朱の騎士と白き御座の子   作:ぶーく・ぶくぶく

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白い館の北の食卓

 帝都の夕暮れは、昼の白さを少しずつ葡萄酒の色に変えていく。

 

 アキーム湖から吹く風が、熱を持った石畳の上を撫で、白い壁に落ちた蔦の影を揺らしていた。遠くの市場からは、まだ荷車の軋む音と、香辛料を売る商人の声が細く届いている。

 

 キーツ・ウォルフェルは、その喧騒の名残を背に、両腕いっぱいに荷を抱えて館へ戻ってきた。

 

 麻袋には麦粉、塩漬け肉、干し魚、根菜、香草、油、小さな陶器の壺。脇には子供用の靴と、柔らかい布地を丸めた包み。さらに片手には、南方の市場で買ったものとは思えぬほど地味な、北方風の厚手の毛布まで提げている。

 

 奴隷を買った主というより、慣れない家族の支度に走り回った若い男の姿だった。

 

 門を潜った時、キーツは足を止めた。

 

 鼻が、ひくりと動く。

 

 中庭の水盤の匂いでも、南方の香草の匂いでもない。

 

 油で炒めた玉葱。

 

 塩漬け肉を煮た匂い。

 

 潰した芋の甘い湯気。

 

 酸味のある漬け菜。

 

 南の館の白い壁の内側に、あるはずのない北の匂いが満ちていた。

 

「あ、おかえりなさい」

 

 広間に入ると、メイエが真っ先に顔を上げた。

 

 幼い少女は、すでにこの館の水盤と低い長椅子に慣れたらしく、床に敷かれた薄い絨毯の上で膝を抱えて座っていた。先ほどまで泣いていた顔には、もう涙の跡しか残っていない。

 

 彼女の目は、鍋の方とキーツの荷物とを、忙しなく行き来していた。

 

 順応が早い。

 

 あるいは、姉の側にいる限り、世界がどこであろうと同じなのかもしれない。

 

「……これは……」

 

 キーツは、広間の奥にある小さな炉を見た。

 

 南方の館らしく、調理場は中庭に面して作られている。風が通るように壁の上半分が開き、外からは糸杉の影が差し込んでいた。

 

 その炉の前に、レリーエが立っていた。

 

 髪は簡単に結われ、白い柔布の上に、キーツの館にあった古い前掛けを巻いている。奴隷市場で見た時の荒々しい光はまだ瞳に残っていたが、今は少しだけ、別の緊張が混じっていた。

 

「あ……ごめん……なさい……」

 

 レリーエは、鍋とキーツの顔を交互に見た。

 

「ノルドジールの人だって聞いたから、ノルドジールの料理にしたのだけど……気に……入らなかった?」

 

 鍋の中では、芋と塩漬け肉、玉葱、豆が白濁した汁の中で煮えていた。

 

 隣の皿には、麦粉を練って焼いた薄いパンのようなものが積まれている。南方の平たいパンではない。硬めに焼き、汁に浸して食べる北の素朴な麦餅に近い。

 

 卓の上には、茹でた芋を潰し、脂と塩で和えたもの。細く刻んだ漬け菜。干し魚を炙ってほぐしたもの。

 

 どれも華やかではない。

 

 香辛料で飾られた帝都の料理でも、商人の屋敷で出される甘く重い皿でもない。

 

 寒い土地で、腹を満たし、体を温めるための料理だった。

 

「いや……」

 

 キーツは、少しだけ言葉に詰まった。

 

「まさか……故郷の料理を……口に出来るとは思わなかったから……ありがたく頂く」

 

 レリーエの肩から、わずかに力が抜けた。

 

 だが、すぐに彼女は硬い顔に戻り、卓へ視線を落とした。

 

「……でも」

 

「どうした?」

 

「奴隷が、主人の目の届かないところで作った料理よ」

 

 レリーエは言った。

 

 その声には、怯えと意地が半分ずつ混じっていた。

 

「食べられるの? 私が何を入れたかも分からないのに」

 

 メイエが鍋の前で固まった。

 

 幼い彼女には、その問いが何を意味するか、完全には分からなかったのだろう。だが、姉の声の硬さに、何か良くないものを感じ取っている。

 

 キーツは荷物を床に下ろした。

 

 陶器の壺が、こつりと石床に触れる。

 

「一緒に食べればいい」

 

「……え?」

 

「君たちも一緒に食べればいい。そうすれば、毒が入っているかどうかなど考えずに済む」

 

 レリーエは目を見開いた。

 

「良いの?」

 

「良い」

 

「奴隷が、同じ卓に?」

 

「同じ北の民だ」

 

 キーツは、当然のように言った。

 

 その言葉に、レリーエの唇が震えた。

 

 同じ北の民。

 

 彼女がどれほどその言葉を聞きたかったのか、キーツには分からない。

 

 奴隷として売られ、値踏みされ、商品として磨かれ、名を呼ばれることさえ怖れていた少女にとって、それがどれほど危うく、どれほど優しい言葉であったのかも。

 

 キーツは、さらに付け加えた。

 

「それに、俺に通常の毒は効かない」

 

「……それは、安心していい話なの?」

 

「たぶん」

 

