35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される〜みなし残業で覚醒能力を使い潰していた俺、現代異能バトルの世界では最強候補らしいです〜 作:パラレル・ゲーマー
午前二時十三分。
東京都内の湾岸エリアに建つ大型複合商業施設《明浜スクエア》は、深い静寂の中に沈んでいた。
昼間は買い物客や家族連れでごった返す館内も、この時間帯は当然ながら閉館しており、シャッターの下りた専門店街には足元を照らす最小限の非常灯だけが浮かび上がっている。
夜間警備員の矢島孝志は、懐中電灯を片手に四階の連絡通路を定時巡回していた。
四十八歳。この施設の警備を担当して五年になるベテランだ。館内では深夜の清掃作業や空調設備の定期点検が別区画で行われているが、この四階フロアはすでに作業が完了しており、人の気配はない。
通路の突き当たりには、上層階まで吹き抜けになった広大な屋内庭園《スカイ・アトリウム》がある。
中央に観葉植物の植え込みや木製のベンチが配置され、昼間は高いガラス張りの天井から自然光が降り注ぐ開放的な休憩スペースだ。
そのアトリウムへ続くガラス扉に近づいたところで、矢島はふと足を止めた。
「……ん?」
通路の奥が、妙に明るい。
清掃業者が作業用の投光器でも消し忘れたのか、あるいは防災センター側で照明のタイマー設定を誤ったのか。
そう考えながらアトリウムへ足を踏み入れた矢島は、目の前の光景に息を呑んで立ち尽くした。
広い屋内庭園の中央付近。
その一角だけが、まるで真昼のように白々と照らし出されていた。
ただ照明が点いているのとは訳が違う。人工のLEDライト特有の均一な明かりではなく、もっと強くて厚みのある、少し黄色みを帯びた眩しい光だ。
光の当たっている石畳の床には、木製ベンチの脚や、観葉植物の葉の形が、墨を落としたようにくっきりとした濃い影を作っている。
矢島は思わず、高い吹き抜けの天井を見上げた。
鉄骨のフレームに組まれたガラス屋根の一部から、スポットライトのように太い光の柱が斜めに差し込んでいる。
しかし、そのガラスの向こう側に透けて見えているのは、星ひとつない真っ暗な午前二時の夜空だった。
「……いや、なんでだ?」
矢島は左手の腕時計を見た。
午前二時十四分。
どう考えても、空に太陽など出ているはずがない。
矢島は即座に肩の無線機に手を伸ばし、地下の設備管理室を呼び出した。
「こちら矢島。四階のスカイ・アトリウムなんだが、天井付近からかなり強い光が差している。演出用の照明か何かが誤作動してないか? 回路の確認を頼む」
幽霊や超常現象を疑うより先に、まずは設備の不具合を潰すのが現場の基本だ。
『管理室了解。確認します……あれ? 矢島さん、四階アトリウムの照明系統は、定刻通り二十三時にすべてオフになってますよ』
「いや、でも実際に目の前が昼間みたいに明るいんだ。念のため、関連する照明回路のブレーカーを一度元から落としてみてくれ」
『分かりました。切りますよ』
数秒後、無線からスイッチを操作する音が聞こえた。
しかし、矢島の目の前に広がる眩しい陽だまりは、ちらりとも揺らがなかった。
「……駄目だ、まったく変わらない。誰かが屋上のガラスの上から大型の照明を当ててるのか?」
『屋上点検口は施錠されてますし、外部カメラにも不審者は映ってません。すぐそっちへ行きます』
数分後、設備管理の当直スタッフと、夜間の改修立ち会いで残っていた設備管理責任者の早瀬里奈が、計測機器を持ってアトリウムへ駆けつけてきた。
三十九歳の早瀬は、建物の構造と設備の隅々まで把握している技術者だ。彼女はアトリウムの中央に落ちる光を見るなり、険しい顔で照度計と非接触型の温度計をかざした。
「……照度、三万ルクス超え。館内のどの照明器具でも、こんな数値は出せません」
さらに早瀬は、光が当たっている木製ベンチの表面にそっと手のひらを近づけた。
「温かい……。周りの床は冷えているのに、この光が当たっているベンチと植栽の葉だけ、日向みたいに熱を持っています」
