よろしくお願い申し上げます。
翌朝、森は薄い霧に包まれていた。
夜露をまとった葉が朝日を受けて静かに輝いている。昨日まで幾度も命を懸けた場所とは思えないほど穏やかな景色だった。
それでも、胸の奥に残った違和感だけは消えない。
赤い影。
チャッピーの亡骸。
ローズに似た戦い方。
そして、本人さえ理由を知らない違和感。
考えても答えは出ない。
だからこそ、今は前へ進むしかなかった。
焚き火はすでに燃え尽き、白い灰だけが残っている。
俺はその灰へ土をかぶせながら、小さく息を吐いた。
「起きてたの。」
後ろから声がする。
振り返ると、ローズがこちらへ歩いてきていた。
赤いツインテールはまだ少し乱れており、眠そうに目を擦っている。
「おはよう。」
「おはよう。」
短いやり取りだった。
ローズも俺の隣へしゃがみ込み、焚き火跡を見つめる。
「今日はどうするの。」
その問いに、俺は少しだけ考えてから答えた。
「森の外を探そうと思う。」
ローズがゆっくり顔を上げる。
「外?」
「このまま森の中を歩き続けても、出口があるかどうかも分からない。」
「だったら、一度森の端まで行ってみたい。」
「端?」
「ああ。」
俺は近くに落ちていた枝を拾い、地面へ円を描いた。
「知らない土地で迷った時は、大きな目印を探す。」
「道路でも川でも山でもいい。」
「まず全体を把握しないと、どこへ向かえばいいか分からない。」
枝で描いた円の外側をなぞる。
「森にも端があるなら、そこから何か見えるかもしれない。」
ローズは黙ってその円を見つめていた。
反対する様子はない。
しばらくして、小さく頷いた。
「……試してみる価値はあるかも。」
その言葉を聞いた時だった。
「おはようございます!」
元気な声と共に、ひまわりが勢いよく起き上がった。
大きく伸びをすると、眠気など最初からなかったかのように笑顔になる。
「朝から二人で何のお話?」
「今日の予定だ。」
「予定?」
「森の外周を探してみようと思う。」
ひまわりは目を丸くした。
「外!」
その一言だけで表情がぱっと明るくなる。
「じゃあ、出られるかもしれないの?」
「まだ分からない。」
ローズが静かに答えた。
「でも、何もしないよりはいい。」
ひまわりは何度も頷く。
「うん!」
「行こう!」
その素直さに思わず笑ってしまう。
森へ来てから何度も助けられてきた笑顔だった。
朝食は昨日採っておいた木の実と果実だけで済ませる。
決して満腹にはならない。
それでも三人で分け合えば、不思議と寂しさは感じなかった。
食べ終えると、俺はいつものように荷物を整理する。
水を入れた果皮。
乾いた苔。
木の実。
尖った石。
蔦。
必要な物を取り出しやすいよう並べ替え、重さが偏らないよう結び直す。
「また並べてる。」
ひまわりが覗き込む。
「癖なんだ。」
「本当にきれい。」
「そんなに違うか?」
「全然違うよ。」
ひまわりは笑いながら自分の袋を見る。
中身は見事なくらいごちゃごちゃだった。
「まず重い物を下。」
俺は袋を受け取りながら言う。
「よく使う物は上。」
「歩いてる時に崩れないよう隙間を埋める。」
「なるほど……。」
ひまわりは真剣な顔で頷いている。
その様子を見ていたローズが、小さく口を開いた。
「運び屋って、そんなことまで考えるの。」
「積み方一つで疲れ方が変わる。」
「荷物も壊れる。」
「最後まで届けるなら、最初の積み方が大事なんだ。」
ローズは少しだけ目を伏せる。
「最後まで……。」
その言葉を繰り返すように呟いた。
やがて静かに立ち上がる。
「行きましょう。」
三人は野営地を後にした。
今日目指すのは森の外周。
昨日まで歩いていた森の奥ではなく、ローズが「外側」と呼ぶ方向だった。
歩き始めてしばらくは、景色に大きな変化はない。
背丈ほどの草。
太い根。
巨大な木々。
どれも見慣れた森だった。
しかし一時間ほど歩くと、少しずつ違和感を覚え始める。
木々の間隔が広くなっていた。
頭上を覆っていた枝葉も減り、青空が見える範囲が増えていく。
「少し景色が違う。」
