東風谷早苗は、夢を見ていると気づいた。
足元には、どこまでも続く草原があった。
けれど、それはただの草原ではなかった。芝は異様なほど青々として、葉の先には大粒の水滴が乗っている。その水滴のひとつひとつが、磨きたての液晶画面みたいに光を返していた。
空は抜けるような青。
雲は白く、丸く、どこか作り物めいている。
風景全体に、現実の空気ではなく、家電量販店の展示パソコンから漏れ出したような清潔な光が満ちていた。
遠くには湖が見える。
形は諏訪湖に似ていた。
山に囲まれ、広く、静かで、どこか懐かしい。けれど水面は自然の湖というより、半透明のガラス板を何枚も重ねたようだった。湖面には水紋の代わりに、丸い光のリングが広がっている。
その湖の中を、熱帯魚が泳いでいた。
赤、青、黄色、銀色。
諏訪湖にいるはずのない鮮やかな魚たちが、透明な水の中をゆったり横切っていく。魚の尾びれが揺れるたび、水中に白い泡が生まれ、泡の中には小さな葉っぱや地球儀やメールの封筒みたいな記号が閉じ込められていた。
ときどき魚は湖面を抜け、空中へ泳ぎ出した。
水のない青空の中を平然と進み、白い雲の間をすり抜け、また湖へ戻っていく。まるでスクリーンセーバーから逃げ出した魚たちだった。
諏訪の景色に似ている。
だが、ほとんどすべてがフルティガーエアロだった。
湖畔には葦の代わりに、透明なチューブのような草が揺れている。
山の稜線は緑のグラデーションで塗られ、頂には白い光沢が乗っていた。
湿原らしき場所には、蓮の葉のような丸いボタンが浮かび、踏めば起動音めいた音が鳴りそうだった。
そして湖の向こうには、高層ビル群がそびえていた。
それは東京の都心にも、外の世界の再開発地区にも似ていた。
だが、現実のビルではない。壁面は青白いガラスでできていて、角は妙に丸く、表面には水滴が貼りついている。ビルの内側には光の線が流れ、上層階の窓には雲や草原や熱帯魚の映像が映っていた。
諏訪湖の向こうに、ガラス製の未来都市が浮かんでいる。
けれど威圧感はない。むしろ、古いパソコンのデモ画面で「これからの暮らし」として流れていそうな、どこまでも清潔で、どこか嘘くさい都市だった。
湖の上を透明なモノレールのような光線が走り、高層ビルの間には丸い泡がいくつも浮かんでいる。泡の中では熱帯魚が泳ぎ、緑の葉が回転し、銀色のノートパソコンがゆっくり開閉していた。
諏訪湖。
御柱。
湿原。
山並み。
そして、湖畔の高層ビル群。
すべてが青と緑と透明感で統一され、外の世界で二〇〇七年頃に家電量販店のパソコン売り場へ行けば見かけた、あの前向きすぎるデモ映像の中へ押し込められていた。
湖の向こう、諏訪大社を思わせる社殿があった。
ただし、それもまた普通の神社ではない。
屋根は青銅色に光り、柱は透明な樹脂のようで、注連縄には水滴が宝石のように並んでいる。御柱らしき巨木は四方に立っていたが、木肌にはガラスの反射が走り、内側を青白い光が流れていた。
古い信仰の骨格を持ったまま、外側だけ二〇〇七年頃のパソコン売り場のデモ映像に差し替えられたような世界だった。
「……懐かしい」
早苗が小さく呟いた瞬間、目の前の空間に、ぽこん、と丸い吹き出しが現れた。
『こんにちは! 何についてお手伝いしましょうか?』
「えっ」
湖面から泡がひとつ浮かび上がる。
その泡が弾けると、中から青いイルカが飛び出した。
イルカは水もない空中をすいすい泳ぎ、早苗の周りを一周してから、御柱の光を背にして止まった。妙に愛嬌のある顔。どこか古いパソコン画面で見たことのある、丸っこくて親切そうな存在感。
「あなたは……」
『カイルです! 夢の探索をお手伝いします!』
「カイル君!?」
早苗は思わず声を上げた。
外の世界にいた頃、古いパソコンで見たことがある。
文章を作るとき、検索するとき、何か困ったとき、勝手に現れては親切そうに助けてくれる青いイルカ。
