大好きだったお兄ちゃんとの再会よりも、サボり魔な同僚のお世話を優先してもいいですか? 作:Wig
1982年1月 ヴェアヴォルフ大隊本部 地下作戦会議室。
部屋の中央に浮かび上がる戦術マップには、堅牢な城塞のような軍事施設が投影されていた。ベルリン郊外、シュトラウスベルク特別第4収容所。現在、ミハイル・ホフマンが囚われている地獄の底だ。
「……さて。第2・第3中隊のみんな揃ってるね。これより、シュトラウスベルク特別第4収容所に居るベルリン派の掃討を行う。あいつらは売国奴だから、遠慮なんてしなくていいよ」
第3中隊長、エルケ・アオスト大尉が、優雅な手つきで指示棒を回しながら口を開いた。
「作戦は極めてシンプルなものだよ。まず、市内に潜伏している反体制派の鼠たちに、少し美味しそうなチーズを嗅がせてあげたんだ」
エルケの艶やかな唇が、残酷な弧を描く。
「『シュトラウスベルク収容所に、お前たちの仲間が捕らえられている』という偽情報を流した。……基地の守備隊は今日、前線へ向かうというおまけ付きでね。今頃彼らは、仲間を救おうとMiG-21に乗り込んで、張り切って収容所へ向かっているはずだよ」
「ガハハハッ!傑作だな!自分の首が飛ぶとも知らねぇで、ご苦労なこった!」
腕組みをして笑うのは、第2中隊長のブルーノ・ガンダ大尉だ。
「ブルーノ。君の第2中隊は、その哀れな鼠たちがベルリン派の守備隊と交戦を始めたタイミングで、遠距離からの支援砲撃を開始。……狙わなくていいから得意の面制圧で両陣営ごと吹き飛ばして。思いっきりやっちゃってね」
「応!どっちが敵か味方か分からねぇ大混乱にしてやる。俺にとってはどっちも燃えるゴミだからな!」
エルケはブルーノの頼もしい返事に笑みを浮かべた後、そのまま彼の隣に居る女性士官を見やった。
「マレーネ。いつも大変だと思うけど……今回も頼りにしてるよ」
「……はっ!」
綺麗な敬礼を返すマレーネ・ヴァーグナー中尉に満足げに頷き、スクリーンに映る地図を施設の内部構造に切り替えた。
「面制圧終了後、掃討戦に移行するよ。私の第3中隊は敷地内へ敵残存部隊の掃討をしながら突入、建物の正面入口を制圧して退路を確保する」
エルケは第3中隊の隊員を見つめながら、微笑むように続ける。
「第7小隊は、私と一緒に正面入口の防衛を。第9小隊は建物内へ突入し、敵司令室を抑えてね。……あっ、捕虜は要らないから。全員やっちゃって良いよ」
エルケはそこまで説明するとリィズに目を配った。
「……最後に、第8小隊」
「……はい」
薄暗い会議室の隅。リィズは静かに返事をした。
彼女の胸には、ミハイルから譲り受けたボロボロの手帳が大切に抱えられている。その瞳には、かつての怯えはなく、ただ氷のように冷たく澄み切った殺意と覚悟だけが宿っていた。
リィズとエルケの視線が交錯する。エルケは満足そうな笑みを浮かべ、命令を下した。
「君たちは地下の収容エリアへ進行。……ミハイルを迎えに行こう。あの子は意外と寂しがり屋だから、そろそろ行かないと泣いちゃうからね」
「……了解しました」
リィズの声は、驚くほど平坦だった。だが、隣に立つルーカスとハンナには、彼女から立ち上る凄まじい気迫が肌を刺すように伝わっていた。
「質問は?……ないみたいだね。総員出撃準備にかかって」
エルケは嗜虐的なほど獰猛な笑みを浮かべ、薄暗い会議室に集った部下たちの戦意を最高潮へと煽り立てた。
「ベルリン派の連中に教えてあげよう。私たちヴェアヴォルフに喧嘩を売るとどうなるかをね」
エルケの号令と共に、モニターの光が消える。リィズはゆっくりと立ち上がり、胸に抱いていたボロボロの手帳を、大切に制服の内ポケットへとしまい込んだ。彼から託されたその命よりも重い絆を、確かな殺意と覚悟に変えて。
