高校卒業を機に、何も告げず村を出た瀬尾悠生。

二年ぶりに帰省した彼を駅で待っていたのは、幼馴染の日向朱音だった。

腰まで伸びた黒髪。
褐色の肌に映える白い服。
そして、髪に結ばれた色褪せた朱色のリボン。

かつて悠生が何気なく渡したそのリボンを、朱音は今も大切に結んでいた。

悠生にとっては些細な善意。
けれど朱音にとっては、今日まで自分を支えてきた大切な記憶だった。

「ねぇ、どうかな。私、可愛くなれた?」

置いていかれた少女は、帰ってくる彼に見てもらうため、彼の好きな女の子になろうとしていた。

これは、二年ぶりに村へ帰ってきた青年と、彼を待ち続けた幼馴染の、少し重たくて甘い夏の一日。


1 / 1
朱色のリボンは、まだほどけない

 

 

 随分と、久しぶりに帰ってきた気がする。

 自分で言うのもなんだが、食べ物が新鮮で美味しいこと以外は、特徴もなければ面白味もない街――といえば都会ぶりすぎなくらい。

 正しく言うならば、村だ。

 

 森と小川に囲まれた静かな場所。

 朝になれば畑へ向かう人々の声がゆっくりと広がっていき、日が落ちる頃には虫の音だけが響いている。

 家々は古い木造で、住民同士の距離が近く、誰かが困っていれば自然と手を貸す温かさがある……といえば聞こえはいいか。

 とにかく、そんな典型的なまでの村。

 

 別にこの村が嫌になったわけでも、今でも嫌いなわけでも決してない。

 しかし、二年前。

 高校卒業を機に、もっと色んな世界を見てみたいと思った僕は、大学を他県に移してこの街を出た。

 

「変わんないなぁ、この村も」

 

 電車に揺られること2時間と30分。

 駅から降りて見える景色は、最後に見た景色と何ら変わりなかった。

 僕の現在住んでいるところでさえ、2年もあれば建物が変わり、見てくれも十分に変わったというのに、この村は20年経っても、変わらないままだ。

 ……なんて。

 懐かしい景色に昔を思い出しながら、実家へと続く帰路を真っすぐと進み始めようとして――思わず目に留まった。

 

(わぁ、)

 

 思わず、見惚れた。

 その美しさに、足を止めかけた。

 無論、そんなことをすれば変な奴だと思われかねないので、横目で楽しみながら、僕は駅の改札に向かう。

 

 綺麗な、人だった。

 腰まで伸びる、真っ黒な髪。

 肌は、この街ならではなのだろう、日に焼けた健康的な褐色肌。

 

 こうして遠目で見ても美人だと分かるほどの女の人だった。

(あんな人、村にいたっけなぁ)

 見るところ、自分と同い年くらい。

 どんだけ広く見積もろうと、5つは離れていないだろう。

 

 村には、小学校から中学まで含め一つしかない。

 故に、同い年は勿論2,3くらいの年の差であれば名前すら全員把握しているはず……なのだが。

(少なくとも、僕の記憶にはないんだよなぁ)

 二年という決して短くない月日の中で忘れてしまったか、それとも、そもそもこの村の住人ではないのか。

 

 ともかく、眼福眼福。

 そう思いながら、改札の前“誰かを待っているのだろう”女の子を傍目に僕は駅を出る。

 出ようと、通り過ぎた。

 その時だった。

 

「悠くん……?」

 

 一瞬、足を止めかけた。

 しかし、すぐに気のせいだろう、と足を動かす。

 この距離だし、うまく聞き取れない可能性だってある。

 

 そもそも、あんな美人が僕なんかを知っているはずがない。

 “ゆう”

 それは確かに、僕の中学までのあだ名ではあるが、そもそもそんな珍しいあだ名でもなければ、聞き間違いもよくある文字だ……そう、考えながらも

(あーあ。あんな子が僕の迎えに来てくれたらなぁ)

 なんて妄想を膨らませて、蒸し暑くも、どこか清々しい改札の外に出る。

 

「ただいま」

 

 自然と、その言葉は口から出ていた。

 何も変わらない光景。何も変わらないままで居てくれている村。

 あぁ。家に着いたら、まず何をしようか――

 

「お、おかえり!悠くん!」

 

 今度ははっきりと、僕を呼ぶ声。

 ガチ、と体が固まる。

 辺りをしれっと確認するが、僕以外の人影はない。

(え。僕?僕を呼んでる?)