便利なのか、少し邪魔なのか。
子供の頃には判断できなかった、不思議な案内役。
『この世界では、あなたの記憶をもとにした諏訪風フルティガーエアロ夢景色を表示しています!』
「諏訪風フルティガーエアロ……」
『はい! 湖、山、御柱、湿原、神社、熱帯魚、高層ビル群、透明感、水滴、草原、未来感を読み込み中です!』
カイル君の後ろに半透明の進行バーが出た。
『懐かしさをロードしています……』
バーは妙にゆっくり進む。
「遅いですね」
『仕様です!』
「懐かしい!」
早苗はなぜか少し感動した。
二人は湖畔のガラス道を歩き始めた。
道は諏訪湖の遊歩道のように岸辺をなぞっている。だが足元は石畳ではなく、半透明のパネルだった。踏むたびに淡い光が走り、足跡の代わりに小さな水滴のマークが浮かぶ。
道の下には、水のようなものが流れている。
その中には古いチラシ、携帯電話のカタログ、光回線の広告、薄型テレビの宣伝、銀色のノートパソコンの写真が沈んでいた。
それらは湖底の藻のように揺れながら、青と緑の光を放っている。
「諏訪湖っぽいのに、全然自然じゃないですね」
『自然風です!』
「自然風」
『外の世界では重要な概念です!』
「まあ、わかりますけど……」
湖の上を、透明な魚と熱帯魚の群れが泳いでいる。
透明な魚は水の輪郭だけでできていて、熱帯魚は絵の具を落としたように鮮やかだった。両方が混ざって泳ぐと、湖面は水族館の大水槽とパソコンのデモ映像を重ねたようになった。
尾びれを振るたび、泡と光の粒が舞い、湖面に「快適」「安心」「高速」「エコ」といった言葉の気配だけが浮かんでは消える。
遠くの山々は、八ヶ岳や霧ヶ峰を思わせる形をしていた。
だが斜面は滑らかな緑色で、木々は一本一本がアイコンのように丸い。霧は白い半透明のレイヤーとして山肌にかかり、ところどころに青い光の線が走っている。
その山並みの手前に、高層ビル群が並んでいる。
ビルは湖畔から生えているようにも、湖面に映っているだけの幻のようにも見えた。
上へ行くほど青く透け、屋上には丸い庭園や水滴の形をしたアンテナが乗っている。ビル同士の間を、透明な歩道橋が何本も結び、その中を小さな光の粒が通勤客のように流れていた。
しかし、人影はなかった。
あるのは映像としての都市だけだった。
誰も住んでいないのに、生活が快適になった後の世界だけが先に表示されている。
早苗には、それがひどく外の世界らしく思えた。
信州の湿った山気ではない。
冷却ファンに運ばれてくる、新品の電子機器の匂いが混じった夢の空気だった。
空中に、新しいウィンドウが開いた。
角は丸く、縁は水色に輝き、ボタンはぷっくり膨らんでいる。
そこには、文字ではなく映像だけが流れていた。
青い湖。
白い雲。
緑の山。
透明な御柱。
水滴のついた葉。
熱帯魚の群れ。
ガラスの高層ビル群。
銀色のパソコン。
そして、妙に前向きな音楽。
早苗は眉を寄せる。
「これ、見覚えがあります。誰も触ってない展示パソコンで、ずっと流れてるやつです」
『外の世界、二〇〇七年頃の売り場演出を参照しています!』
「やっぱり!」
早苗は少し顔を近づけた。
「水滴がぷるぷるして、画面がきらきらして、地球が回って、なぜか葉っぱが舞って……あと、妙にきれいな魚とか、ガラスのビルとか」
『エコです!』
「魚とビルもエコなんですか?」
『エコっぽいです!』
「言い方が雑!」
『エコっぽさも大事です!』
カイル君が胸を張るように尾びれを振った。
その仕草が妙に堂々としていたので、早苗は少し笑ってしまった。
やがて二人は、湖畔の広場に出た。
そこは諏訪大社の境内にも、家電量販店のパソコン売り場にも、都市博覧会の未来展示にも見えた。
白い展示台が参道のように並び、その上には銀色や黒色のノートパソコンがずらりと置かれている。展示台の隙間には小川が流れ、水面には透明な花びらと小さな熱帯魚が浮かんでいた。
