オルトレンが去った後、広間にはしばらく水盤の音だけが残った。
レリーエは蝋板を膝の上に置き、しばらく黙っていた。
それから意を決したように鉄筆を取り、記憶の底から商会名を拾い上げるように、ひとつ、またひとつと書き始めた。
メイエは新しく仕立ててもらう服の布を抱えたまま、姉の隣で大人しくしている。時折、飽きたように足を揺らしていたが、姉が真剣な顔をしているので声はかけなかった。
書斎へ戻りかけていたキーツが、その手元を見て足を止めた。
「字が綺麗だ」
レリーエの手が止まる。
「……そう?」
「ああ。貴族の教育を受けている」
その声に、責める響きはなかった。
ただ事実を見た者の声だった。
レリーエは蝋板を見下ろした。
そこには、いくつかの商会名と、符丁らしき短い数字列が整った筆跡で刻まれている。急いで書いたものだが、字の芯は崩れていない。
「街を焼かれ、落ち延びた女子供を攫う人買いに捕まったのか」
キーツは静かに言った。
レリーエは顔を上げた。
驚きと、警戒と、少しの諦めが藍の瞳に浮かぶ。
「……そうよ」
短い肯定だった。
メイエが、姉の布を握る手に力を込める。
レリーエは、その手に自分の手を重ねた。
「あなたは、魔族に捕まったのよね」
「そうだ」
キーツは広間の柱にもたれた。
朝の光が、青い陶片を通して彼の肩に落ちる。南方の白い館の中で、その金の髪だけが北の冬を覚えているように見えた。
「親父は狩人だった」
レリーエは黙って聞いた。
「騎士様たちと立派に戦って、そして死んだ」
キーツの声は淡々としていた。
だが、その淡々とした響きの奥に、長く研がれた刃のようなものがあった。
「街は焼かれた。逃げた者もいた。戦った者もいた。泣いた者も、祈った者もいた。俺はその全部を見たはずだが……今は、細かいところはあまり覚えていない」
「……覚えていないの?」
「覚えていると、動けなかったのかもしれない」
それは、言い訳ではなかった。
幼い子供が生き延びるために削り落としたものを、ただそう呼んだだけの言葉だった。
「魔族の元で、魔物と戦わされた。人の子を食うもの。森に潜むもの。骨だけで歩くもの。名を呼べば振り返るもの。そういうものと戦わされて、生き延びるたびに、憎しみが育った」
メイエはその話が怖かったのか、レリーエの腕にしがみついた。
レリーエは妹の耳を塞ごうとしたが、キーツはそこで少し言葉を和らげた。
「……それから放逐された」
「放逐?」
「魔族は、人の復讐心を好む。自分を殺せるほど強くなるかもしれない人間を作るために、人の子を拾うことがある。育てるとは言わない。あれは、呪いを植えるのに近い」
「ひどい……」
メイエが小さく呟いた。
キーツはその声に、少しだけ目を細めた。
「そうだな。ひどい」
彼は否定しなかった。
「ラウーに辿り着いた時には、人言も片言になっていた。何を聞かれても、うまく答えられなかった。食えと言われても、皿の前で固まった。寝ろと言われても、壁を背にしていないと眠れなかった」
レリーエの表情がわずかに変わる。
それは、自分のことを言われたような顔だった。
昨夜、彼女もまた、壁を背にして眠っていた。
メイエを内側に抱き、入口と窓の位置を何度も確かめてから、ようやく目を閉じていた。
キーツは気づいていたのだ。
「北の森の勇士たちに拾われた」
彼は続けた。
「智慧の国ラウーの北。森と山の境にいる者たちだ。辺境伯カーヴェルラの領で、森の道を守る人々。彼らは俺を殺さず、追い返さず、まず風呂に入れた」
「……風呂?」
「ああ。俺は獣のような臭いだったらしい」
キーツはごく真面目に言った。
メイエが思わず笑いかけ、慌てて口を押さえる。
レリーエも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それから食わせた。寝かせた。殴らずに、何度も同じ言葉を教えた。剣を持てるようになるより先に、椀を持てるようにされた」
「椀を……」
「落とすと、また持たされた。怒鳴られはしなかったが、逃げると捕まった」
「それは怒鳴られるより怖いかもしれないわね」
「そうだな。勇士たちは足が速かった」
キーツは、そこでわずかに笑った。
北の森の記憶だけは、街の炎より少しだけ温かいのかもしれなかった。
「鍛え直された。剣、弓、森の歩き方、雪の上で音を消す方法。読み書き、計算、古語、古詩」
「古詩まで?」
「ああ。頭が爆発するかと思った」
今度はメイエがはっきり笑った。
「キーツも、お勉強きらいだったの?」
「嫌いというより、意味が分からなかった」
「今は?」
「役に立つ」
「好き?」
「……嫌いではない」
メイエは満足したように頷いた。
「じゃあ、私も嫌いじゃないことにする」
「メイエ」
