星野アクアのリザルトを   作:二次創作からしか得られない栄養で生きてる


原作:推しの子
タグ:R-15 クロスオーバー 閻魔ちゃんのリザルト 推しの子 クロスオーバー 独自解釈
「冥土の土産に、何でも一つ教えてやろう」

これは、星野アクアの人生のリザルト。

1 / 1
答え合わせ

寒い、と思った。次に、重い、と思った。海水が肺に入る感覚。喉が焼ける感覚。神木ヒカルの指が、俺の腕に食い込む感覚。

沈む。

沈む。

沈む。

夜の海は、黒かった。あいつの目も黒かった。俺の右目に宿った星も、きっと黒かった。俺は最後まで、最低の役を演じ切った。

星野アクア。

復讐者。母を奪われた息子。妹を守るために、自分の命を道具にした馬鹿。

それでいい。そう思ったはずだった。

……なのに。

 

「……死にたく、なかったな」

 

最後に漏れた本音。誰にも聞かれないと思っていた。

神木ヒカルに聞かれたところで、どうでもよかった。

海に沈んで、泡になって、消えるだけの言葉。そのはずだった。

なのに。

 

「うむうむ。そりゃそうじゃろ。十七じゃしな」

 

知らない、声がした。

 

「……は?」

 

俺は目を開けた。そこは海じゃなかった。中央の部屋を挟むようにして配置された二つの扉。

左側には神殿の衣装を思わせる白く荘厳な扉。対照的に、右側には頃く重々しい扉が鎮座している。

中央の部屋には事務所にあるようなデスクと本棚、キッチン。

死後の世界、という言葉から想像するものとはだいぶ違う。

地獄の釜。血の池。裁判台。

そんなものはない。

ひと際目につくのは、やけに可愛らしい少女。

その少女が、俺の前のデスクに肘をついていた。

華やかな衣装。人間離れした雰囲気。

でも、威圧感はない。

むしろ、妹のようにコンビニで新作スイーツを語っていそうな顔。

 

「ようこそ、死後のリザルト会場へ。ワシが閻魔大王じゃ」

「……閻魔大王?」

「うむ。もっと親しみを込めて、閻魔ちゃんと呼んでもよいぞ」

「呼ばない」

「即答かい」

 

少女――閻魔ちゃんは、頬を膨らませた。

俺は自分の体を見下ろす。服は濡れていない。傷もない。腹に刺した感覚も消えている。痛みがない。

それが、逆に気持ち悪かった。

 

「俺は死んだのか」

「死んだ」

「神木ヒカルは」

「死んだ」

「……そうか」

 

息を吐く。肺が動く。死んでいるのに。妙な感覚だ。

 

「確認が早いのう。普通はもっと取り乱すぞ。『ここはどこだ』『夢か』『まだ死にたくない』とか」

「死ぬ前提で動いたからな」

「それにしては、最後の言葉はずいぶん素直じゃったが?」

 

心臓が、ないはずなのに跳ねた。

俺は目を細める。

 

「聞いてたのか」

「死後管理者じゃからな。ラストログくらい見る」

「趣味が悪い」

「職務じゃ。あと、今の悪態、ちょっと安心したぞ。死んですぐ優等生ぶるやつはだいたい後で崩れる」

「経験則か」

「経験則じゃ」

 

閻魔ちゃんは、デスクの引き出しを開けた。

そこから取り出されたのは、一冊の本。

分厚い。茶色く、閻魔大王の、閻という字がでかでかと書いてある表紙。

一見すると何の変哲もない、ただの本。

しかし、この少女が本を持つと得も言われぬ凄みがあった。

 

「……それが閻魔帳か」

「うむ」

 

閻魔ちゃんは本を胸元に抱えた。

 

「ただし、注意事項じゃ」

「何だ」

「死者に、この中身そのものを見せることはできん」

「見せられない?」

「そうじゃ。閻魔帳は記録そのものじゃからな。下手に見せると、知ってはいけないものまで見えてしまう。本人の人生であっても、全部を覗く権利があるわけではない」

「自分の人生なのに?」

「自分の人生だからこそ、じゃ」

 

