館に戻るなり、キーツは門を閉じた。
重い木扉を、内側から横木で塞ぐ。さらに、その前へ市場で買ってきた荷を置いた。壺、布、乾物、工具。日中には生活のための品だったものが、夜には時間を稼ぐための障害物になる。
レリーエはメイエの手を握ったまま、黙ってそれを見ていた。
メイエは何かを聞きたそうにしていたが、昼間の路地で見たキーツの顔を覚えているのだろう。小さな唇を結び、姉の手を離さなかった。
キーツは広間の影へ声を落とした。
「ルーティア」
柱の影が揺れた。
水盤のそばの暗がりが、夜よりもさらに濃くなり、そこから青い髪の妖魔が顔を出す。
「はいはい。不遇の妖魔、呼ばれて参上。今度は何? 皿? 鍋? 洗濯? それとも子守り?」
「今夜は屋根の上を守れ」
ルーティアの紫の瞳が、すっと細くなる。
軽口の色が、一枚剥がれた。
「屋根?」
「ああ」
「侵入されるの?」
「来る」
キーツは断言した。
ルーティアは、ほんの少しだけ口角を上げた。
「なるほど。じゃあ、命令は?」
「上から入る者は、好きなだけ殺していい」
一瞬、広間の空気が変わった。
レリーエが息を呑む。
メイエは意味を完全には分からない。ただ、キーツの声が昼間よりさらに冷たいことだけは分かったのだろう。姉の手を強く握った。
ルーティアは嬉しそうに両手を広げた。
「好きなだけ?」
「好きなだけだ」
「うわぁ。キーツ様がそんな命令をくれる日が来るなんて。私、今日が命日かしら」
「敵の命日だ」
「いい返し!」
ルーティアは笑った。
その背中から、隠していた翼が影のように広がる。
メイド服の裾がふわりと浮き、青い髪が夜風もないのに揺れた。
「確認するわよ。屋根、壁、天窓、煙突。上から来る奴は全部、首を落としていいのね?」
「いい」
「降参したら?」
「縛れ。声を出すなら喉を潰せ」
「殺していいより怖い命令ね」
「必要なら殺せ」
「了解。今夜の私は皿洗い妖魔じゃなくて、屋根守り妖魔ね」
ルーティアは楽しげに一礼し、そのまま影へ沈んだ。
次の瞬間、屋根の上を何かが軽く走る音がした。
キーツはレリーエとメイエへ向き直る。
「二人は俺の寝室へ」
「……寝室?」
レリーエの声が硬くなる。
「窓がない。入口が一つだ。守りやすい」
それだけだった。
言い訳も、遠回しな配慮もない。
だからこそ、レリーエは逆に何も言えなくなった。
「行くぞ」
寝室は広くはなかった。
北方から持ち込んだらしい厚手の毛布。簡素な寝台。壁際には水差しと灯火台。余計な飾りはない。
窓はない。
空気抜きの小さな格子も、外へ人が通れる大きさではない。
入口は一つ。
扉は厚い木で、内側に鉄の閂を掛けられるようになっていた。
キーツは寝台を壁際へ押しやり、レリーエとメイエをそこに座らせた。
「布を被れ。音が大きくなっても、立つな」
メイエが震えながら頷く。
「キーツは?」
「ここにいる」
キーツは、右腕を少し掲げた。
そこには、黒銀色の魔法の腕輪が嵌まっている。
飾り気のない輪だった。
だが、その表面には細かな古語の刻印が走り、灯火を受けても金属らしい光を返さない。まるで、夜と影を薄く鍛えて腕に巻いたような代物だった。
キーツが短く息を吐く。
腕輪の刻印が、淡く白く灯った。
次の瞬間、左手の中に白い剣が現れる。
竜骨を削り出したような、淡い白の刀身。金属ではないのに、刃には冷たい光が宿っている。
竜骨剣。
続けて、右手の中に黒い刀身の剣が現れた。
夜そのものを鍛えたような黒。光を返さず、ただ吸い込む刃。
レリーエは思わず見つめた。
武具箱から取り出したのではない。
剣は、キーツの右腕の腕輪から呼び出され、手の中に現れたのだ。
「……その腕輪」
「武器を収めている」
「今の二本だけ?」
「竜骨剣。黒い剣。氷の弓。鞭。四つだ」
「……そんなものを、腕に?」
「持ち運びやすい」
あまりにも当然のように言うので、レリーエは一瞬、何を返せばいいか分からなかった。
