稲妻が夜空を裂いた。
ゴロゴロゴロ――
轟音とともに豪雨が街道を叩きつける。
武蔵は雨をものともせず走っていた。
「参ったのう。」
「どこぞに雨宿りできる場所はないものか。」
樹の洞。
岩陰。
洞窟。
「お前は知らぬか」
影のシャドウデーモンに聞いても ブルブル震えるばかり
「困った」
目を凝らして探すが、この辺りは見通しのよい平原ばかりだった。
その時。
ピシャアッ!
稲妻が大地を白く照らす。
「……む?」
街道脇。
何かが倒れていた。
武蔵は進路を変え、一気に駆け寄る。
そこには一人の女が横たわっていた。
雨に打たれ続け、衣服はほとんど失われている。
長い金髪が泥に濡れ、肌は死人のように青白かった。
「おい。」
「生きておるか。」
返事はない。
武蔵は膝をつき、女の鼻先へ手を当てる。
「……。」
かすかに。
本当にかすかに呼吸がある。
「細いが、生きておる。」
続いて胸へ耳を当てる。
「心の蔵は……。」
とく。
とく。
弱々しい鼓動。
今にも止まりそうだが、確かに動いていた。
武蔵は頷く。
「うむ。」
「まだ間に合う。」
ためらいなく女を抱き上げる。
「まずは雨をしのがねば。」
再び走り出す。
腕の中の女はまったく動かない。
武蔵はただ一人の行き倒れを助けた、それだけのつもりだった。
しかし――
武蔵は忘れていた。
いや、気付いていなかった。
腕の中の女は、
かつてクレマンティーヌ。
エ・ランテルの墓地で、自らの刀によって首を落としたはずの女。
死んだはずの殺人鬼だった。
雨は激しさを増す。
稲妻が再び夜空を裂く。
その一瞬。
意識のない女の指先が、ほんのわずかに動いたことに、武蔵はまだ気付いていなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
洞窟の外では、激しい雨が岩肌を叩いていた。
轟々という雨音に混じって、焚火がぱちぱちと音を立てる。
クレマンティーヌはゆっくりと瞼を開いた。
「……ん」
最初に目に入ったのは揺れる炎。
(ここは……)
洞窟。
そして、その火の向こうには一人の男が胡坐をかいて座っていた。
(……助かった?)
次の瞬間。
男の横顔を見た。
「……ゲ」
思わず声が漏れた。
(こいつ……!)
忘れるはずがない。
エ・ランテル墓地。
ガジットを剣圧だけで真っ二つに吹き飛ばし。
最後には、自分の首を一刀で刎ねた男。
宮本武蔵。
思わず 自分の首筋を撫でる
(終わったぁぁぁぁ!!)
心の中だけで絶叫する。
(ズーラノーンから命からがら逃げ出したっていうのに!)
(よりによって一番会いたくない相手!)
一瞬だけ。
(寝込みを襲えば――)
そう考えた。
だが。
(無理無理無理無理!)
(首が飛ぶ!)
(絶対飛ぶ!)
光景が容易に想像できた。
武蔵が振り向くより早く。
自分の首が飛んでいる。
(ここは誤魔化す!)
(全力で善人!)
(記憶喪失でも何でも演じる!)
そう決めた瞬間。
武蔵がこちらを向いた。
「おや」
「目が覚めたか」
穏やかな声だった。
まるで昨日会った知人に話しかけるような口調。
クレマンティーヌはにっこりと弱弱しく笑みを浮かべ。
「あ……ここは?」
「どこなんでしょう?」
武蔵は薪を一本くべながら答えた。
「お主が街道で倒れておってな」
「放っておけんからここまで運んできた」
「そう……でしたか」
胸に手を当てる。
「ありがとうございます」
(よし)
(自然。)
(完璧。)
(バレてない。)
武蔵は頷いた。
「腹も減っておるじゃろ」
「何もないが」
「この茶でも飲むか」
そう言って差し出したのは干し肉と湯気の立つ木の椀だった。
(毒?)
