朱の騎士と白き御座の子   作:ぶーく・ぶくぶく

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三つ目の用件

 夕食の後、広間には北方料理の温かな匂いがまだ残っていた。

 

 芋と塩漬け肉の煮込みは鍋の底まで綺麗にさらわれ、硬めに焼いた麦餅も、メイエが最後の一枚を名残惜しそうに半分に割って食べてしまった。

 

 キーツは十五年ぶりの故郷の味を、何度も確かめるようにゆっくり食べた。

 

 レリーエはその様子を、安心したような、困ったような顔で眺めていた。

 メイエはもう眠そうで、椅子の上でこくりこくりと舟を漕いでいる。

 

 水盤の音が、夜の広間に細く響いていた。

 

 外では、昼間の熱を失った白石の壁を、湖からの涼しい風が撫でている。蒼い陶片を嵌め込んだ窓辺には、灯火の色が淡く反射していた。

 

 キーツは椀を置き、静かに名を呼んだ。

 

「ルーティア」

 

 その瞬間、壁際の影が揺れた。

 

 柱の影が水面のように波打ち、床の暗がりから、青い髪の少女がぬるりと姿を現す。

 

 紫の瞳。白い肌。背に隠した翼。

 場違いなほど整ったメイド服。

 

 妖魔ルーティアは、出てくるなり大きく伸びをした。

 

「はいはい、呼ばれて飛び出て不遇の妖魔、ルーティアちゃん参上。夕食後ってことは、皿洗い? 洗濯? それとも寝台の下に隠した怪しい魔法具の鑑定?」

 

「皿を再び使えるよう綺麗に洗って、次に使いやすいように食器棚へ片付けろ」

 

「やっぱり皿洗い!」

 

 ルーティアは両手を広げて天井を仰いだ。

 

「私、魔なる者の氏族よ? 第六階梯第二位よ? 全三十六階位のうち下から五番目とはいえ、人間社会なら十分に恐れられる妖魔よ? それを、食後に呼び出して皿洗い!」

 

「一つ目だ」

 

「一つ目って何!? 用件が複数ある時の数え方じゃない!」

 

「二つ目。鍋も洗え」

 

「分けた! 今、皿洗いと鍋洗いを別件に分けた!」

 

 メイエが眠気を飛ばしたように目を丸くする。

 

「青い髪のお姉ちゃん……影から出てきた」

 

「ふふん。驚いた? 崇めてもいいのよ、小さい子」

 

「お皿、洗うの?」

 

「洗うわよ! キーツ様が洗えって言うから!」

 

 メイエはしばらく考え、それから素直に言った。

 

「えらいね」

 

「……やめて。無垢な称賛は妖魔に効くの」

 

 ルーティアは胸を押さえ、ふらりと一歩下がった。

 

 レリーエは立ち上がりかけたまま、硬い表情でルーティアを見ていた。

 

「妖魔……」

 

「そうよ。妖魔よ。怖い? 怖いでしょ? まあ、今は皿を洗うけど」

 

「……キーツ」

 

 レリーエが、警戒を隠さずキーツを見た。

 

「この子は、貴方の……?」

 

「使い魔だ」

 

「使い魔……」

 

「真の名を握られている。俺に逆らえない」

 

「説明が雑!」ルーティアが叫んだ。「真の名の拘束はもっと繊細で、屈辱的で、運命的で、私の尊厳に関わる重大な話なの! それを『逆らえない』の一言で済ませないで!」

 

「逆らえるのか?」

 

「逆らえない!」

 

 ルーティアは悔しそうに拳を握った。

 

 レリーエは、妖魔への恐怖と、目の前の扱いの雑さの間で、どう反応していいのか分からなくなったようだった。

 

 キーツはそんな彼女の戸惑いを気にせず、三つ目を告げた。

 

「三つ目だ。レリーエとメイエが以前に買われていた主人の屋敷を調べて、彼女たちの背景情報を集めてこい」

 

 ルーティアの顔が、ぴたりと止まった。

 

「……三つ目、急に重くない?」

 

 レリーエも息を呑んだ。

 

 そして、すぐに表情を硬くする。

 

「……前の主人は、良い人たちだったわよ」

 