 あまりにもありえない、想像。

 これで自意識過剰だったら、恥ずかしいな――そう思いながら、ゆっくりと振り向いた。

 

 振り向いた、その先には、さっきの女の子がいた。

 艶やかな黒い髪。

 服装も、健康的な褐色肌によく似合っていた。

 

 頭にのっている麦わら帽子。

 褐色肌によく映える白いブラウスは清楚で、体の線がよくわかる服装に目のやり場に困る。

 

 細い腰には布のリボンが結ばれ、その下で淡い色のロングスカートが風に揺れていた。

 小さな花柄の入ったその服は、村娘らしい素朴さがあって……なんと言えばいいか、言葉を選ばなければ僕の好みドストライクだった。

 しかし、そんな彼女の容姿――髪の片側を結んでいる色褪せた細いリボンに目が止まる。

 

(あれって、)

 

 脳が、記憶を遡る。

 細い、朱色のリボン……そのリボンには見覚えがあった。

 え、嘘だろ。

 もしも、あのリボンが、僕が“彼女”の誕生日あげたものだとするなら、この子は――

 

「え。日向……さん?」

 

 記憶の端、小中高となんだかんだ縁が続いていた女の子の名前が、喉から漏れる。

 

「……っ」

 

 嬉しいような、悲しいような、難しい表情をする女の子。

 次いで、キッ、と僕は睨みつけられた。

 

「なんで、そんな他人行儀な呼び方すると……?」

「え?」

 

 ずんずん、と僕の方に近づいてくる女の子。

 文字通り、目と鼻の先の彼女に心拍数は自然、跳ね上がる。

 

「え、いや、別に、そんな」

「名前、忘れちゃったの………?」

 

 不安気な瞳。

 慌てて僕は首をぶんぶんと横に振る。

 

「日向朱音……さん」

「さん付けなんかしとらんかった」

「ひ、ひなた」

「悠くんがうちのこと名字で呼んだことなんて、一度もなかった!」

 

 もはや泣いてしまうんじゃないか、と思えるくらいの怒り。

 僕は、意味もなく両手を上げる。

 ……いや、意味がないことはない。

 敗北者に、これ以上強い言葉を使わないでほしい、という意味で、両の手をあげる。

 

「あ、あかね」

 

 そう呼ぶと、女の子――もとい朱音は、にぱっ、という擬音がつきそうなくらいの快活な笑みで

 

「うん!おかえり!悠くん!」

 

 と、そう僕へと帰省の挨拶をくれたのであった。

 

 

 朱音と並んで、実家までの道を歩いた。

 駅から家までは、歩いて二十分ほど。

 道の両側には田畑が広がり、遠くには濃い緑の山が見える。

 夏の匂いがした。

 湿った土と、草と、水路を流れる水の匂い。

 都会にいた頃は、そういうものを懐かしむ自分を少し馬鹿にしていた。

 けれど、実際に帰ってくると、体のどこかが勝手に緩んでいく。

 

「懐かしい?」

「まあ、うん。懐かしい」

「そっか」

 

 朱音は嬉しそうに目を細めた。

 

「あそこの駄菓子屋さん、まだあるよ。悠くんが好きだったラムネも置いてる」

「まだあるんだ、あれ」

「うん。あと、川沿いの道も変わってない。悠くん、夏になるとあそこ歩くの好きだったでしょ」

「そうだったかな」

「そうだよ。夕方になると涼しくて好きって言ってた」

 

 朱音の話す村は、僕の記憶より細かかった。

 駄菓子屋。

 川沿いの道。

 昔よく登った木。

 小学校の裏にある水飲み場。

 神社の石段。

 どれも懐かしい。

 懐かしいのに、少しだけ違和感があった。

 朱音が話す村は、全部、僕を中心にしている気がした。

 

「今日、帰ってくるってよくわかったね」

 

 何気なく聞いたつもりだった。

 朱音は、少しだけ瞬きをした。

 

「おばさんに聞いたの」

「ああ、母さんに」

「うん。悠くん、うちには連絡くれなかったから」

「……」

 

 その一言で、喉の奥が詰まった。

 朱音は責めるような口調ではなかった。

 むしろ明るい。

 だからこそ、余計に何も言えなくなる。

 

「ごめん」

「ううん。いいよ」

 

 朱音は笑った。

 

「悠くん、そういうところあるもんね」

「そういうところ?」

「大事なことほど、言うの苦手なところ」

 

 靴底が、砂利を踏む音だけがやけにはっきり聞こえた。

 

「相手が悲しむかもって思うと、何も言わないで先に逃げちゃうところ」

 

 言い返せなかった。

 高校を卒業した日。

 僕は村を出た。

 親にはもちろん伝えていた。

 手続きも、引っ越しも、進学先も決まっていた。

 けれど、朱音には何も言わなかった。

 別に、意地悪をしたかったわけじゃない。

 嫌いになったわけでもない。

 ただ、なんとなく言えなかった。

 言えば、彼女はきっと寂しそうな顔をする。

 引き止めたりはしないだろうけれど、寂しそうに笑って「そっか」と言う気がした。

 それを見るのが嫌だった。

 だから僕は、何も言わずに村を出た。

 

「……怒ってる?」

 

 僕が尋ねると、朱音は不思議そうに首を傾げた。

 

「怒ってないよ」

「本当に?」

「うん」

 

 そこで一度、朱音は立ち止まった。

 つられて僕も足を止める。

 麦わら帽子の影から、朱音が僕を見上げていた。

 

「最初はね、捨てられたんだと思った」

 

 さらりと、彼女は言った。

 息が止まる。

 

「朝、悠くんの家に行ったの。いつもみたいに呼びに行った。でも、悠くんはいなかった」

「朱音」

「おばさんが教えてくれたよ。悠くんは大学に行ったんだって。都会で暮らすんだって」

 

 朱音は笑っている。

 笑っているのに、声が少しだけ乾いていた。

 

