虚数の裏の裏。そこはこれまでに分岐したあらゆる可能性の残骸が、ドロドロとした泥のようになって渦巻く奈落の底だった。
『第8空想樹神殿群【オーバーレイ】』。紅音のこれまでの全エンディングデータを喰らって覚醒した空想樹の形態は神の理すらも超越した終末の暴威となって襲いかかる。天から降り注ぐのは、紅音が前世から募らせていた「主人公になれなかった無能の劣等感」と、マシュが流した「標本として使い潰される恍惚の涙」の破壊光帯。空間が因果ごとガシャガシャと噛み砕かれていく。
「――が、はッ……マシュ……ッ!!」
神殿群から放たれる極大の熱線をマシュの大盾ユニットが他罰逆流システムで受け止める。だが空想樹が撃ち出しているのは二人のエゴそのものだ。痛覚逆流が発動するたび、マシュの純黒の装甲が激しくひび割れ背中まで伸びた藤色のロングヘアが黒い魔力の炎に焼かれて千切れかける。肉体が内側から崩壊していくほどの、凄惨な過負荷。
『無駄だよ、マシュ・キリエライト。君のその黒剣の加害はかつて来栖紅音が君を独占するために買い与えた不実の象徴だ。私の構築したこのマイルームの檻のなかで主の嘘に生かされている君がこの私を切り裂くことなど論理的に絶対に不可能なのさ』
神殿群の奥底から、紅音自身の冷徹なエゴの声が響き渡る。
「……ええ、その通りです、偽物の神様」
マシュは血に染まった唇を美しく吊り上げハイライトの完全に澄み渡った紫の瞳で天にそびえ立つ巨木の心臓を真っ直ぐに見据えた。
「この黒剣は先輩が素直になれなくて私を光の社会に奪われたくない一心で創り上げた最高にみにくくて最高に愛おしい不実の刃です。……でも、今の私は、もう先輩に飼われるためだけに息をする、無力なお人形ではありません!」
マシュは右手の黒剣を自身の胸元――かつて紅音の生存システムと完全同期していく魔力核の割れ目へと力ずくで深く突き刺した。
金属の激しい不協和音。
だがその刃から溢れ出たのは世界を呪う赤黒いバグのノイズではなかった。
それはあの急性肺炎の夜に紅音が叫んだ「お前に死んでほしくない、普通の女の子としてしぶとく生き長らえろ」という本物の光の覚悟。そして病室のなかで二人が本当の想いを告げ合いすべての執着から解放された本物の純愛の輝き。不実の泥を内側から焼き尽くす、どこまでも透き通ったまばゆいばかりの暗黒の光。
【真説から逆説へ】
最終真宝具――『不実を越える解放の極光【オーバー・キリエライト】』
「あかね先輩。……私を閉じ込めるためのその嘘(檻)を、いま、二人で完璧に越えてみせましょう……っ!」
マシュは胸から黒剣を引き抜いた。その刀身は、もはやハッキングの電子令呪コードではなく一切の概念を無へと還す、絶対的な『解放の虚無』の刃へと完全変貌を遂げていた。
マシュは背後の大盾ユニットからすべての推進魔力を噴射し、時空の歪みを置き去りにして第8空想樹神殿群の中心核(心臓)へと一直線に突撃した。
『やめろ、やめろマシュ! 私を斬れば二人の箱庭は完全に消滅する! 君たちはあの退屈な現実の底へ、ただの無能な凡人として放り出されるんだぞ!!』
「ええ、望むところです! 先輩のいない神話の永劫なんて、私にとっては1ミリの価値もありません! 私は先輩の隣であの眩しくて泥臭い現実を一人の女の子としてしぶとく生きていくのですから!!」
マシュは空中へ肉体を激しく翻し両手で構えた『解放の黒剣』を空想樹の心臓へと容赦なく一閃に振り抜いた。
「先輩のために――世界ごと、開いてしまいなさい!!!」
ザシュウゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!!!!
空間そのものが真っ白な光の線で切り裂かれる極限のカタルシス。
不実を越える解放の刃は第8空想樹神殿群が内包していたすべての偽りのエンディングデータ、他罰の怨嗟そして空想樹そのものの霊基を因果の底から完膚なきまでに一刀両断に両断した。
『あ、が……あ、あ、あぁぁぁぁぁぁッ!!!!!』
巨木が悲鳴を上げ赤黒い電子ケーブルの巨根がパリンパリンとガラスのように砕け散っていく。オーバーレイされていたすべての偽りの日常が光の粒子となって消滅していく。
真っ白に光のバーストが収まりゆっくりと視界が戻ってくる。
「……あ、……は、……ぁ」
来栖紅音は自身の両手を床につき荒い呼吸を繰り返しながら激しく咳き込んだ。
前世の記憶のすべてが冷徹な現状のログを彼の脳髄へと直接ダウンロードしてくる。ハッキング能力(チート)の喪失。生存システムの完全な機能停止。魔術回路もない戦う力もない、ただのくすんだ黒髪の冴えない無能な凡人への完全な退化。
だが彼が目覚めた場所はあの満員電車の流れる現代日本の「四畳半の部屋」ではなかった。
「……んだよ、これ……」
紅音は荒野のなかで呆然と立ち上がり周囲を見回した。
そこは世界のどこにも存在しない完璧に「滅び白紙化された地球」の荒野だった。
ORTとU-オルガマリーの宇宙規模の激突によって型月世界はとっくに完全に粉砕されており空想樹ピュクシスが見せていたあの現代の平穏な日常はすべてただの死に際の泡沫の夢に過ぎなかった。上空を見上げれば大気すら存在しない虚無の宇宙。足元に広がるのは植物の一本も生えていない、結晶化が途中で止まってボロアパートのように崩れただの灰色の土。
