期末試験という名の地獄を乗り越えた第一高校は、夏の一大イベントである『九校戦』へ向けた本格的な準備期間へと突入していた。
代表選手や技術スタッフに選ばれた生徒たちは通常の授業が免除され、大会に向けた最終調整に専念することが許される。
本館地下に設けられたデバイス調整ルーム。分厚い防音壁と最新鋭の設備に囲まれたその密室で、御守漣は自身のダミーCADを専用コンソールに接続し、隣で作業を進める司波達也の横顔を静かに見つめていた。
達也はモニターに映し出された複雑なコード群を一瞥し、高速のタイピングを行っている。彼が打ち込んでいるのは、漣が公開テストのために徹夜で組み上げた『ただの起動が速いだけの移動魔法』のカモフラージュ式最適化データだった。
「……変数処理の統合と、起動式への展開プロセスの効率化はこれで終わった。ダミーCADのメモリを圧迫していた無駄な記述は削ぎ落としたはずだ」
達也はキーボードから手を離し、淡々とそう告げた。
漣はモニターに表示された洗練されたコードを確認し、小さく息を吐いた。
「……助かるよ、達也。これで本番の不具合の心配はなくなったな」
「礼には及ばない。これは俺の役割だ」
達也は静かに振り返り、感情の読めない瞳で漣を見据えた。
漣はそれ以上、余計な言葉を返さなかった。達也がこの調整を引き受けたのは好意や友情などではなく、「深雪の安全を担保するために、漣の能力を管理下に置いておく」という冷徹な計算に基づくものだと分かっているからだ。
深雪を護る盾として利用されることには不本意だが、達也の技術力を借りなければこの場を切り抜けられないという現実が、何とも皮肉だった。
その時、調整ルームの重厚な電子ドアが控えめなノックの音と共に開かれた。
「お兄様、御守さん。お疲れ様ですわ」
冷たい空調の効いた室内に、ふわりと甘い花の香りが漂う。
手提げの保冷バッグを持った司波深雪が、完璧な淑女の微笑みを浮かべて入ってきた。彼女は生徒会役員としての仕事を終え、二人のために差し入れを持ってきたのだ。
「深雪か。わざわざすまないな」
達也が椅子から立ち上がり、妹を労う。
「いえ、お兄様が御守さんのために熱心に調整をされていると伺いましたので、冷たいお飲み物を持ってきたのです。……御守さんも、連日の調整でお疲れでしょう?」
深雪は達也に微笑みかけた後、ゆっくりと漣の方へと向き直り、その透き通るような瞳で彼を真っ直ぐに見つめた。
表向きは、同じ一高の代表選手と技術スタッフを気遣う優等生としての振る舞い。だが、漣を見る深雪の瞳の奥には、達也には決して見せない熱情と独占欲が帯びていた。
「あ、ああ……ありがとう、司波さん。わざわざ悪いな」
漣は達也の視線を気にしながら、事務的な距離感を保って礼を言った。
深雪は保冷バッグからよく冷えたスポーツドリンクを取り出し、まずは達也に手渡す。そして次に漣の元へと歩み寄り、彼の手のひらに直接触れるようにしてボトルを押し付けた。
「冷たいですから、お気をつけて」
深雪の白い指先が、漣の指に意味ありげに絡まる。
(近い、近いって……! 達也の前で堂々とスキンシップしてくるなよ、心臓が止まるかと思ったぞ……!)
漣は顔を引きつらせながら、慌ててボトルを受け取った。
深雪は満足そうに微笑むと、達也のデスクのモニターへと視線を移した。
「お兄様。御守さんのCADの調整は、順調に進んでいらっしゃいますの?」
「ああ。御守の魔法式は非常にユニークでな。最適化のしがいがある。技術者として興味深い素材だよ」
達也は純粋な知的好奇心から、漣の魔法のポテンシャルに対する称賛を口にした。
男二人が魔法技術という共通の言語を通じて、どこか深い理解をもって意気投合している。
その光景を見た瞬間。
深雪の完璧な微笑みが、ピキリと、文字通り凍りつくような音を立てて硬直した。
(……私のお兄様と、私の漣様が……私を差し置いて、お二人だけの世界を作っていらっしゃる……?)
