これは、星野アクアの人生のリザルト。
寒い、と思った。次に、重い、と思った。海水が肺に入る感覚。喉が焼ける感覚。神木ヒカルの指が、俺の腕に食い込む感覚。
沈む。
沈む。
沈む。
夜の海は、黒かった。あいつの目も黒かった。俺の右目に宿った星も、きっと黒かった。俺は最後まで、最低の役を演じ切った。
星野アクア。
復讐者。母を奪われた息子。妹を守るために、自分の命を道具にした馬鹿。
それでいい。そう思ったはずだった。
……なのに。
「……死にたく、なかったな」
最後に漏れた本音。誰にも聞かれないと思っていた。
神木ヒカルに聞かれたところで、どうでもよかった。
海に沈んで、泡になって、消えるだけの言葉。そのはずだった。
なのに。
「うむうむ。そりゃそうじゃろ。十七じゃしな」
知らない、声がした。
「……は?」
俺は目を開けた。そこは海じゃなかった。中央の部屋を挟むようにして配置された二つの扉。
左側には神殿の衣装を思わせる白く荘厳な扉。対照的に、右側には頃く重々しい扉が鎮座している。
中央の部屋には事務所にあるようなデスクと本棚、キッチン。
死後の世界、という言葉から想像するものとはだいぶ違う。
地獄の釜。血の池。裁判台。
そんなものはない。
ひと際目につくのは、やけに可愛らしい少女。
その少女が、俺の前のデスクに肘をついていた。
華やかな衣装。人間離れした雰囲気。
でも、威圧感はない。
むしろ、妹のようにコンビニで新作スイーツを語っていそうな顔。
「ようこそ、死後のリザルト会場へ。ワシが閻魔大王じゃ」
「……閻魔大王?」
「うむ。もっと親しみを込めて、閻魔ちゃんと呼んでもよいぞ」
「呼ばない」
「即答かい」
少女――閻魔ちゃんは、頬を膨らませた。
俺は自分の体を見下ろす。服は濡れていない。傷もない。腹に刺した感覚も消えている。痛みがない。
それが、逆に気持ち悪かった。
「俺は死んだのか」
「死んだ」
「神木ヒカルは」
「死んだ」
「……そうか」
息を吐く。肺が動く。死んでいるのに。妙な感覚だ。
「確認が早いのう。普通はもっと取り乱すぞ。『ここはどこだ』『夢か』『まだ死にたくない』とか」
「死ぬ前提で動いたからな」
「それにしては、最後の言葉はずいぶん素直じゃったが?」
心臓が、ないはずなのに跳ねた。
俺は目を細める。
「聞いてたのか」
「死後管理者じゃからな。ラストログくらい見る」
「趣味が悪い」
「職務じゃ。あと、今の悪態、ちょっと安心したぞ。死んですぐ優等生ぶるやつはだいたい後で崩れる」
「経験則か」
「経験則じゃ」
閻魔ちゃんは、デスクの引き出しを開けた。
そこから取り出されたのは、一冊の本。
分厚い。茶色く、閻魔大王の、閻という字がでかでかと書いてある表紙。
一見すると何の変哲もない、ただの本。
しかし、この少女が本を持つと得も言われぬ凄みがあった。
「……それが閻魔帳か」
「うむ」
閻魔ちゃんは本を胸元に抱えた。
「ただし、注意事項じゃ」
「何だ」
「死者に、この中身そのものを見せることはできん」
「見せられない?」
「そうじゃ。閻魔帳は記録そのものじゃからな。下手に見せると、知ってはいけないものまで見えてしまう。本人の人生であっても、全部を覗く権利があるわけではない」
「自分の人生なのに?」
「自分の人生だからこそ、じゃ」
閻魔ちゃんは軽く笑った。
でも、その笑顔は先ほどからのやり取りより少しだけ真面目だった。
「人間は、自分の人生を都合よく忘れる。都合よく歪める。都合よく責める。都合よく美化する。だからこそ、全部をそのまま突きつけるのは危険なんじゃよ」
