朱の騎士と白き御座の子   作:ぶーく・ぶくぶく

6 / 11
壊れた器を焼き直す

 オルトレンが去った後、広間にはしばらく水盤の音だけが残った。

 

 レリーエは蝋板を膝の上に置き、しばらく黙っていた。

 

 それから意を決したように鉄筆を取り、記憶の底から商会名を拾い上げるように、ひとつ、またひとつと書き始めた。

 

 メイエは新しく仕立ててもらう服の布を抱えたまま、姉の隣で大人しくしている。時折、飽きたように足を揺らしていたが、姉が真剣な顔をしているので声はかけなかった。

 

 書斎へ戻りかけていたキーツが、その手元を見て足を止めた。

 

「字が綺麗だ」

 

 レリーエの手が止まる。

 

「……そう?」

 

「ああ。貴族の教育を受けている」

 

 その声に、責める響きはなかった。

 

 ただ事実を見た者の声だった。

 

 レリーエは蝋板を見下ろした。

 

 そこには、いくつかの商会名と、符丁らしき短い数字列が整った筆跡で刻まれている。急いで書いたものだが、字の芯は崩れていない。

 

「街を焼かれ、落ち延びた女子供を攫う人買いに捕まったのか」

 

 キーツは静かに言った。

 

 レリーエは顔を上げた。

 

 驚きと、警戒と、少しの諦めが藍の瞳に浮かぶ。

 

「……そうよ」

 

 短い肯定だった。

 

 メイエが、姉の布を握る手に力を込める。

 

 レリーエは、その手に自分の手を重ねた。

 

「あなたは、魔族に捕まったのよね」

 

「そうだ」

 

 キーツは広間の柱にもたれた。

 

 朝の光が、青い陶片を通して彼の肩に落ちる。南方の白い館の中で、その金の髪だけが北の冬を覚えているように見えた。

 

「親父は狩人だった」

 

 レリーエは黙って聞いた。

 

「騎士様たちと立派に戦って、そして死んだ」

 

 キーツの声は淡々としていた。

 

 だが、その淡々とした響きの奥に、長く研がれた刃のようなものがあった。

 

「街は焼かれた。逃げた者もいた。戦った者もいた。泣いた者も、祈った者もいた。俺はその全部を見たはずだが……今は、細かいところはあまり覚えていない」

 

「……覚えていないの?」

 

「覚えていると、動けなかったのかもしれない」

 

 それは、言い訳ではなかった。

 

 幼い子供が生き延びるために削り落としたものを、ただそう呼んだだけの言葉だった。

 

「魔族の元で、魔物と戦わされた。人の子を食うもの。森に潜むもの。骨だけで歩くもの。名を呼べば振り返るもの。そういうものと戦わされて、生き延びるたびに、憎しみが育った」

 

 メイエはその話が怖かったのか、レリーエの腕にしがみついた。

 

 レリーエは妹の耳を塞ごうとしたが、キーツはそこで少し言葉を和らげた。

 

「……それから放逐された」

 

「放逐?」

 

「魔族は、人の復讐心を好む。自分を殺せるほど強くなるかもしれない人間を作るために、人の子を拾うことがある。育てるとは言わない。あれは、呪いを植えるのに近い」

 

「ひどい……」

 

 メイエが小さく呟いた。

 

 キーツはその声に、少しだけ目を細めた。

 

「そうだな。ひどい」

 

 彼は否定しなかった。

 

「ラウーに辿り着いた時には、人言も片言になっていた。何を聞かれても、うまく答えられなかった。食えと言われても、皿の前で固まった。寝ろと言われても、壁を背にしていないと眠れなかった」

 

 レリーエの表情がわずかに変わる。

 

 それは、自分のことを言われたような顔だった。

 

 昨夜、彼女もまた、壁を背にして眠っていた。

 

 メイエを内側に抱き、入口と窓の位置を何度も確かめてから、ようやく目を閉じていた。

 

 キーツは気づいていたのだ。

 

「北の森の勇士たちに拾われた」

 

 彼は続けた。

 

「智慧の国ラウーの北。森と山の境にいる者たちだ。辺境伯カーヴェルラの領で、森の道を守る人々。彼らは俺を殺さず、追い返さず、まず風呂に入れた」

 

「……風呂?」

 

「ああ。俺は獣のような臭いだったらしい」

 

 キーツはごく真面目に言った。

 

 メイエが思わず笑いかけ、慌てて口を押さえる。

 

 レリーエも、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「それから食わせた。寝かせた。殴らずに、何度も同じ言葉を教えた。剣を持てるようになるより先に、椀を持てるようにされた」

 

「椀を……」

 

「落とすと、また持たされた。怒鳴られはしなかったが、逃げると捕まった」

 

「それは怒鳴られるより怖いかもしれないわね」

 

「そうだな。勇士たちは足が速かった」

 

 キーツは、そこでわずかに笑った。

 

 北の森の記憶だけは、街の炎より少しだけ温かいのかもしれなかった。

 

「鍛え直された。剣、弓、森の歩き方、雪の上で音を消す方法。読み書き、計算、古語、古詩」

 

「古詩まで?」

 

「ああ。頭が爆発するかと思った」

 

 今度はメイエがはっきり笑った。

 

「キーツも、お勉強きらいだったの?」

 

「嫌いというより、意味が分からなかった」

 

「今は?」

 

「役に立つ」

 

「好き?」

 

「……嫌いではない」

 

 メイエは満足したように頷いた。

 

「じゃあ、私も嫌いじゃないことにする」

 

「メイエ」

 

 レリーエがたしなめるが、その声は先ほどより柔らかかった。

 

