俺はカナヘビで、小さい女の子に飼われている、そんな夢
きっと前世があるとするなら俺はカナヘビだったに違いない
そしてその時の俺が死ぬまでの話
0
彼女は、トカゲのキーホルダーをぎゅっと握りしめた。
1
なあ、お前は前世の記憶を覚えているか?
……そんなに距離を取るなって、別に変な宗教に勧誘しようとかスピリチュアルなことに目覚めたとか、そういうわけじゃないんだ。
生き物は輪廻転生を繰り返しているっていうのはまあよくある考えで、証明はされるはずもないけれど、そういう考えに縋らなきゃ生きて行けない人もたくさんいる。
別に俺は今の人生に絶望してもいないし、そういう意味では来世に期待なんてこともない。
そもそも輪廻転生というものがあったところで次が人間だという保証もないのだから。
でも、俺は最近不思議な夢を見るんだ。
俺がカナヘビだった頃の話。
カナヘビ、当然お前も知ってるよな?
ざらざらとした光沢のない、茶色いトカゲ。
そのとあるカナヘビの夢を、俺は最近沢山見るんだ。
2
夢の中で、俺は小学校に入学したてくらいの少女に飼われていた。
野生の頃はあんまり覚えていない。
ちゃんと記憶が芽生え始めたのは、その少女と出会ったころ。
その時、俺は命の危機に瀕していた。
カナヘビ、要するにトカゲの天敵がなんなのかあまりよく知られていないと思うが、少なくともそこら辺のちっぽけな昆虫には負けないし、力自慢のカブトムシやクワガタはそもそも頭上のずっと遠くを飛んで、馬鹿みたいに樹液をペロペロと舐めている。
だから問題なのは、陸上を闊歩しているじぶんよりずっと大きな生き物だった。例えば、鳥類だったり地域で可愛がられている野良猫だったり。
ある日、野生に生きていたカナヘビだった俺はふとした拍子に道路に飛び出してしまった。
すぐさま草むらに戻ればいいものの、何となく好奇心に駆られてふらふらと道路の中央に歩み寄ってしまって。
そうして、野良猫と対峙してしまった。
その野良猫が本気であれば一撃で俺は死んでいたに違いない。
突如として影に覆われ、不審に思って振り返ってみれば興味深そうに俺のことを黒猫が見下ろしていた。
猫の首につけられた鈴が一つ、リンと涼しい音を鳴らす。
あの爛々と光る目と来たら!
面白いものみーっけと言わんばかりに、右手を振り下ろしてくるのを見て、俺は慌てて短い手足をジタバタと動かして逃走を開始した。
安全圏である草むらまで戻れればまだチャンスはある、少なくともこの障害物のない更地では抗いようがない。
果てしなく遠い道のりだった。たった3秒ぐらいあれば戻れるとわかっていたのに、そこまで辿り着けるはずがないと心のどこかで悟っていた。
遮二無二飛び込んだ先は水溜り、パシッと胴の中央を押さえつけられて、俺は身動きが取れなくなってしまった。
幸運だったのはその黒猫が体重を思いっきり掛けてこなかったこと、もしそうされたのであれば俺は内臓を口から吹き出して即死していたに違いない。
代わりに水に沈められて、必死に鼻先だけを水面に突き出して息を吸おう必死に足掻いていた。
そんな意味のない延命作業をする俺をさておいて、黒猫は俺に鼻を近づけて、ふんふんと興味深そうに俺の匂いを嗅いでいた。
そうして確認も済んだのか、軽く口を広げて俺にとどめを刺そうと近づいてきたところで、彼女がやってきたのだ。
「もー、ちっちゃな生き物をいじめちゃダメだって」
意図も容易く黒猫をひょいと拾い上げたその少女は赤いランドセルを背負い、頬にそばかすを浮かべて髪ら三つ編みに纏めている。
猫が何か抗議するように鳴き声をあげるがそれも無視して、道の端っこにヒョイっと投げてまたこちらに向き直った。
俺は何をしていたかと言えば、先ほどまでの命の危機で心臓が破裂しそうなほどバクバクと鳴らして、その場からびくとも動けないままだった。
もしかしたら死んだふりをしているように見えたのかもしれないけれど、ただ動けなかった。そんな俺を彼女は片手で軽く摘むように持ち上げて「お兄ちゃん?」と言ったのだ。
3
少女の名前を葉月といった。
と言っても俺はカナヘビであったから、発声器官も未成熟というよりそもそも無かったし、彼女の名前を呼ぶことはできないのだけれども、葉月が彼女の名前であるという認識はちゃんとあった。
そして俺は初対面の時から相変わらず『お兄ちゃん』と呼ばれていた。
正確に言えば、二人っきりの時しかお兄ちゃんと呼ばれることはなかった。たとえば、親に俺のことを見せる時はカナヘビちゃんとまるでデフォルトネームで呼ばれていた。
なぜお兄ちゃんと呼ばれるかは全くわからない。
そのように見ていた相手がいて、それの代替品として俺は扱われていたのだろうか?