 その声には、弁護するような響きがあった。

 

 奴隷として買われた相手をかばう言葉。

 

 だが、それは卑屈さからではない。

 レリーエの中に残っている、義理と記憶の形だった。

 

「私たちを打たなかった。メイエに読み書きを教えることも許してくれた。私が家の帳簿を見ることも、奥方様は……」

 

 そこで言葉が詰まる。

 

 彼女の藍の瞳が、わずかに揺れた。

 

「……少なくとも、悪い人たちではなかったわ」

 

「メイエと引き離していない点で、そうだろうとは思う」

 

 キーツは静かに頷いた。

 

「なら、どうして調べるの?」

 

「それとは別に、厄介事の気配がする」

 

 キーツは水盤の向こう、夜の影が落ちた中庭へ視線を向けた。

 

「竜の洞窟の前にいるように、肌がぴりぴりするんだ」

 

 レリーエは言葉を失った。

 

 オルトレンなら笑ったかもしれない。

 ルーティアなら大げさに震えたかもしれない。

 

 だが、キーツの声に冗談はなかった。

 

 戦場で巨人を見た者。

 魔族に拾われ、呪いと復讐の中を生きた者。

 闘技場で王者を下し、なお剣を捨てない者。

 

 その男が、ただの不安を「竜の洞窟」とは呼ばない。

 

「……私たちが、厄介事なの?」

 

 レリーエは小さく問うた。

 

「違う」

 

 キーツの答えは早かった。

 

「君たちをこの館に入れたことで、厄介事がこちらへ来るかもしれない、という話だ」

 

「なら、やっぱり私たちは――」

 

「戻さない」

 

 短い言葉だった。

 

 けれど、それだけでレリーエの続く言葉は断たれた。

 

 メイエは話の意味をすべて理解しているわけではなかったが、姉の袖をぎゅっと握っている。

 

 ルーティアは腕を組み、眉を寄せた。

 

「キーツ様。調査って言っても、相手は大商人の屋敷なんでしょ? 使用人、帳簿、護衛、外部の商会、神殿筋、裏の借財、買い取り証文……調べる範囲が広いわよ」

 

「できないのか?」

 

「できるけど!」

 

 ルーティアは即答してから、自分でしまったという顔をした。

 

「今の無し。できるけど、妖魔にも労働条件というものがあるの。皿洗い、鍋洗い、潜入調査。三件の落差がおかしいでしょ」

 

「三つ以内にまとめろと言っていたな」

 

「あれは冗談!」

 

「三つにまとめた」

 

「真面目に受け取らないで!」

 

 キーツは少し考えた。

 

「では、皿と鍋は一件にする」

 

「やった!」

 

「代わりに、食器棚の中身も整理しろ」

 

「増えた!」

 

 メイエが小さく笑った。

 

 その笑い声に、広間の空気が少しだけ軽くなる。

 

 しかし、レリーエの顔はまだ硬い。

 

「キーツ」

 

「何だ」

 

「もし……もし前の屋敷に何かあったとしても、私たちは何も知らないわ。本当に。私はただ、奥方様の帳簿を手伝って、メイエの面倒を見ていただけで……」

 

「分かっている」

 

「分かってない。貴方たちみたいな人は、何かあったら、すぐに剣で片をつけようとする」

 

 キーツは少しだけ目を伏せた。

 

「……そう見えるか」

 

「見えるわ」

 

「気をつける」

 

 また、素直に謝るでもなく、言い訳するでもなく、キーツはそう言った。

 

 レリーエはその態度に、また言葉を失う。

 

 ルーティアが横から口を挟んだ。

 

「ちなみに、キーツ様は剣で片をつける方だけど、片をつける前にだいたい一回は確認するわよ。二回目は相手次第。三回目は滅多にないわ」

 

「余計なことを言うな」

 

「情報提供よ。シンクタンク業務」

 

「皿を洗え」

 

「はいはい!」

 

 ルーティアはぷりぷりしながら食器を抱え、調理場へ向かった。

 

 だが、数歩進んだところで振り返る。

 

