翌日、キーツはレリーエとメイエを連れて市場へ出た。
レリーエが仕立て終えた服は、華美ではないがよく似合っていた。
メイエの服は膝下で軽く揺れる丈に直され、走っても裾を踏まない。薄青の布に生成りの帯。小さな靴も、昨日買ったものをレリーエが手直しして、足に合うようにしてある。
レリーエ自身は、白と淡い灰青を重ねた簡素な衣に、髪を後ろでまとめていた。
奴隷市場で着せられていた白布とは違う。
自分の手で仕立て、自分の体に合わせた服だった。
メイエにとって、レリーエは姉である。
少なくとも、そう教えられていた。
けれど、レリーエだけは知っている。
自分がこの子の母であることを。
そして、この子の血が、ただの奴隷の血ではないことを。
だが、それを口にすれば、メイエの世界は壊れる。
だからレリーエは姉であり続ける。
母ではなく、姉として、妹の手を引く。
キーツは朱い騎士服を着ていた。
華美な礼装ではない。動きやすく、旅にも戦にも耐える仕立ての朱。だが帝都では、それだけで十分に目立つ。
朱の騎士。
デビアス包囲戦の名。
闘技場の王者を下した剣。
そうした噂を知る者は、彼の姿を見て道を少し空けた。
市場は今日も熱と匂いに満ちていた。
香辛料を山にして売る店。
白と青の陶片で飾られた水壺。
北方から来た毛織物。
南方の薄い絹。
銀細工の腕輪、琥珀の首飾り、硝子玉を縫い込んだ子供用の髪紐。
レリーエは最初、財布を持つキーツの隣を緊張した顔で歩いていた。
「何を見ればいいの」
「必要なものを」
「それが分からないから聞いているのだけど」
「館で暮らすのにいるものだ」
「……本当に私に選ばせるの?」
「ああ」
レリーエはしばらく眉を寄せていたが、やがて布屋の前で足を止めた。
彼女の指が、安いが丈夫そうな麻布を選ぶ。次に、メイエの肌に合いそうな柔らかい布を少し。さらに、針と糸、替えの紐、薄い外套地。
キーツは値を聞き、そのまま払おうとした。
レリーエが慌てて袖を引いた。
「待って。高いわ」
「そうか」
「そうか、じゃない。半分とは言わないけれど、これは吹っかけられている」
布屋の主人がぎくりとする。
キーツが主人を見る。
主人は笑顔を引きつらせながら、すぐに値を下げた。
レリーエは小声で言った。
「……睨むだけで済ませるのね」
「ここで斬ると布が汚れる」
「理由がそれなの?」
「他にもある」
メイエが楽しそうに笑った。
「姉さま、キーツと買い物すると安くなるね」
「そういう覚え方はしないの」
壺屋では、水を冷やす細い首の壺を買った。
細工物の店では、メイエが青い硝子玉を見つめていた。
キーツはそれを手に取り、店主に値を聞いた。
「いらないわ」
メイエは慌てて首を振る。
「見てただけ」
「欲しいなら買う」
「でも……」
レリーエが口を挟む前に、キーツは硝子玉の髪紐を買った。
「メイエ」
「……いいの?」
「ああ」
メイエは両手で受け取り、しばらく目を輝かせて眺めていた。
レリーエは、言いたいことがいくつもある顔をしていたが、結局、何も言わなかった。
その後、三人は串焼きの肉を売る屋台の前で足を止めた。
羊肉に香辛料と塩をまぶし、炭火で焼いたものだった。脂が落ちるたびに火が跳ね、香ばしい匂いが通りに広がっている。
メイエの目が、また正直に輝いた。
「食べるか」
「食べたい!」
「メイエ」
「姉さまも食べたいでしょ」
「……少しは」
キーツは三本買った。
南方の香辛料は北の舌には少し強かったが、焼きたての肉は美味かった。
メイエは熱さに息を吹きかけながら、夢中で食べた。レリーエも最初は行儀よく食べようとしていたが、串焼きはそんなふうに食べるものではない。途中で諦め、少しだけ口元を汚しながら食べた。
キーツはそれを見ていた。
「何?」
「いや」
「口に何かついてる?」
「ああ」
キーツは自分の布を差し出した。
レリーエは顔を赤くしながら、それを受け取った。
「……言い方」
「ついていると言った」
「そういうことじゃない」
市場を歩くうち、三人は当然のように人目を引いた。
朱い騎士服の青年。
金の髪を持つ美しい娘。
同じく金髪の幼い少女。
しかも、その幼い少女は、しばらく歩いて疲れたのか、今はキーツに肩車されていた。
メイエは最初こそ怖がったが、高い視界にすぐ慣れた。
「あ、姉さま、あっちに鳥!」
「落ちないでね」
「キーツが持ってるから平気!」
「油断しないの」
キーツは片手でメイエの足を支え、もう片手に荷物を持って歩いていた。
レリーエはその横を歩く。
人々の視線が刺さる。
好奇。
値踏み。
噂好きの目。