「……なるほどな」
「ワシが読んで、必要な部分だけ伝える。それがここのルールじゃ」
「ずいぶん不便なシステムだな」
「不便なくらいがちょうどよい。死後の世界でまで、ネタバレ全開は情緒がないじゃろ」
「情緒の問題かよ」
「規約と情緒は大事じゃ」
閻魔ちゃんは本を開いた。
俺からは見えない角度。
ページがめくられる。紙の擦れる音だけが、やけに大きく響いた。
「星野愛久愛海。旧名、雨宮吾郎。享年十七。前世を含む特殊記録あり。死亡回数、二回」
「……悪趣味な履歴書だな」
「おぬしの場合、記録がちょっと複雑なんじゃ。転生者は欄外注記が多い」
「そっちの都合は知らない」
「ワシもおぬしの復讐計画の面倒さは知らんかったぞ。お互い様じゃな」
軽い。あまりにも軽い。
人が死んだ後の場所で。
俺が二度目の人生まで使って、あれだけ血反吐を吐いてたどり着いた終点で。
この少女は、まるで昼休みの雑談みたいに話す。だからこそ、腹が立たなかった。
重く扱われたら、たぶん耐えられなかった。哀れまれたら、きっと噛みついていた。正しいことを言われたら、俺は壊れていた。
軽さは、逃げ道だった。
閻魔ちゃんは、ぱらぱらと閻魔帳をめくる。
俺は反射的に覗こうとした。
「こら」
本がぱたんと閉じかける。
「見るでない」
「見てない」
「見ようとした」
「職業病だ」
「死者に職業病も何もあるか」
「あるだろ。元医者で、元役者で、殺人者だ」
「肩書きが渋滞しておるのう」
閻魔ちゃんは本を自分の方へ引き寄せた。
俺の視界から文字を隠すように。
「で、俺は裁かれるのか」
「裁き、というほど偉そうなものではない。おぬしの人生を確認して、次へ進むだけじゃ」
「地獄行きか?」
「それを今すぐ知りたいか?」
「……いや」
「じゃろうな」
閻魔ちゃんは、にっと笑った。
「ここでは、死者にひとつだけ教えることができる」
「ひとつ?」
「生前の記録から、何でもひとつ。おぬしが知りたいことを、ワシが答える。冥土の土産、というやつじゃ」
「その本を見せるんじゃなくて?」
「見せん。ワシが読む。そして、伝える」
「都合よく改竄できるな」
「閻魔大王を何だと思っておる」
「可愛い詐欺師」
「褒め言葉として受け取っておくぞ」
「褒めてない」
死んだ人間が最後に知りたいこと。
それは多分、人生の成績表だ。
自分は愛されていたのか。自分の行動に意味はあったのか。あの選択は正しかったのか。残した人は泣いたのか。笑ったのか。許したのか。
くだらない。
そう切り捨てるのは簡単だった。でも、俺の喉は動かなかった。知りたいことが多すぎたからだ。
ルビーは、生きられるのか。
有馬は、立ち上がれるのか。
あかねは、自分を責めないか。
ミヤコさんは、また家族を失って壊れないか。
苺プロは。
B小町は。
俺が壊したものは。
俺が残した傷は。
そして。
アイは、俺を許すのか。
その全部を、俺は知りたかった。でも、ひとつだけ。そう言われると、選べない。
「未来は?」
「教えられん」
「だろうな」
「正確には、生前の記録にない。死後に誰がどう生きるかは、その者たちの選択じゃ。ワシが見せてよいものではない」
「便利な全知じゃないんだな」
「全知にも規約があるのじゃ。役所っぽいじゃろ、ここ」
「最悪だな」
「じゃろ?」
閻魔ちゃんは笑った。
俺は閻魔帳を見る。
茶色い表紙。開かれた紙の端。
俺には見えない文字。ただ、そこに俺の人生が書かれている。
そう思うだけで、気分が悪くなった。
嘘をついた回数。他人を利用した回数。自分の感情を偽った回数。助けを求めなかった回数。