俺が呟くと、ローズも頷いた。
「森が薄くなってきてる。」
「近いのか?」
「たぶん。」
またその言葉だった。
それでも今回は、俺にも何となく分かった。
風が違う。
森の奥にあった湿った空気ではない。
どこか乾いた風が吹いている。
土も少しだけ色が変わっていた。
黒く湿った土ではなく、茶色く乾いた地面が増えている。
「外って、どんな所なんだろう。」
ひまわりが楽しそうに呟く。
「人がたくさんいる。」
俺は歩きながら答えた。
「車が走って、建物があって、夜でも明るい。」
「夜なのに明るいの?」
「街ならな。」
「すごい……。」
ひまわりは目を輝かせる。
「私も見てみたい。」
「出られたら案内してやる。」
「本当?」
「ああ。」
「約束?」
「約束だ。」
その言葉に、ひまわりは子どものように笑った。
「オリマーのお家も見てみたい。」
「普通の家だぞ。」
「普通って見たことないもん。」
返事に少し困る。
俺にとっては当たり前だった景色が、彼女にとっては未知の世界なのだ。
「オリマーは、お家に帰ったら何したい?」
その問いに、俺は迷わず答えた。
「母さんに会う。」
少しだけ間を置く。
「瑠衣にも。」
妹の顔が浮かぶ。
今頃どうしているだろう。
警察へ届け出ているかもしれない。
仕事も途中のままだ。
心配ばかり掛けている。
帰らなければならない理由なら、いくらでもあった。
「きっと心配してるね。」
ひまわりがぽつりと呟く。
「ああ。」
短く答える。
だから帰る。
絶対に。
それだけは変わらなかった。
その様子をローズは何も言わず見ていた。
何か考えているようだったが、結局口を開くことはない。
歩き続けることさらに一時間。
前方が急に明るくなった。
木々が途切れ始めている。
風も強くなった。
「近い。」
ローズが小さく呟く。
「森の端か?」
「……分からない。」
少しだけ声が硬い。
期待しているのは俺だけではないらしい。
三人は自然と歩く速度を速めた。
背丈ほどあった草をかき分ける。
最後の一本と思われる大木の横を抜けた、その瞬間。
俺たちは思わず足を止めた。
目の前には、白い霧が壁のように広がっていた。
その先は何一つ見えない。
空も。
地面も。
景色の全てが白く塗り潰されている。
森は確かに終わっている。
だが、その先へ進む道だけが、白い霧によって完全に閉ざされていた。
俺は静かに息を呑んだ。
白い霧は、まるで壁だった。
風は吹いている。
草も揺れている。
それなのに、霧だけはそこに張り付くように動かない。
俺はゆっくり手を伸ばした。
指先が霧へ触れる。
冷たい。
だが、水滴が付くような感覚ではない。
空気そのものが冷えているような、不思議な感触だった。
「普通の霧じゃないわ。」
ローズが静かに呟く。
「分かるのか?」
「……うまく言えない。」
ローズは霧を見つめたまま首を振る。
「嫌な感じがする。」
その表情は硬かった。
昨日まで見せていた警戒とは少し違う。
未知のものを前にした時の警戒だった。
「戻った方がいいかな?」
ひまわりが少し不安そうに尋ねる。
俺は霧の向こうを見据える。
何も見えない。
それでも、この先に森の外があるかもしれない。
そう思うと、ここで引き返す気にはなれなかった。
「少しだけ入ってみよう。」
ローズがこちらを見る。
「危険かもしれない。」
「だから三人で行く。」
「離れない。」
「何かあったらすぐ戻る。」
俺の言葉に、ローズは少し考え込んだ。
やがて小さく頷く。
「……分かった。」
「でも絶対に離れないで。」
「約束する。」
ひまわりも真剣な顔で頷いた。
「うん。」
三人は横一列になり、ゆっくりと霧の中へ足を踏み入れる。
一歩。
また一歩。
足元は固い土のままだ。
歩きにくさはない。
しかし数歩進んだだけで、後ろにあった森がぼやけ始めた。
「もう見えない。」
ひまわりが後ろを振り返る。
そこには白い霧しかなかった。
俺も振り返る。
さっきまで立っていた木々は、輪郭だけを残して消えかけている。
「前だけ見て歩こう。」
俺はそう言って歩き続けた。