となると葉月が妹ということになるのだろうけれども、俺を可愛がるのは葉月一人であったし、たまに見かける人物も葉月の両親ぐらいだったからどうやら一人っ子であるのは間違いない。
ただ、カナヘビだった頃の俺はそもそもお兄ちゃんという言葉が何を示しているのかさっぱりわからなかった。
俺のことを葉月はお兄ちゃん、もしくはカナヘビちゃんと呼んでいる。それさえわかればあとはどうでもいい。
ただ安全な暮らしが保障されるのなら、どういう扱いをされても構わないのだから。
葉月は俺のことをカブトムシを飼うようなプラケースの虫籠に入れて可愛がっていた。
フタは閉められずに、代わりに半分をタオルで覆って日差しを遮れるようにしてあった。そのおかげで熱は篭らないし、カナヘビは壁を滑らかな壁を登れないから合理的と言えば合理的である。
虫籠の中には土が引き詰められて、土に半分埋められた木とそれに水を注ぐ用の小皿が置いてあった。
餌は粉を水で練った人工餌。
味はまあ美味しくもなく不味くもなく、とにかくちゃんと食べれることが有り難かった。
運がいいことに虫籠をちょうど窓際に置いてくれたから、日常に退屈することはなかった。
日が登ってしばらくすれば、目覚ましが鳴り響いて葉月が起き上がる。
彼女は眠そうに目をこすりながら、決まって「お兄ちゃんおはよう」と俺に向かって投げかけて部屋の外に出ていく。
その言葉を受け取るためだけにわざわざ俺は部屋の方まで壁際に近づいて、壁にぺたりと手をくっつけるのだが彼女はそのサービスに気づくことはない。
それを見送って、今度は逆に窓際の方の壁に近づいていく。
木の上によじ登れば、ちょうど玄関前から道路に繋がるところが見えた。そうして葉月が登校していくのを見送って、また彼女が帰ってくるまでひたすら日の光を浴びてじっと待っていた。
どうしても直射日光と暑さに耐えきれない時は木の影もしくはタオルの影に隠れて、水を舐めながら耐え忍んでいたけれども、基本はそんな感じ。
そう、たまにあの日出会ったあの黒猫が窓際にやって来ることがあった。2階だというのに、どういう経路を辿ったか分からないけれども、とにかく窓際に姿を現し、虫かごに囚われた俺のことを見てにゃーと何かを抗議するように鳴いていた。
そんなところに引きこもってるんじゃねーよとでも言いたかったのかもしれないけれど、自分からここから出る方法もなかったし、出る気もなかった。
そんな馬鹿なことをすれば、あの日みたいに襲われて、なんとなく叩き殺されたり、頭を丸齧りされるに決まっているのだから。
そんな黒猫も長居することはなく、そのままどこかに通り過ぎていって、またのんびりとした気の抜けた時間が帰って来る。
そうしていると葉月が帰ってくるのをみて、また俺は慌てて準備をする。あざとい事に、バンザイするかように、部屋の内側のアクリル壁に向かって寄りかかる。
そうすると彼女が喜ぶとわかっていたから、ぱっと花を咲かせるように笑って「ただいまお兄ちゃん!」と言ってくれるのが嬉しくて、俺はいつもそうしていた。
葉月は俺に餌をやる時、きまって虫籠から出してくれた。
といっても俺に逃げ出す意思もないのだから、それで何かが起こるというわけでもなく、机の上で大人しくじっと待っていた。
正確に言えば、机の上の50音表の上。
といってもただの50音表じゃなかった。
や、ゆ、よ、の間の空白に「はい」と「いいえ」が付け加えられていた。
コックリさんみたいな奴だな、冷静に考えたら。
あれは一番上のところに「はい」と「いいえ」と神社のマークを置いていたから、あそこから着想を得ていたのかもしれない。
彼女も似たようなことを考えていたのだろう。
そう、葉月は10円玉の代わりにカナヘビを使って、俺との意思の疎通を図ろうとしていた。
どう考えても無理に決まってるし、カナヘビの知能で50音の中から意味のある言葉を紡げるはずがなかった。
どれだけ偶然が積み重なったとしても、だ。
チンパンジーがどれだけキーボードを叩いても戯曲を作れないのと同じように。
まあ、でも、少なくともカナヘビにしては俺は頭が良かったのだ。
50音から意味のある言葉を作る事は無理だったとしても、「はい」と「いいえ」は一つで完結しているのだから、そこを行き来さえすればいい。
彼女もまたその事を分かっていたのか、そこの二つを選択するように俺に教育を施していた。
はじめらへんは「はい」と「いいえ」の枠をつついて、そのどっちかに辿らせる事に成功したら俺に餌を渡す。
それを辛抱強く何回か繰り返すことでようやく、俺は何かがあった時、どちらかに行くことを求められているのだと気づいた。
