理想のオリ主生活 作:松尾シオン
狩りから戻って数日後の夜。
後宮の寝室で、善治郎はアウラと並んで長椅子に腰掛けていた。
小卓の上には、善治郎が日本から持ってきたブランデーの瓶と、グラスが二つ。
政務を終えた女王が、夫の酒を遠慮なく飲む。
この一年ですっかりおなじみになった光景だ。
「そういえば、まだ直接聞いていなかったな。狩りはどうだった」
グラスを傾けながら、アウラが言った。
「イネスから聞いておるぞ。肉竜を一矢で仕留めたそうではないか。精神修養の成果か?」
「う……それは、まぐれっていうか……」
「目を射抜いたまぐれ、か」
「…………」
アウラの口元が、楽しげに緩んでいる。
この話題は分が悪い。
善治郎はグラスに目を落とし、それから、少しだけ居住まいを正した。
ちょうどいい。
ずっと、どう切り出そうか考えていたのだ。
「それよりさ、アウラ。狩りの時に、ちょっと気になったことがあって」
「ほう?」
「この国の鉄って、あんまり質が良くないよな」
アウラの手が、グラスを口に運ぶ途中で止まった。
「獲物を捌く時に、兵とか狩人が使ってた刃物が、刃こぼれだらけでさ。皮に刃が通らなくて、何度も当て直してた。貴族の人たちの剣も、見た目は立派だったけど……たぶん、中身はそこまで変わらないと思う」
「…………」
「武器だけじゃなくて、鍬とか斧とか、釘とかも、たぶん全部同じ鉄でできてるんだよな。それって、結構もったいないなって」
アウラはしばらく黙っていたが、やがてグラスを小卓に置いた。
「よく見ておるな」
その声には、意外そうな響きがあった。
「確かに、この国の鉄器は質が良いとは言えぬ。南大陸の鉄は、どこも似たようなものだがな。北大陸から入ってくる品は、もっとましだと聞く」
そこまで言って、アウラはにやりと笑った。
朝の稽古で善治郎をはめた時と、同じ笑い方だった。
「それで? そなたなら、それを良くできるとでも言うのか?」
からかい半分の問いだった。
夫が「いやいや、まさか」と慌てて手を振るのを、待っている顔だった。
だが、ほんの半分だけ。
残りの半分には、もしかしたら、という期待が混じっていた。
この夫は、時折こちらが思いもよらないものを、何でもないような顔で持ち出してくる。
エアコンしかり、ブランデーしかり。
そして今、狩りから戻ってきた夫は、この国の鉄の質の悪さを、誰に言われるでもなく自分の目で見抜いてきた。
ならば、あるいは――と。
「できるよ」
善治郎は、迷わずに答えた。
「…………」
アウラの笑みが、すっと消えた。
夫の顔を、まじまじと見つめる。
冗談を言っている顔ではなかった。
期待はしていた。
していたが、まさかこうもあっさり言い切られるとは思っていなかった。
「……できる、と」
「ああ。全部をいきなり、とはいかないけど。少しずつなら、確実に良くできる」
断言だった。
この一年、自己主張というものをほとんどしてこなかった夫が、こうもはっきりと物を言うのを、アウラは初めて聞いた気がした。
「……どういう風の吹き回しだ」
アウラは、探るように目を細めた。
「そなたは、政務には顔を出すようになったが、自分から何かをしたいと言い出したことはなかったであろう。それが急に、鉄を良くするなどと」
善治郎は、少しだけ言葉に詰まった。
本当のことは、言えない。
頭を打って前世の記憶と妙な力が戻ってきて、それがばれた時に捨てられないように今のうちに功績を立てておきたいんです――なんて、言えるわけがない。
でも。
まるっきり嘘、というわけでもなかった。
「……俺も、この国の王族で、王配だからさ」
