俺は兵藤一誠、呪術師だ! 作:朝日
駒王町の市営霊園。
夕暮れ時が近づき、人影もまばらになった静寂の空間で、二メートル近い白髪の巨漢が一つの墓石の前に静かに佇んでいた。
豪奢な祭服を身に纏ったその男───ヴァスコ・ストラーダは、目を閉じ、己の胸の前で太い両手を合わせたまま、どれほどの時間そうして黙祷を捧げていただろうか。
やがて、吹き抜ける春風が墓前に供えられた線香の煙を揺らした時。ヴァスコはゆっくりとその目を開き、組んでいた手をそっと下ろした。
「───十蔵。お前の言った通りだったよ」
誰に聞かせるわけでもなく、墓石に向けてぽつりと溢されたその言葉。
それは先ほどまでの、坂道で一人の親切な少年と会話を交わしていた時の穏やかな好々爺としての声色とは異なる、幾多の死線を共に潜り抜け、互いの魂の奥底までを理解し合った者同士にしか出せない、刺々しくもどこか温かみに満ちた、親友に向ける気安い言葉遣いだった。
ヴァスコの脳裏に、数十年前の記憶が色鮮やかに蘇る。
それは、世界中が第二次世界大戦という狂気に包まれていた戦争の真っ只中。ヴァスコがまだ、教会から派遣された血気盛んな若手のエクソシストであった頃の出来事だ。
当時のこの極東の地は、天使、悪魔、堕天使の三大勢力のいずれの管理下にも置かれていない空白地帯だった。それ故に、戦火の混乱に乗じて、悪魔や堕天使たちが無辜の民の幸福を蹂躙するという惨劇が日常茶飯事のように引き起こされていた。
ヴァスコは、そんな魔の者たちの争いに巻き込まれる人々を救うため、教会の命を受けてこの地に単身降り立ったのだ。
そして、騒動の元凶である悪魔と堕天使の集団の居場所を割り出し、いざ決戦の火蓋を切ろうと自身の得物の柄に手を掛けた、まさにその時だった。
『───邪魔だ。すっこんでろ、教会の犬』
漆黒の闇の中から、突如として一人の男が現れた。
鋭い眼光と、無精髭。どこか荒々しい野良犬のような雰囲気を纏ったその男こそが───兵藤十蔵。この地を縄張りとする『呪術師』であり、後のヴァスコの無二の親友にして、兵藤一誠の祖父となる男との劇的な邂逅であった。
十蔵は、堕天使と悪魔を討伐しようと息巻いていた若き日のヴァスコに対し、「自分の街は自分で守る」と吐き捨てた。
彼にとって、悪魔も堕天使も、そして神を信仰する教会の人間すらも、自身の平穏な縄張りを荒らす等しく目障りな『外敵』でしかなかったからだ。「邪魔をするなら、お前もあいつらと同様にこの場で祓うぞ」と、一切の容赦のない殺気を向けられ、ヴァスコは思わず唖然としてしまった。
そんな呆気にとられるヴァスコから毒気を抜かれたように、十蔵は「チッ」と舌打ちをして肩を竦めると、そのまま悪魔と堕天使たちの群れに向かって、たった一人で歩みを進めていった。
『塵一つ残さねぇよ───細切れになれ』
次の瞬間、ヴァスコの目の前で信じられない光景が繰り広げられた。
十蔵が指先を軽く振るっただけで、大気を劈くような不気味な破裂音が連鎖し、前方に群がっていた数十体もの悪魔と堕天使たちの肉体が、文字通り不可視の刃によって瞬く間に細切れの肉片へと変貌していったのだ。
当時、教会の最高戦力の一つである聖剣『デュランダル』の担い手として、あらゆる存在を一刀の下に斬り伏せてきたヴァスコであったが、その凄惨かつ圧倒的な殲滅力には瞠目せざるを得なかった。
魔力でも、聖なるオーラでもない。術者の負の感情を操作して放たれる『呪力』という不可解なエネルギー。
人間の身でありながら、己の振るうデュランダルに並ぶか、あるいはそれ以上に理不尽な破壊をもたらす十蔵のその力に、ヴァスコは戦慄と同時に強烈な畏敬の念を抱いたのだ。
しかし、圧倒的な力を見せつけた十蔵の前に、空を覆うほどの巨大な漆黒の羽を広げた親玉が、さらなる増援を引き連れて上空から舞い降りてきた。
堕天使の幹部。その絶望的なまでの数と重圧を前に、十蔵が微かに眉を顰めたのを見たヴァスコは、即座に己の『エクソシストとしての役割』を思い返した。
『悪しき者から無辜の民を守るのが、私の使命だ!』
ヴァスコはデュランダルを抜き放ち、十蔵の隣へと並び立った。
十蔵はそんなヴァスコを横目で睨みつけ相も変わらず邪魔だ何だと騒ぎ立てたが、そんな悪態をつきながらも彼の何処までも真摯なその双眸を前に考えを改めたのか、「確かに自分一人じゃ骨が折れる」と冷静に判断すると無愛想に言葉を溢したのだ。