たぶん、そういうものが書かれている。
見えていないのに、わかる。
「……やめろ」
気づいたら、声が出ていた。
閻魔ちゃんの指が止まる。
「何をじゃ?」
「それだ。読むな」
「まだ大きな項目しか見ておらんぞ」
「見なくてもわかる」
俺は奥歯を噛んだ。
「俺の人生なんて、記録にしたら最悪だろ」
「そうかのう」
「そうだろ。人を騙した。利用した。傷つけた。妹に嘘をついた。母親の死を、復讐の理由にし続けた。最後は父親を殺すために自分を刺して、海に引きずり込んだ」
「うむ」
「医者だったのに」
その言葉だけ、喉に引っかかった。
医者。雨宮吾郎。患者を救う側だった男。
命を奪わないために学び、命を繋ぐために働き、誰かの人生の続きを望んでいた人間。
それが。最後は殺した。自分も殺した。
「俺は、失敗作だ」
言ってしまえば、楽になると思った。
でも、ならなかった。
むしろ胸の奥が軋む。死んだのに。
まだ痛い。
「失敗作、とな」
「そうだ」
「誰が?」
「……は?」
「誰が失敗作なんじゃ?」
閻魔ちゃんは首を傾げた。
「医者としてか? 息子としてか? 兄としてか? 役者としてか? 復讐者としてか? それとも、星野アクアという人間としてか?」
「全部だ」
「雑じゃのう」
「雑?」
「おぬし、自分を責めるときだけ妙に大雑把になるな」
言葉が刺さった。
俺は黙る。
閻魔ちゃんは、デスクに頬杖をついた。
「人を利用した、と言ったな」
「ああ」
「誰を?」
「……有馬かな。黒川あかね。MEMちょ。監督。いろんな人間を」
「ふむ。では、利用された本人たちは、おぬしをどう見ていた?」
「それは――」
言いかけて、止まる。
知っている。知らないふりをしていただけで。
有馬は、俺を見ていた。まっすぐに。腹が立つほど眩しく。
あかねは、俺の闇を覗き込んだ。そのうえで、隣に立とうとした。危険なほど賢く、危険なほど優しく。
ルビーは、俺を兄として見ていた。最後には、もっと違うものも重なっていたかもしれない。前世の因縁。救われなかった少女の祈り。
俺はその全部から逃げた。
守るという名目で。未来を残すという言い訳で。
「……あいつらは馬鹿だからな」
「おぬしがそう思いたいだけじゃろ」
「違う」
「違わんよ」
閻魔ちゃんの声は、軽いままだった。
なのに逃げられない。
「おぬしは、自分が愛されたという事実を受け取るのが下手すぎる」
「……」
「愛される資格がないと思っておる」
「あるわけないだろ」
「なぜ?」
「俺はアイを救えなかった」
即答だった。考えるより先に出た。
それが全部だった。
俺の根っこ。俺の黒い星。俺の人生を縛った鎖。
「目の前で死んだ。俺は医者だった。なのに何もできなかった。脈も、出血も、全部わかった。助からないって、誰よりも早く理解した。子供の体で、何もできずに見ていた」
声が震えた。嫌になる。
死んでまでこれか。
「俺は二回目の人生をもらったのに、また大切な人を失った。だったら俺の人生は、最初から罰だったんだよ」
「罰か」
「そうだ」
「では、おぬしは罰を完遂したのか?」
「……神木を殺した」
「それで?」
「ルビーたちの未来を守った」
「それで?」
「俺はいなくなった」
「それで?」
「……それで、終わりだ」
「本当に?」
閻魔ちゃんの目が、少しだけ細くなる。可愛い顔のまま。
でも、そこにあるのは審判者の目だった。
俺の嘘を見抜く目。
「おぬし、最後に『死にたくなかった』と言ったな」
「……」
「それは、罰を終えた者の言葉ではないぞ」
息が詰まった。