「うち、知らなかったなぁって思った」

 

 夏の日差しが、やけに強かった。

 

「でもね、おばさんが言ったの。悠生はまたすぐ帰ってくるわよって」

「母さんが?」

「うん。だから、うち、待つことにした」

 

 朱音は軽くスカートの裾をつまんだ。

 淡い生地が、風に揺れる。

 

「次に悠くんが帰ってきた時、ちゃんと見てもらえるようにしようって」

「……見てるよ」

「うん」

 

 朱音は嬉しそうに笑った。

 

「今日、見てくれたね」

 

 その言葉に、駅で彼女に見惚れていた自分を思い出して、思わず目を逸らした。

 

「……見てた?」

「見てた」

 

 朱音は即答した。

 

「悠くん、昔から綺麗な人見ると、見てないふりして視界の端で見るよね」

「やめて。そういうこと言わないで」

「ふふ。可愛い」

「可愛くはないでしょ」

「可愛いよ」

 

 朱音は、あまりにも自然に言った。

 

「悠くんは、昔から可愛い」

 

 からかうでもなく。

 照れるでもなく。

 ただ、真実を言うみたいに。

 僕はまた、返す言葉を見つけられなかった。

 

 

 実家に帰ると、母は玄関先で僕を見るなり「あら、帰ってきた」と言った。

 もう少し感動的な再会を予想していたわけではないけれど、二年ぶりの帰省にしてはずいぶん軽い。

 

「ただいま」

「はい、おかえり。朱音ちゃん、迎えに行ってくれたのね。ありがとう」

「ううん。うちが行きたかっただけだから」

 

 朱音は母に向かって、行儀よく笑った。

 その様子があまりに自然で、僕は少し驚く。

 

「朱音、うちによく来てたの?」

「うん」

「うんって」

「たまにね」

 

 朱音は笑ってごまかした。

 母は台所へ向かいながら、さらっと言う。

 

「たまにどころじゃないでしょう。あんたが村を出た後もしょっちゅう来てくれてたわよ」

「え」

「おばさん」

 

 朱音が少し慌てたような声を出す。

 母は気にした様子もなく、冷蔵庫から麦茶のポットを取り出した。

 

「悠生が帰ってくる日も気にしてたものね。あんたも、朱音ちゃんにはちゃんと連絡してあげればよかったのに」

「……それは、はい」

 

 何も言えない。

 母はグラスに麦茶を注ぎながら、こちらを見る。

 

「朱音ちゃん、卒業の日も来たのよ。あんたがもう出た後に」

 

 朱音の表情が一瞬だけ固まった。

 

「母さん」

「いいじゃない。言っておきなさいよ。あんた、昔から都合の悪いことは黙って逃げるんだから」

 

 母の言葉は軽い。

 けれど、刺さる。

 朱音は何も言わなかった。

 ただ、麦わら帽子のつばを両手で持って、少しだけ下を向いている。

 

「朱音」

「ううん。大丈夫」

 

 顔を上げた朱音は、もういつもの笑顔だった。

 

「今、帰ってきてくれたから」

 

 その言葉にも、僕はやっぱりうまく返せなかった。

 昼食は、母が作った野菜の煮物と焼き魚だった。

 都会では一人暮らしらしく、コンビニ弁当や学食ばかり食べていたせいか、妙に美味しく感じる。

 朱音も当然のように食卓にいて、当然のように僕の隣に座った。

 

「悠くん、魚の皮、今も苦手?」

「え」

「苦手だったよね」

「まあ、今もあんまり得意じゃないけど」

「じゃあ、取ってあげる」

「いや、いいって。子どもじゃないんだから」

「悠くん、そう言って結局残すでしょ」

 

 朱音は箸を伸ばして、僕の皿の魚から器用に皮を外した。

 母が「あらあら」と楽しそうに笑う。

 

「朱音ちゃんは昔から悠生の扱いが上手ねぇ」

「扱いって」

「だって本当のことでしょう。あんた、優しい顔して優柔不断だから、朱音ちゃんくらいはっきりしてる子がちょうどいいのよ」

「母さん、帰ってきて早々に息子を刺さないで」

「刺してないわよ。撫でてるだけ」

 

 痛いところを正確に撫でるのは、刺すよりたちが悪い。

 朱音は隣で、小さく笑っていた。

 

「悠くんは優しいよ」

 

 そう言って、僕の皿に魚の身を置く。

 

「だから、うちがちゃんと見てないとね」

 

 その言葉に、箸が一瞬だけ止まった。

 朱音は何事もなかったように、白いご飯を口に運んでいる。

 母は気づいていないのか、気づいていて気にしていないのか、台所の方で鍋を覗いていた。

 僕だけが、少しだけ息の仕方を忘れていた。

 

 

 昼食の後、母に「せっかくだから村でも歩いてきたら」と言われ、僕と朱音は再び外に出た。

 村を案内するも何も、僕はここで十八年暮らしている。

 知らない場所などない。

 そう思っていたけれど、朱音と歩く村は、少しだけ知らない場所みたいだった

 

「ここの道、舗装されたんだ」

「去年ね。でも途中まで。予算が足りなかったんだって」

「相変わらずだなぁ」

 