閻魔ちゃんは軽く笑った。

でも、その笑顔は先ほどからのやり取りより少しだけ真面目だった。

 

「人間は、自分の人生を都合よく忘れる。都合よく歪める。都合よく責める。都合よく美化する。だからこそ、全部をそのまま突きつけるのは危険なんじゃよ」

「……なるほどな」

「ワシが読んで、必要な部分だけ伝える。それがここのルールじゃ」

「ずいぶん不便なシステムだな」

「不便なくらいがちょうどよい。死後の世界でまで、ネタバレ全開は情緒がないじゃろ」

「情緒の問題かよ」

「規約と情緒は大事じゃ」

 

閻魔ちゃんは本を開いた。

俺からは見えない角度。

ページがめくられる。紙の擦れる音だけが、やけに大きく響いた。

 

「星野愛久愛海。旧名、雨宮吾郎。享年十七。前世を含む特殊記録あり。死亡回数、二回」

「……悪趣味な履歴書だな」

「おぬしの場合、記録がちょっと複雑なんじゃ。転生者は欄外注記が多い」

「そっちの都合は知らない」

「ワシもおぬしの復讐計画の面倒さは知らんかったぞ。お互い様じゃな」

 

軽い。あまりにも軽い。

人が死んだ後の場所で。

俺が二度目の人生まで使って、あれだけ血反吐を吐いてたどり着いた終点で。

この少女は、まるで昼休みの雑談みたいに話す。だからこそ、腹が立たなかった。

重く扱われたら、たぶん耐えられなかった。哀れまれたら、きっと噛みついていた。正しいことを言われたら、俺は壊れていた。

軽さは、逃げ道だった。

閻魔ちゃんは、ぱらぱらと閻魔帳をめくる。

俺は反射的に覗こうとした。

 

「こら」

 

本がぱたんと閉じかける。

 

「見るでない」

「見てない」

「見ようとした」

「職業病だ」

「死者に職業病も何もあるか」

「あるだろ。元医者で、元役者で、殺人者だ」

「肩書きが渋滞しておるのう」

 

閻魔ちゃんは本を自分の方へ引き寄せた。

俺の視界から文字を隠すように。

 

「で、俺は裁かれるのか」

「裁き、というほど偉そうなものではない。おぬしの人生を確認して、次へ進むだけじゃ」

「地獄行きか?」

「それを今すぐ知りたいか?」

「……いや」

「じゃろうな」

 

閻魔ちゃんは、にっと笑った。

 

「ここでは、死者にひとつだけ教えることができる」

「ひとつ?」

「生前の記録から、何でもひとつ。おぬしが知りたいことを、ワシが答える。冥土の土産、というやつじゃ」

「その本を見せるんじゃなくて?」

「見せん。ワシが読む。そして、伝える」

「都合よく改竄できるな」

「閻魔大王を何だと思っておる」

「可愛い詐欺師」

「褒め言葉として受け取っておくぞ」

「褒めてない」

 

死んだ人間が最後に知りたいこと。

それは多分、人生の成績表だ。

自分は愛されていたのか。自分の行動に意味はあったのか。あの選択は正しかったのか。残した人は泣いたのか。笑ったのか。許したのか。

くだらない。

そう切り捨てるのは簡単だった。でも、俺の喉は動かなかった。知りたいことが多すぎたからだ。

ルビーは、生きられるのか。

有馬は、立ち上がれるのか。

あかねは、自分を責めないか。

ミヤコさんは、また家族を失って壊れないか。

苺プロは。

B小町は。

俺が壊したものは。

俺が残した傷は。

そして。

アイは、俺を許すのか。

その全部を、俺は知りたかった。でも、ひとつだけ。そう言われると、選べない。

 

「未来は?」

「教えられん」

「だろうな」

「正確には、生前の記録にない。死後に誰がどう生きるかは、その者たちの選択じゃ。ワシが見せてよいものではない」

「便利な全知じゃないんだな」

「全知にも規約があるのじゃ。役所っぽいじゃろ、ここ」

「最悪だな」

「じゃろ?」

 