「おぬしは死を選んだ。だが、死にたかったわけではない」
「同じだろ」
「違う」
「結果は同じだ」
「リザルトとプロセスは違う」
閻魔ちゃんが閻魔帳の表紙を、こん、と軽く叩く。
「ここはリザルトを見る場所じゃ。いや、正確には、リザルトをワシが読み上げる場所じゃな。だが、結果だけでは人生は語れん。どうしてそうなったか。どこで迷ったか。何を切り捨てたか。何を切り捨てられなかったか。それも全部、記録には残る」
「綺麗事だな」
「綺麗事は嫌いか?」
「嫌いだ」
「では、汚い事実を言おう」
閻魔ちゃんは笑みを消した。
「おぬしは、自分の死で他人を縛った」
胸を殴られた気がした。
「妹を人殺しの妹にしないため。大切な者たちの未来を守るため。そうじゃな。だが、おぬしの死は、おぬしを愛した者たちに喪失を残した。彼らは泣く。怒る。自分を責める。おぬしが思っているより長く、深く」
「……わかってる」
「本当に?」
「わかってる」
「では、なぜ『いつか乗り越える』で済ませた?」
言い返せなかった。
そうだ。俺は信じた。
ルビーなら。有馬なら。あかねなら。
いつか乗り越える。
それは信頼だった。でも同時に、押し付けだった。
俺がいなくなった後の痛みを、あいつらに背負わせるということ。
「……他に方法がなかった」
「本当に?」
「少なくとも、俺には見えなかった」
「それなら、その言い方が正しい」
閻魔ちゃんは、静かに言った。
「『他に方法がなかった』ではなく、『自分には見つけられなかった』じゃ」
俺は唇を噛んだ。
それは、あまりに痛い訂正だった。俺は完璧に計算したつもりだった。誰よりも冷静に、最善手を選んだつもりだった。
でも、本当は違う。
見つけられなかっただけ。
助けを求める方法を。自分が生き残る未来を。誰かに背負わせる勇気を。
俺はずっと、ひとりで決めていた。
ひとりで抱えて。ひとりで沈んだ。
「……じゃあ、俺は間違ってたのか」
声がかすれた。
「俺は、間違ったのか」
「それをワシが決めると思うか?」
「閻魔大王だろ」
「だからこそ、簡単には決めん」
閻魔ちゃんは閻魔帳を閉じた。
ぱたん、という音が妙に響いた。
「おぬしの選択は、誰かを守った。これは事実じゃ」
「……」
「同時に、誰かを傷つけた。これも事実じゃ」
「……」
「善か悪かで切れば簡単じゃ。だが人間の人生は、そんなに親切にできておらん」
「なら、何のためのリザルトだ」
「納得するためじゃ」
「俺が?」
「おぬしが」
「できるわけない」
「なら、できないままでもよい」
閻魔ちゃんはあっさり言った。
「死んだからといって、全部わかる必要はない。許される必要も、許す必要もない。ただ、次へ進む前に、自分が何をしたのかを、少しだけ正面から見る。それだけじゃ」
「……悪趣味なカウンセリングだな」
「人気サービスじゃぞ」
「クレームも多そうだ」
「泣きながら感謝されることも多い」
「それはクレーム処理に成功しただけだ」
「口の減らん死者じゃ」
閻魔ちゃんはまた笑った。
その笑顔に、少し救われる。腹立たしいくらいに。
「さて、星野アクア」
「何だ」
「質問を選べ」
来た。ひとつだけ。
俺の人生から、ひとつだけ知ることができる。
未来は無理。なら、生前の記録。
俺が本当に知りたいこと。
ルビーが俺をどう思っていたか。
有馬の最後の表情。
あかねが俺の計画にどこまで気づいていたか。
アイが俺を愛していたか。
いや。
アイの愛は、もう知っている。
嘘だらけだったとしても。
あの最期の言葉だけは、嘘じゃなかった。
信じたい。信じるしかない。
なら、俺は何を知りたい?