その中に、別の質の視線が混じり始めたことに、キーツは早い段階で気づいていた。
尾けている。
距離を保っている。
複数。
商人の歩き方ではない。
役人でもない。
護衛を雇える者たちの使いだ。
レリーエもまた、その視線に気づいていた。
メイエの血筋を知っているからこそ、背筋が冷えた。
ただの値踏みではない。
奴隷を見る目でもない。
血を探す目だ。
帰り道、三人は人通りの少ない路地へ入った。
白い壁の間を、夕方の影が長く伸びている。市場の喧騒は背後に遠ざかり、代わりに水路の細い音と、どこかの家の中庭から聞こえる女たちの笑い声が響いていた。
その先で、身なりの良い男たちが道を塞いだ。
五人。
前に出た男は、柔らかい砂色の上衣に、細い金の帯を締めていた。指輪は多いが、商人にしては手が綺麗すぎる。後ろの四人は護衛だ。服は上等だが、腰の剣の位置と立ち方が隠せていない。
キーツは足を止めた。
メイエが、肩の上で小さく身を固くする。
「キーツ……?」
「動くな」
短く言うと、メイエは黙った。
レリーエは一歩、キーツの側へ寄った。だが、メイエはキーツの肩の上にいる。庇うにも、手が届かない。
身なりの良い男は、深く一礼した。
「朱の騎士殿。ご機嫌麗しゅう」
声は丁寧だった。
だが、丁寧すぎた。
刃を絹で包んだ声だった。
「早速ですが、あなたの奴隷を、私たちに売ってはいただけないでしょうか」
レリーエの顔から血の気が引く。
男はそれに気づいているのか、いないのか、穏やかな笑みを崩さない。
「デリアス金貨百二十枚。もちろん、名高い朱の騎士様のお手付きを譲っていただくのです。それ以上をお望みなら、いくらでもお支払いいたします」
言葉の形は、レリーエを指していた。
金髪の美しい女奴隷。
朱の騎士が買い、館に置いた女。
そういう意味に聞こえるように、わざと作られていた。
だが、男の視線は違った。
口はレリーエを買うと言いながら、目はキーツの肩の上にいるメイエへ向いている。
幼い少女。
金の髪。
青い硝子玉の髪紐を、嬉しそうに握っていた子供。
レリーエの腹の底で、冷えたものが燃え上がった。
この子は渡さない。
皇城にも、元老院にも、薬商にも、奴隷市場にも。
自分の子だ。
けれど、それを言えば終わる。
だから彼女は、姉の顔を崩さなかった。
「我らに名誉を譲ってはいただけないでしょうか?」
男は、さらに深く頭を下げた。
その背後で、護衛たちがわずかに広がる。
逃げ道を切る形。
キーツはしばらく黙っていた。
夕暮れの路地に、細い風が抜ける。
メイエの小さな手が、キーツの髪をぎゅっと握った。
キーツは、その足を支える手に少しだけ力を込めた。
「名を名乗れ」
男は顔を上げた。
「これは失礼を。私はセイラム香薬商会の――」
「家名を名乗れ」
男の笑みが、わずかに硬くなった。
「商会の名では不足で?」
「墓標に商会名を刻む趣味はない」
護衛の一人が、ぴくりと動いた。
キーツの視線がそちらを向く。
それだけで、護衛の足が止まった。
男は笑みを戻そうとした。
「朱の騎士殿。これは商いの話です。刃を抜くような話では――」
「俺の肩の上を見るな」
声は静かだった。
だが、路地の温度が変わった。
「次にその目でこの子を量れば、目を抉る」
男の笑みが消えた。
レリーエが息を呑む。
メイエは意味を完全には分かっていない。ただ、キーツの声がいつもと違うことだけは分かったのだろう。震えながらも、声を出さなかった。
男はゆっくりと両手を広げた。
「誤解です。我々はただ、朱の騎士殿に敬意を払い、正当な対価を――」
「買った時は七十だった」
キーツは言った。
「百二十。値が跳ねた理由は何だ」
「それは、あなた様の名がついたからです」
「俺の名に五十の値をつけるか」
「安すぎましたかな」
「高すぎる」
キーツの金色の瞳が、男を射抜いた。
「値を吊る時は、欲しいものを隠すな。商いが下手だ」
男の目が、わずかに細くなる。
「では、率直に申し上げましょう。幼い方も含めて、二人まとめてお譲りいただきたい」
レリーエが前に出ようとした。
キーツは、視線だけで止めた。
男は続ける。
「もちろん、悪いようにはいたしません。御身が保護なさるより、ふさわしい場所がある。血筋というものは、あるべき座に戻すべきでしょう」
血筋。
その言葉に、レリーエの目が鋭くなった。
知らない言葉ではない。
知らないふりをしてきた言葉だった。
男は彼女を見た。
見下ろす目だった。
「あなたは聡い方だ。何を守っているか、すでにご存じなのでしょう?」
レリーエは答えなかった。
答えれば、メイエに届く。
メイエが自分の足元から世界を失う。
それだけは、今ここで起こしてはならない。