当直スタッフが天井を見上げて首をひねる。
「近くのビルからサーチライトか何かが反射してるんでしょうか?」
「この角度で差し込むには、私たちの施設の真上に光源がないと無理よ。それに、外は曇り空で月も出ていないわ」
その時、最初から現場を見ていた矢島が、床のベンチの足元を指差して声を上げた。
「早瀬さん……これ、さっきと影の位置が違ってませんか?」
早瀬が床に視線を落とす。
矢島が最初に発見した十数分前、ベンチの影は石畳の目地に沿って真横へ伸びていた。
ところが今は、その目地から数センチほど斜めに角度を変えている。
まるで、目に見えない太陽が、夜空をゆっくりと移動しているかのように。
早瀬は唇を引き結び、すぐに決断を下した。
「四階アトリウムおよび周辺通路を、ただちに全面封鎖します。夜間清掃のスタッフも別フロアへ退避させてください。照明の故障じゃ説明がつかないわ。警察の窓口へ連絡して、専門の調査を要請します」
現場の責任者が通常の手順をすべて尽くし、物理的な設備トラブルの可能性を排除したことで、事態は速やかに警察の特殊窓口、そして八咫烏へと引き継がれた。
*
午前二時五十五分。
《明浜スクエア》の通用口に到着した久我陽介と杖原つかさは、出迎えた早瀬と矢島の案内を受け、エレベーターで四階へと上がった。
今夜は皇かれんが別件の調整で本部に残っており、七瀬澪と鏡宮千鶴も今回の設備異常案件には参加していない。現場へ派遣されたのは、夜間活動に慣れた久我と、結界制御の専門家である杖原の二人だった。
「夜分遅くに申し訳ありません。設備管理の早瀬です。状況はお聞きになっていますか?」
早瀬が歩きながら手短に尋ねる。
「はい。すべての照明電源を落としても、屋内庭園の一角だけが強い光で照らされていると」
久我が答えると、早瀬は少し言いにくそうに頷いた。
「ええ。ただ明るいだけではなくて、その……普通の照明とは決定的に質が違うんです。実際に見ていただいた方が早いと思います」
四階の連絡通路を進むと、前方のガラス扉の向こうから、周囲の暗闇と明らかに不釣り合いな黄金色の光が漏れているのが見えた。
アトリウムの入り口で、久我は思わず足を止めた。
薄暗い吹き抜け空間の真ん中に、ぽっかりと浮かび上がる直径数メートルの明るい円。
観葉植物の緑が鮮やかに照らし出され、空気中のわずかな埃がキラキラと光の中で舞っている。
「……あの、杖原さん。今って午前三時前ですよね?」
「ええ、二時五十八分ですね」
「なんで真夜中のビルの中に、休日の公園みたいな日向ぼっこスペースができてるんですか?」
久我が素っ頓狂な声を上げると、隣で術具のステッキを手にした杖原も、目を丸くしてその光を見つめた。
「映像は車内で見ましたけど、実物は想像以上に『昼間』ですね……」
おどろおどろしい瘴気もなければ、血の匂いも、怨霊のうめき声もない。
ただそこに、ぽかぽかと温かそうな陽だまりがある。
しかし、真夜中の密閉された建物内にそれが存在しているという事実が、どんなホラー映画の演出よりも異様だった。
「……しかもこれ、俺みたいな吸血鬼にとっては、一番タチの悪い種類の異常なんじゃないですかね」
久我がぼやくと、隣にいた早瀬が不思議そうに首を傾げた。
「吸血鬼、ですか?」
「あ、ええ。俺、そういう特殊体質でして。強い直射日光に当たると火傷するんです」
早瀬と矢島は一瞬だけ驚いた顔をしたが、八咫烏の人間が超常的な体質や能力を持っていること自体は事前に説明を受けていたらしく、「なるほど、そういう方もいらっしゃるんですね」とすぐに納得してくれた。
「久我さん、まだ光の正体が分かりませんから、無闇に近づかないでくださいね」
杖原が釘を刺す。
「分かってますよ。ただの強い照明なら、メガネをかけていれば何ともないんですけどね……」
久我は遮光グラスのブリッジを押し上げ、右目に《魔眼》を起動した。
視界が切り替わり、空間に漂う魔力や霊的な反応を探る。
床の陽だまりそのものには、怪異の核のようなものは見えない。
