朱の騎士と白き御座の子   作:ぶーく・ぶくぶく

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鉄の匂いを含む朝

 翌朝、キーツの館には、昨夜とは違う静けさがあった。

 

 夜明け前、アキーム湖から吹いてきた冷えた風は、白石の壁を撫で、蔦の葉に残った露を揺らしていた。帝都の大通りはまだ眠っているが、遠くの市場の方では、すでに荷車の軋む音と、朝一番の水売りの声が微かに聞こえ始めている。

 

 中庭の水盤には、細い朝日が落ちていた。

 

 その脇の広間で、レリーエは布を広げていた。

 

 昨夜キーツが市場から買ってきた、生成りの麻布、薄青の柔布、北方風に厚手の外套地。針と糸、裁ち鋏、木炭の印つけ。

 

 彼女は朝食を終えると、すぐにメイエの採寸をし、自分たちの服を仕立て始めていた。

 

 奴隷市場で着せられた白布は清潔ではあったが、生活するための服ではない。動けばはだけるし、料理にも掃除にも向かない。何より、彼女たち自身のものではなかった。

 

「メイエ、腕を上げて」

 

「こう?」

 

「そう。動かないで。ずれるから」

 

「くすぐったい」

 

「我慢しなさい」

 

 メイエはくすくす笑いながらも、姉の言いつけを守って立っていた。

 

 昨夜より顔色が良い。

 

 朝食には、残りの芋と麦餅に、蜂蜜を薄く塗ったものが出された。メイエはそれを大層気に入ったらしく、今も時折、卓の上の蜂蜜壺を名残惜しそうに見ている。

 

 レリーエは妹用の簡素な服を先に作っていた。

 

 子供が走っても裾を踏まない丈。胸元はきちんと留まり、洗いやすい。南方の暑さにも耐えられ、夜には薄い上掛けを羽織ればいい。

 

 手慣れていた。

 

 商家の屋敷で仕えていたという言葉は、嘘ではないのだろう。針の運びには無駄がなく、布を見る目も確かだった。

 

 広間の奥、書斎に続く扉は少し開いている。

 

 その向こうで、キーツは手紙を書いていた。

 

 ノルド式の直線的な文字ではなく、帝都で使われる流れるような商用文字。卓の上には羊皮紙が数枚、封蝋、砂壺、そして小さな短剣が置かれている。

 

 彼は剣を振るう時ほどではないにせよ、筆を持つ手も慎重だった。

 

 時折、言葉を探すように筆を止める。

 

 そのたびに、外の光が金の髪に触れた。

 

 レリーエは針を動かしながら、ちらりと書斎の方を見る。

 

 あの男は、自分たちを買った。

 

 だが昨夜、同じ卓で食べさせた。

 

 妹に菓子を買ってきた。

 

 故郷の料理を前に、十五年ぶりだと小さく呟いた。

 

 そして今は、何事もなかったように手紙を書いている。

 

 分からない男だった。

 

「姉さま、キーツは何を書いてるの?」

 

「手紙でしょう」

 

「誰に?」

 

「知らないわ」

 

「聞かないの?」

 

「聞かないの」

 

 そう答えた時、門の方で軽い鉄環の音がした。

 

 すぐに使用人のいない館らしい間が空く。

 

 キーツが書斎から顔を上げた。

 

「俺が出る」

 

 彼は手紙を伏せ、短剣だけを腰に戻して立ち上がった。

 

 門を開けた先にいたのは、昨日と同じく、どこか場違いに整った若い商人だった。

 

 オルトレン・ドミニアル。

 

 薄い上衣に、砂色の外套。指には細い銀の指輪がいくつも嵌められている。朝の光を嫌うように目を細めながらも、その表情にはいつもの軽薄な笑みがあった。

 

「やあ、キーツ。朝から友人が訪ねてきたというのに、随分と剣呑な顔だね」

 

「いつもの顔だ」

 

「それは自覚が足りないな」

 

 オルトレンは勝手知ったる様子で広間へ入ってきた。

 

 そして、布を広げているレリーエと、採寸を終えて椅子に座っているメイエを見る。

 

 彼の目が、商人の目になる。

 

 昨夜の白布ではなく、朝の自然な光の中で見た姉妹。

 

 特にレリーエを一瞥した時、オルトレンは小さく鼻を鳴らした。

 

「なるほど。磨けば値が上がる、というマルコキアスの目利きだけは本物だったわけだ」

 

 レリーエの手が止まる。

 

 だが、彼女は何も言わなかった。

 

 言い返せば、この男はさらに刃を返してくる。そういう相手だと、昨日一日で理解していた。

 

 オルトレンはそれを面白がるように見てから、キーツへ向き直った。

 