その小さな背中を見つめ、ルーカスが首の骨をゴキリと鳴らして立ち上がった。
「……ったく、手のかかる小隊長殿だぜ。サボり癖の次は家出かよ」
悪態をつきながらも、彼の獰猛な笑みには、一切の迷いがない。
「リィズ。お前は前だけ見て走れ。背中のゴミは、俺たちが全部纏めて弾き飛ばしてやる」
「……うん。お願い、ルーカスさん」
「……私たちで、リィズさんの征く道を塞ぐ全ての障害を排除します」
ハンナもまた、静かに、だが決して揺るがない声で告げた。彼女の小さな手は、データ端末を指の関節が白くなるほど強く握りしめられていた。
「もう二度と……誰にも、私たちの場所を壊させはしません。必ず、ミハイルさんを取り戻しましょう」
かつて恐怖から彼を売ってしまった自分。その絶望を抱きしめて許してくれたリィズ。裏切り者だと分かってても、側に居てくれたミハイルとルーカス。ハンナの瞳には、今度こそ仲間を守り抜くという、血を吐くような贖罪と覚悟が宿っていた。
リィズは二人を振り返り、深く、力強く頷いた。ミハイルが作り上げ、自分の命に代えても守ろうとした第8小隊。その歪で強固な絆は、今や彼を地獄の底から救い出すための、最強の槍となっている。
「……行こう。私たちのミーシャを、迎えに」
少女の瞳が暗い覚悟に染まり、決戦の地へと歩き出した。
(……待っててね、ミーシャ。今、迎えに行くから)
同時刻。ベルリン中心部、国家保安省本部ビルからほど近い高級ホテルの一室。
外の猛吹雪とは無縁の暖かなその部屋では、ベルリン派の幹部たちが高級な葉巻を燻らせていた。彼らの話題は、間もなく処刑されるであろう生意気なモスクワ派の若造と、いずれ解体・吸収されるヴェアヴォルフ大隊の利権についてだった。
「……ククッ、ブレーメも哀れなものだ。自慢の牙をもがれ、今頃は悔し涙を流しているだろうさ」
「全くだ。だが、あのホフマンとかいう生意気なガキも、今頃は涙と涎に塗れてアクスマン中佐の靴を舐めている頃合いだろう」
別の幹部が、最高級のコニャックをグラスに注ぎながら下劣な笑いを漏らす。
「先ほど、特別第4収容所から報告が入ってな。最初は尋問官を睨みつける気概があったようだが、自白剤の過剰投与で、とうに限界を超えているそうだ」
彼らの視線の先にあるモニターには、椅子に縛り付けられたミハイルが、虚ろな目で虚空を見つめている姿が映し出されていた。
「まだ辛うじて自我を保っているらしいが。……今では壊れた玩具のように、あの小娘の名前をうわ言で繰り返しているらしいぞ」
「『リィズ、リィズ』……か。亡命未遂者の娘を助けるために戦術機適正を改竄し、挙句の果てに獄中でその女の名前を泣き叫ぶとは。ヴェアヴォルフにしては、随分とロマンチストで反吐が出る」
「ハハハッ!傑作だな。だがあそこまで壊れてしまっては、もう再教育の余地もない。ブレーメと西側の内通をでっち上げる調書にサインさせたら、さっさと処分してしまえ」
恰幅の良い幹部が、葉巻の煙を深く吐き出しながら、愉快そうに腹を揺らした。
「だが、あのホーエンシュタインの小娘は別だ。ホフマンがいなくなれば、ただの縋る宛てのない迷子になる。アクスマン中佐に任せれば、喜んで引き取ってくれるだろうさ」
「ああ、中佐の得意分野だな。自我を徹底的に破壊し、絶対服従の従順な雌犬に仕立て上げる……。色仕掛けで西側の要人や邪魔な将校を絡め捕る、特級の工作員として有効活用できる」
彼らの手元にはリィズをはじめとしたヴェアヴォルフ大隊の隊員たちのデータがテーブルに広がっている。同じ武装警察軍同士でも牙を剥く、監視社会の縮図がそこにはあった。
