石の世界で、私ではない私の歌を聞いた   作:ニッチさん

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7:半石化の少女

 

 

 隔離、と書かれた扉の前で、誰もすぐには動かなかった。

 

 地下施設の奥にあるその区画は、他の部屋とは明らかに違っていた。朽ちかけた通路や錆びた機械とは違い、扉はまだ形を保っている。表面には深い傷と錆が浮いていたが、山の中で三千年以上眠っていたものとは思えないほど、そこには何かを閉じ込め続けるための重さが残っていた。

 

 スイカの声だけが、まだ耳に残っている。

 

 奥に、誰かいるんだよ。

 

 クロムは喉を鳴らした。

 

「千空……誰かって、本当に人間なのか?」

 

「見ねえことには分からん」

 

 千空は扉の下の隙間に松明を近づけた。炎は細く揺れるが、消えない。空気は流れている。だが、奥から漏れる冷たい気配は、ただの地下の空気とは少し違っていた。

 

 コハクは槍を握り直した。

 

「開けるのか」

 

「開ける」

 

 千空の返事は短かった。

 

「ただし、一気にはやらねえ。中の空気、崩落、何があるか分からん。クロム、楔。コハク、扉が倒れそうなら押さえろ。スイカは少し下がってろ」

 

「分かったんだよ」

 

 スイカは素直に頷いたが、完全に離れようとはしなかった。怖いのだろう。それでも、見つけたのは自分だという責任を感じているのか、小さな手で服の端を握りしめている。

 

 クロムが木片と石を使い、扉の隙間に楔を噛ませた。千空が錆びた金具の状態を確認する。コハクは扉に手を添え、いつでも力を入れられるよう足を開いた。

 

「いくぞ」

 

 ぎ、と金属が鳴った。

 

 長い眠りを無理やり起こされたような音だった。扉は重く、簡単には動かない。クロムが顔を真っ赤にして押し、コハクが支える。千空は隙間を見ながら、崩れそうな箇所を避けるよう指示を出した。

 

「もう少しだ」

 

「ぐっ……こいつ、重すぎだろ!」

 

「3700年ぶりの開店だ。文句言うな」

 

「店じゃねえだろ、これ!」

 

 軽口を叩きながらも、クロムの声には緊張が混じっていた。

 

 やがて、人一人が横向きで通れるほどの隙間ができた。中から流れてきた空気は、さらに冷たかった。土の匂いは薄い。代わりに、古い薬品と乾いた金属、それから何か白く清潔だったものが腐らずに残ったような匂いがした。

 

 千空は松明を先に入れ、中を照らした。

 

「……白いな」

 

 コハクが呟いた。

 

 そこは、これまで見た部屋とは違っていた。壁も床も天井も、かつては白かったらしい。今は薄く汚れ、ひびが走っているが、それでも他の区画よりずっと形を保っている。中央には寝台のようなものがあり、周囲には折れた支柱や切れた管、割れた透明な板が散らばっていた。

 

 寝台の脇には、金属製の輪が残っていた。

 

 手首や足首を固定するためのものだと、コハクにはすぐ分かった。

 

「……ここは」

 

 クロムの声が小さくなる。

 

「やっぱり、実験室か何かだな」

 

 千空の声も低かった。

 

 彼は不用意に中へ踏み込まず、まず床を確認した。崩れやすい箇所はないか。危険な液体が残っていないか。空気の流れはあるか。ひとつずつ確かめてから、ようやく中へ入る。

 

 コハクが続いた。

 

 部屋に入った瞬間、肌が粟立った。

 

 獣の巣穴に入った時のような生臭さはない。戦いの場に残る血の匂いもない。それなのに、ここには痛みの形だけが残っている。壊れた機械。拘束具。壁に残る引っ掻いたような傷。人がここで何かをされたのだと、理屈より先に体が理解した。

 

「千空、これ」

 

 クロムが床に落ちた小さな金属板を拾いかけ、直前で手を止めた。千空に何度も注意されたせいだろう。彼は布越しにそれをつまみ上げ、松明の光へかざした。

 

 そこには、かすれた文字があった。

 

「L-00」

 

 千空が読み上げる。

 

「また、それか」

 

「前の部屋にもあったやつだよな」

 

「ああ。識別番号だろうな。人間か、サンプルか、何を指してるかはまだ分からんが」

 

 コハクはその言葉に眉を寄せた。

 

「人間に番号をつけていたのかもしれない、ということか」

 

「旧世界じゃ珍しくもねえ。病院でも研究でも、管理番号は使う。問題は、ここがどういう研究をしてたかだ」

 

 千空は壊れた端末のそばにしゃがんだ。

 

 画面は割れ、電源も入らない。だが周囲には、紙ではなく薄い板のような記録媒体がいくつか散っている。読めるものは少ない。それでも、いくつかの文字が残っていた。

 

「……petrification……repair……memory……」

 

「読めるのか?」

 

「断片だけだ。石化、修復、記憶。嫌な単語が並んでやがる」

 

 クロムが顔をしかめた。

 

「石化で修復って、どういう意味だ?」

 