「それで、キーツ」

 

「何だ」

 

「彼女の具合はどうだったかな。楽しめたかい?」

 

 広間の空気が、ぴんと張った。

 

 レリーエの顔に、昨日と同じ恥辱の赤が走る。メイエは意味が分からず、姉とオルトレンの顔を見比べている。

 

 キーツは少し考えた。

 

 そして、真面目に答えた。

 

「料理が美味かったな」

 

 オルトレンが瞬きした。

 

「……料理?」

 

「ああ」

 

「それだけ?」

 

「よく煮えていた。塩も強すぎない。芋の潰し方も良かった」

 

「キーツ」

 

「何だ」

 

「僕は、そういう意味で聞いたわけじゃない」

 

「そうか」

 

「そうか、じゃない」

 

 オルトレンは額に手を当てた。

 

 レリーエは顔を赤くしたまま、怒っていいのか、安堵していいのか分からない表情で固まっていた。

 

 キーツは書斎へ戻ると、伏せていた手紙を持ってきた。

 

「これを送ってくれ」

 

 オルトレンは商人の顔に戻り、手紙を受け取る。

 

「宛先は?」

 

「智慧の国ラウーの王都。北の森の辺境伯、カーヴェルラへ」

 

 オルトレンの眉がわずかに上がった。

 

「カーヴェルラ辺境伯か。随分と重いところへ投げるね」

 

「必要だと思った」

 

「君の『必要だと思った』は、だいたい後で大事になるから困る」

 

 オルトレンは手紙の封を確かめた。

 

 蝋には、朱の騎士としての印ではなく、もっと古い、エダンの剣騎士団領に由来する簡素な印が押されていた。

 

「ドミニアルの便でラウーへ流す。王都までは確実に届くよう手を打つよ。北の森へは、ラウー側の駅伝と辺境伯家の伝令筋を噛ませる必要がある」

 

「任せる」

 

「高いよ」

 

「払う」

 

「君は金銭感覚が相変わらず雑だね」

 

「昨日、止められた」

 

「止めたけど払ったのは君だ」

 

 オルトレンは手紙を懐に入れた。

 

「承った。途中で封が破られないように、僕の名も添えてやるよ」

 

「助かる」

 

「感謝してくれていい」

 

「感謝している」

 

「君に素直に言われると調子が狂うな」

 

 オルトレンは肩を竦めた。

 

 だが、その軽さは長く続かなかった。

 

 彼は広間の窓辺へ歩き、外の路地を見た。

 

 朝の帝都は穏やかに見える。

 

 白壁の間を、パン売りの少年が籠を抱えて走っていく。遠くの神殿からは鐘。さらに遠くからは、別の祈りの声。市場の方角には、日が高くなる前に荷を運び込もうとする商人たちの動きがある。

 

 だが、オルトレンの目は笑っていなかった。

 

「最近、食料の買い付け量がキナ臭い」

 

 キーツが顔を上げる。

 

「どこが」

 

「帝都の北倉。軍の名義ではない。神殿の救恤用でもない。小商会をいくつも噛ませて、麦、塩漬け肉、干し豆、油、薬草を買っている」

 

「備蓄か」

 

「ただの備蓄ならいい。だが量が変だ。帝都の一角を食わせるには多すぎる。遠征軍を食わせるには少なすぎる。籠城用にしては油と薬草が多い」

 

 レリーエの針が止まった。

 

 彼女は思わず顔を上げていた。

 

 オルトレンはそれに気づいたが、今度はからかわなかった。

 

「君の前の屋敷でも、そういう帳簿を見たことがあるかな?」

 

 レリーエは警戒した。

 

 だが、嘘をつくほどの余裕はない。

 

「……奥方様が、最近、麦の値が上がると言っていたわ。買い足すべきかどうか、旦那様と何度か話していた」

 

「どこの商会から?」

 

「覚えている範囲なら書けるわ」

 

 オルトレンの目が細くなる。

 

「優秀だね」

 

「商品として?」

 

「帳簿係として」

 

 その返しに、レリーエは一瞬だけ言葉を失った。

 

 オルトレンはキーツへ視線を戻した。

 

「何かあった時は、僕の屋敷に来ないか?」

 

 キーツはすぐには答えなかった。

 

 オルトレンの屋敷。

 

 帝都でも十指に入る商人、ドミニアル家の本邸。高い壁、厚い門、雇われた護衛、隠し倉、逃げ道、水路への抜け道。金と人と情報が守る、小さな城のような場所。

 

 彼がそう言うということは、ただの値動きではない。

 

「君一人なら、この館でもどうにでもなるだろう」

 

 オルトレンは続けた。

 