霧の中は驚くほど静かだった。
鳥の声が聞こえない。
虫の羽音もしない。
風の音まで遠くなっている。
聞こえるのは、自分たちの足音だけだった。
ザッ。
ザッ。
湿った土を踏む音だけが一定の間隔で続く。
「……静か。」
ひまわりが小さく呟く。
「森じゃないみたい。」
確かにそうだった。
さっきまで感じていた森の気配が消えている。
ここだけ別の世界へ入り込んだような感覚だった。
時間の感覚も曖昧になる。
十分ほど歩いただろうか。
いや、もっと短いかもしれない。
霧の中では距離も時間も分からない。
時計があったとしても、きっと信用できなかっただろう。
「オリマー。」
ローズが声を掛ける。
「どうした?」
「歩き始めてから、景色が変わってない。」
言われて前を見る。
確かにそうだ。
白い霧。
白い地面。
白い空気。
目印になるものが何一つない。
歩いているのに、進んでいる実感だけがなかった。
「少し速く歩いてみる。」
俺は歩幅を広げた。
二人も合わせてくる。
それでも何も変わらない。
霧は相変わらず白いまま。
どこまで行っても景色が同じだった。
「止まって。」
ローズが声を上げる。
三人は足を止めた。
「どうした?」
「聞こえる。」
耳を澄ませる。
最初は何も聞こえなかった。
しかし数秒後。
カサッ。
どこかで葉が擦れるような音がした。
俺たちは同時に振り返る。
誰もいない。
前を見る。
何もいない。
左右も同じだった。
「気のせい?」
ひまわりが不安そうに呟く。
ローズは首を横へ振った。
「……分からない。」
「でも。」
「早く抜けたい。」
その言葉には珍しく焦りが滲んでいた。
俺も同じ気持ちだった。
この場所には長くいてはいけない。
理由は説明できない。
本能がそう告げている。
「行こう。」
再び歩き出す。
歩く。
歩く。
歩き続ける。
やがて前方の霧が少しずつ薄くなり始めた。
「見えてきた!」
ひまわりが嬉しそうに声を上げる。
俺も自然と足が速くなる。
出口だ。
そう思った。
霧を抜ける。
視界が一気に開ける。
思わず笑みが浮かびかけた、その瞬間だった。
「……え。」
ひまわりの声が震える。
俺も言葉を失った。
目の前には一本の大木が立っていた。
その根元には、小さな石が三つ並んでいる。
俺が霧へ入る前、
目印として置いた石だった。
「そんな……。」
振り返る。
そこには、今抜けてきたばかりの白い霧。
そして目の前には、さっきまで立っていた森の入り口。
俺たちは。
元の場所へ戻っていた。
誰もすぐには言葉を発しなかった。
俺は目の前の大木へ近付き、根元へしゃがみ込む。
並べた石は三つ。
置いた向きまで同じだった。
間違いない。
さっき霧へ入る前、自分で目印として置いた石だ。
「……戻ってる。」
小さく呟く。
認めたくはなかった。
だが、現実は変わらない。
俺たちは確かに歩き続けた。
途中で立ち止まった時間を入れても三十分以上は霧の中にいたはずだ。
それなのに、戻ってきた場所は出発地点だった。
「そんなこと……あるの。」
ひまわりも信じられないという顔で周囲を見回す。
「迷った?」
俺は首を横へ振る。
「一本道だった。」
「曲がってもいない。」
「戻る理由がない。」
まして途中で目印になるものなど何一つなかった。
迷う以前の問題だった。
ローズは霧をじっと見つめている。
その横顔は普段よりも硬い。
「もう一回。」
突然そう言った。
「試す。」
俺も頷く。
一度だけでは偶然かもしれない。
確かめる必要があった。
今度は木へ蔦を結び付け、その反対側を俺の腰へ巻く。
「それなら戻れる?」
ひまわりが尋ねる。
「少なくとも方向は分かる。」
蔦を軽く引っ張る。
しっかり固定されている。
「行こう。」
三人は再び霧の中へ足を踏み入れた。
今度は蔦を頼りに真っ直ぐ歩く。
俺は何度も後ろを確認した。
蔦はちゃんと伸びている。
途中で切れた様子もない。
十歩。
二十歩。
三十歩。
蔦はまだ続いていた。
「大丈夫そう。」
ひまわりが少し安心したように笑う。
その時だった。
ピン、と乾いた音が響く。
