数日後の夜、キーツの館の影が揺れた。
中庭の水盤に映っていた月が、ふっと歪む。
柱の根元に落ちた暗がりが濃くなり、そこから青い髪の少女が、夜そのものから抜け出すように姿を現した。
妖魔ルーティア。
紫の瞳を楽しげに細め、場違いなほど整ったメイド服の裾をつまんで一礼する。
「ただいま戻りましたー。不遇の妖魔、ルーティアちゃん、潜入調査より華麗に帰還でございます」
広間では、メイエが眠りかけていた。
レリーエはその隣で、仕立てたばかりの服の袖口を直している。ルーティアの姿を見るなり、針を止めた。
「……戻ったのね」
「戻ったわよ。私がいない間、寂しかった?」
「別に」
「即答。傷つくわぁ」
ルーティアは胸を押さえて見せる。
だが、キーツはその軽口に付き合わなかった。
「報告は書斎で聞く」
「あら。二人きり? キーツ様、大胆」
「来い」
「はいはい」
ルーティアは肩を竦め、キーツの後に続いた。
書斎の扉が閉まる。
中は広間よりも暗かった。
机の上には羊皮紙、封蝋、短剣、帝都周辺の地図、そして智慧の国ラウーの王都を経て、北の森の辺境伯カーヴェルラへ送った手紙の控えが置かれている。
キーツは椅子に座らず、机の脇に立ったまま言った。
「報告しろ」
ルーティアは低い椅子に腰かけ、脚をぶらつかせた。
「その前に一言だけ」
「短く」
「久しぶりに人間の精気を吸えて、満足満足」
ルーティアはうっとりと頬に手を当てた。
「やっぱり帝都はいいわね。欲と嘘と疲労がたっぷり。商家の若い使用人なんて、夜更かしと不満で味が濃いのよ。まあ、それでも……」
紫の瞳が、ちらりとキーツを見る。
「やっぱりキーツ様の精気の方が濃くて美味しいけど」
「感想はいい。報告をしろ」
「はいはい。つれないわねぇ」
ルーティアは肩を竦めた。
だが、その顔から少しだけ芸人めいた軽さが消える。
「まず、レリーエとメイエの前の主人。夫婦は亡くなっていました」
キーツの目が細くなる。
「病か」
「表向きはね。主人は熱病。奥方は看病疲れと衰弱。二人とも、ひと月と空けずに死んでる」
「表向き、か」
「ええ。熱病にしては、屋敷内の死者が少なすぎる。使用人も奴隷も、同じ寝所に出入りしていた者はほとんど無事。奥方の衰弱も早すぎる。薬師の記録は残っていたけど、妙に綺麗すぎたわ」
「細工された記録か」
「たぶんね。少なくとも、私が見た限りではそう」
ルーティアは指を一本立てた。
「今は息子が屋敷を切り盛りしています。代替わりで、前の主人夫婦のお気に入りを奴隷市場に戻して、自分のお気に入りで周囲を固めたようです」
「レリーエもその一人か」
「扱いとしてはそう。前の奥方のお気に入り。読み書きができる奴隷。帳簿も見られる。家の中の古い事情も知っている。新しい主人からすれば、邪魔だったんでしょうね」
「それだけなら、遠くへ売ればいい」
「そう。あるいは、口を封じる。なのに帝都最大の市場へ戻した。目立つ場所に出した。雑だけど、雑に見せている可能性もある」
「誰かに買わせるためか」
「かもしれない。あるいは、誰かに『市場へ戻した』と知らせるため」
キーツは黙った。
ルーティアは二本目の指を立てる。
「それから帳簿。過去の買い取り記録を調べました。前の主人に買われたのは、レリーエだけです」
「メイエは」
「そこが変」
ルーティアは机の上の羊皮紙を一枚引き寄せ、雑に線を引いた。
「レリーエの買い取り記録は綺麗。日付、売主、仲介人、価格、保証状、前歴。全部揃ってる。人買いから流れたものとしては整いすぎているけど、まああり得る範囲」
「メイエの記録は」
「後から作られてる」