「だが、今は違う。子供がいる。服を縫っている彼女もいる。君が外へ出て斬りに行っている間、彼女たちを置いておける場所がいる」

 

 レリーエが眉を寄せた。

 

「斬りに行くって……」

 

「この男は、そういう時にそういうことをする」

 

 オルトレンは淡々と言った。

 

 キーツは否定しなかった。

 

 ただ、窓の外の光を見ていた。

 

「壁は高く厚くしておけ」

 

 やがてキーツは言った。

 

「門の一つなら受け持ってやる」

 

 オルトレンは一拍置いて、笑った。

 

 今度の笑みは、軽薄ではなかった。

 

「頼もしいね、朱の騎士」

 

「門は一つだけだ。全部は無理だ」

 

「分かっている。君が一つ受け持つなら、残りの門に金をかけられる」

 

「油を撒く場所を間違えるな。石畳の上なら滑る。木門の内側なら燃える」

 

「助言が物騒だな」

 

「食料の買い付けがキナ臭いと言ったのは君だ」

 

「そうだったね」

 

 オルトレンは、懐から薄い木板を取り出した。

 

 そこには簡単な屋敷の見取り図が描かれている。商人らしく、準備が早い。

 

「北門、東門、西の小門、荷入れ口。君ならどこがいい?」

 

 キーツは図を見た。

 

「荷入れ口だ」

 

「理由は?」

 

「一番破られやすい。門として作られていない。人を入れる口は、敵も入れる」

 

「なら、そこは塞ぐ」

 

「塞げば中の者が動きにくくなる」

 

「では?」

 

「内側に横木を二重。外は荷車を斜めに噛ませる。火を使われた時の水桶を左右に。弓を置ける足場を上に作れ」

 

 オルトレンは木板に書き込んだ。

 

「相変わらず、こういうことには口が回る」

 

「必要だからな」

 

 レリーエは、そのやり取りを黙って聞いていた。

 

 昨夜、自分は言った。

 

 貴方たちみたいな人は、何かあったらすぐに剣で片をつけようとする、と。

 

 だが、今のキーツは剣の話だけをしていない。

 

 門、水、油、逃げ道、子供を置く場所。

 

 守るための話をしている。

 

 メイエが、小声で姉に聞いた。

 

「姉さま、どこか行くの?」

 

「まだ行かないわ」

 

 レリーエはそう答えた。

 

 だが、自分の声に確信がないことを、彼女自身が一番よく分かっていた。

 

 オルトレンは木板をしまい、再び軽い調子をまとった。

 

「まあ、何も起こらないのが一番だ。商人は平和が好きだからね。戦は値を動かすが、道を壊す」

 

「君らしい」

 

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 

 彼は立ち上がり、レリーエの前に一枚の小さな蝋板を置いた。

 

「覚えている商会名を書いておくといい。無理に思い出さなくていい。だが、思い出したものは書いておいてくれ」

 

「……私に命じるの?」

 

「頼んでいる」

 

 レリーエは少し驚いたように彼を見た。

 

 オルトレンは笑った。

 

「命じるなら、もっと嫌な言い方をする」

 

「知っているわ」

 

「昨日のことを根に持つタイプか。良いね。帳簿係には向いている」

 

 レリーエはむっとしたが、蝋板は受け取った。

 

 オルトレンは門へ向かいかけ、ふと足を止めた。

 

「キーツ」

 

「何だ」

 

「彼女の料理が美味かったなら、大事にしなよ」

 

「している」

 

「分かりにくい」

 

「そうか」

 

「そうだ」

 

 それだけ言って、オルトレンは朝の路地へ出ていった。

 

 門が閉まる。

 

 広間には、また水盤の音が戻った。

 

 レリーエは手元の布を見下ろし、それから蝋板を見た。

 

 自分たちの前の屋敷。

 

 良い人たちだった。

 

 そう思いたい。

 

 そう言いたい。

 

 けれど、キーツは竜の洞窟の前にいるようだと言った。オルトレンは食料の買い付けがキナ臭いと言った。

 

 彼女の知らないところで、何かが動いている。

 

 キーツは書斎に戻りかけたが、レリーエの視線に気づいて振り返った。

 

「不安か」

 

「……少し」

 

「なら、服は動きやすく作れ」

 

「慰め方が下手ね」

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

 レリーエは小さく息を吐き、針を取り直した。

 

 メイエの服の裾を、少し短くする。

 

 走れるように。

 

 逃げられるように。

 

 それが必要にならないことを祈りながら。

 

 中庭では、初夏の風が蔦を揺らしていた。

 

 だがその風は、昨日より少しだけ、鉄の匂いを含んでいるように思えた。

 

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