善治郎は、ほんの少しだけ目を逸らした。
「俺の知識が、少しでもアウラの役に立てるなら……って、思って」
言ってから、自分でも妙に照れくさくなった。
顔が熱い。
ブランデーのせいだということにしておこう。
アウラは、黙って夫の横顔を見ていた。
目を逸らしている。
気まずい時の癖だ。
だが、今のこれは、気まずいのとは少し違う。
――照れておるのか、この男は。
耳の先まで赤くして、グラスの縁を指でなぞっている夫を見て、アウラは小さく息を吐いた。
口元が勝手に緩みそうになるのを、どうにかこらえる。
「……そうか」
それだけ言って、アウラはグラスを手に取って微笑んだ。
とはいえ、アウラは女王である。
夫の殊勝な言葉にほだされて、二つ返事で頷くわけにはいかない。
「それで、具体的には何をどうする。鉄が悪いのは、何が悪いからだ」
「えっと……一番は、炉だと思う。今の炉は熱に耐えられないから、温度を上げようとしても、炉の方が先に駄目になるんだ。だから、高い熱でも崩れない炉を作るところから始めたい。あとは、風を送るふいごの改良も」
「…………」
「あ、もちろん、いきなり全部変えるとかじゃなくて! まずは小さく試してみて、うまくいったら、って感じで」
アウラは、しばし腕を組んで考え込んだ。
炉。ふいご。
どちらも、王配の口から出てくるとは思ってもみなかった言葉だ。
「……そなた、鍛冶に詳しかったのか?」
「え? あ、ああ……」
しまった、聞かれた時の言い訳を何も考えてなかった。
しかしもう走り出してしまった。
後は野となれ山となれだ、と善治郎は覚悟を決めた。
「――実は、向こうにいた頃の趣味がさ、鉄器を作ることだったんだよ。包丁とか、ナイフとか」
「…………」
アウラは、たっぷり三拍ほど黙った。
「……どんな趣味だ」
「いや~、向こうじゃ一般的な趣味だったんだよね~休みの日に工房を借りて、鉄を叩いて自分だけの包丁を作るひとりブラックスミスっていうのが流行ってて~」
「流行っておったのか。鍜治場で鉄を叩くのが」
「そうそう~。それに、ほら、無心で鉄を打ってると、心が落ち着くっていうか。精神修養にも最適で~」
「絶対嘘であろうそれは!」
大嘘である。
いや、鍛冶体験というものが日本にあったのは本当だ。
だが、一般的な趣味と呼べるほど流行っていたかと問われれば、かなり怪しい。
そもそも善治郎自身は、一度も行ったことがない。
アウラは、じっとりとした目で夫を見た。
「……婿殿。何かにつけて精神修養と言えば私を誤魔化せると思っておらぬか」
「そ、そんなことないよ」
「弓も精神修養。鍛錬所で体を鍛えるのも健康のため。鉄を叩くのも精神修養。それで、肉竜の目を一矢で射抜き、私を毎朝あしらい、鉄の良し悪しまでわかると」
「…………」
「そなたの故郷、本当は修羅の国か何かなのか?」
「平和な国だよ!?」
アウラは呆れたように溜息をついた。
だが、それ以上は追及しなかった。
夫の故郷が、この国とは比べ物にならないほど進んだ技術を持つ世界であることは、エアコンやらブランデーやらで、とうに承知している。
ならば、鉄を叩くのが庶民の娯楽になっていても、おかしくはないのかもしれない。
――おかしくはないのか? いや、やはりおかしい気もするが。
「……良かろう」
やがて、アウラは頷いた。
「ただし、条件がある。まずは王宮の鍛冶場を見よ。職人たちが今、何をどうしているのかを知らずに、良し悪しを語ることはできぬ。そして、事を大きくするな。職人たちの仕事を荒らすようなことがあれば、すぐにやめさせる」