「あそこにあった駄菓子屋さん、今は午後だけ開いてるよ」

「へぇ」

「悠くんの好きだったラムネ、買う?」

「いや、いいよ」

 

「本当に?」

「……じゃあ、一本だけ」

「ふふ。そう言うと思った」

 

 朱音は、僕より先に駄菓子屋へ入っていった。

 店番をしていたおばあさんは、僕を見るなり「あら、悠ちゃんじゃない」と笑った。

 村では二十歳になっても、僕は悠ちゃんのままらしい。

 朱音は慣れた様子でラムネを二本買い、一本を僕に渡してくる。

 

「はい」

「ありがとう。いくら?」

「いいよ」

「いや、払うって」

「うちが買いたかったの」

 

 朱音は瓶の栓を開けながら、笑った。

 

「悠くんに、こういうの渡したかったから」

 

 ラムネの瓶が、夏の光を透かして青く光る。

 懐かしい味だった。

 甘くて、少しだけ舌に刺さる。

 子どもの頃はもっと特別な味に感じていたのに、今飲むと少し安っぽい。

 でも、その安っぽさも含めて懐かしかった。

 

「朱音は変わったね」

 

 思わず、そう言った。

 朱音がこちらを見る。

 

「そう?」

「うん。なんか、大人っぽくなった」

「悠くんが、落ち着いた子の方が話しやすいって言ってたから」

 

 さらりと返ってきた言葉に、喉が詰まった。

 

「僕、そんなこと言った?」

「言ったよ」

 

 朱音は笑う。

 

「中三の夏。神社の階段で。隣のクラスの子たちが騒いでて、悠くんが『僕はもうちょっと落ち着いてる子の方が話しやすいかな』って」

「……よく覚えてるね」

「覚えてるよ」

 

 朱音はラムネの瓶を両手で持ったまま、僕を見た。

 

「悠くんが言ったことだもん」

 

 何度目かわからないその言葉。

 そのたびに、僕の中の何かが少しずつざわついていく。

 

「その服も?」

「うん?」

「今日の服。もしかして、僕が言ったこと?」

 

 聞いてから、しまったと思った。

 朱音は、困ったように、けれど嬉しそうに笑った。

 

「うん」

 

 隠す気は、ないらしい。

 

「白い服、好きだったでしょ?」

「……たぶん」

「麦わら帽子も。夏っぽくていいって言ってた」

「それは、なんとなく覚えてる」

「髪は長い方が綺麗って言ってくれた」

 

 朱音の指が、髪に結ばれた朱色のリボンに触れる。

 

「このリボンも、悠くんがくれた」

 

 僕は、そのリボンを見た。

 色褪せている。

 ところどころ布が擦れて、端も少しほつれていた。

 けれど大切に扱われているのは、見ればわかった。

 

「まだ持ってたんだ」

「うん」

 

 朱音は嬉しそうに笑った。

 

「悠くんがくれたものだから」

 

 その言葉は、あまりにもまっすぐだった。

 まっすぐすぎて、目を逸らしたくなるくらいに。

 

 

 夕方前、朱音とは一度別れることになった。

 

「夜、花火大会あるの。悠くんも行くでしょ?」

「花火大会?」

「うん。今日だよ。忘れてた?」

「あー……そういえば、この時期だったっけ」

 

 毎年、村の神社近くで開かれる小さな祭り。

 屋台がいくつか出て、最後に川向こうから花火が上がる。

 子どもの頃は楽しみにしていたはずなのに、二年離れていただけで、すっかり記憶の隅に追いやられていた。

 

「うち、浴衣に着替えてくるね」

「浴衣」

「うん」

 

 朱音は少しだけ照れたように、けれどどこか得意げに笑った。

 

「ちゃんと見てね」

 

 そう言い残して、朱音は小走りに去っていった。

 その背中を見送ってから、僕は実家の縁側に腰を下ろした。

 

 ぼんやりと縁側から外を眺める。

 庭の向こうで、夕方の空がゆっくり赤くなっていく。

 畑から帰る人の声。遠くで鳴く鳥。風鈴の音。

 何もかもが懐かしくて、少しだけ現実感がなかった。

 

「……かわいかったなぁ、あかね」

 

 誰に聞かせるでもなく、そんな言葉がこぼれた。

 口にしてから、自分で少し驚く。

 けれど、嘘ではなかった。

 

 今日の朱音は、どう見ても可愛かった。

 綺麗で、大人びていて、村の景色によく似合っていて。

 それなのに、笑った顔だけは昔のままだった。

 

 昔の朱音は、もっとよく走る子だった。

 髪は今ほど長くなくて、肩にかかるくらい。

 夏になると誰よりも日に焼けて、転んでもすぐ立ち上がって、怒ると頬を膨らませる。

 

 褒められるのが苦手で、からかわれるのはもっと苦手で。

 それでも、誰かが困っていると真っ先に走っていくような子だった。

 

 そんな朱音が一度だけ、川沿いで泣いていたことがある。

 たしか、小学六年の夏。

 朱音の誕生日の日だった。

 

 理由は、もうあまり覚えていない。

 誰かに何かを言われたのかもしれない。

 自分の肌の色をからかわれたのかもしれない。

 