「全くだ。それに、ヴェアヴォルフの他の隊員たちも、実戦経験豊富で優秀な駒ばかりだ。部隊を解体した後は、まとめて矯正施設に送り込んでやろう。モスクワ派への忠誠心を綺麗に洗い流してやれば、我々ベルリン派の忠実な手駒として生まれ変わる」
「違いない。では……目障りなモスクワ派の終焉と、我々の輝かしい未来に」
一人の幹部が勝ち誇った顔でワイングラスを掲げた、まさにその瞬間だった。分厚いマホガニーの扉が、爆薬によって吹き飛ばされた。
「なっ……!?」
「ひぃっ!?」
粉塵と冷たい雪風が舞い込む中、完全武装したヴェアヴォルフ大隊第1中隊の衛士たちが無言で雪崩れ込み、幹部たちにアサルトライフルの銃口を突きつける。
悲鳴と怒号が交錯する部屋の入り口から、静かな、しかし圧倒的な威圧感を伴う軍靴の音が響いた。
「……随分と楽しそうね。私もその下品な祝杯に、混ぜていただけるかしら?」
制服の上にコートを羽織ったベアトリクス・ブレーメ少佐が、妖艶な笑みを浮かべて姿を現した。
「……ブ、ブレーメ少佐!これは何の真似だ! 我々を誰だと思っている!許可なき部隊の展開は、国家への明らかな反逆行為だぞ!」
顔を真っ赤にして怒鳴りつける幹部を一瞥し、ベアトリクスはふっと冷ややかなため息を吐いた。
「反逆?……ええ、そうね。祖国を裏切り、西側と内通して私腹を肥やすクズどもを処分することは、軍人としての誉れだわ」
ベアトリクスは革手袋に包まれた手で、分厚い書類の束をテーブルの上に放り投げた。
ドサリと鈍い音を立てたそれは、以前リィズたちが廃棄工場から回収してきた血まみれのミハイル・ホフマン処刑命令書と大隊解体計画書。そして……。
「……そ、それは……っ!」
「西側にこれだけの資産を流していたとは……。恐れ入ったわ。見返りは何だったのか、尋問で教えて貰おうかしらね?」
ベルリン派が西ドイツへ資金を横流ししていた裏帳簿と、西側の将校と密会していた写真がテーブルの上に広げられた。それらはエルケが密かに集めていた、彼らベルリン派に対する切り札だった。
「もちろん、裏は取ってあるわ……私のかわいい部下を極秘裏に処刑しようとした罪。私のヴェアヴォルフを解体しようとした罪。そして、国家を売り渡した罪。……これらのコピーは既に、中央委員会のしかるべき場所へ送っている」
幹部たちの顔から、一瞬にして血の気が引いていく。彼らの政治的生命は、いや、文字通りの命が、今この瞬間に完全に絶たれたのだ。ベアトリクスは、床にへたり込む幹部たちをゴミでも見るような冷酷な目で見下ろした。
「ベルリン派は前から目障りだったけど。……これ以上、私の所有物に触れるというのなら、我らヴェアヴォルフの全戦力が、貴様らの首を狩りに行く。政治的にではなく、物理的にね」
その言葉には、一切のハッタリがなかった。彼女は本気で、ベルリンを火の海にする覚悟と狂気があるのだと、幹部たちは本能で理解し、ガタガタと震え上がった。
「それから、ハインツ・アクスマン同志中佐にも、こう伝えなさい。……「同じ武装警察軍として、これからも仲良くしましょう」とね」
ベアトリクスは踵を返し、一瞥もくれずに部屋を後にした。
第1中隊の衛士たちが銃を下ろし、幹部たちを拘束していく。後に残されたのは、完全な敗北と死の恐怖に震える、哀れな権力者たちの姿だけだった。
これで盤上の障害は消えた。あとは、放たれた牙が、その鋭さで檻を食い破るのを待つだけだ。
シュトラウスベルク特別第4収容所の外周は、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄と化していた。
『突入しろ!捕らわれた同志たちを救い出すんだ!!』
『反体制派のクズどもめ!撃て!一歩も中に入れるな!』