はたして、俺ははいといいえの二択を選べるようになった。
だからといって、彼女と俺の意思の疎通ができるようになったなんて、そんな訳はない。あくまでこれは擬似的なやり取りに過ぎない、生き物を使ったコイントスみたいなものだ。
それでも彼女は俺を使うのをやめなかった。
葉月の小学校であったたわいのない出来事、同学年の男子の知能が低すぎるという愚痴、勉強がめんどくさいという我儘を聞きながら、たまに彼女から何か意見を求められる。
二択で答えられるような質問、「お兄ちゃん、教えて?」と餌を差し出されて、答えを問われる。
そういう時、葉月は大体肯定を求めていた。
いいえを選んだ時に彼女の顔色が曇ることに気づいたのだ。
だから、質問の意味はわからないけれども、俺は基本的には「はい」を選んでいた。
毎回選ぶことはない、何となく気まぐれで「いいえ」を選ぶことはあったけれども、コイントスというにはあまりにも偏りがあったように思える。
4
暑くなってきたある日のことだった。
目覚ましも鳴らない朝、葉月は布団を頭まですっぽり被って身動き一つ立てなかった。
「葉月、早く起きなさい」
扉の向こうから葉月の母親の声がした。
けれども彼女は返事を返さない。ぴくりと一度布団が揺れたから起きているだろうに。
しばらくして、痺れを切らしたのか日頃見かけない黒い服に身を包んだ母親がずかずかと部屋に入ってきて、布団をあっさりと引き剥がした。
布団を引き剥がされた葉月を見て、俺は思わずギョッとした。
彼女は布団の内側で声を殺して泣いていた。なのに、それを見ても何とも思わないのか淡々と母親は言う。
「もう何回も説明したでしょ、今日は絶対に行かなきゃ行けないって」
「……行きたくない」
「そんなのわかってる、みんなね。でもね、逃げちゃいけないの。そうやって生きているんだから、ね?」
それだけ言って、葉月の納得も待たずに部屋を出ていった。
オロオロと虫籠の中で右往左往しているうちに、葉月はゆっくりと身を起こしてこっちへ向いた。
目線がぴたりととぶつかり合う。
まるで何かを決めたかのように、真っ赤に目を晴らしたまんま彼女はこちらに近づいてくる。
文房具を刺して置いておく用の空き瓶から中身を全部取り除いて、そこに俺を放り込んだ。ノートを一枚破って、それで入り口を覆って輪ゴムが何かで縛りつける。
といっても俺に吸盤はないから空き瓶の壁は登れないのだけれども、そう思っていると無造作にリュックの中に放り込まれた。
ああ、そういうこと。
簡易的なお出かけ用の装備といったところか。
リュックの中は暗闇だった。
ただ歩くスピードに合わせてゆらゆら揺らされて、少し気持ち悪くなるぐらい。
外の世界で何が起きてるのか、そしてどうしてわざわざ俺が連れ出されたのか、全くわからなかった。
暫くそうしていると、なんとなく悲しくなるような匂いがしてきた。それに、どこかで聞いたような懐かしい人の声がいくらか聞こえて来る。
何を言ってるかはリュック越しでくぐもって分からないけれども、それでも確かに何かを聞いたことがある言葉。
会話が途絶えて、リュックの中に光が差し込んできた。
あの不思議な匂いはより一層強くなっている。きっと近くにその発生源はあるのだけれども、俺が入った瓶を彼女がお守りのようにぎゅっと両腕で抱え込んでいるから、どこからその匂いがするのか分からない。
全周は腕で囲まれて、上は紙の蓋、下は畳と何も見えない。
聞こえるのは何かを囁くようなはっきりと形のない呟きばかりで、「ああ、来たんだ」という言葉がそこに滑り込んできた。
ガツンと記憶を揺すられるような、懐かしい声だった。
思わず叫んでしまいそうな、俺に声帯があったのなら窓ガラスが割れるぐらいの声が出たに違いない。
その気怠げな沈んだ声は俺に向けてではなく、きっと葉月に向かって言われたのだろうけれども、彼女は一向に返事をしなかった。
「……ね、葉月のことを私は怒ってないよ。あれはあの馬鹿が選んだことだから」
馬鹿って言うなって、わけもわからないツッコミが胸に浮かんできたけれども、俺にはその意味がわからない。
知らない誰かが葉月に向かって何かを語りかけている、意味のわからない言葉の群れなのに、どうしてかそのたわいもない言葉が俺の心をせっついて来る。
知らない誰かは葉月の事を慰めていて、
それら全ての言葉を葉月は拒絶していた。
正確に言えば、起きた事実を彼女が認めようとしなかった。
だから慰めも受け取らない。だってそうされる筋合いもないのだから、彼女にとっては起こってない事実なのだから。
そうして、かちりと炸裂を起こしてしまった。
「…んでないよ、お兄ちゃんは死んでない!
