ヨハネ四姉妹の黙示録   作:深紫Sιn姉

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路地裏の夜想曲(ノクターン)

 時刻は十八時。

 夕暮れ時の東京は、オレンジ色から次第に濁った鉛色へと、空のグラデーションを鈍と変えていく。

 

「あー……最悪だ」

 

 今日の任務は、控えめに言ってクソだった。

 都内の雑居ビルに巣食っていた、巨大なヘドロ状の悪魔の討伐。

 狐の悪魔を呼ぶまでもなく俺の拳骨だけで片付けはしたものの、とにかく匂いがキツいし、クリーニング代は嵩むし、何より特別手当がスズメの涙ほどしか出ないという圧倒的なコスパの悪さ。

 

「腹減ったな……。帰ってスーパーの半額弁当でも漁るか。いや、十八時じゃあまだ値引きシールは貼られてない時間帯か。定価で弁当を買うなんて、資本主義に対する敗北だしなあ……?」

 

 俺がそんな小市民的な絶望と節約術の狭間で葛藤していると、隣でよれよれのトレンチコートを着た男が、おもむろにチタン製のスキットルを傾けた。

 

「……行くぞ」

 

 俺の上司であり、公安最強のデビルハンター。

 ——岸辺隊長。

 

 相変わらず、悪魔の死骸の前だろうが路地裏だろうがお構いなしにアルコールを摂取し続けるその肝臓は、すでに人間の規格を外れている。

 

「行くって、一体どこへ? まさか特異課に戻って残業とか言わないですよね。俺、もうヘトヘトで——」

「肉だ」

「えっ」

 

 肉。

 その魅惑的な二文字が岸辺隊長の口から放たれた瞬間、俺の脳内で凄まじい速度で演算が行われた。

 

(肉……? まさか、叙○苑とかの高級焼肉か? いや、待てよ。岸辺隊長のことだ、絶対に俺に払わせる気だ! この人は前科持ちなんだ。冗談じゃない、俺の大切な配当金生活への種銭を、上司とのディナーなんぞで溶かされてたまるか!)

 

 俺は頭を振り、具合の悪く見えるように申告した。

 

「た、隊長……俺、今日はちょっと胃の調子がすこぶる悪くてですね。生野菜くらいしか受け付けないというかなんというか——」

「歩け」

「はい」

 

 ——逆らえるはずがなかった!

 

 

■ ■ ■

 

 

 俺はドナドナと市場へ売られていく仔牛のような悲痛な気分で、岸辺隊長の背中をトボトボ追いかけた。

 財布の中身を計算し、最悪の場合は支払いのタイミングでトイレにこもって逃亡しようかなどと本気で考えていた、その時だ——。

 

 煌々と輝く、眩しいオレンジ色の看板。

 そこには、見慣れたどんぶりのマークが。

 

「……ここだ」

 

 岸辺隊長は、まるでこれから強大な悪魔の巣穴にでも突入するかのような鋭い目つきで短く呟き、ドアの前に立った。

 

(牛丼屋! 牛丼屋じゃないか! 神よ、いや資本主義の神よ! 数百円で腹一杯肉が食える、庶民の最強の味方! これなら俺の財布はノーダメージ、いやむしろスーパーの弁当を買うより圧倒的に安上がり!)

 

「早く入れ」

「はいっ!」

 

 俺は尻尾を千切れるほど振る勢いで、オレンジ色の聖地へと足を踏み入れた。

 

 ——しかし。

 店内に入った瞬間、俺は思わず足を止めた。

 

 人が、めちゃくちゃいっぱいで座れないのだ。

 

 時刻は十八時。

 まさに夕飯時のピークタイムである。

 

 店内は異常なほど熱気と人口密度に包まれていた。

 スーツ姿のくたびれたサラリーマン、部活帰りの学生、作業着姿の男たち。

 立ち込める甘辛い醤油と肉の匂いの中で、誰もが無言でどんぶりと向かい合っている。

 

 U字型のカウンター席はほぼ満席。

 背後には持ち帰りを待つ客の列すらできている。

 