腰へ巻いた蔦から急に張力が消えた。
振り返る。
蔦は白い霧の中へ吸い込まれるように消えていた。
「切れた?」
俺は慌てて引き寄せる。
しかし戻ってきた蔦の先端は、刃物で切ったように真っ直ぐだった。
「そんな馬鹿な……。」
木へ結んだはずの反対側だけが消えている。
切れたのではない。
途中から存在そのものがなくなっていた。
ローズが険しい表情になる。
「もう戻ろう。」
「危ない。」
俺も異論はなかった。
この霧は普通ではない。
人間の常識で考えてはいけない。
三人は来た方向へ歩き始める。
すると数分もしないうちに霧は薄くなり、再び森が姿を現した。
そして目の前には、さっきと同じ大木。
根元には三つの石。
蔦も木へ結ばれたまま残っていた。
ただし、俺の手にある蔦だけが途中からなくなっている。
「……。」
誰も口を開かなかった。
偶然ではない。
この霧は何かおかしい。
それだけは三人とも理解していた。
しばらく沈黙が続く。
やがて俺は静かに息を吐いた。
「徒歩じゃ無理か。」
森の端までは辿り着けた。
だが、その先へ進めない。
出口は目の前にあるようで、決して届かない場所にあった。
希望が見えたと思った直後に突き落とされたような感覚だった。
「ごめん。」
思わず口から出る。
「無駄足だった。」
ひまわりは慌てて首を横へ振った。
「そんなことないよ。」
「試さなきゃ分からなかったもん。」
ローズも小さく頷く。
「……うん。」
「やってみたから分かった。」
「何もしないよりずっといい。」
その言葉に少しだけ救われる。
結果は失敗だった。
それでも、一つだけ分かったことがある。
この森は、簡単には外へ出られない。
ならば別の方法を探すしかない。
俺は白い霧を見つめた。
静かな霧だった。
まるで何事もなかったかのように、そこに在り続けている。
その姿が、妙に不気味だった。
白い霧を背に、三人は近くの倒木へ腰を下ろした。
誰もすぐには口を開かなかった。
出口は確かに目の前にある。
それなのに、どれだけ歩いても辿り着けない。
その事実を受け入れるには、少し時間が必要だった。
ひまわりは膝を抱え、小石を指先で転がしている。
普段なら何か話しかけてくる彼女も、今は黙ったままだ。
ローズは白い霧をじっと見つめていた。
その表情には、困惑が浮かんでいる。
俺は静かに息を吐いた。
「参ったな……。」
誰に言うでもなく呟く。
「こんな方法で出口を塞がれるなんて思わなかった。」
霧は何事もなかったかのように揺れている。
そこに悪意があるようには見えない。
だが、確かに俺たちを森の外へ出そうとはしていなかった。
沈黙が続く。
やがて、ローズが小さく口を開いた。
「……一つだけ。」
俺は顔を上げる。
「知ってることがある。」
「知ってる?」
ローズは小さく頷いた。
「この霧をどうにかできるかもしれない場所。」
その言葉に、俺とひまわりは同時に顔を見合わせた。
「そんな場所があるのか。」
「……ある。」
少しだけ言葉を探すように間が空く。
「紫霧の森。」
初めて聞く名前だった。
「そこには。」
「霧を操る花があるって。」
「本当か?」
ローズは静かに首を横へ振る。
「分からない。」
「見たこともない。」
「本当にあるのかも知らない。」
「でも。」
「そういう場所があるって、私は知ってる。」
俺は首を傾げた。
「誰から聞いた?」
ローズは困ったような顔になる。
しばらく考え込んだあと、小さく答えた。
「……分からない。」
「分からない?」
「どうして知ってるのか。」
「誰に聞いたのか。」
「何も思い出せない。」
ローズは自分でも不思議そうに首を傾げた。
「でも、知ってる。」
「そういうことが、ときどきある。」
その言葉に、ひまわりも「あっ」と小さく声を上げる。
「私もあるよ。」
俺とローズがひまわりを見る。
「知らないはずなのに、知ってること。」
「どうしてか分からないけど、頭に浮かぶの。」
ローズは静かに頷いた。
「……私も。」
「だから。」
「きっと間違いじゃないと思う。」
俺は二人の顔を見比べた。