『……足だけは引っ張るなよ、デカブツ』
僅かな嘆息と共にそう告げた瞬間、二人の戦士は言葉を交わすことなく同時に地を蹴り、堕天使の一団との死闘へと身を投じていった。
「───ふふっ」
墓前で過去の出会いを思い返し、ヴァスコは深い皺の刻まれた顔に、堪えきれないような温かい笑みを溢した。
あの戦いを経て、奇妙な友情で結ばれた二人。
その後、十蔵は愛する女性と出会い家庭を持ったことで、血生臭い呪術師としての裏社会から足を洗い、静かに隠居する道を選んだ。
だが、二人の縁がそこで途切れることはなかった。十蔵からは定期的に、海を越えてヴァチカンのヴァスコの執務室へと手紙が届けられていたのだ。
その内容は、かつての荒々しい狂犬のような姿からは想像もつかないようなものばかりだった。
『孫が生まれた。目の中に入れても痛くないほど可愛い』
『最悪だ、神器を持ってる。あいつが争いに巻き込まれるかもしれねぇ』
『イッセーには、間違いなく俺に並ぶか、あるいは凌駕するほどの呪術師としての才能が秘められてる』
そんな、孫への溺愛と心配。そして、まるで親バカ全開のような自慢話がこれでもかと便箋に綴られていたのである。
手紙を読む度、ヴァスコは執務室で一人肩を揺らして苦笑したものだ。「あの兵藤十蔵が、孫を得て随分と丸くなったものだ」と。
だが、今日。この駒王町で、成長した彼の孫である『兵藤一誠』と実際に言葉を交わしたことで、ヴァスコはあの手紙に綴られていた内容が決して嘘ではなかったのだと確信した。
「兵藤一誠───赤い龍の力をその身に宿しながら、十蔵と全く同じ術式をも持って生まれた呪術師か」
ヴァスコは、運命に導かれるようにしてこの町で最初に出会った、あの心優しき若者の姿を想起して穏やかな笑みを溢す。
己が意図して溢した『最強の人間』としての異常な圧力を前にしても決して表情を崩さず、自分のためではなく、何よりも周囲の被害を考えて、ただの地元の若者という仮面を最後まで完璧に被り通してみせた胆力。
そして何より、そんな素性の知れない怪しい自分に迷うことなく手を差し伸べたばかりか、真っ直ぐな瞳で己の本名を名乗ってみせた、その善良なまでの魂の在り方。
「……ああ、本当に。お前には似ても似つかないほど、真っ直ぐで優しい子だったよ」
ヴァスコ自身、事前の下調べによって、現在のこの駒王町が現魔王ルシファーの妹であるリアス・グレモリーの領地となっていること、そしてイッセーが彼女の眷属たちと深い協力関係を結んでいることは既に認知していた。
かつて呪術師として、悪魔や堕天使といった人間以外の勢力を等しく毛嫌いしていた親友の孫が、よりにもよって悪魔の姫君と交友を結ぶとは……。普通の教会の人間であれば、眉をひそめるような事態だろう。
しかし、ヴァスコはイッセーのその在り方を否定する気など微塵もなかった。
かつて誰よりも人間以外の介入を拒絶していたあの兵藤十蔵が、人間とはいえ天使を仰ぐ教会の戦士であった自分と背中を預け合い、生涯の交友を結ぶことができたのだ。ならば、その血を引く彼の孫が、同じように種族の垣根を越えて悪魔と絆を結んだとしても、何ら不思議な話ではない。
「───だからこそ、守らねばなるまい」
ヴァスコは瞳を開き、静かに、しかし確かな闘志を込めて虚空を見据えた。
彼の脳裏をよぎるのは、つい先日、教会の中枢で引き起こされた重大な事件のこと。
ヴァチカンにて厳重に保管されていたはずの聖剣『エクスカリバー』の強奪。
それを引き起こしたのは、敵対勢力である堕天使の幹部の一人。かつて、若き日のヴァスコと十蔵が二人で背中を預け合い、激闘の末に退けたあの堕天使───『コカビエル』であった。
教会の情報網によれば、コカビエルは奪取した聖剣を持ち込み、この駒王町で何らかの恐るべき計画を企てようとしているらしい。
かつての戦いによって、コカビエルという堕天使がどれほど戦争を渇望し、狂気に満ちた力を持っているかを当事者として深く理解しているヴァスコは、この因縁に完全なる終止符を打つべく、司祭枢機卿という教会の重鎮でありながら、周囲の反対を押し切って自ら討伐に名乗りを上げたのだ。