正面には鳥居がある。
だが鳥居は朱色ではなく、薄い青緑のガラスでできていた。柱の内側には泡が閉じ込められ、上部には白い光が反射している。鳥居の向こうには社殿があり、その屋根には太陽光パネルのような光沢があった。
さらにその背後には、高層ビル群がそびえている。
社殿の屋根越しに見えるビルの窓には、青空と草原と熱帯魚が反射していた。
御柱とビルが同じ青白い光を帯びて並び、古い神域と未来都市が、ひとつのデモ画面の素材として配置されている。
どこからともなく、店内放送めいた声が流れる。
『新しい毎日へ。あなたの暮らしを、もっと快適に』
「神社で流す文句じゃないです」
『夢なので問題ありません!』
「神奈子様が聞いたら複雑な顔をしそうです」
『信仰の新規インストールを開始しますか?』
「しません!」
早苗が展示台のひとつに触れると、画面から熱帯魚が飛び出した。
魚たちは鳥居をくぐり、御柱の周りを回り、高層ビル群の窓へ向かって泳いでいく。尾びれから白い光の粒を撒き、やがて湖の上で大きな渦を作った。
渦の中央から、巨大なガラス玉のような地球儀が浮かび上がる。
地球儀の表面には、幻想郷と外の世界と諏訪が混ざった地図が映っていた。
守矢神社の隣に大型家電量販店があり、諏訪湖の湖畔にパソコン売り場があり、湖の向こうには未来都市の高層ビル群が並んでいる。妖怪の山の斜面には、光回線の広告が巨大な看板のように立っていた。
博麗神社の境内には、なぜかプリンターの特設コーナーがあった。
「霊夢さん、絶対に嫌がりますね」
『インク代が高いからですか?』
「それもあります」
カイル君が地球儀の周りを泳ぐと、空中に検索窓が現れた。
『何を検索しますか?』
早苗は少し考えた。
「……未来」
検索窓に、ひとりでに文字が入る。
未来。
すると、湖全体が一瞬だけ白く光った。
次の瞬間、早苗は巨大な水のドームの中に立っていた。
そこは諏訪湖の底のようでもあり、展示パソコンのデモ画面の中のようでもあり、都市の巨大水槽の中のようでもあった。水の中なのに息はできる。足元には草原。上空には魚。周囲には無数の半透明ウィンドウが浮かんでいる。
熱帯魚が早苗の周りをゆっくり泳いだ。
青い魚、黄色い魚、赤い尾びれの魚。
その背後では、高層ビル群が水中に沈んだ都市のように揺れていた。ビルの窓からは白い光が漏れ、各階には水草のような観葉植物が揺れている。
水草は透明なチューブのように揺れていた。
湖底には丸い石の代わりに、光沢のあるボタンが並んでいる。
遠くには御柱が四本、青白い光を帯びて立っていた。
そのうちの一本に、幼い頃の早苗の記憶が映っていた。
外の世界にいた頃の早苗。
制服姿で、家電量販店のパソコン売り場に立っている。
彼女は展示機の前で足を止め、青と緑のデモ画面をじっと見つめていた。
その画面の中には、今いる夢とよく似た草原があった。諏訪ではないはずなのに、どこか諏訪の山と湖を思わせる色をしていた。
画面の端では熱帯魚が泳ぎ、別の映像ではガラス張りの高層ビルが青空を映していた。
「……私だ」
『保存されていた記憶です!』
「そんな大事な記憶だったかな……」
『普通の記憶ほど、夢の中では大きく表示されることがあります!』
カイル君の言葉に、早苗は黙った。
画面の中の自分は、展示パソコンを見つめている。
買ってもらえるわけではない。
操作できる時間も短い。
それでも、そこには未来があった。
青い画面。
透明な水。
草原。
光。
熱帯魚。
ガラスのビル。
薄型の機械。
どこかへつながっていきそうな線。
「あの頃は、こういうものが未来に見えたんです」
『今は違いますか?』
「今は……幻想郷にいますから」
早苗は少し笑った。
「神様がいて、妖怪がいて、天狗が新聞を作っていて、河童が機械を作っていて。奇跡だって起こせます」
『では、未来は不要ですか?』
「いいえ」
早苗は首を振った。