 髪が真っ黒で重たく見える、とか。

 女の子らしくない、とか。

 子どもの頃の言葉は、意味もなく鋭い。

 言った方はすぐ忘れる。

 言われた方だけが、いつまでも覚えている。

 

 そしてその日、朱音は小川のそばで膝を抱えていた。

 僕はたまたま、駄菓子屋で買った安いリボンを持っていた。

 誕生日だと聞いて、何か渡した方がいい気がして、でも子どもの小遣いで買えるものなんて限られていたから。

 朱色の、細いリボン。

 赤よりも少し橙に近いその色が、なんとなく朱音に似合う気がした。

 

『これ、あげる』

『……なに、これ』

『誕生日だから』

 

 本当は元気出して欲しくて、誕生日だから、とかだったが、その頃はそういった言葉を発するのが妙に恥ずかしくて、上手く言葉にはできなかった。

 

『安いやつじゃん』

『安いやつだけど』

『……いらない』

『じゃあ返して』

『やだ』

 

 今思えば、かなり理不尽なやり取りだった。

 朱音は泣きそうな顔でリボンを受け取って、それからしばらく黙っていた。

 僕はたぶん、深く考えずに言ったのだ。

 

『朱音には、こういう色が似合うと思う』

 

 彼女が顔を上げたのを覚えている。

 

『あと、僕は朱音の髪、綺麗だと思うけどな』

 

 それだけだった。

 本当に、それだけ。

 慰めにもなっていないような、子どもの言葉。

 明日には忘れてしまうくらいの、何気ない善意。

 

 けれど今日の朱音は、あのリボンをまだ髪に結んでいた。

 腰まで伸ばした長い黒髪に。

 僕が綺麗だと言った髪に。

 

「……そっか」

 

 縁側に座ったまま、僕は小さく息を吐く。

 あの時の朱音は、可愛かった。

 泣きそうで、怒っていて、でもリボンだけは手放さなくて。

 強がりで、面倒くさくて、やたらとまっすぐで。

 

 そして今日の朱音も、可愛かった。

 僕の記憶よりずっと綺麗になって、僕の知らない二年分をまとって、それでもあのリボンだけは変わらずに結んでいた。

 

「……ちゃんと見てね、か」

 

 夕方の風が、風鈴を鳴らした。

 その音を聞きながら、僕はなぜか、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなるのを感じていた。

 

 

 日が落ちる頃、朱音は僕を迎えに来た。

 玄関を開けた瞬間、思わず息を呑んだ。

 

「……どう、かな」

 

 門の前に立っていた朱音は、浴衣姿だった。

 白地に、朱色の朝顔が散った浴衣。

 帯は深い赤で、細い腰の位置をきゅっと引き締めている。

 褐色の肌には白がよく映えて、昼間のブラウス姿よりも、ずっと柔らかく、ずっと危うく見えた。

 

 髪はゆるく結い上げられている。

 その片側には、昼間と同じ朱色のリボンが、髪飾りのように結ばれていた。

 

 古くて、色褪せた、僕があげたリボン。

 浴衣の華やかさの中で、それだけが少し不釣り合いに古びている。

 けれど不思議と、朱音には一番似合っていた。

 

「悠くん?」

「あ、いや」

 

 見惚れていたことに気づき、慌てて視線を逸らす。

 

「に、似合ってる」

「ほ、ほんと?」

「……うん。すごく」

 

 朱音の顔が、ぱっと明るくなった。

 

「よかった」

 

 昼間にも聞いた言葉だった。

 

「悠くんに、そう言ってほしかったの」

 

 その笑顔に、胸の奥がくすぐられる。

 同時に、少しだけ逃げ出したいような気持ちにもなった。

 

「行こっか」

「うん」

 

 朱音は自然に僕の隣へ並んだ。

 祭りの会場は、神社の参道から広場にかけてだった。

 提灯が吊るされ、屋台が並び、狭い村にしてはずいぶん賑わっている。

 

 焼きそばの匂い。

 りんご飴の赤。

 金魚すくいの水音。

 子どもたちのはしゃぐ声。

 懐かしすぎて、少し笑ってしまった。

 

「わ、まだこの屋台あるんだ」

「あるよ。悠くん、ここの焼きとうもろこし好きだったよね」

「好きだった」

 

 その時だった。

 

「おい、悠じゃねえか!」

 

 背中を叩かれ、思わず前につんのめる。

 振り向くと、中学時代の同級生がいた。

 少し背が伸びて、髪型も変わっているけれど、笑い方は昔のままだ。

 

「久しぶり!」

「お前、帰ってきてたのかよ!」

「今日帰ってきた」

「都会人になりやがって。服がなんかそれっぽいぞ」

「いや、普通だろ」

「大学どうよ? 彼女できた?」

「いきなりそれ聞く?」

 

 懐かしい顔が、ひとり、またひとりと集まってくる。

 同級生。

 近所のおじさん。

 昔よく菓子をくれたおばさん。

 小学校の時の担任までいた。

 

「悠ちゃん、大きくなったねぇ」

「ちゃんと食べてるの?」

「お母さん寂しがってたわよ」

「都会は怖くないか?」

「いや、そんな未開の地に行ったわけじゃないんで」

 