閻魔ちゃんは笑った。

俺は閻魔帳を見る。

茶色い表紙。開かれた紙の端。

俺には見えない文字。ただ、そこに俺の人生が書かれている。

そう思うだけで、気分が悪くなった。

嘘をついた回数。他人を利用した回数。自分の感情を偽った回数。助けを求めなかった回数。

たぶん、そういうものが書かれている。

見えていないのに、わかる。

 

「……やめろ」

 

気づいたら、声が出ていた。

閻魔ちゃんの指が止まる。

 

「何をじゃ?」

「それだ。読むな」

「まだ大きな項目しか見ておらんぞ」

「見なくてもわかる」

 

俺は奥歯を噛んだ。

 

「俺の人生なんて、記録にしたら最悪だろ」

「そうかのう」

「そうだろ。人を騙した。利用した。傷つけた。妹に嘘をついた。母親の死を、復讐の理由にし続けた。最後は父親を殺すために自分を刺して、海に引きずり込んだ」

「うむ」

「医者だったのに」

 

その言葉だけ、喉に引っかかった。

医者。雨宮吾郎。患者を救う側だった男。

命を奪わないために学び、命を繋ぐために働き、誰かの人生の続きを望んでいた人間。

それが。最後は殺した。自分も殺した。

 

「俺は、失敗作だ」

 

言ってしまえば、楽になると思った。

でも、ならなかった。

むしろ胸の奥が軋む。死んだのに。

まだ痛い。

 

「失敗作、とな」

「そうだ」

「誰が?」

「……は?」

「誰が失敗作なんじゃ?」

 

閻魔ちゃんは首を傾げた。

 

「医者としてか? 息子としてか? 兄としてか? 役者としてか? 復讐者としてか? それとも、星野アクアという人間としてか?」

「全部だ」

「雑じゃのう」

「雑?」

「おぬし、自分を責めるときだけ妙に大雑把になるな」

 

言葉が刺さった。

俺は黙る。

閻魔ちゃんは、デスクに頬杖をついた。

 

「人を利用した、と言ったな」

「ああ」

「誰を?」

「……有馬かな。黒川あかね。MEMちょ。監督。いろんな人間を」

「ふむ。では、利用された本人たちは、おぬしをどう見ていた?」

「それは――」

 

言いかけて、止まる。

知っている。知らないふりをしていただけで。

有馬は、俺を見ていた。まっすぐに。腹が立つほど眩しく。

あかねは、俺の闇を覗き込んだ。そのうえで、隣に立とうとした。危険なほど賢く、危険なほど優しく。

ルビーは、俺を兄として見ていた。最後には、もっと違うものも重なっていたかもしれない。前世の因縁。救われなかった少女の祈り。

俺はその全部から逃げた。

守るという名目で。未来を残すという言い訳で。

 

「……あいつらは馬鹿だからな」

「おぬしがそう思いたいだけじゃろ」

「違う」

「違わんよ」

 

閻魔ちゃんの声は、軽いままだった。

なのに逃げられない。

 

「おぬしは、自分が愛されたという事実を受け取るのが下手すぎる」

「……」

「愛される資格がないと思っておる」

「あるわけないだろ」

「なぜ?」

「俺はアイを救えなかった」

 

即答だった。考えるより先に出た。

それが全部だった。

俺の根っこ。俺の黒い星。俺の人生を縛った鎖。

 

「目の前で死んだ。俺は医者だった。なのに何もできなかった。脈も、出血も、全部わかった。助からないって、誰よりも早く理解した。子供の体で、何もできずに見ていた」

 

声が震えた。嫌になる。

死んでまでこれか。

 

「俺は二回目の人生をもらったのに、また大切な人を失った。だったら俺の人生は、最初から罰だったんだよ」

「罰か」

「そうだ」

「では、おぬしは罰を完遂したのか?」

「……神木を殺した」

「それで?」

「ルビーたちの未来を守った」

「それで?」

「俺はいなくなった」

「それで?」

「……それで、終わりだ」

「本当に?」

 

閻魔ちゃんの目が、少しだけ細くなる。可愛い顔のまま。

でも、そこにあるのは審判者の目だった。

俺の嘘を見抜く目。

 

「おぬし、最後に『死にたくなかった』と言ったな」

「……」

「それは、罰を終えた者の言葉ではないぞ」

 