 殺伐とした、しかしどこか統率の取れた空間。

 牛丼屋のピークタイムというのは、ただ食事をする場所ではない。

 いかに早くカロリーを摂取し、いかに早く席を立つかという、時間と胃袋の戦場なのだ。

 

「た、隊長……。満席です。別の店に——」

 

 俺がそう言いかけた時、運良く、U字カウンターの奥の席で、並んで座っていた二人のサラリーマンが同時に立ち上がった。

 

 すかさず、岸辺隊長がその空いた席へと滑り込む。

 その動きには一切の無駄がなく、まるで長年この戦場を渡り歩いてきた歴戦の傭兵のようだった。

 

 俺も慌ててその隣に座る。

 

「いらっしゃいませー!」

 

 忙しなく動き回るアルバイト店員が、冷水の入ったコップを二つ、ドンッと置いた。

 テーブルの上には、無造作に置かれた紅生姜の巨大なタッパーと、七味唐辛子、そして醤油。

 

「ご注文、お決まりでしょうか!」

 

 店員が早口で尋ねてくる。

 俺はメニューを見ることなく、口を開いた。

 牛丼屋の商品など、すでにインプット済み。

 疲れた身体には、やっすい牛肉をめっちゃ濃くて甘辛い味に変化させたモノが身に染み渡る。

 

「えーと、俺は並盛りの、つゆだくで——」

 

 ——ドンッ。

 

 俺の言葉は、隣から放たれた強烈な『殺気』によって遮られた。

 

「……ッ‼︎」

 

 思わず息を呑み、隣を見る。

 岸辺隊長が、一切の感情を排した、氷のように冷たい目で俺を睨みつけていた。

 その視線は、先ほどヘドロの悪魔をぶち殺していた時よりも、はるかに重く、鋭かった。

 刃物のようなプレッシャー。

 それが、俺の喉仏に突きつけられている。

 

(な、なんだ……⁉︎ 何かマズいこと言ったか⁉︎)

 

 岸辺隊長は、俺から店員へと視線を移し、低く、しかし店内の喧騒を切り裂くような声で言い放った。

 

「特盛。ねぎだく、ギョクだ」

 

 そのオーダーを聞いた瞬間。

 厨房の空気が一瞬だけピリッと引き締まったように感じたのは気のせいだろうか。

 

「と、特盛ねぎだくギョク一丁!」

 

 店員が厨房に向かって叫ぶ。

 

 岸辺隊長は再び俺を見た。

 その目は、最強のデビルハンターの名に相応しい。

 

「……お前も同じものにしろ」

「あ、はい。じゃあ……それで」

 

 俺は冷や汗を流しながら、言われるがままに同じものを注文した。

 

 岸辺隊長はチタン製のスキットルを取り出し、店員が置いていった冷水のグラスに、ドボドボと琥珀色の液体——ウィスキーを注ぎ入れた。

 水割り、というにはあまりにも酒の比率が高い。

 ほぼロックといえるだろう。

 

 牛丼屋のカウンターで、堂々とアルコール度数四十パーセント超えの液体を煽る。

 

「た、隊長。さっきのは一体……」

 

 俺が恐る恐る尋ねると、岸辺隊長は氷の入ったグラスを揺らしながら、吐き捨てるように言った。

 

「……『つゆだく』だと?」

「は、はい」

「ふざけるな」

 

 岸辺隊長の声には、かつてないほどのドスが利いていた。

 

「つゆだくなどというものは、肉の旨味を引き出す自信のない素人が、ただタレの塩分と甘みで白米を流し込むための邪道だ。あんなものは牛丼じゃない。ただの『汁かけご飯』、だ」

「は、はあ……」

「いいか。牛丼という数百円のどんぶりの中には、緻密な計算とバランスが存在している」

 

 驚きつつ、俺は唾を飲み込んで話の続きを待った。

 

「肉の脂、玉ねぎの甘み、白米の温度。それらが三位一体となって初めて、牛丼は完成する。そこに過剰なタレを流し込めば、肉の輪郭がぼやけ、米はベチャベチャに崩れる。そんな愚行を、許すわけがない」

 

 俺は戦慄した。

 

(……この人、牛丼の玄人だ!)