 最初は戸惑った。

 けれど、次第に楽しくなってきた。

 村は狭い。

 息苦しいと思っていたこともある。

 でも、こうして誰もが僕を覚えていて、昔と同じ呼び方で呼んでくると、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 僕は笑った。

 久しぶりに、大きな声で笑った。

 

「悠、射的やろうぜ。お前、昔めちゃくちゃ下手だったよな」

「今は違うかもしれないだろ」

「お、言うじゃん」

「やろうやろう」

 

 流されるまま射的の屋台へ向かう。

 結果は、惨敗だった。

 

「変わってねえ!」

「うるさいな!」

 

 同級生たちが笑う。

 僕も笑う。

 屋台のおじさんも笑って、外れ景品の飴をくれた。

 

 その間、朱音はずっと隣にいた。

 にこにこと笑っていた。

 浴衣姿で、僕の少し後ろを歩いていた。

 けれど、気づけば彼女はあまり喋っていなかった。

 

「あ、朱音ちゃんも祭り来てたんだ!」

 

 同級生の女の子が声をかける。

 

「うん。何となくだけど」

「すごい綺麗だね浴衣!」

「ありがとう」

 

 朱音は笑った。

 綺麗に、穏やかに。

 でも、その手は僕の袖の端をそっと掴んでいた。

 最初は気のせいかと思った。

 けれど、僕が誰かと話して笑うたび、その指先に少しだけ力が入る。

 

「悠くん」

 

 袖を引かれて、振り向く。

 朱音がすぐ隣にいた。

 白地の浴衣に、朱色の朝顔。

 結い上げた黒髪の片側には、あのリボンが揺れている。

 

「どうしたの?」

「いい場所、あるの」

「いい場所?」

「花火がよく見えるところ。人も少ないよ」

 

 朱音は、いつも通り明るく笑っていた。

 けれど、その手は僕の袖を離さなかった。

 

「でも、みんなまだ――」

「悠くん」

 

 名前を呼ばれただけなのに、言葉が止まった。

 朱音は笑っている。

 笑っているのに、目だけがまっすぐだった。

 

「うちと見る約束、してくれる?」

「……約束って」

「だめ?」

 

 だめではない。

 だめではない、のだけれど。

 さっきまで僕の周りにいた同級生たちが、「お、なんだなんだ」と冷やかすように笑っている。

 

 村のおばさんたちは、微笑ましそうにこちらを見ている。

 その視線が妙にむずがゆくて、僕は頬をかいた。

 

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

 

 そう言うと、朱音はぱっと嬉しそうに笑った。

 

「こっち!」

 

 そして、僕の袖を掴んだまま、人混みから少しずつ離れていく。

 祭りの音が、背中の方で遠ざかっていった。

 

 

 朱音に連れられて来たのは、小学校の裏手にある土手だった。

 夕方にも来た、小川沿いの道。

 そこから少しだけ上った場所に、古い木柵で囲まれた小さな見晴らし台のような場所がある。

 

 子どもの頃は、秘密基地みたいに思っていた場所だ。

 広場のざわめきは、ここまでは届かない。

 代わりに聞こえるのは、川のせせらぎと、遠くでかすかに響く祭りの太鼓。

 空はすっかり暗くなっていた。

 花火はまだ始まっていない。

 

「ここ、まだあったんだ」

「あるよ」

 

 朱音は木柵の前に立ち、夜空を見上げた。

 

「ここから見る花火、綺麗なんだよ。人もあんまり来ないし」

「よく知ってるね」

「うん」

 

 朱音は僕を見た。

 

「悠くんと、ここで見たかったから」

 

 その言い方に、少しだけ胸が詰まる。

 僕は木柵にもたれ、祭りの方角を見た。

 提灯の明かりが、小さく揺れているのが見える。

 さっきまで、あの中にいた。

 

 懐かしい人たちに囲まれて、笑っていた。

 楽しかった。

 楽しかったのに、今はその音がずいぶん遠い。

 

「ねぇ。悠くんは、次いつ帰っちゃうの?」

 

 小川のせせらぎに混じって、朱音の声がぽつりと落ちた。

 一瞬、何を聞かれたのかわからなかった。

 

「……明後日、かな。大学もあるし」

「そっか」

 

 朱音は笑った。

 昼間と同じ、明るい笑顔だった。

 けれど、なぜだろう。

 その笑顔が、少しだけ息苦しかった。

 

「じゃあ、明後日までなんだ」

「まあ……そう、かな」

「二日あるんだね」

 

 朱音は一歩、僕に近づいた。

 

「二日しかないんだね」

 

 反射的に、僕は半歩下がった。

 朱音はそれに気づいているはずなのに、何も気にしていないみたいに、また一歩近づいてくる。

 

「悠くん」

「な、なに」

「うちね、最初は捨てられたんだと思ったよ」

 

 息が止まった。

 遠くで、花火開始を知らせる笛の音が鳴った。

 

「朝、悠くんの家に行ったの。いつもみたいに呼びに行ったの。でも、悠くんはいなかった」

「……それは」

「大丈夫。おばさんが教えてくれたから。悠くんは大学に行ったんだって。都会で暮らすんだって」

 