久我は視線を上へと滑らせ、高さ十数メートルにあるガラス屋根を見上げた。
ずらりと並ぶガラスパネルの中で、一箇所だけ、薄い膜のような奇妙な霊的反応が張り付いているパネルがある。
「……杖原さん。あそこの、少し色がついたガラスのあたりです。怪物の姿はありませんけど、何か変な反応が重なっています」
「ええ、私のセンサーにも出ています。空間の歪みというよりは、あのガラス自体が何か別の性質を帯びているような反応ですね」
杖原が測定器を見ながら頷いた。
しかし、下から見上げているだけでは、この光が『ただの明るい霊的発光』なのか、それとも『本物の太陽光と同じ性質を持つもの』なのかまでは判別がつかない。
久我は陽だまりの境界線の手前まで歩み寄り、しゃがみ込んだ。
石畳の床に、くっきりと引かれた光と影のライン。
久我は左手の袖を少しだけまくり、覚悟を決めて、光の境界線の内側へほんの数センチ、自分の手の甲を差し入れてみた。
一瞬だけなら、仮に本物の日光であっても灰になることはない。
指先が、黄金色の光に触れた。
――チリッ。
皮膚の表面を、熱した鉄線で直接撫でられたような鋭い痛みが走った。
「……痛っ!」
久我は反射的に手を引っ込め、自分の手の甲を押さえた。
「久我さん!?」
杖原が驚いて駆け寄る。
「い、いや、大丈夫です。ちょっと試しただけですから……」
久我が押さえていた手を離すと、光にさらされたほんの一秒足らずの間に、手の甲の皮膚がくっきりと赤く腫れ上がり、軽い火傷のような水ぶくれになりかけていた。
吸血鬼の再生能力が働いて赤みはすぐに引き始めたが、あの独特な、細胞の奥から体力を削り取られるような嫌な熱感は紛れもないものだった。
久我は顔をしかめて天井のガラスを見上げた。
「……少なくとも、俺の身体には直射日光と同じ反応が出ています。これ、ただの照明じゃありません」
隣で見ていた早瀬と矢島が、呆然と声を漏らす。
「日光と同じって……今は午前三時ですよ? 一体どこからそんな光が来てるんですか」
「それを今から調べるんですよ。……とりあえず、俺の身体が世界一優秀な日光センサーだということは証明できましたね」
「久我さん! もう直接手を入れて試すのは絶対にやめてくださいね! 私が止めたのに!」
杖原にぷりぷりと怒られ、久我は「すみません、手っ取り早いと思って……」と小さく頭を下げた。
*
少なくとも吸血鬼の身体には直射日光と同じ危険を及ぼすと分かり、調査はより慎重に進められることになった。
早瀬がタブレット端末を開き、アトリウムの天井構造の設計図を表示する。
「久我さんが指したあの場所は、先月の内装リニューアル工事の際に、デザイン上のアクセントとして取り付けた『装飾ガラスパネル』の位置と完全に一致しています」
「装飾ガラス、ですか?」
「はい。天井の一番外側は、建築基準法に基づいた現代の強化安全ガラスで覆われています。問題のパネルは、そのすぐ内側の金属フレームに、飾りとして吊り下げられているものです。大きさは約一・五メートル四方。取り壊された古い洋館のサンルームで使われていたアンティークの琥珀ガラスを、オーナーの希望で再利用したんです。ガラスは当時の金属の縁枠ごと移設して、現在の吊り枠へ固定してあります」
早瀬はタブレットで、昨夜の巡回記録と監視カメラ映像も示した。
「ただ、取り付けたのは先月なんです。少なくとも昨夜までの巡回記録や映像には、こんな光は映っていません。どうして今夜になって現れたのか……」
「現象が今夜初めて起きたのか、前からあった性質が今夜になって表に出たのか、まだ分からないわけですね」
久我の言葉に、早瀬が頷いた。
久我と杖原は顔を見合わせた。
由緒ある古い建物から移設された建材に、当時の記憶や環境が染み付いて怪異化するケースは、八咫烏の記録でも決して珍しくない。
しかも、建物の外装そのものではなく、内側に後付けされた装飾パネルであるなら、建物全体の構造を壊さずにそのパネルだけを取り外すことができる。
「念のため、物理的に光を遮ることができるか確認しましょう」