「全人類が石になった後、俺たちが復活した時、傷が治った例がある。石化に治癒効果があるのは分かってる。こいつらがそれを事前に研究してたなら……」

 

 千空はそこで言葉を切った。

 

 断定するには早い。だが、部屋の形と記録の断片は、ひとつの方向を指していた。

 

 ここでは、石化が研究されていた。

 

 それも、おそらく人間を使って。

 

「千空」

 

 スイカの声がした。

 

 彼女は入口近くにいたはずだった。だが、いつの間にか少し中へ入り、奥の方を見つめている。小さな体が震えていた。

 

「どうした」

 

「さっき見えたの、あっちなんだよ」

 

 スイカが指差したのは、部屋のさらに奥だった。

 

 そこには、透明な壁の残骸のようなものがあった。ガラスか、別の素材か。大半はひび割れているが、奥の保存台だけは不自然なほど状態が良い。周囲の機械は沈黙しているのに、その一角だけが、時間から取り残されたように白く残っていた。

 

 千空たちはゆっくり近づいた。

 

 松明の光が、保存台の上を照らす。

 

 最初に見えたのは、髪だった。

 

 金色の髪。

 

 埃をかぶり、ところどころ石の破片に隠れている。それでも、光を受けた瞬間、かすかに色を返した。石像ならば全身が同じ質感になるはずだ。だが、その髪は石ではなかった。

 

 次に、顔が見えた。

 

 少女だった。

 

 年齢は十代半ばほどに見える。異国の顔立ち。閉じられた瞼。長い睫毛。血の気は薄いが、ただの石像ではない。眠っているようにも見えるし、死んでいるようにも見える。

 

 だが、その体は普通ではなかった。

 

 左腕の一部、脇腹、首元にかけて、灰色の石化が広がっている。全身が石になっているわけではない。傷を塞ぐように、体の一部だけが石に置き換わっていた。

 

 クロムが息を呑んだ。

 

「人間、なのか……?」

 

「少なくとも、ただの石像じゃねえ」

 

 千空は保存台の横へ回った。

 

 コハクはその前に一歩出た。

 

「待て。近づいてよいのか」

 

「分かってる。触る前に見る」

 

 千空は少女の体を慎重に観察した。

 

 肌の保存状態が異常だった。髪も、衣服の残骸も、通常なら残っているはずがないほど形を保っている。石化部分はひび割れているが、完全には崩れていない。周囲には古い拘束具が外れかけた状態で残っていた。

 

 人を固定するための寝台。

 

 半石化した少女。

 

 識別番号L-00。

 

 千空の目が、細くなる。

 

「こいつがL-00か」

 

「この子が……?」

 

 スイカが震える声で言った。

 

「ずっと、ここにいたんだよ?」

 

「その可能性が高いな」

 

「ずっとって、どれくらいだよ」

 

 クロムが聞く。

 

「施設が旧世界のもんなら、3700年だ」

 

 その数字に、誰もすぐには言葉を返せなかった。

 

 3700年。

 

 千空たちにとっては世界の前提になりつつある数字だ。だが、目の前にいる少女がその時間をこの白い部屋で過ごしていたのだと思うと、数字の意味が急に重くなる。

 

 コハクは少女の顔を見つめた。

 

 美しい顔だった。

 

 けれど、その美しさより先に、痛ましさが来る。眠っている表情は穏やかではない。眉間にはかすかな緊張が残り、指先は何かに耐えるように曲がっている。長い眠りの中にあっても、彼女は完全には休めていないように見えた。

 

「助けられるのか」

 

 コハクが問う。

 

 千空は即答しなかった。

 

「普通の石化なら復活液でいける。だがこいつは普通じゃねえ。全身石化じゃなく、局所的に石化してやがる。下手にかけりゃ、何が起こるか分からん」

 

「放っておけば?」

 

「情報も命も失う可能性がある」

 

 千空は保存台の周りをさらに確認した。

 

 古い管の先には、乾いた液体の跡がある。装置は死んでいる。生命維持装置のようなものがあったとしても、今は機能していない。それなのに少女の体は残っている。石化が何らかの形で保存に関わっていると考えるのが自然だった。

 

「生きているのか?」

 

 クロムの声は、いつもの勢いを失っていた。

 

「確証はねえ。だが、石化が絡んでるなら可能性はゼロじゃねえ」

 

「ゼロじゃないなら……」

 

 スイカが小さく言った。

 

「助けたいんだよ」

 

 千空はスイカを見た。

 

 それから、少女へ視線を戻す。

 

「俺も、死体相手に話を聞く趣味はねえ。生きてる可能性があるなら、起こす価値はある」

 

「価値?」

 

 コハクが少し強い声で言った。

 

 千空はその声音に気づき、肩をすくめた。

 

「言い方が悪かったな。情報も大事だが、命も大事だ。起こせるなら起こす。ただし、危険はある」

 

「危険とは」

 

「こいつ自身に何が起きるか分からねえ。俺たちに何が起きるかも分からねえ」

 

 千空は小さな容器を取り出した。

 

 復活液。

 

 クロムがごくりと唾を飲み込む。

 

「使うのか」

 