説明はつかない。
だが、この森へ来てから説明できることの方が少ない。
だったら今は、その言葉を信じるしかなかった。
「その紫霧の森は、ここから遠いのか。」
ローズは近くの枝を拾い、地面へ一本の線を引く。
「ここが今。」
そこから枝をゆっくり滑らせる。
「この先に。」
「灼熱花道。」
さらに線を伸ばす。
「その先が、水鏡湿原。」
そして、一番奥へ小さな丸を描いた。
「紫霧の森。」
「そこまで行けばいいんだな。」
「……うん。」
「そこへ行けば、何か分かるかもしれない。」
確証はない。
保証もない。
だが、ここで立ち止まっていても何も変わらない。
俺は描かれた地図を見つめながら、小さく息を吐いた。
「なら。」
「そこを目指そう。」
ローズがゆっくり顔を上げる。
「いいの?」
「他に方法がない。」
「出口があるなら探す。」
「それだけだ。」
ひまわりも勢いよく立ち上がった。
「私も行く!」
「三人なら大丈夫!」
その言葉に思わず笑みがこぼれる。
本当に大丈夫かは分からない。
だが、一人で歩くより心強いのは確かだった。
ローズは白い霧を一度だけ振り返る。
そして静かに前を向いた。
「行きましょう。」
「まずは。」
「灼熱花道へ。」
三人は霧の前を離れ、来た道をゆっくりと歩き始めた。
先ほどまで抱いていた「もうすぐ森を抜けられる」という期待は、白い霧の向こうへ置き去りになってしまったようだった。
誰もすぐには口を開かない。
聞こえるのは草を踏む音だけだった。
しばらく歩いたところで、ひまわりが静かに呟く。
「なんだか悔しいね。」
俺は苦笑する。
「そうだな。」
「出口は見えてるのに。」
「届かないなんて。」
その言葉にローズも小さく頷いた。
「あの霧は、昔からある。」
「私も近付いたことはある。」
「でも、中へ入ったのは今日が初めて。」
「そうだったのか。」
「……怖かったから。」
珍しく弱音のような言葉だった。
ローズにも知らないものがある。
万能ではない。
だからこそ、その言葉には妙な説得力があった。
俺は少し歩幅を緩める。
「紫霧の森まで行けば、本当に何か分かると思うか?」
ローズは少しだけ考え込んだ。
「分からない。」
「でも。」
「他に方法も知らない。」
その答えは正直だった。
期待だけを口にしない。
分からないことは分からないと言う。
それがローズらしかった。
「だったら。」
俺は前を向く。
「そこまで行こう。」
「何もせず諦めるよりはいい。」
ローズは静かに俺を見る。
「……うん。」
その返事は短かったが、どこか安心したようにも聞こえた。
ひまわりは両手を胸の前で握る。
「私も頑張る!」
「今度は熱い場所なんだよね?」
「そう。」
ローズが答える。
「灼熱花道。」
「名前の通り。」
「暑い。」
「暑いだけ?」
「……たぶん。」
俺は思わず笑ってしまう。
「その"たぶん"は信用していいのか?」
「今回は信用しなくていい。」
真顔で返される。
そのやり取りに、ひまわりが吹き出した。
「ローズも冗談言うんだ。」
「言ってない。」
「本当。」
淡々と返すローズを見ていると、本当に冗談ではないらしい。
少しだけ張り詰めていた空気が和らいだ。
そのまま三人は歩き続ける。
やがて景色が少しずつ変わり始めた。
最初に気付いたのは風だった。
森の奥で吹いていた湿った風とは違う。
乾いた風が頬を撫でる。
どこか熱を含んだ空気だった。
「なんか暑くなってきた。」
ひまわりが額の汗を拭う。
俺も同じことを感じていた。
まだ真昼だからという暑さではない。
森そのものの空気が変わっている。
足元を見る。
黒かった土が、少しずつ赤茶色へ変わっていた。
岩も増えている。
地面から伸びる草も、どこか乾いた色合いをしていた。
「景色が変わってきたな。」
俺が呟く。
ローズは小さく頷いた。
「もう近い。」
前方には赤い花が咲いていた。
今まで見てきた花とは違う。
花弁は炎のように細く、風が吹くたび揺らめいて見える。
一本ではない。
群生している。
森全体が、少しずつ赤へ染まり始めていた。