偽情報に踊らされた反体制派の旧式のMiG-21の部隊が収容所の防壁へ捨て身の突撃を繰り返す。その数は1個大隊にも満たない、僅か20機だ。彼らは迎え撃つベルリン派の守備隊との間で、無数の弾丸が吹雪の夜空を切り裂いていたが、ベルリン派の守備隊はMiG-23で構成され、数は1個大隊に値する、36機で構成されていた。
質でも数でも劣る、反体制派の突撃の結末は、火を見るより明らかだった。だが、その結末は第三勢力の乱入によって一瞬で崩れ去る。
後方の丘陵に展開した第2中隊。砲撃戦仕様に重武装化された漆黒のMiG-23の群れが、一斉に120mm滑腔砲の砲身を猛吹雪の夜空へと向けた。
その機群の中心。ブルーノの機体が、ひときわ重厚な音を響かせて機体を固定した。
『第2中隊各員、傾注』
通信機越しに響くブルーノの声は、いつもの豪快なものとは違った。底冷えするような、冷徹で真摯な、指揮官の威厳に満ちた声。
その声を聞いた瞬間、マレーネをはじめとする全部隊員に、一瞬にして緊張が走った。
『我らヴェアヴォルフこそ、この東ドイツにおける法と秩序の守護者。国家の裏切り者である反体制派とベルリン派に、安息など必要ない。これより、連中に正義の鉄槌を下す』
ブルーノは、まるで自分自身に言い聞かせるかのような、重々しい口調で部隊に呼びかけた。
『……06了解。全機、データリンク完了。風向、風速、着弾予測座標……全弾道計算クリア。射角固定。……ガンダ大尉、いつでもいけます』
ブルーノの意志が、正確な技術によって実行に移される。マレーネの、機械のように冷徹で正確な弾道計算が共有される。
『よし、中隊各機、全砲門開けぇ!!射撃開始!!』
12機の120mm滑腔砲が天地を揺るがす轟音と共に一斉に火を噴いた。夜空を埋め尽くすほどの砲弾が、味方の突入ルートと施設本体のみを完璧に避け、一寸の狂いもない面制圧となって雪原に降り注ぐ。圧倒的で無慈悲な爆炎の嵐が、反体制派もベルリン派も関係なく、両陣営の戦術機をスクラップに変えていった。
『うわぁぁっ!?』
『おい、俺たちは味方だぞ!砲撃部隊はIFFが見えてないのか!?』
爆炎に巻き込まれたベルリン派の衛士が、通信機越しに悲鳴を上げる。だが、レーダーに映る接近機のデータを見た別の衛士が、凍りついたような声を上げた。
『いや、待て……この識別信号は……ヴェアヴォルフ!?なぜモスクワ派の連中がここに……ッ!?』
その疑問に答える者はいない。混乱の極みに達した戦場に、漆黒のMiG-23の群れ、第3中隊が、雪を蹴り立てて滑るように介入した。
『さて、こっちもお掃除を始めよう。中隊各機、一匹たりとも逃さないで』
第3中隊長、エルケ・アオスト大尉の冷酷な声が回線を這う。
彼女の機体は舞うように敵陣へ突っ込み、体勢を崩していたベルリン派の戦術機を36mm機関砲で的確にダルマに変えていく。
『ま、待ってくれ!同じ国家保安省だぞ!見逃し……』
脚部を吹き飛ばされ、雪原に這いつくばったベルリン派の機体が、外部スピーカーで命乞いをした。だが、エルケの黒い機体は冷酷に歩み寄り、その胸部に巨大な短刀を突き立てた。
『……あ、ごめんね。今忙しいから、後にしてくれないかな?』
ぐしゃり、と鉄と肉が潰れる不快な音が響く。エルケは刃に付いた油を振り払うと、優雅に部隊へ指示を出した。
『まぁ、後なんて無いんだけどね。……正面入口、制圧完了。第7小隊は私とここに残り、退路を確保する。第8小隊、第9小隊は移動を開始』
『28了解!おい野郎共、聞いたな!03を中心にサークル・ワンだ。女王様に群がる野次馬どもは、俺たちが片っ端からミンチにするぞ!』