俺の死に意味があったか。
違う。
意味なんて、残された人間が決める。
俺が知りたいのは。
「……俺は」
声が出ない。
馬鹿みたいだ。死んだ後まで、怖い。
もし答えが最悪だったら。
俺の人生が本当に誰も救っていなかったら。
俺がただ傷だけを残した存在だったら。
それを知って、俺は次へ進めるのか。
進めない気がした。
でも。
知らないまま逃げるのは、もっと嫌だった。
「俺は、誰かを救えたのか」
やっと言った。
「俺の人生で……俺は、誰かを本当に救えたのか」
閻魔ちゃんは、少しだけ目を丸くした。
そして、柔らかく笑った。
「よい質問じゃ」
「そうか?」
「うむ。おぬしらしい」
「嫌味か」
「褒めておる」
閻魔ちゃんは閻魔帳を開き直した。
今度は、さっきより丁寧に。指で行を追うように。
もちろん、俺には見せない。
紙がめくられるたび、胸の奥がざわつく。
俺の人生を、俺ではない誰かが読んでいる。
変な感じだ。
不快で。怖くて。でも、少しだけ安心する。
俺自身の記憶は、いつも俺を責める方向にしか働かなかったから。
「まず前提を言うぞ」
「何だ」
「この問いへの答えは、単純な丸かバツではない」
「だろうな」
「おぬしは誰かを救った。同時に、誰かを傷つけた。どちらか片方だけを取り出して、人生の総評にはできん」
「……わかってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんでよい」
閻魔ちゃんは本に目を落とした。
「では、答える」
俺は息を止めた。
「おぬしは、救えておる」
その一言で、視界が揺れた。
「……嘘だろ」
「閻魔帳は嘘をつかん」
「お前が読み間違えた可能性は」
「ない」
「俺が誰を」
「質問はひとつじゃが、説明は必要じゃな」
閻魔ちゃんは、ページを指で押さえたまま言った。
「まず、雨宮吾郎として。医者として、おぬしは命を救っておる。仕事だから、とおぬしは言うじゃろうが、仕事で救った命も救った命じゃ」
「……仕事だ」
「うむ。だが、その仕事で泣かずに済んだ者がいる。生まれることができた命がある。」
どこまでも優しい口調だった。
「絶望の淵から少しだけ戻れた者がいる」
白い病院の廊下を思い出した。
消毒液の匂い。夜勤明けの重いまぶた。患者の不安そうな顔。産声。
忘れていたわけじゃない。
でも、復讐に沈んでからは、思い出す資格がないと思っていた。
「次に、星野アクアとして」
閻魔ちゃんはさらにページをめくる。
「妹の生活を支えた。幼い頃から、ずっとな」
「家族なら普通だ」
「普通を継続するのは、偉業じゃぞ」
「大げさだ」
「大げさではない。日常というのは、壊れた人間には一番難しい」
言い返せなかった。
アイが死んだ後、家の中は、どこか空白だらけだった。
ルビーは泣いていた。俺も壊れていた。ミヤコさんも必死だった。
その中で、飯を作った。学校の準備をした。くだらない会話をした。冷めたふりをして、隣にいた。
普通。
俺はそう呼んでいた。
でも、本当は。普通であり続けるために、かなり無理をしていた。
「それから」
閻魔ちゃんは、少しだけ声を和らげた。
「光を失いかけた役者を、舞台へ戻した」
「利用しただけだ」
「利用された本人が、それでも前へ進めたなら、記録には救済として残る」
「……」
「おぬしは、自分の行動の動機ばかりを見ておる。だが、受け取った側に何が起きたかも、事実じゃ」
有馬かなの顔が浮かぶ。
うるさい。面倒くさい。すぐ怒る。すぐ傷つく。
それでも、ステージの上では眩しい。
俺はあいつを利用した。
これは変わらない。
でも。
あいつがもう一度、自分の光を信じるきっかけに、俺が少しでもなっていたなら。