書斎の空気が、少し重くなった。
「メイエの名前が入った帳簿は、一見すると古い。けれど紙が違う。墨も違う。綴じ目も一度解かれてる。しかも、あの子の年齢を考えると、そもそも辻褄が合わない」
「どういうことだ」
「前の主人にレリーエが買われた時、メイエはまだ生まれていない」
キーツの指が、机の端を一度だけ叩いた。
「……続けろ」
「レリーエは一人で買われている。その後、屋敷内でメイエが生まれた。なのに帳簿上は、後から姉妹として整えられている。買い取り記録も、古い奴隷名簿も、メイエが最初からレリーエと一緒に買われた妹であるように見せかけてある」
「前の主人夫婦が細工したのか」
「たぶんね。少なくとも、息子の代になってからではない。細工は古い。奥方の手元にあった家内帳簿と、正式な財産目録の両方に手が入っている。かなり丁寧よ」
「隠すためか」
「ええ」
ルーティアは紫の瞳を細めた。
「メイエを奴隷として扱うため、というより、メイエをレリーエの妹として隠すため。あの夫婦は、少なくともメイエを取り上げて売るつもりはなかった。むしろ、家の中に置いて、帳簿の上でも姉妹として守ろうとしていた」
「奴隷の子は奴隷だ」
キーツは静かに言った。
「法の上ではな」
「ええ。普通ならそれで終わり。だからこそ妙なのよ」
ルーティアは紙に二つの丸を描いた。
一つにレリーエ。もう一つにメイエ。
「母子として扱えば、法の上ではそれほど揉めない。奴隷の子は奴隷。主人の財産。けれど、あの夫婦はわざわざ帳簿を細工してまで『姉妹』にした」
「母子では困る理由があった」
「そう見るべきね」
ルーティアは、紙の上にもう一つ、小さな印を描いた。
白い冠のような印。
「レリーエが、前の主人に買われる前、どこを通ってきたか。そこに問題がある」
「人買いだろう」
「表向きはね。でも、その前が薄い。薄いどころか、削られている。売主の名はあるけど、その売主自体が横流し用の藁人形みたいなもの。帳簿の匂いが役所臭いのよ」
「役所」
「ええ。普通の奴隷商の帳簿じゃない。官の奥から一度外へ出されて、それを市場に流した痕跡がある。しかも、処分品として流したにしては、途中で誰かが金を抜いている」
キーツは、机の上の地図を見た。
帝都。
皇城。
元老院。
奴隷市場。
セイラム香薬商会。
「皇城筋か」
「断定はまだ。けれど、近い」
ルーティアは珍しく慎重だった。
「少なくとも、レリーエはただの落ち延びた女奴隷として買われたわけじゃない。どこかで一度、官の手を通っている。しかも、綺麗に消されている」
「前の主人は、それを知っていたのか」
「全部ではないと思う。でも、買った後で何かに気づいた。おそらく、メイエが生まれる前後に」
「それで帳簿を細工した」
「ええ。母子ではなく姉妹にした。母親が誰か、父親が誰か、そこを曖昧にするために」
「前の主人夫婦は、二人を守っていた」
「少なくとも奥方はね。主人がどこまで知っていたかは半々。でも、夫婦の死が近すぎる。二人ともいなくなった直後に息子が屋敷を整理し、古い奴隷を売り、セイラムが動いた。流れが良すぎる」
「殺されたか」
「そう見る方が自然」
「証拠は」
「まだない」
「なら断定はしない」
「そういうところ、嫌いじゃないわ」
「感想はいい」
「はいはい」
ルーティアは三本目の指を立てた。
「セイラム香薬商会」
その名が出た瞬間、キーツの目が静かに鋭くなった。
「前の屋敷に薬を入れていた。主人夫婦の病にも関わっている。帝都の食料と薬草の買い付けにも噛んでいる。そして、レリーエとメイエを市場へ戻す書類にも名前がある」
「偶然ではないな」