エルケの号令を受け、リィズたち第8小隊と、別働隊である第9小隊の機体が、ひしゃげた正面ゲートを突破して施設の搬入口へと向かう。
だが、その進路を塞ぐように、建物の物陰からベルリン派の残存守備隊が2機、36mm機関砲を構えて立ち塞がった。
『モスクワ派の犬どもめ、これ以上は……ッ!』
オープン回線で響く敵兵の怒号。しかし、その声が最後まで響くことはなかった。リィズの搭乗するMiG-23は、一切の減速を見せることなく、跳躍ユニットを全開にして雪原を滑走した。
(……邪魔)
敵の放つ36mm弾の弾幕を、スラスターの細かな吹かしのみで、最小限かつ無機質に躱す。その機動には、焦りも、恐怖も、怒りすら存在しない。ただ、ミーシャへの道を塞ぐ障害物を最速で排除するための、冷徹な最適解。敵機がリィズの異常な接近速度に見失い、照準を補正しようとした一瞬の隙。彼女の機体は既に敵の懐へと潜り込んでいた。
『なっ――!?』
ひしゃげるような金属音と共に、リィズ機の抜刀した短刀が、一切の躊躇なく敵機の管制ユニットを正確に貫いていた。搭乗する衛士ごと中枢を破壊され、沈黙する敵機。リィズは断末魔の悲鳴に耳を貸すことすらなく、突き立てた刃を乱暴に引き抜くと、その鉄屑を容赦なく蹴り飛ばして道をこじ開けた。
残る1機が、一瞬にして仲間を屠られた瞬殺劇に怯んで後ずさる。だが、その隙を後続のルーカスとハンナが見逃すはずもなく、36mm機関砲の無慈悲な十字砲火で瞬く間に蜂の巣に変えた。
『……搬入口を確保。これより降機する』
通信機から聞こえるリィズの声は、巨大な鉄の塊を沈めた直後とは思えないほど、小石を蹴りのけた時と変わらない絶対零度の平坦さだった。
戦術機を降りた彼らは、生身での潜入部隊として薄暗い施設内部へと足を踏み入れようとしたその時だった。
『リィズ……』
エルケからの個別通信に、リィズは目を丸くした。彼女は思わず立ち止まり、続く言葉に身構えた。
『ミハイルの事、頼んだよ。……さぁ、気をつけて行ってらっしゃい』
「……はい」
彼女は小さく、けれど力強く返事をして施設へと突入した。非常用電源の赤いランプが点滅し、けたたましい警報音が鳴り響く中、通路の分岐点で第9小隊の隊長、エルンストが立ち止まる。
「我々第9小隊は、予定通り上の司令室を落とす。第8小隊、貴様たちは地下だ」
「……了解。上の鼠どもは任せたぞ」
ルーカスが短機関銃のボルトを引きながら応じる。
駆け出そうとするリィズの背中に向けて、第8小隊の隊員たちがニヤリと笑いながら声を投げかけた。
「おい、31!あのサボり魔に、休暇は終わりだって言っとけ!」
「そうね、ミハイルったら流石に休みすぎよ。絶対に連れて帰ってきなさい!」
「あのバカ、これまでのサボりのツケを払わせるまでは死なせねぇぞ!」
口々に飛ぶ、粗暴で、けれど温かいエール。ミハイル・ホフマンという少年が、怠惰を装いながらも、どれほどこの部隊の仲間たちから愛され、一目置かれていたか。それが痛いほど伝わってくる言葉だった。
「おい、31」
エルンストがリィズを見やり、意地の悪い笑みを浮かべた。
「……立派に歩けるようになったじゃないか。さっさとホフマンにその姿を見せてやれ」
リィズは足を止め、彼らに向けてコクりと無言で頷いた。その瞳には、エールへの感謝すら浮かんでいなかった。あるのは、目的を遂行するためだけに研ぎ澄まされた、氷のような冷徹な光だけ。それが今の彼女なりの、任せてという返事だった。
「……行くよ、ルーカスさん、ハンナちゃん」
「おう。俺たちが道を切り開く」
「……ミハイルさんは恐らく地下3階の特別尋問室だと思います。……急ぎましょう!」
ハンナのナビゲートを受け、第8小隊の三人は施設のもっとも暗く、深い場所へと駆け出していく。