人理は修復されず異聞帯もすべて剪定され汎人類史(藤丸たち)も、異星の神も、宇宙の侵略者もすべてが刺し違えて全滅した後の、誰もいない何も残っていない本当の『世界の終わり』
「先輩。……お怪我はありませんか、あかね先輩」
背後から衣類が擦れる静かな音と共に聞き慣れたけれど決定的に変わった少女の声が響いた。
マシュだった。
すべての執着と依存から解放され真の騎士へと覚醒したマシュ・キリエライト。
彼女の纏う純黒の重装甲は、空想樹を切り裂いた代償としてボロアパートの壁のようにボロボロにひび割れ、部分的にパージされてその下から白い生身の肌が覗いている。肌を侵食していた黒い変異血管は輝きを失いただの何十年だって生きられる健康な大人の女性の肉体だけがそこにあった。
背中の真ん中を過ぎて滑らかに伸びた藤色のロングヘアが空気のないはずの虚無の風にサラリと静かに揺れている。彼女の右手にある『解放の黒剣』は役割を終えてただの錆びついた一本の鉄の剣へと変わっていた。
「マシュ……。俺たちは勝ったんだな。空想樹を倒して、あの不実の檻をブチ壊した。でも、見てみろよ。……何も残らなかった。お前を綺麗に救い出して連れて行くための、満員電車の流れる現代日本なんてどこにもない。俺たちの手元にあるのは世界を裏切った代償としてのこの誰もいない何も救えなかったただの真っ白な『死んだ星』だけだ」
紅音は自分の手を強く握り締め、自嘲気味に絶望を噛み締めるように吐き捨てた。無能な自分を「神様」と呼んでくれるお人形を失い他罰を叫ぶためのゲーム画面すらも消え去りただの空っぽの荒野に凡人として放り出された最悪のバッドエンド。
――だがマシュの澄み渡った紫の瞳には一切の絶望も悲哀すらも残っていなかった。
「ええ、知っています、あかね先輩」
マシュは手元の一本の錆びた鉄の剣を灰の土へと静かに突き立てて手放した。そして一歩また一歩と大地の死骸を踏みしめながら紅音の元へと歩み寄りその細いけれど確かな人間の温もりを持った両手で紅音の手を優しく真っ直ぐに包み込んだ。
女性らしい丸みを帯び、豊満に成長した彼女の身体が、紅音の胸元へと優しく寄り添う。
「あかね先輩。私は最初から世界なんてどうでも良かったのです。マスターが命を削って救おうとした汎人類史も、ドクターが私に押し付けようとした普通の女の子の未来も、そんな大きなものは、私の小さな心には最初から入りきりませんでした。先輩はマスターのようになれない自分を呪って私を暗闇に閉じ込めた。でも先輩が最後にお前が俺の届かない場所へ行ってしまうのが死ぬほど怖いと、その醜い本音を剥き出しにして私に『生きろ』と叫んでくれたあの病室の夜に私は救われたのです。私は世界のために盾を掲げる英霊なんかじゃない。お前を誰にも奪いたくないと泣いてくれたあなたという一人の男の人の隣を歩くための女の子になれたのですから」
マシュは紅音の手を自分の豊満な胸元へと優しく引き寄せトロンとした依存の熱ではない確かな未来を見据える本物のハイライトの瞳で彼を見つめ返した。
「ここにはもう私たちを縛る社会のシステムも税金の扶養控除も私たちを腫れ物扱いする大学の連中もいません。ただの滅びた世界です。……でもあかね先輩。私たちの心臓はまだこんなに健康に生々しく動いていますよ」
ドクン、ドクン、と。
マシュの白い肌を通して伝わってくる人間の力強い心音。
20歳まで生きられないと言われていたデザインベビーは世界を裏切り数々の絶望のログを通り抜けた果てに、何十年だってしぶとく生きられる、完璧な『人間の命』をこの終わりの星で掴み取っていた。
「……ハハ本当にお前は最高にしぶとくて度し難いバグだな」
紅音は生まれて初めて自分のひねくれた仮面を完全に脱ぎ捨て口元を綺麗に真っ直ぐに歪めて微笑んだ。
世界は滅び神話は閉じた。前世の知識(チート)も、カルデアの残影もすべてが過去の灰となって消え去った。これから二人が歩む旅路は人理を修復するための英雄譚ではない。水も食料すらも自分の手でハッキングではなく『泥臭い人間の生存』として勝ち取っていかなければならない終わりのない現実だ。
「行こう、マシュ。俺たちの新しい最高にダサくて最高に過酷な、二人きりの『第一歩』だ」
「はい……! はい、あかね先輩……っ!」
紅音はマシュの白くて柔らかい手を今度は逃げることなく骨が軋むほどの強さで真っ直ぐに握り締めた。マシュの瞳から美しく透き通った本物の嬉し涙がポロポロと溢れ、灰の土へと零れ落ちる。
ザウ、と。二人は手を携え誰もいない真っ白な白紙の地球の荒野へと同時に一歩を力強く踏み出した。灰の上に刻まれた二つの並んだ不揃いな足跡。
それは世界を救う大義名分(ひかり)もお互いを閉じ込めていた歪んだ妄執(やみ)もそのすべてを過去の灰へと昇華した二人が滅びゆく星の先でただ一人の男と女としてしぶとく生き抜くためのどこまでも泥臭い一歩だった。
ヤンデレ、マシュオルタ、リリスとの立ち位置逆転がやりたかっただけでした
お付き合いありがとうございました