間もなくすれば、教会本部から聖剣奪還の任を帯びた二人の若き戦士たちが、この極東の町へと合流してくるだろう。
「この地に、再び奴の黒い羽を落とさせるわけにはいかない」
ヴァスコ・ストラーダは、親友の眠る墓石に向けて深く一礼を捧げる。
全ては、亡き親友が愛し守り抜いたこの町を、再び戦火で汚させないために。
そして、今を生きる親友の愛する孫が、これからも平穏にこの町で日常を謳歌できるように。
現代の英雄と謳われる最強の老兵は、胸に秘めた熱き誓いと共に、夕闇の迫る霊園を静かに後にするのだった。
▽
宵闇に包まれた駒王町。
その一角にひっそりと佇む、今はもう使われていない廃教会の最奥。ステンドグラスから差し込む冷たい月光を浴びながら、十枚の漆黒の羽を持つ一人の堕天使が、不敵な笑みを浮かべていた。
「───コカビエル様。エクスカリバーの同調は極めて順調に進んでおります。間もなく、この駒王町を吹き飛ばすだけの『爆弾』が完成することでしょう」
白衣に身を包んだ狂気の研究者、バルパー・ガリレイの報告を聞き流しながら、コカビエルは退屈そうに玉座代わりの瓦礫に頬杖を突いていた。
今や『
かつて、天使、悪魔、堕天使の三大勢力が世界の覇権を懸けて争った大戦。
コカビエルはその戦争において、堕天使勢力の一番槍として常に最前線に立ち、血みどろの激戦を数え切れないほどに繰り広げてきた。敵対する天使の純白の羽を引き千切り、悪魔の四肢を叩き折り、戦場の全てを自身の漆黒の羽と鮮血で染め上げる───あの命のやり取りこそが、コカビエルにとっての至上の悦びであり、自身の存在意義そのものだった。
だが、現在。総督であるアザゼルが中心となって維持されるこの仮初の平和は、コカビエルのような戦争狂からしてみれば、反吐が出るほどに退屈で、そして無価値な泥水でしかなかった。
「(平和だと? 融和だと? ……くだらん。我ら堕天使の牙は、他者の喉元を食いちぎるためにこそあるというのに)」
コカビエルは、自身の掌に視線を落とす。
バルパーは順調だと語ったが、コカビエルにとって、聖剣の研究やリアス・グレモリーの領地を吹き飛ばすこと自体は、あくまで『戦争の火種』を作るための手段に過ぎない。
彼の真の目的は、この退屈な世界を再びあの熱狂の坩堝───血沸き肉躍る大戦の時代へと引き戻すことだ。
そして、その舞台として何故、魔王の妹が治めるこの駒王町を態々選んだのか。
それは、コカビエルにとってこの極東の地が、かつての大戦に引けを取らないほどに魂を焦がす、とある『壮絶な敗北』を味わった因縁の地であったからだ。
「(忘れたことなど一瞬たりともない)」
コカビエルの脳裏に、数十年前の忌まわしくも熱狂的な記憶が蘇る。
それは、人間たちが『第二次世界大戦』という大規模な殺し合いを行っていた、狂気の時代の真っ只中のこと。
三大勢力のいずれの管理下にも置かれていない空白地帯であったこの駒王町に目をつけたコカビエルは、人間たちの戦争の混乱に乗じて、この地から再び天使と悪魔を巻き込む巨大な『大戦』を勃発させようと画策していた。
手始めにこの極東の町を拠点とし、戦争の火種を世界中の各所にばら撒く。その準備を推し進めていた彼の前に、突如として二人の人間が立ち塞がったのだ。
一人は、己の肉体を極限まで鍛え上げた教会最強の戦士。
後に現代の英雄と称えられることになる若き日の『聖剣使い』ヴァスコ・ストラーダ。
そしてもう一人は───とうの昔に滅び去ったはずの、旧時代の遺物の残滓。
神の奇跡も魔力も持たず、ただ己の負の感情を呪力という異端の力に変えて戦う『呪術師』兵藤十蔵。
当初、コカビエルは彼らをただの羽虫程度にしか思っていなかった。大層な名前を付けられているようだが、所詮は自分たちに搾取されるしかないただの人間に過ぎないではないか、と。
しかし、いざ戦闘が始まると、その認識は根底から覆された。
ヴァスコ・ストラーダが振るう聖剣『デュランダル』の、山をも両断する絶対的な破壊力もさることながら、何よりもコカビエルの度肝を抜いたのは、兵藤十蔵という男が振るう『呪術』の圧倒的なまでの異常性だった。
『───ハッ。自分の欲望も制御出来ねぇ堕ちたカラスが。その羽、俺が全部むしり取ってやるよ』
不敵に笑う十蔵の指先が動いた瞬間。