「わかった」
「表向きは、そなたの道楽ということにしておけ。王配が鉄の改良に乗り出した、などと知れれば、余計な勘繰りをする者も出よう」
「道楽……」
「不服か?」
「いや、むしろ助かる」
善治郎は、心の底からそう言った。
道楽。
ヒモにぴったりの響きである。
♦
王宮の裏手には、職人たちの区画がある。
城の修繕を担う石工、鉄器を打つ鍛冶師、布を織る職人たち。
王家に召し抱えられた彼らが、それぞれの工房を構えて日々の仕事に励んでいる。
イネスに頼んで見学の予定を入れてもらった善治郎は、護衛のナタリオを伴って、その一角にある鍛冶場を訪れていた。
「こ、これはゼンジロウ様。このようなむさ苦しいところへ、ようこそお越しくださいました」
出迎えたのは、鍛冶師たちを束ねる親方だった。
白髪交じりの頭に、煤で黒ずんだ顔。
丸太のような腕には、無数の火傷の痕が刻まれている。
深々と頭を下げてはいるが、その目には「王配が何の用だ」という困惑がありありと浮かんでいた。
まあ、そうだろうな、と善治郎は思う。
日本で言えば、会社の偉い人の家族が、突然工場見学に来たようなものだ。
迷惑以外の何物でもない。
「急に来てすまないな。仕事の邪魔はしないから、少し見せてもらえるか」
「は、はあ。どうぞ、ご存分に」
鍛冶場の中は、むっとする熱気に満ちていた。
炉の中で炭が赤く燃え、職人たちが汗だくになって鉄を打っている。
カン、カン、と規則正しい槌の音が響いていた。
善治郎は、何気ないふりをして、炉に目を向けた。
――
見えた。
まず、炭。
生焼けのものが混じっている。湿気を吸っているものもある。大きさもばらばらだ。
そのせいで燃え方にむらがあり、煙ばかり多くて、肝心の火力が安定しない。
次に、ふいご。
革袋を手で押す、素朴な造りだ。
送り込まれる風が弱く、しかも途切れ途切れで、炉の温度が安定しない。
そして、炉。
形が悪いせいで熱が逃げている。
材質も耐火性や耐熱性が十分ではない。
中の温度は、鉄から滓を追い出すには、まるで足りていない。
思っていた以上に改善すべき点が多い。
これでは、どれだけ腕の良い職人が槌を振るっても、良い鉄になるはずがない。
職人の腕が悪いのではない。
道具と材料が、職人の腕に追いついていないのだ。
♦
その日、善治郎は日が傾くまで職人区画を歩き回った。
鍛冶場だけではない。
石工が石を切り出し、積み上げていく手つき。
布を織る職人が、機を操る様子。
王宮の修繕に使う道具や、材料の置き場まで。
余計な口は挟まず、ただ黙って見て回った。
そして見るたびに、こっそりと唱えた。
――
職人たちの腕は、悪くなかった。
むしろ、良い。
限られた道具と材料、そして自らの魔法の腕前を駆使して、善治郎の想像よりずっとよくやっていた。
手放しで感心するほどには。
しかしやはり問題は、その道具と材料の方だった。
♦
「再現性がないよね」
その夜。
後宮の寝室で、善治郎は一人、長椅子の上で頭を抱えていた。
昼間に見たものを、頭の中で一つずつ並べていく。
まず、良い鉄を作りたい。
良い鉄を作るには、高い熱を出せる炉が要る。
高い熱に耐える炉を作るには、熱に強い煉瓦が要る。
熱に強い煉瓦を作るには、熱に強い土が要る。
その土が、どこにあるのかがわからない。
「……まあ、そこは探せばいいか」
次。
炉の温度を上げるには、強い風が要る。
強い風を送り続けるには、水車でふいごを動かしたい。
水車を作るには、丈夫な軸と、歯車が要る。
丈夫な歯車を作るには、良い鉄が要る。
良い鉄を作るには――
「……良い鉄が要る」