「で、ダース様は? こういう裏調査なら、あの人の方が向いてるでしょ。にこにこ笑って人の心の隙間に入り込むし、嘘を聞き分けるのも得意だし、何より私の元主人だし」

 

「あいつは別件で留守だ」

 

「別件?」

 

「ルトス絡みだ」

 

「うわ、面倒なやつ」

 

 ルーティアの顔から一瞬だけ軽さが消えた。

 

 運命と時の司ルトス。

 

 その名は、人間だけでなく、魔なる者の氏族にとっても、うかつに笑って踏み込んでいい響きではないらしい。

 

 だが、次の瞬間にはいつもの調子に戻っていた。

 

「つまり、ダース様がいないから、私が皿洗い兼潜入調査兼通訳兼魔法具鑑定兼かわいい担当をやるわけね」

 

「かわいい担当は命じていない」

 

「そこは命じなくても自動発動なの!」

 

 ルーティアはそう言い捨てると、今度こそ調理場へ消えた。

 

 すぐに水音が響き始める。

 

 皿を洗う音。

 鍋をこする音。

 妖魔の不満げな鼻歌。

 

「妖魔って……皿を洗うのね」

 

 レリーエが、ぽつりと言った。

 

「命じればな」

 

「……怖くないの?」

 

「誰が?」

 

「あの子が」

 

「真の名を握っている」

 

「そういう意味じゃなくて」

 

 レリーエは中庭の闇を見た。

 

「魔なる者の氏族なんでしょう。貴方は、魔族に街を滅ぼされたのに」

 

 キーツはしばらく黙った。

 

 水盤の音と、調理場から聞こえるルーティアの鼻歌だけが続く。

 

「魔なるものすべてを憎んでいたら、俺はとっくに俺ではなくなっている」

 

 やがて、彼はそう言った。

 

「ルーティアは妖魔だ。善良ではない。信用しすぎるものでもない。だが、今は俺の名で縛られている。そして、使い道がある」

 

「使い道……」

 

「知識。言葉。影の道。人では入りにくい場所へ入る力」

 

「……皿洗いも?」

 

「助かる」

 

 レリーエは、ほんのわずかに口元を緩めた。

 

 笑いかけて、すぐに表情を戻す。

 

 キーツは床に置いた荷の中から、小さな木箱を取り出した。

 

「メイエ」

 

「なあに?」

 

「菓子だ」

 

 メイエの顔が、またぱっと明るくなる。

 

 レリーエが慌てて止めようとしたが、キーツは先に木箱を開けた。

 

 中には、蜂蜜で固めた木の実と、干した果物を練り込んだ小さな菓子が並んでいた。南方の市場で売られていたものだが、辛い香辛料は使われていない。子供でも食べられる甘いものを選んだのだろう。

 

「夕食を食べた後だ。一つだけ」

 

「はい!」

 

 メイエは真剣な顔で一つを選び、両手で大事そうに持った。

 

 その様子を見て、レリーエの目がまた少し揺れる。

 

「……どうして」

 

「何が」

 

「どうして、そこまでしてくれるの」

 

「必要そうだったから」

 

「それだけ?」

 

「それだけだ」

 

 キーツの返答は、やはり飾り気がなかった。

 

 欲しかったから買った。

 必要そうだったから買ってきた。

 同じ北の民だから同じ卓で食べる。

 

 そのどれもが、レリーエには乱暴で、真っ直ぐすぎて、かえって理解しづらい。

 

 調理場から、ルーティアの声が飛んできた。

 

「キーツ様ー! この鍋、焦げつきが強いんだけど! これも私の業務範囲!?」

 

「綺麗にしろ」

 

「悪魔!」

 

「妖魔だろう」

 

「言うと思った!」

 

 メイエが菓子を食べながら、くすくす笑った。

 

 レリーエは、笑っていいのか分からない顔をしていたが、やがて小さく息を吐いた。

 

 その夜、朱の騎士の館では、妖魔が皿を洗い、奴隷だった姉妹が初めて同じ卓で菓子を食べ、主は竜の洞窟の前に立つような気配を静かに見つめていた。

 

 中庭の水音は、変わらず細く流れている。

 

 だが、その静けさの底で、まだ見えない何かが、ゆっくりと動き始めていた。

 

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