コカビエルが生み出した数多の光の槍が、何の前触れもなく空中で無数の細切れになって霧散した。
そればかりか、上空から襲い掛かっていたコカビエルの部下の堕天使たちが、発動の起こりすら見えない不可視の刃によって、悲鳴を上げる間もなく空中で肉片へと変えられていったのだ。
「(実に数百年振りだったか……あれほどまでに研ぎ澄まされた術式を目の当たりにしたのは)」
当時のコカビエルは、仲間の死に激怒するどころか、背筋を突き抜けるような歓喜と興奮に打ち震えていた。
デュランダルの聖なる暴風と、空間そのものを切り刻む不可視の呪術の刃。
たった二人の、それも短命で脆弱であるはずの人間の圧倒的な力とその連携を前に、部下を失ったコカビエルは徐々に追い詰められていった。
そして自慢の黒羽を幾枚も切り裂かれ、血塗れになった彼はついに計画を中断し、屈辱的な敗走を余儀なくされたのである。
だが、その日の敗戦は、コカビエルの闘争本能に新たな火を点けた。
ヴァスコ・ストラーダと兵藤十蔵。あの二人の人間と出会った彼は、この日を境に『聖剣』と『呪術』という異端の力に対して、病的なまでの強い執着と興味を抱くようになったのだ。
「(次こそは、あの二人の首を私がもぎ取ってやる。デュランダルごと、あの不可視の斬撃を操る術式ごと、この私が消し炭にしてくれる───)」
コカビエルはその日より、他の幹部たちが呆れるほどに己を一から見つめ直し、堕天使としての己の能力の底上げと、光の力の鍛錬に没頭するようになった。
いつか来る、あの二人の化け物との再戦の日を夢見て。
「(───そう思っていたのだがな)」
しかし。
堕天使たる彼からしてみれば、その鍛錬の期間はほんの数十年……瞬きをするほどの僅かな空白の期間でしかなかった。
だが、コカビエルは失念していた。長命種たる自分たちと違い、人間からしてみれば数十年という年月は、人一人が天命を全うするには充分すぎる時間だということを。
自己鍛錬を終え、己の力を極限まで高め、いざ極東の地で復讐を果たさんと動き出したコカビエルにもたらされたのは、余りにも冷酷すぎる現実だった。
彼がその背を追い、いつか必ず殺すと心に誓っていた宿敵の一人───『呪術師』兵藤十蔵は、既に老衰によってこの世を去っていたのだ。
「(……まさか、貴様がもう死んでいたとは思いもしなかったよ)」
その事実を知った時、コカビエルの胸を占めたのは、宿敵が消えたことに対する安堵などでは決してなかった。
圧倒的なまでの虚脱感。そして、己に勝ち逃げのような形でこの世を去った十蔵への、凄まじい怒りと落胆だった。
十蔵が死んだことで、この世から『呪術師』の系譜は完全に途絶えた。己の磨き上げたこの力と怨念をぶつける先は、もう永遠に失われてしまったのだと、彼はそう絶望した。
故にこそ。
コカビエルは、かつての因縁の地であるこの駒王町へとやって来た。
彼がエクスカリバー強奪事件を引き起こし、魔王の妹の領地を戦場に選んだのは、堕天使としての政治的思惑だけではない。
それは、自身に勝ち逃げし、平穏の中で寿命を全うした兵藤十蔵という男に対する復讐であり、捻じ曲がった手向けでもあった。
かつての戦争の再演。そして過去の敗戦の屈辱を晴らさんと言わんばかりに、あの呪術師が守り抜いたこの町を、彼が無二の親友と仰いだ男が扱っていた聖剣の力で跡形もなく消し去り、再び三大勢力の凄惨な大戦の火種として燃やし尽くす。
それこそが、コカビエルがこの町に執着する最大の理由だった。
コカビエルは、廃教会の窓から、住民の大半が平和な眠りについている駒王町の夜景を見下ろした。
自身の翼を切り刻んで見せた不可視の刃の雨も、あの呪術師のどこまでも自分を嘲笑うかのような舐め切った軽口も、もうどこにもない。だが、彼の魂に刻まれた過去の敗戦の記憶が、コカビエルの顔に壮絶なまでの狂気に満ちた笑みを浮かび上がらせた。
「見ているがいい、最後の呪術師よ───お前が愛し、守り抜いたこの町が、戦争の大火に包まれるその光景をな」
十枚の黒羽が、廃教会の中で禍々しく広がる。
彼が呪術師の血脈───兵藤一誠の存在を知るのは、もう少しだけ先のこと。
復讐と戦争の渇望に支配された堕天使の幹部は、眼下の街を火の海に変えるその瞬間を待ちわびながら、暗闇の中で喉を鳴らして狂い笑うのだった。