杖原の提案で、早瀬が清掃用具室から柄の長いモップと、不透明な黒い養生用のプラダンボールを持ってきた。
安全な暗がりからモップの先に黒い板を固定し、陽だまりの中へと差し出してみる。
すると、黒い板の真下の床に、くっきりと四角い影が落ちた。板の表面が溶けたり、光が板を透過したりすることはない。
「物理的な遮蔽物で、普通に遮光できますね」
久我がホッとしたように息を吐く。
「これなら、遮光シートで上を覆ってしまえば、俺が焼かれる心配もありません」
その時、床に落ちているベンチの影と、先ほど広げていた館内の平面図を見比べていた早瀬が、妙な顔をして首を傾げた。
「……おかしいですね」
「何か分かりましたか?」
「ええ。この影の伸びている『方角』と『長さ』です」
早瀬は画面をタップし、アトリウムの植栽管理に使われている日照シミュレーションの図面を重ね合わせた。
「この天窓から自然光が差し込む場合、季節と時間によって床に落ちる影の角度は決まっています。でも、今見えているこの影の角度と長さは……昨日の『午後三時十分頃』の日差しと、ほぼ同じなんです」
「……午後三時十分?」
久我は自分の腕時計を見た。
現在の時刻は、午前三時十分。
「今は午前三時ですよね。なんで真昼間の角度で光が差してるんですか?」
「待ってください。昨日の午後三時十分なら……今からちょうど『十二時間前』じゃないですか?」
杖原がハッとして声を上げた。
早瀬はすぐに、アトリウムの柱に設置されている環境管理用の照度センサーの過去ログを呼び出した。
画面に、昨日の昼間の照度グラフと、先ほど午前二時過ぎから記録され始めた異常発光の照度グラフが上下に並んで表示される。
久我、杖原、早瀬、矢島の四人が画面を覗き込んだ。
二つのグラフの波形は、気味が悪いほど完全に重なっていた。
「見てください。昨日の午後二時四十二分に、大きな雲が太陽を横切って、アトリウムの照度が三分間ほど半分以下に落ち込んでいます」
早瀬がグラフの谷間を指差す。
「そして今夜のログ……午前二時四十二分にも、まったく同じ波形、同じ秒数で、この光が一時的に暗くなっています!」
久我は、画面と目の前の陽だまりを交互に見た。
「……つまり、あの古いガラスは、昼間に自分が浴びた太陽の光を、なぜか『十二時間遅れ』でそのまま夜中に垂れ流してるってことですか?」
「再放送みたいなものですね」
杖原が感心したように呟く。
「どういう理屈でガラスが光を溜め込んで、十二時間後に放出しているのかはサッパリ分かりませんけど……少なくとも、光源が移動していた理由ははっきりしました。昨日の午後の太陽の動きを、そのまま忠実に再現しているんです」
「……昼間に使っていれば、ただの日当たりのいいガラスだったんでしょうけどね」
早瀬が複雑な顔で天井を見上げる。
「夜中に再放送されるせいで、吸血鬼を焼くトラップになってるわけですか。迷惑極まりないインテリアですね」
久我がぼやくと、緊張していた矢島が思わずプッと吹き出した。
*
しかし、現象の法則が『十二時間遅れの太陽光の再現』だと分かったことで、早瀬の表情が再び険しくなった。
「……まずいわね。その法則通りなら、これから午前三時半、四時と時間が進むにつれて、再現されるのは昨日の『午後三時半から四時』の西日になります」
「西日になると、どうなるんです?」
「太陽の位置が低くなりますから、光が真下ではなく、かなり斜めの角度で差し込むようになります。図面で見ると……あと二十分もすれば、陽だまりの位置が中央の植栽から外れて、五階の『保守点検用キャットウォーク』の通路を直撃します」
早瀬が吹き抜けの上部、ガラス屋根のすぐ下を走る細い金属製の点検通路を指差した。
「あのキャットウォークは、問題の装飾ガラスを取り外すために作業員が必ず通らなければならない足場です。そこに強い光が差し込めば、作業員が眩しさで足を踏み外す危険がありますし、何より、周囲の冷え切った金属フレームと、昨日の西日の熱を再現して局所的に膨張した古いガラスとの間で温度差が広がりすぎます。ガラスが歪んで、固定金具から自然に割れ落ちるかもしれません」