 朱音は笑っていた。

 笑ったまま、当たり前のように続ける。

 

「うち、知らなかったなぁ」

「ごめん」

「ううん。いいよ」

 

 即答だった。

 

「怒ってないよ。だって悠くん、そういうところあるもんね。大事なことほど言うの苦手で、相手が悲しむかもって思うと、先に逃げちゃうところ」

「……」

「でもね、悠くん」

 

 朱音はさらに近づいてきた。

 近い。

 近すぎる。

 白地の浴衣。朱色の朝顔。石鹸の匂い。結い上げられた黒髪。

 その片側で、昔僕があげた朱色のリボンが揺れていた。

 

「うち、待ってたんだよ」

「朱音」

「おばさんが言ってたの。悠生はまたすぐ帰ってくるわよって。だからうち、思ったんだ」

 

 朱音は自分の胸元に手を当てた。

 

「次に悠くんが帰ってきた時には、悠くんが一緒に連れて行きたくなるくらいの女の子になってようって、」

 

 僕は言葉を失った。

 

「悠くん、白い服好きだったよね」

「え」

「麦わら帽子、夏っぽくていいって言ってたよね。長い黒髪、綺麗だって言ってくれたよね。派手な香りより石鹸の匂いの方が落ち着くって。落ち着いた子の方が話しやすいって。あんまり騒がしい子は苦手だって」

 

 ひとつずつ。

 ひとつずつ、朱音は僕の忘れていた言葉を並べていく。

 僕はそのたびに、少しずつ後ろへ下がった。

 

「ねぇ、聞いてる? 悠くん」

「あ、あかね……?」

「ねぇ。悠くん」

 

 朱音は笑っていた。

 でも、目が笑っていなかった。

 怒っているわけじゃない。

 泣いているわけでもない。

 ただ、必死だった。

 

「うち、頑張ったんだよ」

 

 朱音の声は明るかった。

 

「髪、ずっと伸ばしたの。

 暑くても切らなかった。

 服もね、悠くんが好きそうなのを選んだの。

 話し方も、前より落ち着いてるでしょ?

 ちゃんと本も読んだよ。悠くんが好きだったやつ。コーヒーも飲めるようになった。最初は苦かったけど、もう平気」

 

 どうしてだろう。

 息が、詰まる。

 なんだろう、この違和感。

 さっきまでとても楽しかったのに……いや、今も楽しいはずなのに、背中には冷たい汗が伝う。

 

「朱音、そこまでしなくても」

「するよ」

 

 すぐに返ってきた。

 

「するに決まってるよ」

 

 また一歩。

 僕の背中が、川沿いの木柵に触れた。

 もう下がれない。

 朱音はそれを確認するように、僕の目の前で立ち止まった。

 

「だって、悠くんが帰ってきた時、私のこと見てくれなかったら嫌だもん」

 

 声は甘い。

 表情は可愛い。

 けれど、その奥にあるものがあまりにも重くて、僕はうまく息ができなかった。

 

 その時、最初の花火が上がった。

 ひゅる、と夜空を裂くいて――次の瞬間、頭上で大きな光が咲いた。

 

 朱音の顔が、白く照らされる。

 そしてすぐに、闇に戻る。

 光って、消えて。

 そのたびに、彼女の笑顔だけが違うものみたいに見えた。

 

「ねぇ、どうかな」

 

 朱音は少しだけ首を傾げた。

 

「私、可愛くなれてるかな?」

 

 二発目の花火が、夜空で咲いた。

 

「悠くんの好みの女の子になれてるかな?」

 

 答えなければいけない。

 そう思った。

 けど、何を。間違えれば、傷つけてしまうんじゃないか、そう思った。

 

「悠くん」

 

 朱音の指が、そっと僕の服の袖をつまむ。

 

「答えて」

「……可愛いよ」

 

 絞り出すように、そう言った。

 朱音の目が、ぱっと輝いた。

 

「ほんと?」

「うん」

「ほんとに、悠くんの好きな感じ?」

「……う、うん」

 

 嘘ではなかった。

 白い服も、麦わら帽子も、長い黒髪も。

 今の浴衣姿も。

 悔しいくらい、僕の好みだった。

 それを認めた瞬間、朱音の笑顔が深くなる。

 

「よかった」

 

 彼女は、心から安心したように言った。

 

「間違ってなかったんだ」

 

 その言葉に、胸がきりきりと痛んだ。

 朱音は僕の袖を掴んだまま、もう片方の手で髪に結ばれたリボンに触れる。

 

「さっきね」

「……うん」

「悠くん、すごく楽しそうだった」

「え?」

「同級生の人たちと話してる時。村の人たちに囲まれてる時。ずっと笑ってた」

「まあ、久しぶりだったから」

「うん。わかってる」

 

 朱音は笑った。

 

「わかってるよ。悠くんは悪くないよ」

 

 そう言って、彼女はさらに少しだけ近づく。

 

「でも、嫌だった」

 

 花火の音が、少し遅れて胸に響いた。

 

「悠くんが、うち以外の人を見て笑ってるの、嫌だった」

「朱音」

「ごめんね。嫌な子で」

 