レリーエがたしなめるが、その声は先ほどより柔らかかった。
キーツは蝋板へ視線を落とした。
「君の字は、逃げている途中で覚えた字ではない。家で、きちんと教わった字だ」
レリーエの指が、鉄筆を握り締める。
「……父が教えてくれたわ」
彼女は小さく言った。
「父は、騎士ではなかったけれど、領主の文庫を預かる役をしていた。古い書を読んで、写して、帳簿を整えて……私は、父の仕事を見て育ったの」
「母は?」
「母は、私に針を教えた。服を直すこと。布を見ること。どんなに落ち延びても、子供の服だけは体に合うように直しなさいって」
レリーエはメイエの仕立てかけの服を見た。
「だから、直しているの」
「良い教えだ」
「……そうね」
それは、彼女が初めてキーツの言葉を素直に受け取った瞬間だった。
だが、すぐに顔を伏せる。
「街が焼かれた時、父も母も死んだわ。私とメイエは、荷車に隠されて逃がされた。途中までは、他にも人がいた。でも、一人減って、二人減って……最後は、人買いに捕まった」
メイエが姉の手を握った。
「姉さま、泣かないで」
「泣いてないわ」
「泣きそう」
「泣いてない」
レリーエはそう言ったが、声は少し震えていた。
キーツは何も言わなかった。
慰めの言葉を知らないからではない。
今、軽い慰めを口にしても届かないと知っているからだった。
レリーエはしばらくして、顔を上げた。
「私、あなたのことを誤解していたのかもしれない」
「そうか」
「でも、全部信じたわけじゃないわ」
「それでいい」
「いいの?」
「すぐ信じる者は、すぐ騙される」
レリーエは一瞬だけ目を丸くし、それから少しだけ笑った。
「あなた、慰め方は下手だけど、そういうことはちゃんと言うのね」
「必要だからな」
「そればっかり」
「そうか」
「そうよ」
朝の光が、少し高くなっていた。
白い壁の蔦の影が短くなり、水盤の音が明るく聞こえる。
レリーエは蝋板に、もう一つ商会名を書き足した。
「……この商会」
彼女は鉄筆の先で名を示した。
「前の屋敷に、何度か使いが来ていたわ。奥方様は嫌っていた。旦那様は、仕方がないと言っていた」
「名は?」
「セイラム香薬商会。表向きは薬草と香油。けれど、帳簿の数字が変だった。品の量に対して、金の動きが大きすぎた」
キーツの目が細くなる。
「薬草」
「オルトレンも言っていたわね。買い付けが増えているって」
「ああ」
「私の前の主人たち、本当に何かに巻き込まれていたの?」
「まだ分からない」
「分からないのに、ラウーへ手紙を?」
「竜の洞窟の前で、竜を見てから助けを呼ぶのでは遅い」
レリーエは、今度は笑わなかった。
その言葉の重さが分かったからだ。
「北の森の辺境伯は、あなたにとって恩人なのね」
「恩人で、師の一人だ」
「怖い人?」
「怖い」
「即答なのね」
「優しい者は、怖いこともできる」
レリーエは、その言葉をしばらく考えた。
キーツという男も、そうなのかもしれない。
昨夜、妹の頭に置いた手は優しかった。
だが、あの奴隷市場で幼女に手を伸ばした黒い腕を止めた声は、確かに怖かった。
「ねぇ、キーツ」
「何だ」
「あなたは、その北の森で、人に戻ったの?」
キーツはすぐには答えなかった。
水盤の音が、広間を満たす。
「戻ったのではないと思う」
やがて、彼は言った。
「作り直された。壊れた器の欠片を拾って、別の形に焼き直された。だから、元通りではない」
レリーエは黙って聞いていた。
「だが、今の俺は、俺だ」
「……そう」
レリーエは視線を落とし、メイエの服の布を撫でた。
「私も、そうなれるかしら」
「なれる」
キーツの答えは早かった。
あまりに早すぎて、レリーエは顔を上げた。
「どうして言い切れるの?」
「君はもう、メイエの服を作っている」
「それが?」
「明日のことを考えている者は、まだ壊れ切っていない」
レリーエは言葉を失った。
メイエが、姉の膝に頬を寄せる。
「姉さま、私、明日の服たのしみ」
レリーエは妹の髪を撫でた。
泣きそうな顔だったが、今度は泣かなかった。
「……そうね。ちゃんと仕立てるわ」
キーツは頷き、書斎へ戻ろうとした。
だが、扉の前で立ち止まる。
「レリーエ」
「何?」
「古語と古詩なら、教えられる」
「……あなたが?」
「北の森で、頭が爆発するほど叩き込まれた」
「それは少し不安ね」
「俺もそう思う」
メイエがまた笑った。
レリーエも、今度ははっきりと小さく笑った。
その笑みは短かったが、昨日までのように刃ではなかった。
中庭では、初夏の風が蔦を揺らしている。
南の帝都の白い館で、北から落ちてきた者たちは、互いの傷の形を少しだけ知った。
そして、遠い智慧の国ラウーの北の森へ向けた手紙は、すでにオルトレンの手で帝都の商路へ乗ろうとしていた。