「朝になって本物の太陽が昇れば、現象が止まる可能性は?」
久我が尋ねる。
「止まる保証がありません。もし止まらずに、昨日の夕方の光と、今日の本物の朝日が同じガラスで重なったら、どういう異常反応が起きるか予測もつきません」
杖原がステッキを握り直した。
「今のうちに、ガラスの上を遮光して取り外し、八咫烏の封印ケースへ回収してしまいましょう。西日の角度になって足場が照らされる前に作業を終える必要があります」
「分かりました。うちの設備スタッフで高所作業の準備をします」
早瀬は即座に無線を取り、待機していた設備管理会社の作業員たちへ指示を飛ばした。
ここから先は、八咫烏の異能と、現代のビル管理技術の共同作業になる。
まず、早瀬の指示で天井フレームに備え付けられている電動の遮光ロールスクリーンを手動モードで稼働させ、さらに保守通路から作業員が黒の防炎遮光シートを伸ばして、問題の装飾ガラスの直下を覆う。
杖原は、装飾ガラスに宿っている霊的反応が周囲の正常な強化ガラスや鉄骨へ転移・拡散しないよう、フレームの四隅に封鎖用の結界札を打ち込んで領域を固定する。
ただし、杖原の結界はあくまで霊的な波及を止めるものであり、放出されている物理的な光や熱そのものを消し去ることはできない。光の遮断は、早瀬たちの遮光シート頼みだ。
そして久我の役割は、高所での取り外し作業における『安全装置』だった。
一・五メートル四方の分厚いアンティークガラスは、金属枠を含めれば数十キロの重量になる。作業員が固定ボルトを緩めた際、万が一バランスを崩したり、金具が破損して落下しかけたりした時、下から吸血鬼の膂力と《血装》で確実に支え切る。
「久我さんは日光が弱点なのですから、遮光シートが完全に張られるまでは、絶対に作業位置の下へ入らないでくださいね」
「はい、そこは自分の命に関わりますから、言われなくても徹底しますよ」
*
午前三時二十五分。
五階のキャットウォークへと上がった早瀬と二名の専門作業員が、安全帯のフックを命綱のワイヤーへ確実に掛けた。
「遮光シート、展開します!」
早瀬の合図で、作業員たちが長いポールを使って分厚い黒の遮光シートをスライドさせ、装飾ガラスの下側へと引き込んでいく。
シートがガラス面を覆い隠すにつれて、四階のアトリウムの床に落ちていた眩しい陽だまりが、端から少しずつ削り取られるように狭まっていった。
ベンチの影が消え、観葉植物の影が消える。
そしてシートがガラスの全面を覆い尽くした瞬間。
アトリウムは、本来の午前三時半の薄暗い静寂へと戻った。
「……ふう。ようやく普通の夜になりましたね」
下で待機していた久我が、安堵の息を吐く。
「まだ油断しないでください。光がシートで遮られただけで、ガラス自体の反応は消えていません」
杖原の言う通りだった。
久我が《魔眼》で天井を見上げると、黒い遮光シートのすぐ上側では、今も装飾ガラスが午後三時半の西日を再現して煌々と発光しており、シートの表面が熱を帯び始めているのが分かった。
「久我さん、杖原さん、上へ上がってください! 取り外しに入ります!」
早瀬の声を受け、二人も階段を駆け上がってキャットウォークへと移動した。
天井裏の点検通路は幅一メートルほどしかなく、すぐ目の前に装飾ガラスが吊り下げられた金属フレームがある。
杖原がフレームの四方に結界の杭を配置し、怪異性の拡散をロックした。
「結界、固定しました! いつでも外せます!」
「了解! 仮支持の吸盤とワイヤーをガラスに装着……よし、四隅のボルトを対角線上に緩めていきます!」
作業員が工具を使い、手際よくボルトを回していく。
久我は遮光シートの下側、キャットウォークの手すり越しに身を乗り出し、いつでもガラスの底面を支えられる位置で両腕に薄く《血装》を待機させた。
一本、二本、三本とボルトが外れる。
ここまでは、完璧な手順だった。
しかし、最後の四本目のボルトを緩めきった、その瞬間。
パキィンッ!