地下1階への階段を降りたところで、最初のベルリン派警備兵と遭遇した。
「なっ……!?貴様ら、どこから……」
警備兵が叫び、アサルトライフルを構えようとする。だが遅い。リィズは一切の躊躇なく、走りながら短機関銃の引き金を引いた。
サプレッサーによって抑制された乾いた発砲音が二度鳴り、警備兵の眉間に正確に二つの風穴が開く。リィズは倒れ込む死体に目もくれず、その脇をすり抜けた。
「……クリア」
感情の起伏は一切ない。ただの作業。障害物を排除しただけ。
ミハイルから教え込まれた近接格闘術のすべてが、今、彼女の血肉となって駆動していた。コーナーの手前で減速しながら、最小限の投影面積でクリアリングを行う。角の向こうに潜んでいた3人の敵影を視認するより早く、リィズの体が反応した。
タンッ、タンッ、タンッ。
流れるようなリズミカルな射撃。先頭の敵の胸部に二発、後続の敵の頭部に一発。無駄の無い完成された制圧射撃。
「ひぃっ、ば、化け物……!」
生き残った最後の一人が、腰を抜かして後ずさる。リィズは無表情のまま距離を詰め、弾切れになった短機関銃を仕舞い、コンバットナイフを抜いた。
流れるような動作で敵の懐に飛び込み、頸動脈を正確に切り裂く。
鮮血がリィズの白い頬に飛んだ。だが、彼女は瞬きすらしない。今の彼女にとって、人間はミハイルを助けるための障害かそれ以外でしかない。
地下への階段を駆け下りるリィズの背中に、ルーカスの怒号と銃声が響く。
『……リィズ!ここから先の通路は一本道だ!追ってくる連中は、俺たちが全部ミンチにしてやる!さっさと連れ戻してこい!』
『……ここは私たちが抑えておきます!急いで、リィズさん!』
「……分かった。ありがとう、二人とも」
インカム越しの声に短く応え、リィズは地下3階の最奥部へと辿り着いた。
そこにあるのは、周囲の壁とは明らかに材質の違う、分厚い鋼鉄の扉。特別尋問室だ。リィズは迷わず強装薬のプラスチック爆弾をセットし、起爆させた。鼓膜を破るような爆音と共に、重厚な扉が内側へと吹き飛ぶ。
もうもうと立ち込める粉塵を払いのけ、リィズが踏み込んだ先。そこは、むせ返るような血と、甘ったるい薬品臭が充満する、冷たいコンクリートの部屋だった。
轟音が鳴り響き、重厚な扉が吹き飛ばされた。だが、過度な拷問と自白剤の過剰摂取で焼き切れたミハイルの脳は、それを現実の音として処理できていなかった。
(……また、新しい拷問かよ)
泥のように重い瞼の奥で、ぼんやりと毒づく。強烈なスポットライトの下、椅子に縛り付けられた彼の肉体は、とうに限界を迎え、指先を動かす感覚すら麻痺していた。むせ返るような血と薬品の臭いだけが、ここが地獄の底であることを教えてくれる。
「……ミーシャ!」
粉塵の向こうから、声がした。いや、違う。この地獄の中で、ミハイルが一番聞きたかった声だ。
(……悪趣味だな、アクスマンの野郎)
ミハイルは内心で自嘲した。執拗な拷問の中、彼は何度も何度もリィズに見捨てられる幻覚やリィズが助けを求めて泣き叫ぶ幻聴を聞かされてきた。
『君を助けにいったい誰が来るというのだね?家族を失い、国家保安省の中でしか生きてこなかった君に』
『あぁ、あの小娘か。……来るわけないだろう。彼女を捕らえた国家保安省である君に、そんな情は抱かないさ』
頭の中で反響するアクスマンの嘲笑。だから、目の前に現れた小さな影も、その類だろう。
(……とうとう、都合の良い幻覚まで見えちまったか)
幻影は一直線に自分へ駆け寄り、腕と脚に食い込んでいた太い革ベルトを次々と切断していく。
