を守るように抱き寄せた姉の方を見た。

 

「私、レリアスよ。この子はレメイ……妹よ」

 

 初めて名乗った彼女の名を聞き、キーツは遠い騎士団領の空を思い浮かべるように目を細めた。

 

 南の帝都の空ではない。

 

 もっと冷たく、もっと高く、雪を抱く山脈の向こうにある、風の硬い空。

 

「レリーエとメイエ。女神の加護厚き、繰り返される祈願、か。良い名だな」

 

 その言葉は、ノルドジールに伝わる古い言葉の意味を、正確に捉えていた。

 

 だが、レリアスにとっては、それすらも、己の運命を弄ぶ強者の余裕に聞こえたのかもしれない。

 

「! 勝手なこと言わないで! 貴方に何が分かるって言うの!」

 

 激昂に近い叫び。

 

 白い壁に、その声が跳ねた。

 

 レメイが怯えて姉にしがみつく。だが、レリアス自身もまた、震えていた。

 

 怒りのためか。

 

 恐怖のためか。

 

 あるいは、名前を正しく読まれたことで、もう二度と戻れないと思っていた場所を、不意に触れられたためか。

 

 キーツは否定も反論もしなかった。

 

 ただ、静かに彼女を見つめ返した。

 

「……あぁ、そうだな。俺には分からないな。……すまなかった」

 

 あまりにも素直な謝罪。

 

 それが、かえってレリアスの毒気を抜いた。

 

 彼女は、振り上げた拳をどこへ下ろせばいいのか分からない子供のように戸惑い、やがて気まずそうに視線を落とした。

 

「あ……あ、あの、ごめんなさい。すみません。……貴方を悪く言うつもりはなくて……私……口が悪いから、その……」

 

「気にしなくていい。だから、君も今のことは気にしないでくれ」

 

 キーツはそう言って、二人を安心させるように小さく笑った。

 

 その笑みは、宮廷の男たちが浮かべる、意味を幾重にも隠した笑みではなかった。

 

 南方商人の値踏みの笑みでもない。

 

 剣を持つ男が、敵ではないと示すためだけに浮かべる、不器用な笑みだった。

 

 だが、レリアスは意を決したように再び顔を上げた。

 

 青い陶片を嵌めた壁の反射が、彼女の藍の瞳に揺れている。

 

 彼女は、キーツの金色の瞳を真っ直ぐに射抜いた。

 

「ねぇ、貴方。どうして私を買ったの」

 

 その問いは静かだった。

 

 だが、先ほどの叫びよりも鋭かった。

 

「……貴方が私を、体のいい妾か、何かのつもりで買ったのなら……私を、あの子と一緒に、あの奴隷市場に戻して。……寝台の相手をさせられるぐらいなら……私……死んだ方がましだわ」

 

 死すら厭わぬその覚悟。

 

 奴隷として、女として、最後に残った誇りを賭けた問いだった。

 

 広間の外では、遠くで礼拝を告げる青銅の鐘が鳴っていた。

 

 それに混じって、別の方角からは、南方の長い祈りの声が風に乗って流れてくる。

 

 神殿と聖堂と市場と貧民街が同じ空の下にある帝都。

 

 人を貨として扱う場所から、わずかな路地を隔てただけの静かな館。

 

 そこで、レリアスは一歩も引かずに立っていた。

 

 キーツは、飾らぬ言葉で答えた。

 

「……どうして、か……」

 

 彼は一度だけ、言葉を探すように目を伏せた。

 

 そして、すぐに顔を上げる。

 

「欲しかったから」

 

 レリアスの目がわずかに見開かれる。

 

「あの市場の中で、君が一番……俺は欲しいと思ったから。それだけだ」

 

 その言葉には、嗜虐心も、卑屈な憐れみも含まれていなかった。

 

 あるのは、戦士が良質な鋼を求める時のような、あるいは旅人が砂漠の夜に美しい星を見つけた時のような、純粋で剥き出しの意志だけだった。

 

 奪うための欲ではない。

 

 支配するための欲でもない。

 

 ただ、目の前にあるものを美しいと思い、失わせたくないと思った者の言葉だった。

 

 レリアスは、そのあまりにも迷いのない返答に圧倒された。

 

 金色の髪を揺らす精悍な主。

 

 自分たちを救った、朱の騎士。

 

 彼が善人なのか、危うい男なのか、レリアスにはまだ分からない。

 

 だが、少なくともこの男は、嘘で自分を慰めるつもりはないのだと、それだけは分かった。

 

 レメイが、姉の布を握ったまま、小さくキーツを見上げる。

 

 広間の水音が、また静かに戻ってくる。

 

 外では、白い壁の上で蔦の葉が揺れ、初夏の香りを含んだ風が、蒼い陶片の窓辺を通り抜けた。

 

 この静かな館で、彼女たちの新しい、そして予測のつかない日々が始まろうとしていた。

 

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