調整ルームの室温が、物理的に急激な低下を始めた。
深雪の周囲から漏れ出したサイオンの揺らぎが部屋の空気を冷却し、机の上の金属パーツに薄っすらと白い霜を付着させていく。
「……っ!? な、なんだ急に寒く……」
漣は思わず肩を抱き、震え上がった。
漣の体表面に展開されている『境界無化』のパッシブ防壁は、直接的な魔法干渉やサイオンの探知こそ無に帰すことができるが、魔法によって間接的に冷やされた「ただの空気」の温度低下までを自動で遮断するわけではない。意識して事象消去の対象を広げない限り、この物理現象としての寒さは普通に貫通してくるのだ
深雪は満面の笑顔のまま、しかしその目はまったく笑っていない状態で、二人の間にすっと割り込んできた。
「お兄様。あまり漣様を独占してはよろしくありませんわ。漣様は明日からの移動に向けて、お体を休めなければならないのですから」
深雪はそう言うと、今度は漣の方へと振り返り、彼の腕にそっと自らの細い腕を絡ませた。
「さあ、漣様。調整はもう十分でしょう? お兄様はまだ後片付けがおありのようですから、私がご自宅の近くまでお送りいたしますわ」
「えっ、ちょ、ちょっと待て司波さん! 腕! 腕!」
漣はパニックになりながら必死に深雪の腕を解こうとしたが、彼女のホールドは見た目の華奢さからは信じられないほどに強固だった。
「深雪」
達也が冷ややかな声で妹を呼んだ。
「魔法の制御が乱れているぞ。それに、御守は自分の足で帰れる。お前が送る必要はない」
達也の言葉には、兄としての静かだが絶対的な警告が含まれていた。
深雪はハッとして我に返り、慌てて漣の腕から身を離した。急激に下がっていた室温が、ゆっくりと元に戻っていく。
「も、申し訳ありません、お兄様。少し、空調が効きすぎていたようですわね。……漣様、失礼いたしました」
深雪は顔を赤くして俯き、態度を取り繕った。
漣は冷や汗を拭いながら、大きく息を吐き出した。
(……怖ぇよ! この兄妹の間に挟まれる俺の身にもなってくれ!)
「御守。明日は朝八時に学校集合だ。遅れるなよ」
達也は呆れたような、しかしどこか憐れむような目で漣を見て、それだけを告げた。
「……ああ、分かってるよ」
漣は力なく頷き、逃げるように調整ルームを後にした。
彼の背中に突き刺さる深雪の熱っぽい視線と、達也の無言のプレッシャー。九校戦の本番を前にして、御守漣の胃痛はすでに限界を突破していた。
* * *
いよいよ九校戦の開催地である、富士の演習場へと向かう出発の朝がやってきた。
第一高校の正門前には、代表選手たちを乗せる大型の貸切バスが一台と、技術スタッフや機材を運搬するための小型のスタッフ用車両が停車していた。
一科生の精鋭たちが誇らしげに大型バスへ乗り込んでいく中、漣は目立たないようにバスの一番後ろの窓際の席へと身を沈めた。
(よし。この席なら誰も気に留めない。富士に着くまで、ひたすら寝たふりをして気配を消そう)
漣が深く帽子を被り、目を閉じようとした、まさにその時だった。
「御守さん、隣、よろしいかしら?」
聞き慣れた、しかしこの場には最もそぐわない美しい声が響いた。
漣が目を開けると、そこには爽やかな夏の制服に身を包んだ深雪が、当然のような顔をして立っていた。
「し、司波さん……!? なんで一番後ろの席に……」
「ここ……御守さんの隣しか空いていませんでしたの」
深雪は漣の返事を待つこともなく、すんなりと彼の隣の席に腰を下ろした。
(嘘つけ! 前の席も横の席も、お前に遠慮した一科生たちが近づけなくてまだガラ空きじゃないか……!)
周囲の男子生徒たちから、一斉に殺意に近い嫉妬の視線が漣へと突き刺さる。
(終わった……! 出発前から俺の平穏な時間が!)