朱の騎士。
昼間、子供を肩車して市場を歩いていた男。
その同じ男が、今は二本の剣を持ち、扉を睨む位置に立っている。
ただし、扉の真正面ではない。
少し下がり、寝台と入口の間。
侵入者が扉を破って飛び込めば、必ずキーツの間合いに入る場所。
「扉の前に立たないのね」
レリーエが小さく言った。
「それでは、室内に奇襲された時に間に合わない」
「扉を破られる前に斬るんじゃないの?」
「破らせる」
「……どうして」
「入ってきた順に斬れる」
レリーエは唇を閉じた。
それは殺しの理屈だった。
だが、今夜だけは、その理屈が自分たちを生かす。
キーツは扉を見たまま言った。
「メイエ」
「……なあに」
「目を閉じていろ」
「キーツ、怖い?」
「ああ」
「キーツも怖いの?」
「怖い。だから剣を持つ」
メイエは少し考えた後、布を頭から被った。
「じゃあ、私も姉さまの手を持つ」
「そうしろ」
レリーエはメイエの手を握った。
母としてではなく、姉として。
だが、その握り方だけは、母のそれだった。
夜は深くなった。
帝都の喧騒が消え、遠くの犬の声も止み、館の水盤の音だけが細く響く。
その水音に、別の音が混じった。
石を踏む音。
革靴が壁際で止まる音。
息を殺す気配。
複数。
キーツの瞳が細くなる。
屋根の上で、風が鳴った。
いや、風ではない。
何かが跳ね、何かが裂ける音。
すぐに、くぐもった悲鳴。
それも一つではない。
「うわ」
屋根の上から、ルーティアの声がかすかに聞こえた。
「これ、ゴロツキじゃない。ちゃんとした暗殺者じゃん!」
続いて、重いものが屋根を転がる音。
刃物が瓦を掻く音。
ルーティアの笑い声。
「いいの? 本当に好きなだけでいいの? 後でやりすぎって言わない?」
返事をする余裕はなかった。
寝室の外で、足音が止まった。
扉の向こうに、三人。
いや、四人。
一人は扉を蹴る位置。
二人は左右。
一人は後ろで合図を待っている。
キーツは左手の竜骨剣をわずかに下げた。
右手の黒い剣は、肩の高さ。
刃が闇に溶ける。
次の瞬間、扉が蹴り破られた。
木が悲鳴を上げ、閂が砕ける。
最初の男が低く飛び込んだ。
短剣を逆手に持ち、室内へ転がるように入る。
速い。
だが、キーツの黒い剣はもっと速かった。
一閃。
男は床に沈んだ。
声も出ない。
二人目がその影を越えて入る。
白い竜骨剣が横に走った。
金属鎧の隙間を、白い刃が迷いなく裂く。
三人目が踏み止まる。
その一瞬の躊躇が命取りだった。
キーツは半歩進み、黒い剣の柄で男の顎を砕き、返す刃で首筋を断った。
四人目は入ってこなかった。
廊下で立ち止まり、短弓を引こうとしていた。
キーツの右腕の腕輪が、かすかに鳴った。
右手の黒い剣が、影へ溶けるように消える。
同時に、その手の中へ氷の弓が現れた。
白く透き通った弓身。
弦は光の筋のように細く、引かれると、矢もないのに空気が凍る。
キーツは一息で弦を引いた。
氷の矢が生まれ、放たれる。
廊下の男の喉に突き立ち、声を凍らせたまま後ろへ倒した。
次の瞬間、氷の弓は腕輪へ戻り、黒い剣が再びキーツの右手に現れる。
レリーエは布の向こうで息を呑んだ。
この男は、剣士であり、弓手であり、狩人だった。
しかも、その武器をすべて右腕の腕輪に隠している。
「殺す覚悟は良いか?」
キーツは静かに言った。
廊下へ出る。
「殺される覚悟はしたか?」
白い剣が振るわれる。
一人が剣を受けようとした。
受けた剣ごと腕が落ちる。
叫び声が上がる前に、黒い刃が喉を断つ。
「俺は出来てる」
最後の男は逃げようとした。
キーツの右腕の腕輪が三度、淡く灯る。
黒い剣が消え、今度は鞭が現れた。
黒革とも金属鎖ともつかぬ、細く長い鞭。
それが蛇のように廊下を走り、逃げる男の足首に絡みつく。
男の体が倒れる。
引き戻されたところへ、竜骨剣が振り下ろされた。
沈黙。