 キーツは蝋板へ視線を落とした。

 

「君の字は、逃げている途中で覚えた字ではない。家で、きちんと教わった字だ」

 

 レリーエの指が、鉄筆を握り締める。

 

「……父が教えてくれたわ」

 

 彼女は小さく言った。

 

「父は、騎士ではなかったけれど、領主の文庫を預かる役をしていた。古い書を読んで、写して、帳簿を整えて……私は、父の仕事を見て育ったの」

 

「母は?」

 

「母は、私に針を教えた。服を直すこと。布を見ること。どんなに落ち延びても、子供の服だけは体に合うように直しなさいって」

 

 レリーエはメイエの仕立てかけの服を見た。

 

「だから、直しているの」

 

「良い教えだ」

 

「……そうね」

 

 それは、彼女が初めてキーツの言葉を素直に受け取った瞬間だった。

 

 だが、すぐに顔を伏せる。

 

「街が焼かれた時、父も母も死んだわ。私とメイエは、荷車に隠されて逃がされた。途中までは、他にも人がいた。でも、一人減って、二人減って……最後は、人買いに捕まった」

 

 メイエが姉の手を握った。

 

「姉さま、泣かないで」

 

「泣いてないわ」

 

「泣きそう」

 

「泣いてない」

 

 レリーエはそう言ったが、声は少し震えていた。

 

 キーツは何も言わなかった。

 

 慰めの言葉を知らないからではない。

 

 今、軽い慰めを口にしても届かないと知っているからだった。

 

 レリーエはしばらくして、顔を上げた。

 

「私、あなたのことを誤解していたのかもしれない」

 

「そうか」

 

「でも、全部信じたわけじゃないわ」

 

「それでいい」

 

「いいの?」

 

「すぐ信じる者は、すぐ騙される」

 

 レリーエは一瞬だけ目を丸くし、それから少しだけ笑った。

 

「あなた、慰め方は下手だけど、そういうことはちゃんと言うのね」

 

「必要だからな」

 

「そればっかり」

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

 朝の光が、少し高くなっていた。

 

 白い壁の蔦の影が短くなり、水盤の音が明るく聞こえる。

 

 レリーエは蝋板に、もう一つ商会名を書き足した。

 

「……この商会」

 

 彼女は鉄筆の先で名を示した。

 

「前の屋敷に、何度か使いが来ていたわ。奥方様は嫌っていた。旦那様は、仕方がないと言っていた」

 

「名は?」

 

「セイラム香薬商会。表向きは薬草と香油。けれど、帳簿の数字が変だった。品の量に対して、金の動きが大きすぎた」

 

 キーツの目が細くなる。

 

「薬草」

 

「オルトレンも言っていたわね。買い付けが増えているって」

 

「ああ」

 

「私の前の主人たち、本当に何かに巻き込まれていたの?」

 

「まだ分からない」

 

「分からないのに、ラウーへ手紙を?」

 

「竜の洞窟の前で、竜を見てから助けを呼ぶのでは遅い」

 

 レリーエは、今度は笑わなかった。

 

 その言葉の重さが分かったからだ。

 

「北の森の辺境伯は、あなたにとって恩人なのね」

 

「恩人で、師の一人だ」

 

「怖い人?」

 

「怖い」

 

「即答なのね」

 

「優しい者は、怖いこともできる」

 

 レリーエは、その言葉をしばらく考えた。

 

 キーツという男も、そうなのかもしれない。

 

 昨夜、妹の頭に置いた手は優しかった。

 

 だが、あの奴隷市場で幼女に手を伸ばした黒い腕を止めた声は、確かに怖かった。

 

「ねぇ、キーツ」

 

「何だ」

 

「あなたは、その北の森で、人に戻ったの?」

 

 キーツはすぐには答えなかった。

 

 水盤の音が、広間を満たす。

 

「戻ったのではないと思う」

 

 やがて、彼は言った。

 

「作り直された。壊れた器の欠片を拾って、別の形に焼き直された。だから、元通りではない」

 

 レリーエは黙って聞いていた。

 

「だが、今の俺は、俺だ」

 

「……そう」

 

 レリーエは視線を落とし、メイエの服の布を撫でた。

 

「私も、そうなれるかしら」

 

「なれる」

 

 キーツの答えは早かった。

 

 あまりに早すぎて、レリーエは顔を上げた。

 

「どうして言い切れるの?」

 

「君はもう、メイエの服を作っている」

 

「それが?」

 

「明日のことを考えている者は、まだ壊れ切っていない」

 

 レリーエは言葉を失った。

 

 メイエが、姉の膝に頬を寄せる。

 

「姉さま、私、明日の服たのしみ」

 

 レリーエは妹の髪を撫でた。

 

 泣きそうな顔だったが、今度は泣かなかった。

 

「……そうね。ちゃんと仕立てるわ」

 

 キーツは頷き、書斎へ戻ろうとした。

 

 だが、扉の前で立ち止まる。

 

「レリーエ」

 

「何?」

 

「古語と古詩なら、教えられる」

 

「……あなたが?」

 

「北の森で、頭が爆発するほど叩き込まれた」

 

「それは少し不安ね」

 

「俺もそう思う」

 

 メイエがまた笑った。

 

 レリーエも、今度ははっきりと小さく笑った。

 

 その笑みは短かったが、昨日までのように刃ではなかった。

 

 中庭では、初夏の風が蔦を揺らしている。

 

 南の帝都の白い館で、北から落ちてきた者たちは、互いの傷の形を少しだけ知った。

 

 そして、遠い智慧の国ラウーの北の森へ向けた手紙は、すでにオルトレンの手で帝都の商路へ乗ろうとしていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。