 

 アルコールで脳が溶けていると思っていた上司は、こと牛丼においては、一切の妥協を許さない求道者だったのだ。

 

「では、『ねぎだく、ギョク』というのは……」

「ねぎだくにするということは、規定の分量の中で玉ねぎの比率が増え、必然的に肉の量が減るというリスクを背負うことになる」

 

 隊長は、ウィスキーの水割りを一口飲み、まるで悪魔の生態を解説するかの真剣な面持ちで続けた。

 

「だが、そのリスクを背負ってでも、タレを限界まで吸い込んだ飴色の玉ねぎの『甘み』を引き出す。そして、減った肉のボリュームとコクを補完するために『ギョク(生卵)』を投入する」

 

 そしてニヤリと口元を歪めると言った。

 

「玉ねぎの甘み、肉の脂、そして卵のまろやかさ。これが、五百円そこらで構築できる、最強にして最高効率の布陣だ……わかるな?」

 

 完璧な理論だった。

 ただのジャンクフードだと思っていた牛丼に、そこまでの深い戦略と哲学が隠されていたとは。

 

 投資において、リスクを取らずしてリターンは得られないのと同じ。

 肉が減るリスクを受け入れ、玉ねぎの甘みという最大のリターンを狙う。

 まさに、一流の投資家にも通じる思考回路。

 

 俺は岸辺隊長を見る目を変えざるを得なかった。

 この男、やはりただのアル中オヤジではない。

 

「……お待たせしました、特盛ねぎだくギョク、お二つです!」

 

 ドンッ、ドンッ。

 

 俺たちの目の前に、黄金に輝く(ような気がした)どんぶりが二つ、乱暴な手つきで置かれた。

 

 立ち昇る、醤油とみりん、そして牛肉の煮込まれた暴力的なまでの良い匂い。

 どんぶりの上には、岸辺隊長の言葉通り、飴色にクタクタになった玉ねぎが山のように盛られていた。

 そして傍らには、小鉢に入った生卵。

 

「いただきます」

「…………」

 

 俺が箸を手に取ろうとすると、隣で岸辺隊長が静かに動き出した。

 その所作を、俺は瞬きを忘れて凝視した。

 

 隊長はまず、生卵に醤油をひと回しだけ垂らした。

 そして箸を使い、白身を切るように、しかし黄身の形を完全に崩しきらないように、シャカシャカとリズミカルに溶きほぐす。

 混ぜすぎない、それがコツなのだろう。

 白身のドロッとした食感と、黄身の濃厚なコク。

 それらを別々に味わうための絶妙なマーブル状の液体が完成した。

 

 次に、どんぶりの中央。

 隊長は箸で、肉の山の中央に小さな窪みを作った。

 そこに、先ほど溶いたばかりの液体を、一滴残らず流し込む。

 卵が肉の斜面を滑り落ちることなく、中央の窪みでしっかりとホールドされている。

 

 仕上げに、七味唐辛子。

 パラパラと、雪化粧のように全体に振りかける。

 赤い斑点が、肉と玉ねぎの色合いに鮮やかなコントラストを生み出している。

 

 流れるような、一切の無駄がない一連の儀式。

 

 俺も全く同じ手順を真似して、自身のどんぶりをセットアップした。

 卵を落とし、七味を振る。

 ただそれだけのことなのに、どんぶりが放つオーラが先程とは全く違って見えた。

 

「……食うぞ」

 

 岸辺隊長の合図と共に、俺たちは箸を突き立てた。

 

 肉、ねぎだくの玉ねぎ、タレの染みた白米、そして生卵が絡んだ黄金の部分。

 それらを一気に掬い上げ、大きく口を開けて胃袋へと放り込む。

 

「……ッッ!」

 

 脳天を撃ち抜かれるような衝撃。

 美味い! 圧倒的に、暴力的に美味いッ‼︎

 