「偶然なら、よほど気の利いた偶然ね」
「前の主人の息子は、セイラムと繋がっているか」
「濃い灰色。金を受け取っている。本人は大きな企みに噛んでいるつもりはないかもしれないけど、少なくとも母親が守っていたものを売った」
「何を売った」
「姉妹。正確には、レリーエと、メイエ」
ルーティアは一度、言葉を切った。
「でも、回収したがっているのは、たぶんレリーエじゃない」
書斎の外から、かすかにメイエの笑い声が聞こえた。
レリーエが何か言い、メイエが反論する。服の袖を直しているのだろう。
その日常の音が、今はひどく遠い。
「メイエか」
「ええ」
「根拠は」
「前の奥方の私室に、焼け残りの紙片があった」
ルーティアは胸元から小さな布包みを取り出した。
広げると、焦げた羊皮紙の欠片が数枚入っている。
キーツはそれに触れず、目だけで追った。
古い文字。
サルフの官文書に使われる典雅な書式。だが、ところどころに古い神聖帝国風の符丁が混じっている。
「読めるか」
「全部は無理。焦げてるし、わざと一部を削ってある。でも、いくつか単語は拾えた」
ルーティアは紙片を指差した。
「『白き御座』。『替えの血』。『香薬』。それから……『メイエ』」
キーツは沈黙した。
白き御座。
替えの血。
香薬。
メイエ。
「元老院か」
「匂いはするわ」
ルーティアは声を低くした。
「女皇帝レヴィが傀儡の糸を切り始めている。『白痴』と呼ばれていた御方が、本当に帝国を立て直そうとしている。なら、困る連中がいる」
「新しい傀儡を探す」
「そう」
ルーティアは、焦げた紙片の上に指を置いた。
「皇族の血。幼い子供。母親は奴隷として処理できる。本人はまだ何も知らない。名を奪い、出自を整え、元老院が後見に立てば、白き御座に載せる駒としては使いやすい」
「メイエを、次の皇帝にするつもりか」
「可能性は高い」
言葉は静かだった。
だが、書斎の中の空気は、一気に冷えた。
「セイラム香薬商会は、その回収役か」
「ええ。薬、食料、帳簿、奴隷市場、役人への金。全部繋がる。表向きは香薬商会。裏では、元老院の使い走り。あるいは、もっと深く食い込んでいる」
「前の主人夫婦は、それを防いでいた」
「たぶんね。少なくとも、メイエを『レリーエの妹』にして隠した。母子だと血筋を辿られる。姉妹なら、ただの不幸な北方奴隷として埋もれられる」
「レリーエは知らない」
「知らないと思う」
キーツは、外の広間へ視線を向けた。
扉の向こうでは、メイエがまだ笑っている。
レリーエが針を動かしている。
あの二人は、自分たちを姉妹だと思っている。
それは嘘だ。
だが、その嘘は、誰かが命を賭けて作った隠れ家でもあった。
「今は言わない」
「でしょうね」
「今言えば、レリーエは自分を責める。メイエを抱えて逃げる。あるいは、前の主人夫婦の死まで背負う」
「全部悪手ね」
「メイエにも言えない」
「あの子はもっと無理。菓子と服と姉のことで世界が回っている子供よ。玉座だの血筋だの、聞かせるものじゃない」
キーツは、焦げた紙片を見つめた。
「マルコキアスは知っていたか」
「全部は知らない。けど、姉妹に値段以上の意味があることは嗅いでいた。だからキーツ様に売れて、内心ほっとしているかもしれない。逆に、予定が狂って焦っているかもしれない」
「セイラムは姉妹を買い戻しに来るか」
「来るでしょうね。直接か、別の商会を挟むか、役人を使うかは分からないけど」
「オルトレンに知らせる」
「それがいいわ。あの狐商人、こういう時は役に立つ」
「前の主人の息子は監視しろ」
「もう影を置いてきた」
「セイラム香薬商会は」