古い琥珀ガラスの縁枠を吊り枠へ固定していた留め具の一つが、温度差による歪みに耐えきれず、乾いた音を立てて破断した。
「あっ!?」
数十キロのガラスパネルが、仮支持のワイヤーを軋ませながら、片側へガクンと大きく傾いた。想定外の角度で荷重が片側に集中し、支持具まで激しく引っ張られる。
同時に、ガラスの下を覆っていた遮光シートの固定クリップが外れ、シートがペラリとめくれ上がった。
傾いたガラス面から、再現された午後三時半の強烈な西日が、まるでレーザービームのように真横のキャットウォークへと向かって照射された。
「きゃあっ!」
「うわっ、眩しっ……!」
直撃を受けた早瀬と作業員の視界が真っ白に飛び、反射的に手を離しかける。
このまま傾きが大きくなれば、縁枠が壊れてガラスが四階へ落下するか、パネルが振り子のように跳ねて作業員を狭い通路から突き落としかねない。
「手を離さないで! いや、無理だ、下がってください!」
久我はコンマ一秒で判断し、前へと踏み込んだ。
めくれ上がった遮光シートの隙間から、容赦ない直射日光が久我の顔面と左腕へと降り注ぐ。
ジュッ!!
皮膚が焼ける嫌な音と、網膜を突き刺す暴力的な光。
「……っ、ぐうっ!」
久我は遮光グラスの奥で目を細め、痛みに歯を食いしばりながら、両腕の《血装》を一気に最大出力で硬化させた。
赤黒い血の装甲を纏った右腕をガラスパネルのフレームの底へ直接叩き込み、傾いた数十キロの重量を下から強引に受け止める。
《血装》は物理的な衝撃や刃物を防ぐ鎧であり、日光を完全に無効化する日傘ではない。
光にさらされた左腕の袖口から煙が上がり、頬の皮膚までジリジリと焼ける。再生が追いつくたびに、体力と血液が容赦なく削られていった。
それでも久我は一歩も引かず、片腕でガラスを水平に押し戻しながら、焼ける左手を伸ばしてめくれた遮光シートの端を掴み、ガラスの下へと強引に引き戻した。
「俺が下から完全に支えてます! 今のうちにシートを留め直して、吊り具を固定してください!」
「す、すみません! すぐやります!」
視界を取り戻した作業員と早瀬が、慌てて遮光シートの上から追加の固定ベルトを回し、ガラスパネルを回収用のフレームへとロックした。
シートが完全に閉じられ、漏れ出ていた西日が遮断される。
光が消えた瞬間、久我は「はあっ、はあっ……」と荒い息を吐きながら、キャットウォークの床へ片膝をついた。
左腕の手首から手の甲にかけて、真っ赤な火傷の跡が広がっている。遮光グラスの下、頬にも同じような赤みが残っていた。
「久我さん、お水と保冷剤を……!」
「いえ、大丈夫です。光さえ消えれば、勝手に戻りますから」
久我が深く息を吸い込むと、吸血鬼の再生能力が働き、腕と頬の赤く爛れていた皮膚がみるみるうちに元の肌へと修復されていった。
ただ、再生のために血液を使ったせいで、喉の奥に強い渇きが残った。
取り外された装飾ガラスは、そのまま八咫烏の作業要員が運び込んだ特製の完全遮光・封印ケースの中へと慎重に収められた。
分厚い蓋が閉められ、ロックがかかる。
その上から、杖原が二重三重に封印の結界符を貼り付けた。
「……ケース内部への封印、完了しました。外部への光漏れも、霊的反応の漏出もゼロです」
杖原が測定器の数値を確認して頷いた。
早瀬も、取り外された後の天井フレームと、下の屋内庭園を照度計で確認する。
「異常な数値は完全に消えました。周辺の強化ガラスにもひび割れはありません」
午前三時五十分。
真夜中の商業施設に現れた季節外れの陽だまりは、こうして無事に撤去された。
*
作業要員たちが封印ケースを台車に載せて搬出していくのを見送りながら、久我たちは一階の通用口へと戻ってきた。
今回の事案は、八咫烏の内部記録において暫定的に《十二時間遅れの陽光》として登録されることになった。