「たぶんって……」

 

 レリーエの顔に、少しだけ呆れが浮かんだ。

 

 先ほどまでの張り詰めた刃のような空気が、ほんのわずかに緩む。

 

 メイエが、おずおずと手を上げた。

 

「じゃあ、食べていいの?」

 

「ああ」

 

 キーツが頷くと、メイエの顔がぱっと明るくなった。

 

 レリーエは慌てて妹の手を押さえた。

 

「待ちなさい。まず主が――」

 

「一緒でいい」

 

 キーツはもう一度言った。

 

 そして、木椀を三つ取ると、自分で鍋の汁をよそった。

 

 レリーエはそれを見て、何か言おうとしたが、言葉が見つからなかったらしい。ただ黙って、焼いた麦餅と潰した芋を卓に並べた。

 

 三人は、水盤の音が聞こえる広間の卓についた。

 

 夕暮れの光が、青い陶片の窓を通って差し込み、白い壁に淡い影を作っている。南方の館の中で、北方の粗朴な料理が湯気を立てていた。

 

 キーツは、木椀を両手で持ち、ゆっくりと一口飲んだ。

 

「……」

 

 黙った。

 

 レリーエの指が、膝の上で強く握られる。

 

「どうしたの?」

 

 メイエが不安そうに聞く。

 

 キーツは、椀の中を見下ろしたまま、低く呟いた。

 

「……うまい」

 

 それは、ただ味を褒める言葉ではなかった。

 

「……そうか、これが故郷の料理か……十五年ぶりか……」

 

「……え?」

 

 レリーエが顔を上げた。

 

 キーツは、もう一口、汁を飲んだ。

 

 塩漬け肉の匂い。

 

 芋の甘さ。

 

 玉葱の熱。

 

 記憶にはないはずの味だった。

 

 いや、記憶の底にはあったのかもしれない。幼い日の炉端。雪を避ける低い家。母か、近所の誰かか、顔すらもう曖昧な人の手。

 

 だが、思い出そうとすれば、いつもその先に火と悲鳴が来る。

 

 だから、キーツは長い間、思い出すことそのものをやめていた。

 

「……俺は、魔族に滅ぼされた街の、唯一の生き残りさ」

 

 広間の空気が、静かに沈んだ。

 

 メイエは椀を両手で抱えたまま、姉の顔を見た。レリーエは何も言えなかった。

 

「……知っているだろ。あそこでは、よくあることだ」

 

 キーツの声は淡々としていた。

 

 だが、淡々としていることが、かえって痛ましかった。

 

「八つの時に街が滅ぼされ……俺は魔族に拾われて、まぁ、ね……」

 

 そこで彼は、少しだけ言葉を切った。

 

 詳しく語るつもりはない。

 

 語れば、食卓が血の臭いに変わる。

 

「魔族は、その生命を終わらせるために、人の復讐心を利用する。そうして得た人の子を、魔族は呪いと共に野に放つ。いつか自分を滅ぼせるぐらい強くなって戻ってくるように、と」

 

「……魔族を憎んでいるの?」

 

 レリーエは、気づけばそう尋ねていた。

 

 聞いてから、踏み込みすぎたと思った。

 

 だが、キーツは怒らなかった。

 

「憎しみは、冥府の御方――時の流れと、仲間たちが洗い流してくれた」

 

 彼は椀を置いた。

 

 その金色の瞳は、どこか遠いものを見ている。

 

「……今は、その哀しみの連鎖を断ち切りたいと思う」

 

 レリーエは、言葉を失った。

 

 奴隷市場で自分たちを買った男。

 

 欲しかったから買ったと、平然と言った男。

 

 その男が今、粗末な北の汁物を前にして、十五年ぶりの故郷を噛みしめている。

 

 メイエが、そっと椀を差し出した。

 

「キーツも、もっと食べる?」

 

 その無邪気さに、レリーエが慌てた。

 

「メイエ、失礼よ」

 

「いい」

 

 キーツは小さく笑った。

 

「ありがとう。貰う」

 

 メイエは嬉しそうに立ち上がり、少し危なっかしい手つきで鍋へ向かった。レリーエが慌てて支え、二人で椀に汁をよそう。

 

 その姿を見ながら、キーツは床に置いた荷物を指差した。

 

「市場で、必要そうなものを買ってきた。服と靴。櫛。針と糸。毛布。あと、字を書く板と蝋。それから……メイエには菓子もある」

 

「お菓子!」

 

 メイエの声が跳ねた。

 

 レリーエは、驚いたようにキーツを見た。

 

「そんなものまで……」

 

「必要だろう」

 

「……奴隷に?」

 

「君たちに」

 

 短い言葉だった。

 

 けれど、レリーエはまた黙ってしまった。

 

 水盤の音が、静かに続いている。

 

 南の帝都の白い館。

 

 北の料理の湯気。

 

 買われた姉妹と、故郷を失った騎士。

 

 奇妙で、危うく、まだ名もない食卓だった。

 

 それでもメイエは菓子の包みを見て笑い、キーツは十五年ぶりの味をもう一口食べ、レリーエは少しだけ、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。

 

 館の外では、初夏の風が蔦を揺らしていた。

 

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