ここにいる!お兄ちゃんはまだ生きてるんだから!!」
呆れたように誰かがため息をついたのが聞こえた。
「それなら、私に見せてよ、生きてるならここに連れてきてよ」
パッと腕が取り払われて、瓶の中に明かりが差しこんできた。どこにいたのか、ようやくわかった。
和室、正確に言えば俺たちは仏間にいた。
真っ先に視界に入ってきたのは経机に置いてある額縁に入れられた写真だった。映っているのは中学生にもならないであろう男の子。
俺だ、俺はあいつだ。
なんの躊躇いもなく、スッと受けいられたのが不思議ではあったけれどもそう理解してしまった。
俺はもう一度死んでしまってこの身体になったのだ、あそこにあるのは遺影に過ぎない。
一気に人間としての意識が押し寄せてきて、今まで聞いてきた言葉が意味を持った形として再認識される。
先程まで聞いていた、あの聞き覚えのある懐かしい声も、誰のものなのかもすぐに思い出した。
姉が瓶の中を覗き込んで、一言言った。
「なんだ、ただのカナヘビじゃない」と。
まあそうなのだけれども。
瓶の壁をペチペチと叩いて抗議するより先に、葉月の反応の方が激烈だった。
選んだのは逃走。
瓶を抱えたまま、仏間を飛び出して、姉が呼び止めるのも無視して家への外へと飛び出していく。
俺はと言えば、ぐるぐると動く壁にビタンビタンと叩きつけられてふわっと意識が遠のいていった。
5
川に遊びにいくのは小学校に上がってから、そう約束をしていた。
誰がって、俺と葉月がだ。
だからその夏のある日、約束に従って、姉と俺とようやく小学校に上がった葉月とで川に向かったのだ。
あらかじめ約束はしていた。浸かるぐらいならいいけれど、泳ぐのは禁止だと。
自分だって泳げるもん、とは言っていたけれどもプールで泳ぐのと川で泳ぐのは全然違うことだったから、そこまで安全を担保できなかった。
まあ少なくとも俺はそこそこに慣れている自信があったから、ゴーグルを付けて川底まで潜って、そこに転がった綺麗な石を葉月にプレゼントして機嫌を取ったりしていた。
後から思えばそれが良くなかったのだと思う。
俺が最も簡単にそんなことをしていたから、自分も簡単にできるんじゃないかと勘違いしていたと言うこともあっただろう。
一緒に遊びにいくなんて約束をしていたけれど、葉月の世話もまっぱら姉に押し付けていた。
姉は面倒見よく、ただ中学校に上がってまで川で泳ぐ気力はなかったのか、着の身着のまま、葉月が浅瀬で生き物を探すのを手伝っていた。
簡単な水中メガネ、虫籠を水面に押し付けて水中に潜む生き物を探していた。
俺は泳ぎ疲れて河原にぼんやり腰掛けていた。
一応スク水は着ていたものの川の中腹まで行くことを禁止されていたから、幾分か葉月は不機嫌そうに見えた。
一度こちらをチラッと振り向いて、葉月は駆け出した。
何でかなんて、もう確認しようがない。自分がもうとっくに泳げることを示したかったのかもしれないし、ただ何となく反抗したかっただけなのかもしれない。
一番近くにいた姉は咄嗟に追うのを躊躇ってしまった。泳ぐ用の服装をしていなかったから、まあ無理もない。
止まりなさい、何で大声を出したけれども彼女がそれで止まるはずもなく、あっさり川の真ん中らへんに辿り着き、ぷかぷかと気持ちよさそうに漂っていた。
葉月がチラッとこちらを振り返って、私だって泳げるんだからと俺に向かって手を振って、俺はまだ石に腰掛けたまま手を振り返した。
本当に泳げたんだと思いながら、これなら姉を連れてくる必要もなかったなと。
肩を怒らせながら姉がこっちに近づいてくる、きっとすぐ連れ戻すように俺に指示する為に。
やれやれと首を振って立ち上がって、ふと先ほどまで葉月が浮かんでいた場所に誰もいないことに俺だけが気づいた。
さっと一瞬にして血の気が引いた。
考えるより先に身体が動いていた。
河原を駆け始める、姉の隣を通り過ぎて、川に飛び込んで。
まだ、葉月の姿は見えない。
姉の声が飛んでくる、言っちゃダメという正反対の指示が。
それをあっさり無視して一度大きく息を吸い込んでフッと深く水の中に潜り込んだ。
がぽっという音で、一瞬で陸上の音が遮断される。
葉月は確かに居た。
でも、さっきいた場所よりだいぶ流されている。
水面に手を伸ばして必死に藻搔いている姿を視界に捉えて、届いても居ないのに少しだけ気分が楽になった。
まだ、間に合う。これなら追いつける。
一度水面に浮上して息を入れる。
振り返り、まだ慌てている姉に向かって一度手を振って葉月を助けるためにまた潜航する。
先ほどより動きは緩慢になっているように見えた。俺がすぐ近くに近づいていると言うのに、気がつくそぶりすら見せない。
手を、掴んだ。
そのまま引き上げようとして、俺が失敗したことに気づいた。
まず第一に他人の身体は予想以上に重いということ、第二に逆に自分が水中に引き摺り込まれてしまったと言うこと。
水中の大きい石を持ち上げようとするのと大差がないっていうことに、俺は気づいていなかった。助けられる側に意識がなければ、とてつもなく難易度が高いことだってことを俺はまだ知らなかった。
姉が行くな、と指示をしていたことは間違いではなかった。下手をすれば二人とも溺れるだけなのだから、葉月を確実に助ける手段を用意してからじゃないとダメだった。
でも、もう遅い。
水を大きく飲み込んでしまったことで時間はもう殆ど残されていなかった。俺が助かることを真っ先に考えるべきだ、そんな考えがチラッと頭をよぎって、葉月と目があったような気がした。
もうほとんど意識はなかったであろう彼女と。
その時点で俺と葉月の命運は決まった。
決めたんだ、どんな手を使ったって助けて見せるって。
水面は遠く、ずっと遠く。
川の流れは無常にも俺たちを押し流していく。
それでも葉月を抱き抱えて、少しでも川岸に近づこうと足をばたつかせる。
自力だけでは多分無理だから、きっと姉が助けを呼んでくれてるだろうと信じて、それが来た時になるべく早く助かるようにできるだけ近くに。
どんどんと意識が暗くなる。
果たして本当に助かるのだろうか、助けられるのだろうか、恐怖に飲み込まれそうになって、それから逃げるためだけにがむしゃらに足を動かして。
意識を手放す最後の最後、ほんの一瞬手前。
まだ眩しく輝く太陽に向かって、葉月の背中を軽く押したのだけを俺は覚えている。
6
過去の追体験も終わって、気が付けば俺は空き瓶の中へと戻っていた。
ぎゅっと腕の中に抱きしめられているけれど、その隙間からは河原が見える。あの日、あの時俺が死んでしまった場所に、俺はまた戻ってきてたのだろう。
もうすっかり昔のことを思い出していた。
葉月がいう通り、確かに俺は彼女の兄であり、彼女は俺の妹だった。
「お兄ちゃんは生きてるよね」
どろりと濁った目で見下ろしながら、彼女はそんなことを言う。
ああ、壊れてしまったのだ。
俺が彼女を壊してしまった。
俺が死んでしまったから、葉月を残していなくなってしまったから、こんなことになってしまったのだ。
どうすればいい? 俺はどうすれば良かった?