息が詰まった。

 

「おぬしは死を選んだ。だが、死にたかったわけではない」

「同じだろ」

「違う」

「結果は同じだ」

「リザルトとプロセスは違う」

 

閻魔ちゃんが閻魔帳の表紙を、こん、と軽く叩く。

 

「ここはリザルトを見る場所じゃ。いや、正確には、リザルトをワシが読み上げる場所じゃな。だが、結果だけでは人生は語れん。どうしてそうなったか。どこで迷ったか。何を切り捨てたか。何を切り捨てられなかったか。それも全部、記録には残る」

「綺麗事だな」

「綺麗事は嫌いか?」

「嫌いだ」

「では、汚い事実を言おう」

 

閻魔ちゃんは笑みを消した。

 

「おぬしは、自分の死で他人を縛った」

 

胸を殴られた気がした。

 

「妹を人殺しの妹にしないため。大切な者たちの未来を守るため。そうじゃな。だが、おぬしの死は、おぬしを愛した者たちに喪失を残した。彼らは泣く。怒る。自分を責める。おぬしが思っているより長く、深く」

「……わかってる」

「本当に?」

「わかってる」

「では、なぜ『いつか乗り越える』で済ませた?」

 

言い返せなかった。

そうだ。俺は信じた。

ルビーなら。有馬なら。あかねなら。

いつか乗り越える。

それは信頼だった。でも同時に、押し付けだった。

俺がいなくなった後の痛みを、あいつらに背負わせるということ。

 

「……他に方法がなかった」

「本当に?」

「少なくとも、俺には見えなかった」

「それなら、その言い方が正しい」

 

閻魔ちゃんは、静かに言った。

 

「『他に方法がなかった』ではなく、『自分には見つけられなかった』じゃ」

 

俺は唇を噛んだ。

それは、あまりに痛い訂正だった。俺は完璧に計算したつもりだった。誰よりも冷静に、最善手を選んだつもりだった。

でも、本当は違う。

見つけられなかっただけ。

助けを求める方法を。自分が生き残る未来を。誰かに背負わせる勇気を。

俺はずっと、ひとりで決めていた。

ひとりで抱えて。ひとりで沈んだ。

 

「……じゃあ、俺は間違ってたのか」

 

声がかすれた。

 

「俺は、間違ったのか」

「それをワシが決めると思うか?」

「閻魔大王だろ」

「だからこそ、簡単には決めん」

 

閻魔ちゃんは閻魔帳を閉じた。

ぱたん、という音が妙に響いた。

 

「おぬしの選択は、誰かを守った。これは事実じゃ」

「……」

「同時に、誰かを傷つけた。これも事実じゃ」

「……」

「善か悪かで切れば簡単じゃ。だが人間の人生は、そんなに親切にできておらん」

「なら、何のためのリザルトだ」

「納得するためじゃ」

「俺が?」

「おぬしが」

「できるわけない」

「なら、できないままでもよい」

 

閻魔ちゃんはあっさり言った。

 

「死んだからといって、全部わかる必要はない。許される必要も、許す必要もない。ただ、次へ進む前に、自分が何をしたのかを、少しだけ正面から見る。それだけじゃ」

「……悪趣味なカウンセリングだな」

「人気サービスじゃぞ」

「クレームも多そうだ」

「泣きながら感謝されることも多い」

「それはクレーム処理に成功しただけだ」

「口の減らん死者じゃ」

 

閻魔ちゃんはまた笑った。

その笑顔に、少し救われる。腹立たしいくらいに。

 

「さて、星野アクア」

「何だ」

「質問を選べ」

 

来た。ひとつだけ。

俺の人生から、ひとつだけ知ることができる。

未来は無理。なら、生前の記録。

俺が本当に知りたいこと。

ルビーが俺をどう思っていたか。

有馬の最後の表情。

あかねが俺の計画にどこまで気づいていたか。

アイが俺を愛していたか。

いや。

アイの愛は、もう知っている。

嘘だらけだったとしても。

あの最期の言葉だけは、嘘じゃなかった。

信じたい。信じるしかない。

なら、俺は何を知りたい?

