夜。
カルネ村は静まり返っていた。
昼間の賑わいは嘘のように消え、聞こえるのは虫の声と、ときおり吹く夜風だけ。
村はずれに建つ小さな小屋。
その扉が、ゆっくりと音を立てぬよう開いた。
きぃ……
隙間から顔を覗かせたのはクレマンティーヌだった。
きょろきょろ。
左右を確認する。
「ふぅ……。」
小さく息を吐く。
「先生をやるって言っちゃったけど。」
昼間のことを思い出す。
『寺子屋の師匠をせえ』
「いやいや。」
「無理無理。」
「私、殺し屋よ?」
「先生なんて柄じゃないって。」
肩をすくめる。
「やっぱり人生、好きに生きたいわよね~。」
にやりと笑う。
「武蔵はいい人だけど。」
「だからって一生村で先生なんて、ごめんだわ。」
忍び足で小屋を離れようとする。
一歩。
二歩。
三歩。
「どこ行くっすか?」
「!!」
心臓が止まりそうになった。
ぎぎぎ……
首だけゆっくり後ろへ向ける。
月明かりの下。
そこには、犬歯を見せて笑うルプスレギナ・ベータが立っていた。
「こんばんはっす。」
クレマンティーヌは一瞬で営業スマイルを作る。
「あ、あの……。」
「お、おトイレ。」
「そっすか。」
ルプスレギナは満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ一緒に行くっす。」
「…………。」
「え?」
「夜道は危ないっすから。」
「護衛するっす。」
「…………。」
(いやいやいや。)
(護衛って何。)
(完全に監視じゃない。)
クレマンティーヌは乾いた笑いを浮かべた。
「あ、でも。」
「急にしたくなくなっちゃった。」
「あはは。」
「ごめん。」
「おやすみ~。」
くるり。
猛スピードで小屋へ戻る。
ばたん。
扉を閉める。
鍵を掛ける。
ベッドへ飛び込む。
布団を頭までかぶる。
「チクショォォォ……。」
小さく叫んだ。
(なんなのよ、あの犬女。)
(絶対見張ってるじゃない。)
(寝てるふりしてるだけじゃない。)
布団の中でもぞもぞと丸くなる。
「はぁ……。」
「逃げられない……。」
外ではルプスレギナが扉にもたれ、くすくす笑っていた。
「逃げると思ったっす。」
「武蔵ッちの読み、大当たりっすね。」
昼間、武蔵は出掛ける前にこう言っていた。
『ルプス殿。』
『あの娘、今夜あたり逃げると思うので見てやってくれ。』
『逃げても責めん。』
『ただ迷うだけじゃ。』
ルプスレギナはその時は半信半疑だった。
「まさか本当に来るとは。」
にやりと笑う。
「変態だけど武蔵っち。」
「人を見る目だけはすごいっすね。」
小屋の中では。
クレマンティーヌが布団を握り締めていた。
(明日こそ。)
(絶対逃げる。)
そう決意した五秒後。
ぐぅぅぅ……
お腹が鳴った。
夕飯を食べ過ぎて眠気が勝つ。
「……明日でいいや。」
そのまま布団に顔を埋めると、
ものの一分で寝息を立て始めた。
外ではルプスレギナがその寝息を聞いて肩をすくめる。
「……案外、大物っすね。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
翌朝。
カルネ村の一角にある小屋では、朝から子どもたちの元気な声が響いていた。
エンリの提案で、小屋の中は急ごしらえの寺子屋へと改装されている。
木の長机が並び、黒く塗った板が黒板代わりに立てかけられていた。
その前に立つのは――
「はい、それじゃあ今日のお勉強を始めるわよ。」
巡礼服姿のクレマンティーヌだった。
「はーい!」
元気よく返事をする子どもたち。
その中に、一人だけ妙に大きな体が混じっている。
「む。」
「……。」
宮本武蔵である。
子どもたちに交じって正座し、真面目な顔で板を見つめていた。
クレマンティーヌは額を押さえる。
(なんで一番真剣なの、この人。)
「じゃあ今日は、この字。」
板に大きく文字を書く。
「『あ』。」
「みんな書いてみて。」
子どもたちは一斉に木板へ書き始める。
武蔵も筆を握る。
真剣そのものの表情だ。
だが。
「あ……。」
筆で書かれた文字は、
どう見ても魚だった。
「違います。」
クレマンティーヌはため息をつきながら武蔵の隣へ座る。
「これは魚じゃありません。」
「『あ』です。」
「あ、そうか。」
武蔵は感心したように頷く。
「字というものは難しいの。」
「剣より難しい。」
「それはないです。」
即座に否定するクレマンティーヌ。
教室に笑いが起きた。
子どもたちもけらけら笑う。
「武蔵さん、おもしろーい!」
「魚書いてる!」
「魚じゃない。」
武蔵は真面目な顔で答える。
「これは魚に似た『あ』じゃ。」
「違うよー!」
また笑い声が響く。
クレマンティーヌも思わず吹き出した。
「もう一回。」
「今度はちゃんと書きましょう。」
そう言って武蔵の手を取り、ゆっくり筆を動かす。
「ここをこう。」
「それから、こっち。」
「ほお……。」
「なるほど。」
「剣筋と同じじゃな。」
「いや、違います。」
また笑いが起こった。
授業は思った以上に和やかだった。
昼休み。
「先生!」
「先生!」
子どもたちがクレマンティーヌへ駆け寄る。
「これ見て!」
「字書けた!」
「上手!」
「花丸!」
頭を撫でてやる。
「えへへ。」
子どもたちは嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、クレマンティーヌは少しだけ驚いた。
(……。)
(私。)
(子どもなんて嫌いだと思ってた。)
(うるさいし。)
(泣くし。)
(面倒だし。)
それなのに。
「先生ー!」
「また教えてー!」
無邪気に手を引かれる。
悪くない。
むしろ。
「……。」
「こういうのも。」
子どもたちを見回しながら、小さく笑った。
「いいかもしんない。」
その笑顔は、殺し屋クレマンティーヌのものではなかった。
少し離れた木陰では、武蔵がその様子を眺めている。
「どうじゃ。」
「似合っておるではないか。」
クレマンティーヌは照れ隠しにそっぽを向いた。
「うるさい。」
「たまたまよ。」
「そうか。」
武蔵は笑う。
「人は、案外向いていることを知らんものじゃ。」
クレマンティーヌは返事をしなかった。
ただ、また「先生ー!」と呼ぶ子どもたちの方へ歩いていく。
その後ろ姿を見ながら、武蔵は一人うなずいた。
「これでよい。」