一瞬だけ疑う。
しかし。
(いや。)
(この男が毒なんて使う必要ない。)
(その気なら斬る。)
そう判断し、素直に受け取る。
「いただきます」
一口。
「……!」
香ばしい。
少し癖はある。
だが。
思ったより飲みやすい。
「おいしい」
思わず本音が出た。
武蔵は嬉しそうに笑う。
「よかった」
「好き嫌いのある茶だからの」
「どこのお茶なんです?」
武蔵は椀を眺めた。
「これか」
「ナザリックの虫糞茶じゃ」
「……え?」
クレマンティーヌの笑顔が固まる。
「ナザリック」
「そうじゃなくて」
「そのあと!」
武蔵は不思議そうに首をかしげた。
「ああ」
「虫の糞を煎じた茶じゃ」
「癖はあるがうまいじゃろ」
沈黙。
クレマンティーヌの口元がぴくぴく震える。
(……虫。)
(フン。)
(飲んだ。)
(私。)
(飲んだぁぁぁぁぁ!!)
心の中で絶叫する。
だが。
顔には出さない。
「……え、ええ」
「とても香ばしくて……」
にこり。
(吐くな。)
(吐いたら終わり。)
(相手はあの武蔵。)
(虫のフンくらい飲め。)
必死に自分へ言い聞かせる。
武蔵は満足そうに頷いた。
「そうじゃろ」
「恐怖公にも伝えてやろう」
「きっと喜ぶ」
(恐怖公って誰!?)
(虫の王様!?)
(もう聞きたくない!)
クレマンティーヌは心の中だけで泣いた。
だが武蔵はそんな彼女の葛藤など露知らず。
自分の椀をすすりながら、しみじみと言った。
「雨の日に飲む茶は格別じゃな」
洞窟には再び雨音だけが響いた。
クレマンティーヌは笑顔を貼り付けたまま、
(この人……強さ以前に、生態が一番わからない。)
そう心の底から思った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
焚き火の薪が、ぱちり、と弾けた。
洞窟の外では、まだ雨が岩肌を叩いている。
宮本武蔵は腕を組み、焚き火越しに女を見つめていた。
「ところで」
静かな声だった。
「あんなところで倒れておったのは何故か」
女――クレマンティーヌは、一瞬だけ肩を震わせる。
(きた……)
しかし次の瞬間には、見る者すべてを騙せそうな弱々しい笑みを浮かべていた。
「わたし……諸国を巡礼しております尼僧です」
胸の前で手を合わせる。
「この近くを歩いていたところ、追いはぎどもに襲われまして……」
目元を押さえ、すすり泣く。
「命からがら逃げて……そのまま倒れてしまったのです」
武蔵は静かに頷いた。
「そうか」
「それは気の毒なことじゃのう」
(よし、乗った)
内心で安堵するクレマンティーヌ。
――だが。
「それでな」
武蔵が首を傾げた。
「お主、どうも以前出会った気がする」
クレマンティーヌの笑顔が固まる。
「……え?」
「匂いに覚えがある」
(匂い!?)
心の中で絶叫する。
(な、なんなのこの人! 犬!? 狼!?)
必死に笑顔を保つ。
「な、何をおっしゃってるんですか」
「も、もしかするとエ・ランテルでお会いしたのかもしれません」
「布教にも行っておりましたから」
武蔵は首をかしげたまま答えた。
「ほお」
「わし、エ・ランテルへ行ったと、お主に言ったかの」
疑い深げな顔
空気が凍る。
(しまった!!)
自分からエ・ランテルと言ってしまった。
武蔵は何も話していない。
(まずいまずいまずい!)
一瞬で考える。
そして。
「あっ!」
突然、頭を押さえた。
「いたっ……!」
武蔵が驚く。
「ど、どうした」
「記憶が……」
ふらつきながら額を押さえる。
「思い出せない……」
「わたし……」
「名前も……昔のことも……」
涙を浮かべる。
「記憶がないの……」
完璧な演技だった。
武蔵は真剣な顔になる。
「それは難儀じゃ」
「気づかなんだ」
クレマンティーヌは心の中で拳を握る。
(よし! ごまかせた!)
焚き火の炎が揺れる。
洞窟の隅の影。
そこには、誰にも見えない黒い影が小さく震えていた。
シャドウデーモンである。
(ちゃんと報告……)
影の中で必死に仕事を思い出す。
(武蔵……行き倒れの女性を拾った)
(ちゃんと報告……)
(ちゃんと……)
だが報告書の内容は、それだけだった。
女がクレマンティーヌ本人であることも。
彼女が記憶喪失を演じていることも。
武蔵が半ば見抜きかけていることも。
肝心な部分は、何一つ伝わらない。
シャドウデーモンは「これで任務完了」とでも言いたげに、小さく頷いた。
クレマンは死んだといったな あれは・・嘘だ