善治郎は、しばらく天井を見つめた。
次。
炉にくべる燃料。
カープァ王国に石炭はない。
つまりコークスなど望むべくもない。
炭の品質についても、この湿気ではどうしようもない。
木は山ほどあるから、量で押し切るしかない。
山ほどの木を切り出すには、丈夫な斧が要る。
丈夫な斧を作るには――
「……良い鉄が要る」
次。
そもそも、鉄そのもの。
この国でも、鉄鉱石が採れないわけではない。
だが、質が良くない。
余計なものがたっぷり混じっていて、そのままでは使い物にならない。
だから、溶鉱炉でしっかり溶かして、余計なものを追い出したい。
鉄鉱石を溶かしきるには、とんでもなく高い熱が要る。
とんでもなく高い熱に耐えるには――
「……炉が要る」
振り出しに戻った。
最後に。
――魔法の道具で、火を強くすれば。
一発で解決する。
そして今、一番やってはいけないものだ。
「…………」
善治郎の頭の中に、ゲームの画面が浮かんでいた。
技術のツリーだ。
最初はたくさんの枠が、全部灰色で並んでいる。
一つ目の枠を埋めるには、二つ目の枠の素材が要る。
二つ目の枠を埋めるには、三つ目の枠の素材が要る。
三つ目の枠を埋めるには、なぜか一つ目の枠の完成品が要る。
しかも、手元にある素材は、ほぼゼロ。
チートは、封印中。
――簡単だと思っていたわけではない、だが。
やはりどこか舐めていたのかもしれない。
「ふ、ふふっ」
自然と口から笑いが漏れる。
このままでは、善治郎は己の有用性を証明する前に、アウラに秘密が露見して離縁を言い渡されるかもしれない。
ではやはり気を取り直して、作業工程を考えるべきだ。
故郷から持ってきたA4のコピー用紙に、作業工程を一つずつ洗い出し、書き出していく。
地道に、一歩ずつ歩んでいくしかない。
途中まで書き出した用紙を見る。
やらなければならない作業が並ぶ。
何十個も。
「――キエエエエエエエエエエッ!!」
♦
その少し前。
政務を終えたアウラは、後宮の回廊を夫の寝室へと向かっていた。
足取りは、自分でも少し軽いと思う。
『俺の知識が、少しでもアウラの役に立てるなら』
昨夜、耳まで赤くしてそう言った夫の顔が、まだ頭から離れない。
今日は鍛冶場を見に行ったと聞いている。
どんな話が聞けるだろうか。
頭を打ったのも、案外、悪くなかったのかもしれぬ――
「――キエエエエエエエエエエッ!!」
寝室の扉の向こうから、怪鳥のような叫び声が響いた。
アウラは、一瞬で扉を開け放っていた。
「ゼンジロウ!?」
長椅子の上で、夫が頭を抱えてのたうち回っていた。
「どうした! 頭か!? 頭が痛むのか!?」
「あ、アウラ!? い、いや、違う! 頭は大丈夫!」
「頭が大丈夫な者は、夜中に奇声を上げたりはせぬ!」
アウラは夫の肩を掴み、その顔を覗き込んだ。
目の焦点は合っている。
顔色も、悪くはない。
だが、つい今しがた、人のものとは思えない声を上げていたのは確かだ。
――やはり、あの一撃が。
アウラの顔から、さっと血の気が引いた。
「イネス! 医師を呼べ!」
「ちょ、待って待って! 本当に大丈夫だから! ちょっと、考え事してたら叫びたくなっただけで!」
「考え事をして叫ぶ者があるか!」
「あるんだって! 向こうじゃ割と普通だって!」
「そなたの故郷の普通は、もう信用せぬ!」
扉の外では、イネスが既に一礼して、音もなく医師を呼びに向かっていた。
その夜、善治郎は頭を打ってから通算何度目かもわからない診察を受けた。
医師の見立ては、「異常なし」だった。
アウラは、まったく信じていない顔をしていた。