俺の死に意味があったか。

違う。

意味なんて、残された人間が決める。

俺が知りたいのは。

 

「……俺は」

 

声が出ない。

馬鹿みたいだ。死んだ後まで、怖い。

もし答えが最悪だったら。

俺の人生が本当に誰も救っていなかったら。

俺がただ傷だけを残した存在だったら。

それを知って、俺は次へ進めるのか。

進めない気がした。

でも。

知らないまま逃げるのは、もっと嫌だった。

 

「俺は、誰かを救えたのか」

 

やっと言った。

 

「俺の人生で……俺は、誰かを本当に救えたのか」

 

閻魔ちゃんは、少しだけ目を丸くした。

そして、柔らかく笑った。

 

「よい質問じゃ」

「そうか?」

「うむ。おぬしらしい」

「嫌味か」

「褒めておる」

 

閻魔ちゃんは閻魔帳を開き直した。

今度は、さっきより丁寧に。指で行を追うように。

もちろん、俺には見せない。

紙がめくられるたび、胸の奥がざわつく。

俺の人生を、俺ではない誰かが読んでいる。

変な感じだ。

不快で。怖くて。でも、少しだけ安心する。

俺自身の記憶は、いつも俺を責める方向にしか働かなかったから。

 

「まず前提を言うぞ」

「何だ」

「この問いへの答えは、単純な丸かバツではない」

「だろうな」

「おぬしは誰かを救った。同時に、誰かを傷つけた。どちらか片方だけを取り出して、人生の総評にはできん」

「……わかってる」

「本当に?」

「たぶん」

「たぶんでよい」

 

閻魔ちゃんは本に目を落とした。

 

「では、答える」

 

俺は息を止めた。

 

「おぬしは、救えておる」

 

その一言で、視界が揺れた。

 

「……嘘だろ」

「閻魔帳は嘘をつかん」

「お前が読み間違えた可能性は」

「ない」

「俺が誰を」

「質問はひとつじゃが、説明は必要じゃな」

 

閻魔ちゃんは、ページを指で押さえたまま言った。

 

「まず、雨宮吾郎として。医者として、おぬしは命を救っておる。仕事だから、とおぬしは言うじゃろうが、仕事で救った命も救った命じゃ」

「……仕事だ」

「うむ。だが、その仕事で泣かずに済んだ者がいる。生まれることができた命がある。」

 

どこまでも優しい口調だった。

 

「絶望の淵から少しだけ戻れた者がいる」

 

白い病院の廊下を思い出した。

消毒液の匂い。夜勤明けの重いまぶた。患者の不安そうな顔。産声。

忘れていたわけじゃない。

でも、復讐に沈んでからは、思い出す資格がないと思っていた。

 

「次に、星野アクアとして」

 

閻魔ちゃんはさらにページをめくる。

 

「妹の生活を支えた。幼い頃から、ずっとな」

「家族なら普通だ」

「普通を継続するのは、偉業じゃぞ」

「大げさだ」

「大げさではない。日常というのは、壊れた人間には一番難しい」

 

言い返せなかった。

アイが死んだ後、家の中は、どこか空白だらけだった。

ルビーは泣いていた。俺も壊れていた。ミヤコさんも必死だった。

その中で、飯を作った。学校の準備をした。くだらない会話をした。冷めたふりをして、隣にいた。

普通。

俺はそう呼んでいた。

でも、本当は。普通であり続けるために、かなり無理をしていた。

 

「それから」

 

 閻魔ちゃんは、少しだけ声を和らげた。

 

「光を失いかけた役者を、舞台へ戻した」

「利用しただけだ」

「利用された本人が、それでも前へ進めたなら、記録には救済として残る」

「……」

「おぬしは、自分の行動の動機ばかりを見ておる。だが、受け取った側に何が起きたかも、事実じゃ」

 

有馬かなの顔が浮かぶ。

うるさい。面倒くさい。すぐ怒る。すぐ傷つく。

それでも、ステージの上では眩しい。

俺はあいつを利用した。

これは変わらない。

でも。

あいつがもう一度、自分の光を信じるきっかけに、俺が少しでもなっていたなら。

それは。

俺が勝手に否定していいものじゃないのかもしれない。

 

