脳に機械を埋め込み、その補助によって超人的な反応速度で敵の頭を撃ち抜く「僕」は、自らについて考察を繰り広げる。
【警告】
この短編には以下の要素が含まれます。
・戦闘要素<<哲学要素
・未成年への暴力描写
・専門用語の説明不足
「LAWS規制対策に人間を機械並みの速度で動かすサイバネとか面白そうじゃないか?
……じゃあその時人間って何だ?」
↑をパック寿司食いながら思いついてドーナツ食いながら描いた短編です。
高校倫理の時間にソシャゲの攻略wiki眺めてて綿飴くらいふわふわした理解だったので、哲学や倫理の部分はwikiとかで色々と調べ直して書いてます。選択科目は社会経済取ってたので理解が浅くてもご愛嬌。
あとテンポ重視で専門用語は全然解説しないので別のタブでGoogle先生でも開いててください。
分からん単語は調べることをお勧めします。GoogleのクソガバAIの要約でも十分です。
我とは何か。
多くの者が一度は考えたことがあるだろう。ルネ・デカルトの方法序説やイマヌエル・カントの三大理性批判、それらを始めとする哲学的、心理的、脳神経学的、エトセトラの様々なアプローチ。その存在が示すように、自我は宇宙や深海に並ぶ謎として、人間の中に存在し続けた。
しかし時が二一世紀も半ばに至ってなお、僕ら人類はその答えを知らない。
むしろ謎のヴェールに包まれた領域を増やしただけだ。生と死の狭間に、白とも黒ともつかない灰色の領域が広く横たわっているように。
少なくとも自我は物体ではない。頭を切り開いてもぶよぶよの神経が収まっているだけ、胸を切り開いてもグロテスクに鼓動する心臓があるだけ。
だが人類は、それを支配する術を知った。
身も蓋もないことを言えば、人間など所詮有機物で構成された肉の機械だ。電気信号で制御できるそれ。
最新の脳科学によれば、脳はいくつものモジュールに分かれ、それぞれが協働してオンオフを切り替えて機能している。ならば、どこがどう機能するかをマッピングし、どのように制御すればよいかに至るまで、必要な論理の距離感はそう遠くない。
多くのサイバーパンクが描いた、使い古された近未来観。空飛ぶ車やロボット執事よろしく裏切ってくれれば少しは面白かっただろう。
少しカビの臭いがする廊下で、脅威となるそれを認めた僕は腕を持ち上げる。意志の──より正確には意志の先駆けをトリガーとして動作する、脳にインプラントされた軍用モジュールが、意志や条件反射を阻害しない、照準に必要な最小限度の擬似信号を微小時間で神経網に放出し、筋肉がそれに従う。
僕は引き金を引く。
殺すべき敵とそうでないものを、人間の認知速度を超えた領域で判断し、敵なら引き金を引く。限界に挑んでは超えて、また限界を引き直す訓練の賜物だ。
スリムなサプレッサからパララと銃声が迸り、たった今しがた廊下の角から飛び出してきた痩せっぽちの男の頭に風穴を穿つ。脳幹を捉える正確な射撃。最重要の中枢部を金属塊で掻き回された男は悲鳴も上げずに地面に滑り込む。
今頃は神様の前だろう。あの世や神様が存在するのなら。
そうして僕は考える。我とは何だろう?
僕は人を殺した。もちろん照準はインプラントの命令なのだけれど、引き金を引いたのは、多分僕だ。多分というのは、それはあくまで僕の認識で、という話になる。
拒絶反応を引き起こさない異物を埋め込み、体を操らせる。けれど射撃という、最重要の部分だけは人間の意志に委ねる。
こんな状態で、どうやって僕は確信を持って殺したと言えばいいのか。
メーカー曰く、インプラントが行うのは照準だけだ。それは証明されている。狙おうと思った瞬間、というよりは狙おうという意志を自覚する前から、インプラントは体を操り照準する。
だが、それだけだ。撃つのも撃たないのも僕の自由だ。僕はそれをよく知っている。いわば警戒状態の
仮に撃つのが随意でも機械でないのなら、反射だろうか。反射は自我に含まれるのか。僕の随意の支配下にない、神経に刻まれたそれは、果たして僕と言えるのだろうか。
撃てと思った瞬間には撃っている。撃つなと思えば撃たない。意識の支配が及んでいるように見えるが、意識と反射が、たまたま一致しているだけの可能性はどうだろう?