ひまわりは足を止め、その景色を見つめる。
「きれい……。」
その声には素直な感動が滲んでいた。
だがローズの表情は変わらない。
静かに、その赤い花畑を見つめている。
「ここから先。」
小さく呟く。
「灼熱花道。」
その名前を口にした瞬間。
熱を帯びた風が三人の間を吹き抜けた。
まるで新しい土地が、静かに訪問者を迎え入れるようだった。
三人はゆっくりと赤く染まり始めた森へ足を踏み入れた。
一歩進むたびに空気が変わっていく。
頬を撫でる風は熱を帯び、呼吸をするだけで肺の奥まで温まるようだった。
「暑い……。」
ひまわりが額の汗を拭う。
歩き始めてまだ数分しか経っていない。
それでも身体にはじんわりと汗が滲んできていた。
俺も上着の襟元を少し緩める。
真夏の炎天下とは違う。
地面そのものが熱を持っているような暑さだった。
「まだ入口よ。」
先頭を歩くローズが振り返る。
その額には汗一つ浮かんでいない。
「これで入口なのか。」
「うん。」
「奥へ行くほど暑くなる。」
さらりと言われても困る。
これ以上気温が上がるとなれば、体力の消耗はかなり早くなるだろう。
俺は周囲へ視線を向ける。
木々は今までより背が低く、幹は黒く焼けたような色をしていた。
足元には赤や橙色の花が咲き誇り、風が吹くたび炎が揺らめくように見える。
岩肌も赤茶色へ変わり、小さな亀裂からは白い湯気が細く立ち上っていた。
「地面から湯気が出てる。」
ひまわりがしゃがみ込み、不思議そうに眺める。
「触るな。」
ローズがすぐに声を掛けた。
「熱い。」
ひまわりは慌てて手を引っ込める。
「危なかった……。」
ローズは亀裂へ近付き、小さな石を落とした。
石は底へ落ちる前に、ジュッという音を立てる。
「水があるのか?」
俺が尋ねる。
「熱い泥。」
「踏むと火傷する。」
俺は思わず足元を見る。
今までの森とは危険の種類が違う。
敵だけを警戒していればいいわけではない。
地面そのものが牙を剥いている。
「歩く場所は私が決める。」
ローズが真っ直ぐ前を向く。
「私の後ろを歩いて。」
「分かった。」
この場所では、ローズの判断を信じるしかない。
しばらく歩くと、小さな岩場へ辿り着く。
そこだけは風がよく通り、少しだけ涼しかった。
「ここで休憩。」
ローズが腰を下ろす。
俺とひまわりもその場へ座り込んだ。
「はぁ……。」
ひまわりが大きく息を吐く。
「こんなに歩いただけなのに疲れた。」
「暑さのせいだ。」
俺も額の汗を拭う。
水を少しだけ口に含む。
冷たくはない。
それでも乾いた喉には十分だった。
その様子を見ていたローズが、小さく笑う。
「やっぱり。」
「何がだ?」
「人間は暑さに弱い。」
「否定はできないな。」
俺が苦笑すると、ひまわりも笑い出した。
「ローズは平気なの?」
「平気。」
即答だった。
「昔から?」
その問い掛けに、ローズは少しだけ首を傾げる。
「……分からない。」
「気付いた時には平気だった。」
「だから理由は知らない。」
そう言って、自分の手を見つめる。
「でも。」
「この場所は嫌いじゃない。」
その言葉には不思議な安心感があった。
灼熱花道。
俺たちには過酷な土地でも、ローズにとっては歩き慣れた場所なのかもしれない。
頼もしい。
そんな言葉が自然と浮かぶ。
この森へ来てから、何度ローズに助けられただろう。
チャッピーとの戦い。
雷鳴の丘。
そして今も。
もし一人だったら、とっくに森のどこかで倒れていたに違いない。
「ありがとう。」
気付けば口にしていた。
ローズは少し驚いたようにこちらを見る。
「急にどうしたの。」
「いや。」
「改めて思っただけだ。」
「俺一人じゃ、ここまで来られなかった。」
ローズは照れくさそうに視線を逸らす。
「……別に。」
「一人じゃないんだから。」
短い返事だった。
それでも、その声はどこか柔らかかった。
熱風が赤い花を揺らす。
その向こうには、まだ見ぬ灼熱花道がどこまでも続いていた。
三人は立ち上がる。
森から脱出するための旅は、ここからさらに過酷になろうとしていた。