「それから、橋の夜」

 

俺の呼吸が止まった。

閻魔ちゃんは本から目を上げない。

 

「一人の少女が、決定的な一線を越える前に、おぬしは手を伸ばした」

「あれは……俺じゃなくても、誰かが」

「その場にいたのはおぬしじゃ」

 

短い言葉。

逃げ道を塞ぐ言葉。

 

「それも、救いじゃ」

「……」

「認めるのがそんなに嫌か?」

「嫌だ」

「なぜ?」

「認めたら、俺がまともな人間だったみたいになる」

「まともではなかったぞ」

「おい」

「だが、まともでない者が誰かを救うことはある」

 

閻魔ちゃんは、あっさりと言った。

 

「人間の善性は、清潔な場所にだけ生えるものではない。泥の中にも生える。血の中にも生える。嘘の中にも、たまに生える」

「嫌な言い方だな」

「おぬし向けに調整した」

「最悪だ」

「効いておるじゃろ?」

 

否定できなかった。

閻魔ちゃんは、さらにページをめくった。

 

「そして、直接ではない救いもある」

「間接的な影響か」

「そうじゃ。おぬしが関わった作品、発言、選択、立ち振る舞い。それらを見た誰かが、少しだけ踏みとどまった記録がある」

「そんなの、偶然だろ」

「人間の救いは、だいたい偶然の顔をして来る」

「都合が良すぎる」

「事実じゃ」

 

閻魔ちゃんは本を閉じかけて、少し考え、もう一度開いた。

でも、やはり俺には見せない。

 

「数字もあるが、全部を伝える必要はないな」

「なぜ」

「おぬし、数字を聞いたら今度はその数字に縋るじゃろ。あるいは、少ないと自分を責める。多いと疑う。どちらにせよ面倒じゃ」

「……否定できない」

「じゃから、必要な事実だけ伝える」

 

閻魔ちゃんは俺の目を見た。

 

「おぬしの人生で、救われた者はいる」

「……」

「おぬしが自覚していないところにも、いる」

「……」

「おぬしが救えなかった者もいる」

「……」

「その両方が、おぬしの人生じゃ」

 

俺は黙った。

胸の奥が、ぐちゃぐちゃだった。

救えた。

その言葉が嬉しいのか。苦しいのか。

わからない。

たぶん、両方だ。

 

「おぬしは、自分が救ったものをほとんど見ておらん」

 

閻魔ちゃんは静かに言った。

 

「救えなかったものだけを数え続けた」

「救えなかったものの方が重い」

「そうじゃな」

 

あっさり肯定されて、逆に詰まる。

 

「救えなかった命は重い。失った人は戻らん。アイは戻らん。おぬしが死なせたと思っている過去も、消えん」

「……」

「だが、救えたものが軽くなるわけでもない」

 

その言葉が、胸に落ちた。重い石みたいに。

でも、冷たくはない。

俺は目元を押さえた。

涙が出ているのかはわからない。死者にも涙腺があるのか。どうでもいい。

 

「……俺は、アイに会えるのか」

 

質問はもう使った。

だからこれは、独り言みたいなものだった。

閻魔ちゃんは少し困った顔をした。

 

「それは今は答えられん」

「だろうな」

「じゃが」

「何だ」

「おぬしが次へ進むとき、誰かの愛を持っていくことはできる」

「記憶は?」

「それも規約次第じゃ」

「また役所か」

「死後も書類社会じゃ」

 

俺は小さく笑った。

本当に、最悪の世界観だ。

でも、少しだけ楽だった。

 

「星野愛久愛海」

 

閻魔ちゃんが俺を呼ぶ。

 

「いや。雨宮吾郎でもある者よ」

「……何だよ」

「おぬしのリザルトは、満点ではない」

「わかってる」

「ひどい減点もある」

「だろうな」

「だが、ゼロ点でもない」

 

彼女は閻魔帳を静かに閉じた。

ぱたん。

その音が、やけに優しかった。

 