このカナヘビの身体じゃ何もできない、声も出せないのだから。せめてあの50音表があれば何かを伝えられたのに、肝心な時に限ってないのだからどうしようもない。
「わかってる、カナヘビちゃんがお兄ちゃんじゃないって」
川の流れる音に紛れて、空き瓶にそんな声が降って来る。ポタポタと降って来るのは大粒の涙、どうしようにも俺はそれを止められない。
生まれ変わることができたのに、生憎人ではなかったけれども、葉月のすぐ近くに生まれることができたのに、その事を伝えられることができたのであれば、きっと少しの助けになるはずなのに。
どうしたってここからじゃ、手も届かないから。
くるっと空き瓶が回って、俺はポトリと軽い音を立てて地面に落とされた。
「さよなら、カナヘビちゃん」
いや、育児放棄かよ。
と心の中でツッコミを入れるけれども、口も無ければ抗議することもできない。
河原の斜面の草むらに俺を残して、一度も振り返ることなく彼女は去っていく。
まずい、何がまずいかと言ったら、彼女の移動スピードにどうしたって追いつけないことだ。
うろ覚えの前世の記憶に従えば、きっと彼女の家には辿り着くことが出来るだろうけれども、人の体でも無ければ結構な時間が掛かる。
それはつまり、どういうことかというと。
天敵に襲われてしまうということだ。
数歩も歩かないうちのことだった。
胴に強い衝撃が走り視界が明滅して、気が付けば少しだけ視界が高くなっていた。
ぶらぶらとした浮遊感、手足をよじるも空を切るばかりでどこにも届かない。
首を少し傾ければ、自分が黒い嘴に捉えられているのがわかった。
詰み、である。
運が良かったと言えるのは一撃で仕込められず、丸呑みにされなかったから猶予時間がほんの少しだけ残されていることぐらい。
ギリギリと身体を挟み込む力は弱まることはなく、咥え直しの瞬間はあれど身を捩ったところで力が加わる場所が変わるぐらいだった。
ぱきりと軽い音がして喉元からこぽりと血が込み上げて来る。
軽骨が折れる折れる。背骨は折れてはいないけれども、もう致命傷を負ってるに違いなかった。
意識が遠ざかっては、また引き戻される。
もうきっと、このまま意識を手放して仕舞えば死んでしまえるに違いない。
たまに鴉が空を飛んで、その着地の際に走る衝撃で身体を引き裂くような痛みが走り、一瞬視界が眩しくなるけれども、とうに限界だった。
ここから逃げたところで、葉月の元には戻れない。
でも、これで良かったのかもしれない。
死ねばまたやり直せるのだから、そしたらカナヘビの体ではなくて人間としてまた会いに行くことができる。
トライアンドエラーを繰り返す事によって、もっと都合がいい身体を探しにいけばいい。
――現世にさよなら、また来世。
それでも、それでもだ。
暗くなりゆく視界を、ぎゅっと噛み締めて意識を再び掴み直す。
まだ、やらなきゃいけない事が残っている。
チャンスは一瞬、俺を咥えた鴉がもう一度飛んで着地した瞬間。
決まってその時に、こいつは咥え直しを挟む。
狙えるのは、動けるチャンスがあるのはそこだけ。
もういつ飲み込まれるかもわからない、次にチャンスが訪れるかも、その時に自分がまだ動けるかもわからない。
だからそれを見逃さないように必死に目を凝らしていた。
鴉が、宙を飛ぶ。
ほんの数秒の滞空、そしてフェンスの上への着地。
今!