「ああ。ただし、少量だ。全身にぶっかけたりはしねえ。石化部分の端、反応を見る」

 

 コハクは少女と千空を交互に見た。

 

 千空に悪意はない。それは分かっている。彼は人を無意味に傷つける男ではない。だが、今の千空の目は完全に科学者のものだった。未知を前に、冷静に観察し、仮説を立て、実験しようとしている。

 

 それが必要なことだとしても、この白い部屋ではひどく不穏に見えた。

 

「私がそばにいる」

 

 コハクは言った。

 

「何かあれば、止める」

 

「頼む」

 

 千空は否定しなかった。

 

 保存台のそばに立ち、少女の左腕の石化部分を確認する。石になった肌と、生身の肌の境目。そこに、ほんの一滴だけ復活液を落とした。

 

 液体が石に触れる。

 

 じゅ、と小さな音がした。

 

 石化部分に細いひびが走る。

 

 スイカが息を止めた。クロムは目を見開き、コハクは槍を構える。千空は少女の顔から目を離さない。

 

 変化はすぐには起きなかった。

 

 ひびがゆっくり広がり、石の表面が薄く剥がれた。その下に、白い肌が見える。傷はない。だが、少女の指先がわずかに動いた。

 

「動いたんだよ!」

 

「静かに」

 

 千空が低く言う。

 

 部屋の中に、かすかな呼吸音が落ちた。

 

 少女の胸が、ほんの少し上下する。

 

 生きている。

 

 その事実が分かった瞬間、空気が変わった。

 

 クロムの顔に驚きと喜びが混ざる。スイカは泣きそうになっていた。コハクは安堵しかけて、すぐに表情を引き締める。千空だけは、まだ慎重に少女を見ていた。

 

 その時、少女の眉が動いた。

 

 閉じられていた瞼が、わずかに震える。

 

 意識の底で、何かが浮かび上がっていた。

 

 リリアナは、最初に匂いを感じた。

 

 薬品の匂い。

 

 鼻の奥を刺す、甘く鋭い匂い。白い部屋。冷たい拘束具。腕に刺さる針。声を測る機械。誰かが自分を見ている。

 

 まだ終わっていない。

 

 その思考が、眠りの底から引きずり上げられる。

 

 嫌だ。

 

 もう嫌だ。

 

 誰かの声がする。

 

「……聞こえるか」

 

 男の声。

 

 知らない声。けれど、白衣の男たちと同じ場所から聞こえる声。観察する声。確認する声。

 

 見るな。

 

 触るな。

 

 測るな。

 

 体が動かない。瞼が重い。喉が乾いている。石のように固まった腕の奥が痛い。けれど、痛みがあるということは、まだ終わっていないということだった。

 

「反応あり。意識が戻るかもしれねえ」

 

 また声。

 

 近い。

 

 誰かが、すぐそばで自分を見ている。

 

 リリアナは目を開けた。

 

 視界はぼやけていた。光が揺れる。白い天井。崩れた壁。松明の赤い光。人影がいくつかある。知らない服。知らない顔。だが、目の前の男だけは、こちらを覗き込むように見ていた。

 

 髪が逆立った、奇妙な男。

 

 その目は、研究者の目だった。

 

 悪意ではない。

 

 けれど、興味があった。

 

 それが一番嫌だった。

 

「……っ」

 

 声が出ない。

 

 喉が張りついている。歌うためにあったはずの喉は、恐怖で固まっている。手首を動かそうとして、何かが剥がれるような痛みが走った。

 

「無理に動くな。状況を確認してから――」

 

 男が一歩近づいた。

 

 その瞬間、視界が白く弾けた。

 

 違う。

 

 近づくな。

 

 また見るのか。

 また測るのか。

 また切るのか。

 

「……見るな」

 

 かすれた声が出た。

 

 千空の動きが止まる。

 

 コハクの目が細くなった。

 

「触るな」

 

 少女の声は弱かった。

 

 だが、その奥にあるものは弱くなかった。恐怖。怒り。長い時間の底に沈んでいた憎しみ。それらが、ひび割れた石の隙間から一気に噴き出そうとしていた。

 

 千空は両手を見える位置に上げた。

 

「触らねえ。落ち着け。俺らは――」

 

「黙れ」

 

 その一言で、部屋の空気が凍った。

 

 少女の瞳が、千空を捉える。

 

 そこにあったのは混乱でも、助けを求める色でもなかった。

 

 怒り。

 

 恐怖。

 

 そして、殺意。

 

 石化していた腕に、細いひびが走った。

 

 ぱき、と乾いた音がする。灰色の表面が剥がれ、白い指が現れる。その指が震えながら曲がった。生まれたばかりの獣が爪を立てるように、少女の手が保存台を掴む。

 

 コハクが踏み込もうとした。

 

 その前に、少女の体が跳ねた。

 

 長い眠りから覚めたばかりとは思えない速さだった。剥がれかけた石片を散らしながら、少女の手が千空の喉へ伸びる。

 

「俺を」

 

 声が砕ける。

 

「そんな目で、見るな……!」

 

 白い部屋に、石の破片が落ちた。

 

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