なぜあの古い琥珀ガラスが、昼間に浴びた太陽光を十二時間遅れで再現するようになったのか。洋館のサンルームにあった頃から少しずつ性質を帯びていたのか、それともこの商業施設へ移設されたことで何らかの条件が噛み合ったのか。
その根本的な発生原理までは、今後の研究班の解析を待つことになる。
現時点で、有料怪異情報サイトなど外部からの人為的な干渉を示す材料は確認されていない。古い器物に日差しの記憶のようなものが残った可能性はあるが、それが何を意味するのかも含め、今後の調査が必要だった。
施設側では、天窓の内装パネルの不具合に伴う緊急点検および撤去作業として処理され、明日からの通常営業にも支障は出ないという。
「今夜は本当にありがとうございました。お二人が来てくださらなかったら、どうなっていたか……」
通用口の前で、早瀬と矢島が深く頭を下げた。
「いえ、早瀬さんたちが最初に照明回路を切り分けて、日照ログとの一致を見つけてくれたおかげですよ。あれがなければ、西日の移動に気づかず上へ登って、もっと危ないことになってました」
久我が心からの労いを口にすると、早瀬は少しホッとしたように微笑んだ。
そして彼女は、久我の左腕の袖口をちらりと見て、申し訳なさそうに尋ねた。
「あの……お怪我の方は、本当に平気なんですか? その、太陽の光が駄目な体質なのに、私たちの代わりに一番光が漏れている場所へ入ってくださって」
「ああ、もう傷跡も残ってませんから気にしないでください」
久我が左手をひらひらと見せると、早瀬は真面目な顔で頷いた。
「念のためお聞きしておきたいのですが、久我さんは『太陽光以外の普通の明かり』なら、当たっても問題ないんですよね?」
「ええ。LEDでも蛍光灯でも、人工の照明ならいくら浴びても平気ですよ」
「よかった。それなら、次回またうちの施設で照明設備の異常があった時は、安心して点検に来ていただけますね」
久我の動きがピタリと止まった。
「……いや、俺、今回も『照明設備の異常』だって聞いて来たんですけどね」
隣にいた杖原が、堪えきれずにプッと肩を震わせて笑いを噛み殺す。
早瀬も自分で言ってから気づいたのか、「あ……そ、そうでしたね、すみません」と気まずそうに目を逸らした。
「せめて次は、本当にただの電球切れか配線の故障でお願いしますよ。その時はうちじゃなくて、普通の電気工事会社を呼んでください」
久我が深いため息をつきながら通用口を出ると、時計はもう午前四時を回っていた。外にはまだ夜の冷たい空気が残っている。
本物の朝日が昇ってくる前に、さっさと帰って遮光カーテンの閉まった寝室へ潜り込まなければならない。
「お疲れ様でした、久我さん。手首の火傷、本当に痛くないですか?」
送迎車へ向かって歩きながら、杖原が心配そうに尋ねてくる。
「痛みはもう引きましたよ。ただ、ちょっと血を消費したんでお腹が空きましたね。帰ったら冷蔵庫のパックを飲まないと」
久我は自分の左手首をさすりながら、ぶつぶつと文句を続けた。
「……それにしても、夜中の仕事なら日光に当たる心配がないから、吸血鬼には一番向いてると思ってたんですけどね。まさか午前三時のビルの中で日焼けする羽目になるとは思いませんでしたよ」
「ふふ、本当に災難でしたね。次からは夜勤の時も、日焼け止めクリームを持参しますか?」
「市販の日焼け止めで防げるなら、世界中の吸血鬼が苦労しないですよ」
杖原がクスクスと笑い、久我は「まったく、割に合わない……」とぼやきながら、迎えの車の後部座席へと乗り込んだ。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
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