「そこにも一つ。長くは持たないけど」
「十分だ」
キーツは机の上の短剣に触れた。
抜くためではない。
考える時、彼は時折、柄に触れる。
北の森の勇士たちに叩き込まれた癖だった。
「館の守りを変える」
「この小さな館で?」
「逃げる時間を稼げればいい」
「ドミニアルの屋敷に移す?」
「まだだ。動けば目立つ」
「じゃあ、しばらくはここで抱えるのね。皇帝候補の幼女と、その母親であることを知らない姉」
「その言い方はやめろ」
「事実でしょ」
「今は、レリーエとメイエだ」
ルーティアは、少しだけ目を丸くした。
それから、にやりと笑う。
「キーツ様、そういうところよ」
「何がだ」
「いいえ。何でも」
「感想はいい」
「はいはい」
ルーティアは椅子から降りた。
「で、次の命令は? また潜入? 皿洗い? 洗濯? 子守り? かわいい担当?」
「伝令だ」
キーツの声が、そこで低くなった。
ルーティアの軽い笑みが止まる。
「レヴィの元へ行け。あの場にはランがいるはずだ。今、ランがサルフの政治に首を突っ込んでいる」
「ラン・ビーヒル様のところへ?」
「ああ」
キーツは焦げた紙片を布に包み直し、机の上に置いた。
「伝えろ。『元老院に反逆の意思あり』」
書斎が、完全に静まった。
ルーティアの紫の瞳から、いつもの芸人気質の色が消える。
「……それ、軽く言っていい言葉じゃないわよ」
「軽く言っていない」
「サルフの元老院よ。貴族と神殿と軍の古狸どもが絡んでる。妖魔一匹が影で飛んでいって、そんな言葉を運ぶ相手じゃないと思うんだけど」
「だからお前を使う」
「理由になってるようで、なってない!」
「影を通れる。言葉を正確に運べる。捕まっても普通の牢には入らない」
「捕まる前提で話すのやめてくれる?」
「捕まるな」
「雑!」
ルーティアは頭を抱えた。
しかし、文句を言いながらも、その足はもう影の上に乗っていた。
キーツは続ける。
「レヴィ本人に届けば最上。難しければランに届けろ。ランなら、俺の言葉の重さを測れる」
「証拠は?」
「焦げた紙片の写しを持て。実物はここに残す。セイラム香薬商会、前の主人夫婦の不自然死、メイエの帳簿細工、食料と薬草の買い付け。全て繋げて伝えろ」
「長い! 伝令内容が長い!」
「覚えられないのか」
「覚えられるわよ! 妖魔を何だと思ってるの!」
「なら行け」
ルーティアは不満げに頬を膨らませた。
だが、次の瞬間には、真顔になっていた。
「キーツ様」
「何だ」
「あの子たち、今はまだ自分たちが姉妹だと思ってる」
「ああ」
「その嘘は、前の奥方が命を賭けて作った隠れ家かもしれないわ」
キーツは黙った。
「壊す時は、慎重にね」
「分かっている」
「ならいいわ」
ルーティアの足元の影が深くなる。
彼女は最後に肩を竦め、いつもの調子を少しだけ取り戻した。
「まったく。皿洗い妖魔から、今度は皇帝陛下への反逆告発伝令よ。私の労働環境、振れ幅がおかしいと思うの」
「行け」
「はいはい。行ってきます、キーツ様」
ルーティアの姿が影に沈む。
書斎に残ったのは、焦げた紙片と、帝都の地図と、外から聞こえる姉妹の声だけだった。
キーツはしばらく動かなかった。
やがて、地図の上に指を置く。
皇城。
元老院。
セイラム香薬商会。
奴隷市場。
そして、この小さな館。
「白き御座……替えの血……メイエ……」
小さく呟く。
女神の加護厚き、繰り返される祈願。
その名が、ただの祈りではないことを、キーツはもう悟り始めていた。
だが、広間ではまだ、メイエが笑っている。
レリーエが針を動かしている。
ならば今は、その音を守ることが先だった。