「むしろ、幻想郷に来てからわかりました。未来って、便利な機械そのものじゃないんです。まだ見たことのないものを、きらきらした画面で見せられて、なんとなく信じてしまう気持ちなんです」
『なるほど!』
カイル君がくるりと回転した。
『つまり、この世界は信仰に近いのですね!』
「……そう言われると、ちょっと困りますね」
『外の世界の未来信仰です!』
「言い切った!」
でも、早苗は否定できなかった。
家電量販店のPCデモ画面。
それは商品説明であり、宣伝であり、ただの映像だった。
けれど、子供の頃の早苗には、そこにひとつの小さな信仰があった。
この先、世界はもっと明るくなる。
もっと便利になる。
もっと透明で、もっと速くて、もっと滑らかになる。
その約束が、本当だったかどうかはわからない。
だが、あの青と緑の画面は、確かに未来の顔をしていた。
水のドームがほどけ、二人は再び湖畔へ戻った。
空では、無数のカーソルが鳥の群れのように飛んでいる。
その間を、熱帯魚が何食わぬ顔で泳いでいた。
山の上には白い雲が浮かび、その雲の影が湖面に半透明のウィンドウとして映っている。
御柱の内側を流れる光はゆっくりと明滅し、社殿の屋根では水滴がきらきらと転がっていた。湖の向こうの高層ビル群は、夕方でもないのに青白く輝き、窓という窓に草原と湖と魚の群れを反射している。
諏訪のようで、諏訪ではない。
自然のようで、自然ではない。
神域のようで、都市の広告映像のようでもある。
信仰の風景を、外の世界の古い未来感で丸洗いしたような夢だった。
『そろそろスリープから復帰する時間です!』
「目が覚めるってことですか?」
『はい! 現在、夢を終了しています……』
空中に終了画面が現れた。
『設定を保存しています』
「そこ、妙に不安になる表示ですね」
『電源を切らないでください!』
「寝てるだけです!」
早苗が笑うと、世界の光が少しずつ薄くなった。
湖の青が白に溶ける。
山の緑が淡くなる。
熱帯魚の群れが泡になって消える。
高層ビル群の窓が、ひとつずつ暗くなる。
御柱の内側を流れていた光が、ゆっくり消えていく。
展示台のパソコンたちが、ひとつずつ画面を暗くしていく。
カイル君は最後まで早苗のそばを泳いでいた。
『またお手伝いしましょうか?』
「ええ。またお願いします。今度は、もう少し軽い処理で」
『努力します!』
「そこは保証してくださいよ」
『仕様です!』
早苗は吹き出した。
最後に見えたのは、青いイルカが半透明の鳥居の向こうで尾びれを振る姿だった。
その背後では、消えかけた高層ビル群の間を、最後の一匹の熱帯魚がゆっくり泳いでいた。
そして、世界は白くなった。
目を覚ますと、守矢神社の天井があった。
障子の向こうから、朝の光が差している。
どこかで諏訪子の声がした。
「早苗ー、朝だよー」
続いて神奈子の声。
「寝坊すると朝食が冷めるぞ」
早苗は布団の中でしばらくぼんやりしてから、ゆっくり起き上がった。
「……夢の中に、カイル君が出てきました」
襖の向こうが静かになった。
「誰だ、それは」
神奈子が不審そうに言う。
早苗は真顔で答えた。
「外の世界の、古い未来の案内人です」
「何を見てきたの、早苗」
諏訪子が笑い混じりに聞く。
早苗は障子から差す光を見つめ、少しだけ懐かしそうに微笑んだ。
「諏訪湖みたいで、諏訪湖じゃない場所です。山も御柱も神社もあるのに、湖には熱帯魚が泳いでいて、向こう岸には透明な高層ビルが並んでいました。全部が青くて透明で、やたら前向きな夢でした。古いパソコン売り場の画面みたいな」
神奈子はしばらく黙ってから言った。
「……相変わらず、外の世界はよくわからんな」
早苗は布団を畳みながら、小さく笑った。
「大丈夫です。たぶん外の世界の人にも、よくわかってません」
窓の外では、朝露が草の上できらりと光っていた。
それはほんの少しだけ、夢の中の諏訪湖に浮かんでいた水滴に似ていた。