体に残ったありったけの力を込めて身を捩ったのと、身体を押さえつける力がふっと緩んだのはほとんど同時だった。
もうこれ以上はないと言える、ドンピシャのタイミング。
それでも、逃げきれない。
プランと身体が宙に浮かんでいる状況で、俺は空を見上げた。
嘴の端に引っかかったのはあまりに長すぎた尻尾、それを見て俺は口を大きく広げた。
何を足掻いてるんだと馬鹿にするような目で、鴉が俺のことを見下ろしている。
だが、最低限の勝利条件を俺は満たしていた。
これならやれる、これなら逃げれる。
また下を見下ろして、運良く目下に空き地が広がっていることを確認し、俺は覚悟を決めた。
ケツのあたりに力を込めた瞬間、ピッと軽い音が走るの同時に身体が自由落下を始めていた。
カナヘビの尻尾を掴んでも意味が無い、ということをまだその鴉は知らなかった。
尻尾だけならば、自切という手段が残されている。
今まで飼育されていたから使う機会がなかったけれども、上手く行った。後は草むらに逃げ込めば良い。
軽い衝撃、ただ嘴で万力が如く締め付けられるよりはずっとマシ。
すぐさま逃げ出そうとして、けれども身体が全然前へ進まない。
まるで後ろ足を何かに掴まれているかのように、枝か何かに引っかかったのかと後ろを振り向いて、後ろ足が二本ともありえない方向に折り曲がっている事に気がついた。
多分きっと、とっくにそうだった。
着地に失敗したとかではなくて、嘴に挟まれた時に、纏めてぐちゃぐちゃに折られてしまったのだろう。
逃げられないというより考えより先に、『ああ、これじゃ葉月の家まで辿り着けないな』という諦めが来た。
だから仕方がない。やれることは全部やったし、もう死ぬしかない。
ただ鴉が取り落とした獲物を拾い上げに舞い降りて来るのをじっと待つ、もう草むらに逃げ込む気力も尽きていた。
不思議なことに、一向に鴉が舞い降りて来る羽ばたく音は聞こえなかった。
聞こえるのは葉が風で揺れる音、それに微かに響く鈴の音。
もうずっと前に聞いた、あの涼しい音色が少しずつこちらに近づいてきていた。
鴉が近づいてこないのは、自分よりも強いものが現れてしまったからだろう。
霞む視界の中、黒猫が俺の目の前でようやく歩みを止めた。
あの日、俺と葉月を引き合わせたあいつ。
そいつの顔がぬっと近づいてきて、ふんふんと鼻を鳴らして血の匂いを嗅いでいた。
思わず目を閉じる。もはやこれまでと思って全身の力を抜くと、身体を湿った感触が撫でていった。
そう、猫のざらっとした舌!
まるで俺を労るかのようにペロリともう一度舐めて来るの確かに見て、俺は思わず目を瞬かせた。
まるで何かを慈しむような優しい目で俺のことを見つめられて、俺は今まで何かを勘違いしていたのかもしれないと気づいた。
もしかしたら、こいつも俺と同じ生まれ変わりで俺のことを同じ元人間だと直感的に感じていたのかもしれない。
あいにく俺は言葉を発せないし、猫の言葉もわからないけれども、それならば。
いまだ健全な前足を動かして、黒猫の鼻にぴたりと触れる。
言葉は無い、ただ思うだけ。
それでも、きっと伝わってくれるような気がした。
ひたすら願っていると何かを感じたのか、黒猫は軽く頷いて、俺の身体をカプリと咥えた。
そっと優しく、身体になるべく衝撃が伝わらないようにゆっくりと黒猫は歩き始める。
目指してほしい場所は、ちゃんと伝わっているようだった。
7
黒猫が窓ガラスを数回前足で叩くと、カーテン越しに部屋が明るくなるのが見えた。
ダメ押しのようにコッコッと叩けば、躊躇いがちにほんの少しだけ窓が開く。
不用心だな、そう思っているうちにその隙間に黒猫が身体を捩じ込んで、室内へと侵入した。
「あっ、もう! 駄目だって!」
もうすっかり夜更けであったから小声で注意するも、一切意に返さず、俺のことをいつもの50音表の上へとポトリと落とした。
自慢げにそいつはニャアと鳴き声を上げて、そのまま外へと出ていった。
落とす場所も含めて、やっぱり、あいつも前世は人間だったんじゃないかと思うけれども、もう話す機会もなさそうなのが残念だった。
何を落としたのか、葉月が俺のことを覗き込んでくる。
真っ赤に腫らした目で、きっとあまりにボロボロな姿だったし、尻尾も切れてしまっていたから、ぱっと見ではわからなかったのだろう。
暫くじっと俺のことを見つめて、ようやくそれがなんなのかに気づいたのか、ひっと悲鳴をあげて口を手で塞いだ。
こちらに手を伸ばそうとして、まるで腫れ物を触るように微かに触れてまた手を離す。
「……私が、私があそこに逃したせいでそうなっちゃったの?」
目が涙で滲んでいくのが見えたけれども、もうどうにも身体が動かなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい――だって、だって、私に付き合わせてるだけだと思ったから、だから外で暮らす方がずっと幸せだと思ったの、そうなるとは、そんなにすぐ死んじゃうなんて……っ」
ポロポロと涙の雨が降って来る。
それがほんの少しだけ口を湿らせて、ああしょっぱいなぁと思いながら俺はグッと前足に力を入れた。
本当に最高のお膳立てをしてくれたからには、俺が着地を決めなきゃいけないことぐらいわかっていた。
てっきりもう死んでいだと思っていたのか、徐に動き始めた俺を見て葉月は動きを止めている。
気づいてくれると信じて、俺は50音表の上をのたくって二箇所を一往復する。
たった三文字。
それでも途中で動きを止めることは出来ない。きっちりとその位置で止まって、また動き始めて、再び終点で足を止める。
『な く な』
伝わるか伝わらないかは半分賭け、それでもひゅっと息を吸い込む音を聞いて、俺は快哉を叫びたい気分だった。
その代わりに込み上げてきたのは血なのだから、全くどうしようもなく俺には時間が足りなかった。
万全の体であれば、怪我さえなければいくらでも意思の疎通が出来たというのに、結局は無い物ねだりでしかなかった。
どうすればいい、残り少ない時間で俺は葉月に何を伝えられる。
ぐるぐると回らない頭で考える。いままでの感謝でもない、恨みつらみでもない、何か次に繋がる何かを残さなければいけない。
明日に希望を持てるように、そのために俺は何を残せる?