それは。
俺が勝手に否定していいものじゃないのかもしれない。
「それから、橋の夜」
俺の呼吸が止まった。
閻魔ちゃんは本から目を上げない。
「一人の少女が、決定的な一線を越える前に、おぬしは手を伸ばした」
「あれは……俺じゃなくても、誰かが」
「その場にいたのはおぬしじゃ」
短い言葉。
逃げ道を塞ぐ言葉。
「それも、救いじゃ」
「……」
「認めるのがそんなに嫌か?」
「嫌だ」
「なぜ?」
「認めたら、俺がまともな人間だったみたいになる」
「まともではなかったぞ」
「おい」
「だが、まともでない者が誰かを救うことはある」
閻魔ちゃんは、あっさりと言った。
「人間の善性は、清潔な場所にだけ生えるものではない。泥の中にも生える。血の中にも生える。嘘の中にも、たまに生える」
「嫌な言い方だな」
「おぬし向けに調整した」
「最悪だ」
「効いておるじゃろ?」
否定できなかった。
閻魔ちゃんは、さらにページをめくった。
「そして、直接ではない救いもある」
「間接的な影響か」
「そうじゃ。おぬしが関わった作品、発言、選択、立ち振る舞い。それらを見た誰かが、少しだけ踏みとどまった記録がある」
「そんなの、偶然だろ」
「人間の救いは、だいたい偶然の顔をして来る」
「都合が良すぎる」
「事実じゃ」
閻魔ちゃんは本を閉じかけて、少し考え、もう一度開いた。
でも、やはり俺には見せない。
「数字もあるが、全部を伝える必要はないな」
「なぜ」
「おぬし、数字を聞いたら今度はその数字に縋るじゃろ。あるいは、少ないと自分を責める。多いと疑う。どちらにせよ面倒じゃ」
「……否定できない」
「じゃから、必要な事実だけ伝える」
閻魔ちゃんは俺の目を見た。
「おぬしの人生で、救われた者はいる」
「……」
「おぬしが自覚していないところにも、いる」
「……」
「おぬしが救えなかった者もいる」
「……」
「その両方が、おぬしの人生じゃ」
俺は黙った。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃだった。
救えた。
その言葉が嬉しいのか。苦しいのか。
わからない。
たぶん、両方だ。
「おぬしは、自分が救ったものをほとんど見ておらん」
閻魔ちゃんは静かに言った。
「救えなかったものだけを数え続けた」
「救えなかったものの方が重い」
「そうじゃな」
あっさり肯定されて、逆に詰まる。
「救えなかった命は重い。失った人は戻らん。アイは戻らん。おぬしが死なせたと思っている過去も、消えん」
「……」
「だが、救えたものが軽くなるわけでもない」
その言葉が、胸に落ちた。重い石みたいに。
でも、冷たくはない。
俺は目元を押さえた。
涙が出ているのかはわからない。死者にも涙腺があるのか。どうでもいい。
「……俺は、アイに会えるのか」
質問はもう使った。
だからこれは、独り言みたいなものだった。
閻魔ちゃんは少し困った顔をした。
「それは今は答えられん」
「だろうな」
「じゃが」
「何だ」
「おぬしが次へ進むとき、誰かの愛を持っていくことはできる」
「記憶は?」
「それも規約次第じゃ」
「また役所か」
「死後も書類社会じゃ」
俺は小さく笑った。
本当に、最悪の世界観だ。
でも、少しだけ楽だった。
「星野愛久愛海」
閻魔ちゃんが俺を呼ぶ。
「いや。雨宮吾郎でもある者よ」
「……何だよ」
「おぬしのリザルトは、満点ではない」
「わかってる」
「ひどい減点もある」
「だろうな」
「だが、ゼロ点でもない」
彼女は閻魔帳を静かに閉じた。
ぱたん。
その音が、やけに優しかった。
「おぬしは、自分の人生を罰だと思っていた。だが、罰だけでできた人生ではなかった」
「……」