「おぬしは、自分の人生を罰だと思っていた。だが、罰だけでできた人生ではなかった」

「……」

「そこには、愛があった。怒りがあった。嘘があった。演技があった。救いがあった。失敗があった。未練があった」

「未練だらけだ」

「それでよい」

「いいのかよ」

「未練があるということは、本気で生きたということじゃ」

 

閻魔ちゃんは、いつもの軽い笑顔に戻った。

 

「空っぽなら、悔やみもしない」

 

俺は目を伏せた。

空っぽ。そうなろうとしていた。復讐だけの器に。黒い星だけの存在に。

誰も傷つけないために、誰にも届かない場所へ。

でも俺は、空っぽにはなれなかった。

だから苦しかった。だから迷った。

だから、最後に、生きたいと言った。

俺はずっと、自分の弱さだと思っていた。

でももしかしたら。

それは、まだ人間でいるための最後の線だったのかもしれない。

 

「……閻魔ちゃん」

「お、呼んだ」

「一回だけだ」

「録音したいのう」

「するな」

「冗談じゃ」

 

俺は息を吐く。

 

「俺の人生は、悪くなかったのか」

 

閻魔ちゃんはすぐには答えなかった。

少し考えて、それから言った。

 

「それはワシが決めることではない」

「またそれか」

「じゃが、おぬしがいつかそう思える余地はある」

「いつか?」

「次でも、その次でも。あるいは、どこか別の場所でも」

「曖昧だな」

「希望とはだいたい曖昧なものじゃ」

「嫌いだ」

「知っておる」

 

閻魔ちゃんは立ち上がった。

気が付いたら、扉への道が出来ていた。

扉の向こう側から淡い光が漏れている。

 

「時間じゃ」

「もうか」

「転生待ちは混むんじゃ」

「最後まで役所だな」

「整理券がないだけ優しいじゃろ」

 

俺は扉を見る。

怖い。また生まれるのか。何も覚えていないのか。

今度こそ普通に生きられるのか。また失うのか。

わからない。

でも、海の底よりはいい。黒い水の中で沈み続けるよりは。

 

「なあ」

「何じゃ?」

「俺がいなくなった後、あいつらは……」

 

言いかけて止める。未来は聞けない。

それに、聞いたところで俺は戻れない。

だから言い換える。

 

「俺は、あいつらに何か残せたのか」

「質問はもう使ったぞ」

「わかってる」

「なら、答えではなく、感想を言おう」

 

閻魔ちゃんは少しだけ笑った。

 

「おぬしが思うより、人は弱い。だが、おぬしが思うより、人は強い」

「……」

「そして、おぬしが思うより、おぬしは愛されていた」

 

反則だろ。それは記録じゃないのか。

感想なのか。境界が酷く曖昧でずるい。

でも、もう噛みつく気力はなかった。

 

「そうか」

「うむ」

「……そうか」

 

俺は扉へ歩く。

一歩。また一歩。

体が軽い。でも、胸の奥は重いまま。

それでいいのかもしれない。全部を置いていくなんて、できない。

アイの死も。

俺の罪も。

ルビーの笑顔も。

有馬の声も。

あかねの涙も。

全部、俺だった。星野アクアという人生だった。

雨宮吾郎から続いた、どうしようもなく歪で、不器用で、間違いだらけの人生。

でも、誰かを救った人生。

その事実だけは、持っていってもいい気がした。

 

「星野愛久愛海」

 

背中に声がかかる。

振り返る。

閻魔ちゃんが手を振っていた。

 

「次はもう少し、自分も救うんじゃぞ」

 

俺は答えに迷った。

約束はできない。軽々しく頷けない。

俺はそういう人間だった。

だから、正直に言った。

 

「努力はする」

「上出来じゃ」

 

閻魔ちゃんは満足そうに笑った。

俺は扉に手をかける。最後に、ほんの少しだけ目を閉じた。

アイ。

ルビー。

有馬。

あかね。

ミヤコさん。

みんな。

ごめん。ありがとう。

そして、生きたかった。

その本音を、今度は罰にしない。

扉を開ける。光が満ちる。

俺の右目にあった星が、最後に一度だけ瞬いた気がした。

黒ではない。

深く、鮮やかな。アクアマリンブルー。

俺はその光の中へ、歩き出した。


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