約束、そう約束をしよう。
明滅する視界の中、次の文を描くべく俺は身体を前へ前へと動かし始めた。
彼女と約束をしよう。
葉月が待っててくれるように、
そして俺が戻って来るために。
俺はここに確かに居た。
ほんの少しだけ居なくなるけれども、一時のことだと思っててくれるように。
それが叶うかどうかなんて、実際わからないけれども、それでも。
『ま た か え る か ら』
そこまで動き切って、全身から力が抜けた。
寿命が砂時計で表されるとしたのなら、もうほんの数粒しか俺には残されていないだろう。
葉月が、俺の身体を手のひらで包んで部屋の外へと飛び出していく。もう手遅れだとわかっているはずなのに、病院へ連れてくからと譫言のように呟いている。
大丈夫、きっとこれで大丈夫なはず。
俺がいなくなっても、また帰って来ると約束をしたのだから。
来るかもわからないその日まで、きっと葉月は頑張ってくれるだろう。
それがたとえ終わりのないマラソンだとしても、もちろん俺はそれに終わりがないなんて信じたくはないし、そのために努力はするつもりだけれども。
葉月が母親に向かって何かを叫んでいる。
きっと大きな声のはずなのに、テレビのリモコンで音量を下げるかのようにぎゅっと小さくなっていって、とうとう世界が消音状態になってしまった。
それが限界だった、全てが遠ざかる。
世界の全てがぐるぐると渦巻いて、漆黒の海に沈んでいく。
今度も生まれ変われるのかな、意識が吸い込まれる最後の最後で俺はそう思っていた。
きっと善業を積んだから、前回は生まれ変われたような気がした。
その理論で言うなら、今回も生まれ変わることはできるだろう。
でも、神様に一つだけお願いをするとするならば。
せめて、また生まれ変わるならカナベビではなく、自由気ままに生きれる猫にして欲しい。
俺はそう願っていた。
8
私は、その話を聞いて金縛りにかかったかのように動けなくなっていた。
もしかしたら、白昼夢を見ているのかもしれない。
ようやく大学も卒業して、社会人になって、そうして社会の荒波に揉まれて晩御飯を作る気力も無くなって、偶然入り込んだファミレスがここだった。
普段なら入り込まない場所だった。
適当にアラビアータとサラダを頼んで、適当に摘んでいるうちに、気が付けば後ろの席で最近見る夢という体で話が始まっていた。
おそらく男子高校生二人組。片方がひたすら話して、もう片方が適当に相槌を打って特に話を聞く気もなさそうな感じ。
その彼に変わって、その話を聞き入っていたのが、盗み聞きをしていた私だった。
前世、カナヘビというキーワードを聞いた時点で、意識はもうすっかりそっち側に引き込まれていた。
どんどん味も抜け落ちていって、もう何を食べたのかもわからない。
空っぽの皿にフォークを置いて、代わりに家の鍵を取り出した。
目的はそこに付けられたキーホルダー、子供の頃にガチャガチャで引いたトカゲのやつ。
カナヘビと括りを作ってしまうと全然お目当てのものは見つからなかったけれども、代わりにトカゲのやつならいくらでもあったから、それを代用品につけていた。
子供の頃の思い出、いままで誰にも詳しいことを話さなかった秘密の話。
カナヘビを飼っていたことだけなら、知っている人は両手で数えるほどの数ではあったけれども居ただろう。
ただ、本当に最後にあったあの出来事に関しては誰にも言ったことがなかった。
カナヘビが言葉を理解していて、泣かないでと励ましてきたり、また帰って来るからとか約束をしてくれたとか、そんなことを言ったって誰も信じてくれる筈はないのだから。
その証拠であったカナヘビも、あの約束をしてすぐ死んでしまったから、もしかしたらあれは私が見た都合の良い夢だったのかもしれない。
身勝手に河原に捨てて帰って、それが野良猫に連れられて帰って来て、死の間際にまた帰って来るなんて約束してくれるなんて、そんなのあり得るのだろうか?