完全に脳がイカれたんだ。自分の無惨な末路に、酷い絶望と諦めが込み上げてくる。拘束が解かれ、支えを失ったミハイルの体は、糸の切れた操り人形のように前へと崩れ落ちた。冷たいコンクリートの床に叩きつけられる。そう覚悟して、目を閉じた。だが、予想した衝撃は来なかった。代わりに彼を受け止めたのは、ひどく華奢で、不器用で、痛いほどに力強い腕だった。
「……ぁ……」
ミハイルの口から、掠れた息が漏れる。鼻腔をくすぐる、冷たい雪と硝煙の匂い。そして、凍りついた心を強制的に溶かすような、彼女自身の匂い。
「ミーシャ……ッ!」
耳元で響く、泣き出しそうな声。自分を抱きしめるその胸から伝わってくる、確かな心音。幻覚なんかじゃない。幻聴でもない。触れ合った部分から伝わってくるその体温が、温もりがミハイルを現実へと誘う。
ミハイルは、泥のような瞼を震わせながらゆっくりと見開いた。焦点の合わない視界の先に、ポロポロと涙をこぼす彼女の顔がある。
「……リィズ……本当に、お前なのか……?」
血と泥にまみれた右手を震わせながら、彼女の頬に腕を伸ばす。その温かさ、柔らかさを確かめるように、震えるその手でそっと触れた。
(……あぁ、リィズだ)
ミハイルの暗い瞳に光が戻る。自分が信じ続けた唯一の光が、地獄の底まで、本当に自分を見つけに来てくれたのだと気がついた。
焦点の合わない虚ろな瞳のまま、ミーシャが震える右手を伸ばしてくる。血と泥にまみれた、氷のように冷たい手が、私の頬に触れた。
「……うん。私だよ、ミーシャ。……迎えに来たよ」
そう答えて彼の手を両手で包み込んだ瞬間。ミーシャの全身から、ふっと力が抜けるのが分かった。
まるで、尋問に耐え続けていた彼の意地が、音を立てて崩れ落ちていくように。
「……バカだな……。いい子にして、待ってろって……言っただろ……っ」
かすれ切った声で、いつものように憎まれ口を叩いて、必死に強がろうとする。
だけど、その声の震えは全く隠せていなかった。彼の瞳から、大粒の涙が次々と溢れ出し、私の頬を濡らしていく。その、いつもと変わらない不器用で偉そうな口ぶりを聞いて、私の中で限界まで張り詰めていた糸が、ふつりと解けた。
(ああ……ミーシャだ。私のミーシャのままだ)
アクスマンの凄惨な拷問を受けても、彼の魂までは壊されていなかった。その確かな事実に、どうしようもない安堵が胸の奥から込み上げてくる。
ここまで自分を縛り付けていた冷徹な暗殺者としての仮面が剥がれ落ち、私の瞳から熱いものが込み上げてきた。
それは、彼が生きていてくれたことへの、静かな感謝の涙だった。私はただ噛み締めるように、とめどなく溢れる雫で彼の肩を濡らした。
「……いい子に、してたのに……っ」
私は泣き濡れた声で、精一杯の軽口を叩き返した。
「ミーシャが、全然帰ってこないから……だから、迎えに来ちゃったじゃない……ばかぁ……っ」
ミーシャからの軽口は返ってこない。かわりに、まるで迷子になった子供のように私の小さな肩に顔を埋めて、嗚咽を漏らして泣きじゃくっている。ボロボロになった両腕で、ミーシャはすがりつくように私を抱きしめ返してきた。その力はあまりにも弱くて、今にも崩れ落ちそうだったけれど。絶対に、私を離そうとはしなかった。
「……ごめんね、ミーシャ。遅くなって……怖かったよね?」
私は、子供のように泣きじゃくる彼の背中を、折れそうなほど強く、優しく抱きしめた。伝わってくる鼓動が、愛おしくてたまらない。かつて武装警察軍本部の地下牢で、絶望して怯えるだけの私に、生きる希望をくれた気だるげな少年。
「……もう大丈夫、もう……大丈夫だから。さぁ、帰ろう、ミーシャ」
冷たい鋼鉄の檻の中で。静かに涙を流す少女と、子供のように泣きじゃくる少年は、互いの熱を確かめ合うように、ただ強く抱き合い続けた。外で吹き荒れる猛吹雪の夜を終わらせる、新しい希望と共に。