「そこには、愛があった。怒りがあった。嘘があった。演技があった。救いがあった。失敗があった。未練があった」
「未練だらけだ」
「それでよい」
「いいのかよ」
「未練があるということは、本気で生きたということじゃ」
閻魔ちゃんは、いつもの軽い笑顔に戻った。
「空っぽなら、悔やみもしない」
俺は目を伏せた。
空っぽ。そうなろうとしていた。復讐だけの器に。黒い星だけの存在に。
誰も傷つけないために、誰にも届かない場所へ。
でも俺は、空っぽにはなれなかった。
だから苦しかった。だから迷った。
だから、最後に、生きたいと言った。
俺はずっと、自分の弱さだと思っていた。
でももしかしたら。
それは、まだ人間でいるための最後の線だったのかもしれない。
「……閻魔ちゃん」
「お、呼んだ」
「一回だけだ」
「録音したいのう」
「するな」
「冗談じゃ」
俺は息を吐く。
「俺の人生は、悪くなかったのか」
閻魔ちゃんはすぐには答えなかった。
少し考えて、それから言った。
「それはワシが決めることではない」
「またそれか」
「じゃが、おぬしがいつかそう思える余地はある」
「いつか?」
「次でも、その次でも。あるいは、どこか別の場所でも」
「曖昧だな」
「希望とはだいたい曖昧なものじゃ」
「嫌いだ」
「知っておる」
閻魔ちゃんは立ち上がった。
気が付いたら、扉への道が出来ていた。
扉の向こう側から淡い光が漏れている。
「時間じゃ」
「もうか」
「転生待ちは混むんじゃ」
「最後まで役所だな」
「整理券がないだけ優しいじゃろ」
俺は扉を見る。
怖い。また生まれるのか。何も覚えていないのか。
今度こそ普通に生きられるのか。また失うのか。
わからない。
でも、海の底よりはいい。黒い水の中で沈み続けるよりは。
「なあ」
「何じゃ?」
「俺がいなくなった後、あいつらは……」
言いかけて止める。未来は聞けない。
それに、聞いたところで俺は戻れない。
だから言い換える。
「俺は、あいつらに何か残せたのか」
「質問はもう使ったぞ」
「わかってる」
「なら、答えではなく、感想を言おう」
閻魔ちゃんは少しだけ笑った。
「おぬしが思うより、人は弱い。だが、おぬしが思うより、人は強い」
「……」
「そして、おぬしが思うより、おぬしは愛されていた」
反則だろ。それは記録じゃないのか。
感想なのか。境界が酷く曖昧でずるい。
でも、もう噛みつく気力はなかった。
「そうか」
「うむ」
「……そうか」
俺は扉へ歩く。
一歩。また一歩。
体が軽い。でも、胸の奥は重いまま。
それでいいのかもしれない。全部を置いていくなんて、できない。
アイの死も。
俺の罪も。
ルビーの笑顔も。
有馬の声も。
あかねの涙も。
全部、俺だった。星野アクアという人生だった。
雨宮吾郎から続いた、どうしようもなく歪で、不器用で、間違いだらけの人生。
でも、誰かを救った人生。
その事実だけは、持っていってもいい気がした。
「星野愛久愛海」
背中に声がかかる。
振り返る。
閻魔ちゃんが手を振っていた。
「次はもう少し、自分も救うんじゃぞ」
俺は答えに迷った。
約束はできない。軽々しく頷けない。
俺はそういう人間だった。
だから、正直に言った。
「努力はする」
「上出来じゃ」
閻魔ちゃんは満足そうに笑った。
俺は扉に手をかける。最後に、ほんの少しだけ目を閉じた。
アイ。
ルビー。
有馬。
あかね。
ミヤコさん。
みんな。
ごめん。ありがとう。
そして、生きたかった。
その本音を、今度は罰にしない。
扉を開ける。光が満ちる。
俺の右目にあった星が、最後に一度だけ瞬いた気がした。
黒ではない。
深く、鮮やかな。アクアマリンブルー。
俺はその光の中へ、歩き出した。