パイを切るように角を曲がる。一気に動けば、敵に先手を取られてしまう。基礎的なテクニックだ。
何かがドアを叩き開けて飛び出してきた。
子供、武器、敵。
僕はそれを認識し、銃を構えようと思った瞬間には銃を構えている。頭部にぴたりと据えられたレーザー。機械が行うのはそこまで。
敵だから引き金を引こう。神経に刻まれた高速の識別能力はそう判断する。天使のような甲高い叫びが三つの鈍い破裂音と湿った着弾音に塗り潰される。
僕にとっては、それが敵であることが分かればそれでいい。
「うげっ……」
後続の味方が呻く声が聞こえた。
敵がろくすっぽ服を着ていない少女で、上半身だけでもかなりの凌辱の跡が見て取れることも、正直なところどうでもいい。脅威を前に躊躇う時間はないし、歳不相応に使い込まれた躰にいちいち劣情も同情も抱いていては、いつか感情の在庫を使い果たすだろう。
今や頭が割れた骸も、すっかり見慣れたものだった。僕らはダンテもびっくりの地獄の旅行者だ。
思考の糸を辿り直す。どこまで行ったっけか……ああ、そう、ここだ。
だからこそ、なのだ。
ベンジャミン・リベットの実験によれば、準備電位は意志に数百ミリ秒先行して発生する。準備電位は電気信号だ。機械の言葉。インプラントはそれを読み取り、解釈し、主が意志を自覚するより早く動き出す。ほんのコンマ数秒の短縮だが、近接戦闘では十分すぎる時間だ。
僕は土壇場で評価するに過ぎない。
撃つべきか、撃たないべきか。何もかもを機械が行い、人間はアクセルとブレーキを踏むだけの運転は運転と言えるのだろうか。たちの悪いことに、その車体は僕自身の体ときた。
自我が身体を支配する。身体を支配するからこそ、自我は存在していると考えられる。まるでブラックホールだ。それそのものは観測できなくて、それが引き起こす現象を以てでしか、その存在を観測することしかできない。
遠くの部屋から男が飛び出してきた。武装は見えない。民間人の存在は予期されていたから、ほぼ構えかけた腕を止める。
背中に手を伸ばした。拳銃のシルエットが露わになると同時、男は頭に穿たれた穴から脳みそを垂れ流して崩れ落ちた。
ならばその前提が崩れ去った時、自我とは何か?
その問いはもはやスワンプマンや哲学的ゾンビの類に近い。何と古典的なのだろう。古典的なくせに絶対の答えはない。何と困ったことだろう。
僕は戦闘調整も無しに殴られれば痛いとは思うし感じるし、ひりひり痛む頬や腹の実感もあるけれど、クオリアと呼ばれるそれは、遺伝子に基づいて脳に用意してある電気信号のプリセットの一つに過ぎないと考えることもできる。そう主観的に感じさせる電気信号のパターンや回路。クオリアの個人差は生物の設計図たる遺伝子の違いと反論できる。
あるいは入力に対する出力のパターンに過ぎないのだから、真にクオリアは存在しないとも。
未だに哲学の分野ではクオリアが重視されるが、それは、そうしておいた方が都合がいいからだろう。でなければ、人間と哲学的ゾンビの区別はもう不可能になってしまう。
少女の骸を跨いで進み、ピンをベストに括り付けておいた手榴弾を手に取る。少女が出てきた部屋を一瞬だけ覗き込めば、脱ぎ散らかされた古めかしい軍服からして幹部らしき男たちが、慌ててズボンを履いていた。催眠処置で刷り込まれた標的のリストにはない。捕縛するほどでもない小物だ。
いくら僕らが爆弾よろしく降ってきた強襲要員だからといっても、ここは戦場で、不用心が過ぎた。だから抵抗もできずに死ぬ。
フラグ・アウト。
仲間にそう声をかけ、部屋の中に手榴弾を投げ込んだ。三秒後、可変遅延信管が作動する。破片の嵐。
後続に残敵の処理を任せ、僕らは部屋の前を通り過ぎていった。目的の部屋が近い。
僕は疑う。僕の全てを。
あくまで神はものの例えだが、戦闘機を飛ばすくらいの知識なら催眠処置で誰でも三日で習得出来る──習得できるのは知識だけであって、もちろん実際に飛行する訓練の重要性は依然変わらない──このご時世、いくらテクノロジーからの影響を否定されたところで、本質的に脳や思考はもはや聖域ではない。