漣が頭を抱えていると、通路を挟んで斜め前の席から、二人の女子生徒が顔を覗かせてきた。
一学年A組の光井ほのかと、北山雫。一科生の中でもトップクラスの実力を持つ、深雪の親友たちだ。徹底してモブを貫いてきた二科生の漣にとっては、今まで直接言葉を交わしたことのない相手である。
「あ、深雪。それに……えっと、御守くんだよね?」
ほのかが、一科生と二科生の壁など全く気にしていない様子で、持ち前の人懐っこい笑顔を向けてきた。
「公開テストの時、すごかったから覚えちゃった。私、A組の光井ほのか。こっちは北山雫だよ。よろしくね!」
「ん。よろしく、御守くん」
雫も特有の淡々とした口調で短く挨拶をしてくる。
「……ああ。E組の御守漣だ。よろしく、光井さん、北山さん」
初めて話す一科生の女子からの気さくな挨拶に、漣は少し戸惑いながらも名乗り返した。
「御守くん、スピード・シューティング、本番でも頑張ってね!」
「ありがとう。まあ、俺は運が良かっただけだから……」
漣が愛想笑いで答えようとした瞬間。
「ほのか」
深雪が完璧な笑顔のまま、しかしその声の温度を急激に下げてほのかの言葉を遮った。
「御守さんは、これから始まる過酷な大会に向けて集中しておられますの。……あまり話しかけて、お疲れにさせないで差し上げてね?」
深雪の言葉は丁寧だったが、その瞳の奥には「私の漣様に気安く話しかけないで」という、明確な牽制と独占欲がギラギラと輝いていた。
ほのかは「え、あ、うん……ご、ごめんなさい」と、親友から放たれた得体の知れない威圧感に気圧され、慌てて前を向いてしまった。
雫もまた、「……深雪、目が怖い」と呟きながらそそくさと席に戻っていく。
(完全に外堀が埋められている……! この女、俺に近づく女子を片っ端から笑顔で物理的にシャットアウトしやがる……!)
漣は助けを求めるように、バスの窓の外へと視線を向けた。
少し離れた場所に停められたスタッフ用車両の窓から、書類に目を通している達也の姿がわずかに見えた。
達也はこちらを一瞥することすらせず、完全に黙認していた。
『深雪の機嫌が良いなら、俺は干渉しない。お前が上手く対処しろ』
達也の背中が、そう無言で語っていた。
(お前ら兄妹、本当に理不尽すぎるだろ……!)
逃げ場のない車内で、漣は深雪が嬉しそうに自分の腕に寄り添ってくるのを感じながら、ただただ富士までの長い道のりが早く終わることだけを祈り続けた。
* * *
バスが市街地を抜け、山間部のカーブが連続する道路へと差し掛かった頃だった。
周囲の生徒たちが談笑や仮眠をとる中、漣はふと窓の外の景色に目をやった。
九校戦の勝敗を裏で操作しようと企む『
(……そろそろ、あのイベントが起きる頃だな)
漣は密かに姿勢を正した。
とはいえ、彼自身が前に出てトラブルを解決する気は毛頭ない。前方席には部活連会頭の十文字克人が乗っている。原作通りに事が進めば、圧倒的な実力を持つ彼らが事態を収拾し、バスは何事もなかったかのように走り続けるはずだ。
(俺はただのモブだ。ここは彼らの活躍を大人しく見守っていればいい)
漣がそんな余裕を抱いていた、次の瞬間。
カーブの先、対向車線を走っていた一台の乗用車が突如としてコントロールを失い、ガード壁に激突した。
そして凄まじい勢いのまま車体が宙を舞い、漣たちの乗るバスへ向かって真っ直ぐに飛んでくる。
「危ないっ!」
前方で誰かが悲鳴を上げた。
「えっ……何、あの車!?」
「危ない! こっちに来るぞ!」
突然の出来事にバス内の生徒たちは一斉に驚愕し、身を守ろうと条件反射でそれぞれのCADを起動した。
だが、それが最悪の事態を引き起こす。
恐怖に駆られた数十人の魔法師たちが無秩序に魔法を発動しようとしたことで、車内の空間に大量のサイオンが飛び交い、深刻な『サイオンの嵐』が発生してしまったのだ。
サイオン波が互いに干渉し合い、魔法式がまともに構築できない。普段なら簡単に使える魔法も正常に効果を発揮しにくい、魔法師にとって極めて危険な状態。
(くそっ……! サイオンが乱れすぎて、みんな魔法が発動できてない!)