 口の中で、牛肉の野生味あふれる脂の甘みと、醤油ダレの塩味が弾ける。

 そこに、クタクタに煮込まれた大量の玉ねぎがシャキッとした歯応えと共に強烈な甘みを加算してくる。

 

 『ねぎだく』の意味が、今ならはっきりとわかる。

 

 つゆだくの過剰な塩分ではなく、玉ねぎという自然の甘みが、肉の旨味を極限まで引き上げているのだ。

 

「こ、これは……!」

 

 さらに、そこに絡みつく生卵のまろやかさ。

 尖ったタレの味を優しく包み込み、すべての具材を一つにまとめ上げる完璧な接着剤。

 噛むたびに、熱々の白米がそれらの旨味を受け止め、口の中で極上のオーケストラを奏でていく。

 時折ピリッと自己主張する七味唐辛子の辛味が、次の一口への強烈なブースターとなる。

 

「はふっ、はむっ、うまっ……!」

 

 理性が吹き飛んだ。

 俺は無我夢中でどんぶりを掻き込んだ。

 仕事の疲れも、悪魔の返り血の不快感も、すべてがこの一杯のどんぶりによって浄化されていく。

 

 これが、数百円で得られる究極の配当金(幸福)。

 資本主義の生み出した、奇跡のどんぶり。

 

 ふと隣を見ると、岸辺隊長も凄まじい速度でどんぶりを平らげにかかっていた。

 箸を動かす右手の動きは、悪魔の首を切り落とす時よりも速く、正確だ。

 

 

 肉を食い、米を掻き込み、合間にウィスキーの水割りを煽る——酒と牛丼。

 その相性の悪さを微塵も感じさせない、圧倒的なまでの豪快な食事風景。

 

「よし……このくらいか」

 

 どんぶりの中身が残り三分の一になった頃。

 岸辺隊長は、卓上に置かれていた『紅生姜』の巨大なタッパーを無言で引き寄せた。

 そして、備え付けのトングを使い……。

 

 バサッ、バサッ、バサッ。

 

「た、隊長……!?」

 

 バサッ、バサッ、バサッ、バサバサバサバサッ!

 

 岸辺隊長は、残り少なくなったどんぶりの上に、親の仇のように紅生姜を盛り続けていた。

 

 どんぶりの上が、真っ赤に染まっていく。

 残っていた肉の茶色も、白米の白も、すべてが毒々しいほどのクリムゾンレッドに塗り潰されていく。

 

「隊長! それ紅生姜丼になってますって⁉︎」

 

 俺のツッコミに対し、岸辺隊長はウィスキーを煽りながら、極めて真顔で答えた。

 

「これがいい」

 

 そう言って、隊長は真っ赤な紅生姜の山を箸でザクッと掬い上げ、ボリボリと音を立てて咀嚼し始めた。

 

「……酒のツマミにするには、牛丼の後半は脂がくどすぎる。これくらい尖った酸味と辛味の刺激が必要だ。俺には、玉ねぎの甘みだけでは優しすぎる」

 

 チラリと厨房を見ると、アルバイトの店員が戦々恐々とした目でこちらを見ていた。

 U字テーブルの向かいに座っていた殺伐とした雰囲気の客たちすら、岸辺隊長の狂気の紅生姜タワーにドン引きして目を逸らしている。

 

 だが、隊長の箸は止まらない。

 紅生姜の酸味と辛味、それに牛丼の残り汁が混ざり合ったジャンクな味わいを、ウイスキーで強引に胃袋へと流し込んでいく。

 その姿は、ある種の狂気を孕んでいながらも、どこか強かさすら感じさせた。

 

「……美味いか。シキ、それは」

 

 岸辺隊長がこちらにボソリと問うてきた。

 

「ええ、それはとても」

「そうか」

 

 そう答えると、岸辺隊長は少しだけ、ほんの数ミリだけ口角を上げてからこう言った——。

 

「悪魔が恐れるデビルハンターはなあ……」

「デビルハンターは……?」

 

 ”ドンッ!”

 

 

「——味覚のネジがぶっ飛んでるヤツだ」




おしまい!
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