キーツの手から鞭が消え、再び黒い剣が戻る。
「なら、来る場所を間違えるな」
廊下は静かになった。
だが、屋根の上はまだ終わっていなかった。
瓦の上を走る足音。
金属が擦れる音。
そして、ルーティアの明るい声。
「はい、一人目。はい、二人目。逃げるなら最初から来ないことね!」
大鎌が月明かりを受けて弧を描く。
屋根の上で、青い髪の妖魔は翼を広げていた。
いつものメイド服のまま。
だが、その手にある大鎌は、彼女の背丈よりも長い。
鎌の刃は黒紫に濡れ、月を映さない。
暗殺者たちは訓練されていた。
音を殺し、影を使い、互いに死角を補いながら動いていた。
それでも、相手が悪かった。
屋根の上はルーティアの狩場だった。
「人間って、どうして上から入れば勝てると思うのかしらね。下にはキーツ様。上には私。詰んでるじゃない」
暗殺者の一人が、煙玉を投げた。
白い煙が屋根を覆う。
ルーティアは笑った。
「目で見てると思った?」
煙の中で、大鎌が鳴る。
悲鳴。
血が瓦を流れ、雨樋を伝って落ちていく。
「これ、ゴロツキじゃない。ちゃんとした暗殺者じゃん!」
ルーティアは、どこか嬉しそうに叫んだ。
「じゃあ遠慮いらないわよね!」
夜の屋根で、大鎌がもう一度回る。
血の海、というほどのものが瓦の上に広がった。
黒い影が一つ、屋根の端から落ちる。
中庭に鈍い音が響いた。
寝室の中で、メイエが小さく泣いた。
レリーエはその体を抱きしめる。
「大丈夫。ここにいる。姉さまがいる」
母とは言わない。
今はまだ、言えない。
だが、腕の力だけは母のものだった。
キーツが戻ってきた。
白い竜骨剣にも、黒い刀身にも、血がついている。
しかし、彼の息は乱れていなかった。
扉の前には立たない。
最初と同じ位置に戻る。
寝台と入口の間。
守るべき者と、殺すべき者の間。
「終わったの?」
レリーエが問う。
「まだかもしれない」
「まだ来るの?」
「一度で終わる相手なら、昼に買い取りを言いに来ない」
レリーエは唇を噛んだ。
「私たちのせいで」
「違う」
「違わないわ」
「違う」
キーツは扉を見たまま言った。
「奪いに来た者が悪い。守る側が恥じる話ではない」
それは慰めではなかった。
単純な理屈だった。
舐められたら殺す。
奪いに来たら斬る。
守ると決めた者を守れなければ、名が死ぬ。
だから、キーツはここに立っている。
夜は長かった。
その後も、小さな気配が二度あった。
一度は中庭の壁。
ルーティアが落とした。
一度は裏口。
キーツが廊下で斬った。
誰一人、寝室には届かなかった。
やがて、空の色が変わり始める。
黒かった空が、深い藍へ変わる。
アキーム湖の方から、朝の風が吹いた。
屋根の上で、ルーティアが大きく伸びをした。
「朝ー! 勝ちー! そして血まみれー! 洗濯するの私じゃないわよね!?」
キーツは寝室の入口で、なお剣を下げなかった。
朝日が差す。
砕けた扉。
血の跡。
倒れた暗殺者たち。
白い竜骨剣と黒い剣を持つ朱の騎士。
やがて、右腕の腕輪が淡く光る。
竜骨剣が消える。
黒い剣もまた、影に沈むように消える。
キーツの両手が空になった。
だが、彼の右腕には、変わらず黒銀色の腕輪がある。
そこに竜骨剣も、黒い剣も、氷の弓も、鞭も眠っている。
レリーエは寝台の上でメイエを抱いたまま、その腕輪を見ていた。
恐ろしい男だと思った。
だが、恐ろしいからこそ、生きて朝を迎えられた。
メイエが、涙で濡れた顔を上げる。
「……もう、終わった?」
キーツはようやく肩の力を少し抜いた。
「ああ。朝だ」
メイエはその言葉を聞くと、安心したようにレリーエの胸へ顔を埋めた。
レリーエは震える手で、その金髪を撫でた。
館の外では、帝都がいつもの朝を迎えようとしている。
だが、朱の騎士の館だけは、夜の名残をまだ濃く抱いていた。
そしてその夜の血が、セイラム香薬商会と元老院へ向けた、最初の返答になった。