宙を舞う車が、容赦なくバスに迫る。
漣は無意識のうちに、右手のポケットの中に隠し持っていた特注のCADのグリップをきつく握りしめていた。
(もし誰も対処できなかったら、俺が裏から消す……!)
親指をアナログスティックに添え、いつでも『境界無化』を展開できるよう、極度の緊張の中で身構える。
だが、その心配は杞憂に終わった。
サイオンの嵐が吹き荒れる中、前方席から立ち上がった十文字克人が、その強靭な意志と魔力で干渉を撥ね除け、強固な防御魔法『ファランクス』を展開した。
そしてほぼ同時に、漣の隣に座っていた深雪がスッと表情を引き締め、席から立ち上がっていた。
「――!」
深雪の放った魔法が飛来する車の表面と周囲の大気を瞬時に凍りつかせ、その恐るべき運動エネルギーと勢いを強引に削ぎ落とす。
そして勢いを殺された車体を、十文字の魔法が正面から完璧に受け止めた。
ドズゥンッ!!!
鈍い衝突音が響き、車は弾き飛ばされてアスファルトに落下した。
選手用のバスにはかすり傷一つ付くことなく、事態は一瞬のうちに完全に収束した。
「……助かった……」
車内がざわめきと安堵の歓声に包まれる。
窓際で息を吐き出した漣は、ポケットの中で握りしめていたCADからそっと手を離した。
(……やれやれ。やっぱり俺が余計なことをしなくても、一高のトップ層が完璧に対処してくれたな)
漣が内心で胸を撫で下ろしていると、隣の席で魔法を解いた深雪が、安堵したような表情で息をつきながら視線を向けてきた。
「漣様、お怪我はありませんでしたか?」
「あ、ああ。俺は全然平気だよ。君の魔法と十文字先輩の防壁が完璧だったからな。見事だったよ」
漣が自然に労いの言葉をかけると、深雪の頬がほんのりと朱に染まった。
「……ありがとうございます、漣様。お役に立てて光栄ですわ」
深雪は嬉しそうに微笑み、ごく自然な流れで漣の袖口をキュッと掴んだ。危険が去った後も、彼女のその小さな手が離れることはなかった。
* * *
一方、後方を走るスタッフ用車両の中。
達也は、前方のバスで起きた一連の事態を正確に把握していた。
(飛んできた車は単なる交通事故ではない。……車の動きに、意図的に仕組まれた魔法の痕跡が残っていた)
達也の冷徹な知覚は、これが第一高校の生徒たちを狙って仕掛けられた、何者かによる明確な攻撃であると見抜いていた。
だが、達也の目はそのテロの痕跡と同じくらい、バスの最後列にいる御守漣のサイオンの動きを注視していた。
サイオンの嵐が吹き荒れる中、漣は一切取り乱すことなく、体内で極めて精緻なサイオンを励起させ、いつでも未知の防壁を展開できるように身構えていたのだ。
(……いざという時は自分が動くつもりだったか。今回は十文字先輩と深雪が対処したから、彼はただ静観を選んだ)
達也は漣が深雪の隣で『絶対に彼女を護る盾』として機能しようとしていた事実を確認し、ほんの僅かに口元を緩めた。
(……やはり、深雪の隣にあの男を置いておいたのは正解だったか)
バスは安全確認を終えると、再びエンジン音を響かせ、九校戦の会場である富士の演習場へ向けて静かに走り出した。
全国の精鋭が集う華やかな表舞台の裏側で。
平穏を望む転生者と、彼を逃がさない氷の美姫、そして冷徹な最強の兄による、波乱と暗闘に満ちた九校戦が、いよいよ本格的な幕を開けようとしていた。
色々と頭の中では書きたい内容あるけど、文字に起こそうとなると中々形にならない