僕を疑う僕すら、僕は疑わねばならない。
1+1=2はペアノの公理で証明できるが、ならばペアノの公理が正しい証明はどうだろう。ペアノの公理は証明なしに正しいと決められている。正しいという証明は無くとも、正しいのだ。その前提が失われたとき、仮に公理の正しさを証明できたとして、その証明に用いた論拠の、そのまた正しさを僕は求めるだろう。
無限後退。誰が見張りを見張るのか、だ。
僕は公理すら崩す。解体屋気取りだ。聖域まで崩さねば答えが見つけられないから、僕は僕を解剖する。
そうして自分を解剖している自分を見つけたデカルトとは違って、僕をすっかり解体し切ってしまった僕は、自分自身もまた信用に値しないことに気付く。延々たる堂々巡り。僕を見る僕の正しさを、誰も保証できない。
どこにも確固たる答えは見つからないままに、思想の解剖台の上には、細胞の一片までに切り刻まれた無惨な僕が横たわっている。それを眺める僕すら確かとは言えない。
幾千の夜の何割かをこんな問いに費やしてきた。だからこそ、行き着く先はもう決まっている。
目的の部屋に辿り着く。仲間の一人が小分けにされた
フラッシュ・アウト。
マグネシウム炸薬が閃光と大音響をぶちまける。舞い上がる埃が落ちる前に部屋へと踏み込む。
護衛らしき、放り出されたAKのそばで悶える少女を撃ち殺す。抵抗しようと無様にもがいた自称・暫定政府の高官には肝臓に蹴りを入れておく。
「やめておいたほうがいい。文官なら指は大事だろうけど、僕らに配慮してやる義理はないんだ」
人道に対する著しい罪を犯したならず者たち。非人道に対する非人道。手段は問わない、奴らを捕えろ、無理ならなんとしてでも殺せ。人道のパラドックスとでもいうべきそれは、非人道への無力に対する、今の国際社会の答えだった。
ぐるりと見渡してみれば、作戦の目標の半分以上が、この部屋にいる。大当たりだとひとりごちた。
「お前は誰だ。おおかた合衆国軍か
フラッシュバンの衝撃から立ち直った、標的の一人が恨みがましそうな目で問うた。
「僕は僕だ」
「……帝国主義者の走狗め、言葉も分からんか」
聞き飽きたお決まりのセリフには取り合うこともせず、仲間にウォーカー・デバイスを貼り付ける指示を出して、生体電気で駆動する埋め込み式の微小出力無線で部屋の外に待機する通信兵に伝える。
──こちら4-0、
外部的に運動野に干渉し、無理やり歩かせるデバイスを後頭部に貼り付ける。屋上に上がれば、すぐに迎えのヘリが来るだろう。
さて、この問いの行き着く先だ。とっくの昔に決めている。
僕は僕であるから、僕である。論理もへったくれもないトートロジー。
僕が僕と思うその正体が、その実、肉の塊を機械の信号で駆動させている操り人形だとしても、ガラス瓶の培養液の中に浮かぶ脳髄や巨大な電算機の記憶回路でも、僕はそれを僕と規定するから、僕は僕である。思想の解剖台に横たわるそれに、僕は輪郭を与えて固める。
ペアノの公理だって0を0と定義せねば1+1=2すら証明できない。0が本当は偽だとしても、それを0と定義するから、それは正しく0なのだ。
それを空虚なトートロジーと呼べば、その上に築き上げられた数学はそのものが崩壊してしまう。
僕が僕と規定したそれが人を殺したから、すなわち僕は人を殺している。然るべき重さを伴う罪は確かに存在している。痺れて感覚が無くなった手足を振り回しているような、空虚な無辜よりずっと安心だ。
我とは何か。我は、我である。これが僕の答えだ。
専門家が見れば「いやここ違いますよ」とかあるかもしれませんが、思いつきで作って投げたものを書き直すつもりは無いので指摘しなくていいです。心の中にしまっておいてください。
それでも指摘したいいい!!!って人は短編を書いてください。見つけたら読みます。