だからレリーエは、唇を噛み切りそうなほど噛み締め、黙った。
キーツが低く言った。
「レリーエ」
「……何」
「メイエの足を支えろ」
レリーエは一瞬戸惑ったが、すぐにキーツの隣へ寄り、肩車されたメイエの足に手を添えた。
キーツの右手が空く。
男の背後の護衛たちが、同時に緊張した。
剣を抜くには遅い。
抜かないには近すぎる。
そういう距離だった。
「セイラムの使い」
キーツは静かに言った。
「戻って伝えろ」
「何をでしょう」
「メイエは売らない。レリーエも売らない。買いたければ、まず俺を殺せ」
男の喉が動いた。
「朱の騎士殿。そこまで大げさにされずとも――」
「それと」
キーツは一歩、前に出た。
メイエを肩に乗せたまま。
レリーエが支えているとはいえ、常人なら動きづらい姿勢だ。
だが、彼の歩みは揺れなかった。
「次に子供へ手を伸ばすなら、商会ではなく首を持って来い。名もない手先を斬っても、こちらの名が汚れる」
護衛の一人が耐えきれず、柄に手をかけた。
瞬間、キーツの右手が動いた。
剣は抜かなかった。
腰の短剣の鞘尻で、護衛の手首を打った。
乾いた音。
護衛の指から力が抜け、剣が石畳に落ちた。
続けて、キーツの足が半歩踏み込む。
鞘尻が男の喉元に触れていた。
身なりの良い男は、動けなかった。
「ここで殺すと、誰の命令か聞けない」
キーツは言った。
「だから生かす」
その言葉は、慈悲ではなかった。
ただの判断だった。
「それを勘違いするな」
男の額に汗が浮かぶ。
「……朱の騎士殿。サルフの都で、そのような振る舞いは――」
「都だから、まだ喉を潰していない」
キーツの声は低かった。
「北なら、最初の一言で雪に埋めている」
沈黙。
遠くの市場の声だけが、薄く聞こえていた。
やがて男は、ゆっくりと両手を上げた。
「……失礼いたしました。今日のところは、こちらの言葉が過ぎました」
「今日のところは、ではない」
キーツは鞘尻を少しだけ押し込んだ。
男が苦しげに顎を上げる。
「二度はない」
男は頷いた。
キーツは手を引いた。
護衛たちは、倒れた剣を拾うこともできず、主を守る形を取りながら後退した。
最後に男は、顔色を失いながらも、形だけは礼をした。
「……セイラム香薬商会は、朱の騎士殿のお言葉、確かに承りました」
「商会ではない」
キーツは言った。
「お前の主人に伝えろ」
男の顔が、さらに強張った。
今度は何も言わず、彼らは路地の影へ消えていった。
しばらく、誰も動かなかった。
メイエが小さく声を出す。
「キーツ……私、降りた方がいい?」
「まだいい」
「重くない?」
「軽い」
メイエは少しだけ安心したように、キーツの髪を握り直した。
レリーエは、男たちが消えた路地の先を睨んでいた。
肩が震えている。
恐怖ではない。
殺意を、メイエの前でどう隠せばいいか分からない震えだった。
「……あいつら」
レリーエの声は低かった。
「私を買うふりをして、メイエを見ていた」
「ああ」
「血筋と言ったわ」
「ああ」
「あなたも、もう知っているのね」
キーツは黙った。
レリーエは、メイエを見上げた。
メイエは不安そうに二人を見ている。
何か大変なことが起きたのは分かっている。だが、自分が何であるかまでは知らない。
知らなくていい。
今はまだ。
レリーエは、姉の顔を作った。
「何でもないわ、メイエ。怖い人たちが、怖いことを言っただけ」
「姉さま、怒ってる?」
「怒ってるわ」
「キーツも?」
「怒ってる」
「じゃあ、私も怒る」
「あなたは怒らなくていいの」
メイエはむっとした。
「でも、姉さまたちが怒ってるなら、私も怒る」
その言葉に、レリーエの顔が一瞬だけ歪んだ。
母として抱きしめたかった。
けれど、姉として頭を撫でるだけにした。
「そうね。でも、今は帰りましょう」
キーツは荷物を拾った。
「館に戻る」
レリーエは頷いた。
納得したわけではない。
だが、路地に長居する危うさは理解していた。
キーツは歩き出した。
メイエを肩車したまま。
レリーエはその横を歩く。
先ほどまでの買い物帰りとは違う。
彼女の手は、メイエの足に添えられたままだった。
守るために。
奪われないために。
母であることを隠しながら、姉として。
皇族の血を知りながら、ただの妹として。
白い壁の路地を抜ける風が、少しだけ冷たくなっていた。
その日、レリーエは理解した。
隠していた名と血が、もう匂いを嗅ぎつけられている。
そして、この朱の騎士は、必要なら帝都の路地でも人を殺す。
だが、誰のために殺すかを間違える男ではない。
それが今の彼女にとって、唯一の救いだった。