 声は明るい。

 けれど指先は、僕の袖を強く掴んでいた。

 

「でも、うち、誰かに意地悪したりしないよ。邪魔したりもしない。悠くんが嫌がることは、しない」

 

 朱音は、当たり前のように言う。

 

「そんなことしたら、悠くん、うちのこと嫌いになるでしょ?」

 

 正しいからしないのではなく。

 僕に嫌われるからしない。

 その基準が、少しおかしいと思った。

 けれど僕には、何も言えなかった。

 

「だから、連れてきたの」

「連れてきた?」

「うん」

 

 朱音は微笑む。

 

「ここなら、悠くんはうちを見るしかないでしょう?」

 

 花火がまた、夜空に咲いた。

 朱音の浴衣が、白く浮かび上がる。

 朱色の朝顔が、光の中で揺れる。

 

「ねぇ、悠くん」

「な、なに、かな?」

「今度はうちのこと、置いていかないでね」

 

 声は優しかった。

 でも、それはお願いというより、ずっと前から決めていた約束を確認するみたいだった。

 

「今度は、ちゃんと言ってね」

「……うん」

「帰る予定も。帰ってくる時も。うちに、ちゃんと言って」

「わかった」

「約束?」

 

 朱音が小指を差し出してくる。

 子どもの頃みたいな仕草だった。

 なのに、その指先は少し震えていた。

 

 僕は、逃げられなかった。

 いや、違う。

 逃げようと思えば逃げられたのに、逃げたくなかった。

 僕は朱音の小指に、自分の小指を絡めた。

 

「約束」

 

 朱音はそれを聞くと、嬉しそうに笑った。

 そして、ほんの少しだけ距離を詰める。

 

「悠くん。ごめんね」

「……は、はい?」

「もう、私我慢できないや」

 

 また花火が上がった。

 大きな音が、夜を揺らす。

 

 大きな灯りをバックにしゅるしゅると、リボンが外れていく。

 麦わら帽子を外して、床に置く。

 え。いや。え。

 あ、ちょ、え?

 

「あ、朱音?」

 

 思わず、動揺から声が出る。

 

「ん?どうしたの悠くん」

 

 しかし、先までと変わらない表情のまま、朱音は言う。

 

「いや、その、なんで、脱いで」

 

 肩に添えられた手は優しく、僕を押す。

 なされるがままに、僕は地面に、腰を下ろす。

 おろされる。

 

 僕の上に、朱音が立つ。

 逃がさない、と言わんばかりに僕の足の上に立って。

 

「なんでって……さっき言ったでしょう。悠くん、帰ってくるって約束するって」

「それは、した、けど」

 

 その約束と、この状況がどう関係があるというのか。

 少なくとも、僕の頭では分からない。

 というか、頭が真っ白になって、何も考えられない。

 そんな僕を見て、彼女は優しく――息をのむほど妖艶に笑った。

 

「だから、さ」

 

 朱音は、そのまま僕の上に腰を下ろす。

 お腹に伝わる柔らかい感触に、心臓が跳ねる。

 

「その約束を守ってくれる保証を、貰っておこうかなって」

「ほ、保証って、そんなことしなくても、僕は戻って――」

「この二年間、戻っても来なければおばさんにも連絡しなかったのに?」

 

 朱音の言葉に、黙る以外の選択肢がない。

 それはそうだ。

 それそうだが、しかし。

 

「ち、ちなみに、な、何を僕にするつもりでおられるのでせうか?」

「ふふ。悠くんの、えっち」

 

 僕を見て、顔を近づける朱音。

 その蠱惑的な表情に、息をのむ。

 

「ま、まってくれ。で、でもそういうのは、大切な人と――っ」

「私にとって、悠くん以上に大切な人なんていないよ」

 

「で、でもこんな場所だと誰かにみつかっちゃ――っ」

「大丈夫だよ。こんな時間にこんな場所、誰もこない。……そんなこと悠くんが一番わかってるでしょう?」

 

 逃げ道を、悉く潰される。八方ふさがりとはこのことか。

 どうにか朱音の暴走を止めようとするも、残念ながら止まる気配はないし。

 いつもは、心やすらぐ小川の音も、今となっては雑音以外の何物でもない。

 思考が、奪われていく。

 

 どうしよう。どうしよう、なんて考えている折、朱音の手が僕の手をつかんだ。

 掴んで、ゆっくりと持ち上げて、そのまま自分の胸に持って行く。

 

「ねぇ。聞こえる?私もどきどきしてるんだ」

 

 三つ編みをまとめいた朱色のリボンをゆっくりと解く。

 解いて、僕の胸に手を置いて、綺麗な茶色の瞳が、僕を写した。

 

「それとも。悠くんは、私とこういうことするのは、いや、かな?」

 

 ドクン、と心臓が大きく跳ねる。

 ――残っていた理性が、どろどろに溶けていく。

 遠くで、花火が爆ぜる。

 だけど、そんな音僕には聞こえない。

 

「ねぇ、悠くん」

 

 ――近づく、顔。上気した頬。

 空に咲く火花なんて、今の僕に目に入らない。

 

「シよ?」

 

 今の僕にはもう、朱音しか見えていない。

 

 

 




重たい愛はいいぞ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。