今の私ならあり得ないと断言してしまうだろう、それが私に起こったことだとしても。
だから、それを戒めとして残すことにした。それがちゃんとあった話だと忘れないために、どうしてそれを付けるようになったのかを覚えていれば、あったような気がするという朧げな記憶に、確かな形をつけることができるような気がして。
そして今、そのトカゲはちゃんと仕事を果たしていた。
手に固く握りしめられたキーホルダーが、これが間違いなく現実であると告げている。
振り返って、彼に話しかけたかった。
子供の頃、私もカナヘビを飼ってたんですよって、
奇遇なことに私も葉月って名前なんですよって、
私の顔に見覚えはありませんかって、なんの躊躇いもなしに話しかけられればよかった。
そんなの、無理に決まってる。
頭がおかしい奴が来たって思われるに決まっているのだから。
でも、本当のところで一番恐れていたのは、振り返ったら後ろに誰も座っていない事で。
最初から最後まで徹頭徹尾、私が幻聴を聞いているなんてこともあり得るような気がしたから。
だから、私は金縛りを振り払って席を立ち上がった。
鞄を引っ掴んで注文票を握りしめて、一度も振り返らずに会計を済ませてすぐにファミレスを出た。
これで良い、夢は夢のまま終わらせて仕舞えば良い。
約束は果たされて、確かに昔飼ってた『お兄ちゃん』は帰って来ることが出来たのだろう。
それで良い、それだけで救われるような気がした。
失われたものはたくさんあって、取り返しのつかないこともたくさんあったけれども、それさえわかれば十分だった。
外に出れば、冬がヒタヒタと近づいて来ることを感じさせる身を切るような冷たい風が吹き荒んでいた。
吐く息も白く、けれどもすぐに風でかき消されてしまう。
歩道に出て、歩き始める。
ファミレスのガラス窓を通り過ぎ、ほんの一瞬欲望に駆られて私は店内を覗いてしまった。
先程までいた私の席はもう店員が片付けを始めていて、その隣の席には気だるげにスマホをいじっている男子高校生が一人腰掛けていた。
私と背中合わせに、ベラベラと夢の話を語っていた彼はどこにも居ない。
それに気がついた途端、私は迷いなく背後を振り返った。
ある直感に突き動かされるままに、たまたま彼が席を外しているなんて考えられなかった。
はたして、学ランに身を包んだ男子高校生は確かに後ろから私のことを追いかけてきていた。
何かを片手に掲げて、足を止めた私に追いつくのもすぐの事だった。
「お姉さん落とし物っ、家の鍵を落としてるよ!」
そういって差し出された家の鍵とキーホルダーを、勤めて無感情な表情で受け取って私は素直に頭を下げた。
無造作に鞄に突っ込もうとして誤って落としてしまったのだろう、ただそれだけの事。
そのまますぐに帰ればよかったのに、何をいうまでもなく私はその場に立ち惚けていた。
何かに期待して、何かが起こるんじゃないかと思って、その場から動けなかった。
それはきっと、目の前の彼も同じ事だったのだろう。
彼もまたすぐ帰れば良いのに、その場からぴくりとも動こうとしなかった。
頼むから何かを言ってくれと念じて、けれどもそれ以上何も言わないまま彼は踵を返して、とぼとぼとファミレスへと戻っていく。
行く、行ってしまう。
これを逃したらもう彼とは二度と会えないような気がして、そうわかっているのに私の口は石になってしまったかのように動かなかった。
でも、どうしろというのだ。
夢と今の私は面影は残れど、きっとだいぶ変わっていただろうし、彼が気づかないのも無理はない。
気付けない人にそんな戯言を言ったところで、何がどうなるって?
それでも、
それでも。
私にできる精一杯を。
一歩踏み出せば、次の一歩はとても軽かった。
歩きながら鍵からキーホルダーを取り外す。自分がこれから何をしようとしているのか、もう一度考えて、頭のおかしさに笑いが込み上げてきた。
それでも良い、頭がおかしい奴だと思われてもいい。
彼に追いついたのは、ファミレスの入り口のちょうど手前。
肩を叩いて、振り返った彼の手のひらに無理やりトカゲのキーホルダーを押し付ける。
「鍵を拾ってくれた、お礼。要らなかったら捨てても構わないから」
それだけ言って呆気に取られる彼から距離を取る。これで終わり、あれさえ無くなればもう全部忘れてしまえる。
そうして私達は別々の道へ進んでしまえば、キリがいい。
「ちょっとだけ、ちょっとだけ、君のカナヘビの夢の話を聞かせてもらったから、そのお礼も含めてね」
澄ました表情で、何事もなく私は言えただろうか?
わからない。ただ、これが自分にできる精一杯。
最後に一言だけ、彼の言葉を聞いたら帰ろうと思っていた。
その彼はもらったキーホルダーを目の前にぶら下げて、目を細めながらなんとなく呟きを漏らした。
「……落とし物を落としたお礼じゃなくて、俺が約束を守ったお礼じゃないの?」
それが最後の一矢。
彼はヘラッとした笑みを浮かべて、そう言った。