機動戦士ガンダム BABEL CORE―第08MS小隊、シロー・アマダが見た「もう一つの一年戦争」と、ララァ・スンが名前を得る前の記録― 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
重力が遅れて落ちてきたような衝撃。川面が一斉に沈み、空気が下へ引かれる。連邦艇の機首が落ち、ジオン降下艇が横滑りした。スレッガー機はもう避けられない角度で吸い込まれかける。
青いザクIが、白い試験機を押した。
片腕しかない巨人が、残った肩で機体を弾き出す。スレッガー機は不格好に空へ跳ね、吸引の縁から外れた。代わりにラルのザクIが大きく姿勢を崩す。
「旦那!」
「借りは返した。行け」
ラルの声は乱れなかった。
その瞬間、ハモンのルッグンが低空から飛び込み、ザクIの背部ユニットへ牽引用ワイヤーを撃ち込んだ。機体は悲鳴を上げ、ワイヤーは火花を散らしながら張る。
「今日、あなたは死を選んだ」
ハモンの声は震えていなかった。震えていないことが、いちばん激しい怒りだった。
ラルは短く息を吐いた。
「そうかもしれん」
ワイヤーが唸り、青いザクIは吸引の縁から引き剥がされた。スレッガー機も、マチルダの艇へ向かって滑るように離脱する。勝者はいない。敗者だけが、まだ生きていた。
そして、バベルは最後の呼吸をした。
白い眼が閉じる。黒い回路がひとつずつ沈黙する。川底の巨大な空洞が内側から潰れ、数千年の祈りと3年分の軍事予算と、名前を与えられなかった恐怖が、泥と水の中へ戻っていく。
最後に残ったのは、音だった。
低く、細く、どこか子どもの寝息に似た音。
それが消えたとき、ガンジスの空から白い光はなくなっていた。
ただ、青すぎる空だけが残った。
誰も、しばらく動かなかった。
青い空は、救いではなかった。何も知らない顔で、燃え尽きた村を見下ろしている。床板の残骸、折れた杭、泥に沈んだ護符、岸に打ち上げられた生活の欠片。そこにあった人の営みは、あまりにも簡単に風景へ戻されていた。
マチルダの回収艇が、低く静かに降りてきた。さっきまで命を吊り上げていたワイヤーは巻き取られ、かわりに医療担架と黒い防水シートが降ろされる。負傷者を収容するための手順と、証拠を覆うための手順は、驚くほどよく似ていた。
「生存者の確認を最優先。地下開口部には近づかないでください。記録装置は私の許可なく起動しないこと」
マチルダの声は冷静だった。冷静でなければ、彼女自身が崩れてしまうのだとシローにはわかった。
シローは泥の上に座ったまま、空を見ていた。真紅の機体はもう見えない。だが、雲の裂け目だけが残っている。誰かがそこから手を伸ばし、彼の届かない場所へララァを連れていった。その事実が、空の形に焼きついている。
「立てるか」
スレッガーの声だった。
振り向くと、彼は機体からではなく地上にいた。飛行服は裂け、額には血が流れ、片足を引きずっている。それでも、口元にはいつもの軽薄な笑みを貼りつけていた。
「立てません」
「正直でよろしい」
スレッガーはシローの隣に腰を下ろした。無理に慰めようとはしなかった。敗北の直後に安い言葉をかけるほど、彼は優しくも残酷でもなかった。
「助けたんです」
シローは言った。
「なのに、守れなかった」
スレッガーはしばらく黙っていた。遠くで、ジオンの降下艇が撤退していく音がする。ハモンのルッグンも、青いザクIを曳きながら雲の影へ消えつつあった。
「戦場じゃ、助けることと守りきることは別勘定だ」
「そんなの、納得できません」
「しなくていい。納得なんざ、だいたい死体の上に後から置く飾りだ」
スレッガーは空を見た。
「ただ、忘れるな。お前はあの子を一度、確かに夢から引っ張り戻した。その事実まで、赤い野郎に奪わせるな」
シローは答えられなかった。だが、胸の奥で何かが折れずに残った。怒りでも、悔しさでもない。もっと硬く、もっと静かなものだった。
マチルダがクスコの手を引いて歩いてくる。
クスコは振り返らなかった。振り返れば、そこにララァがいないことをもう一度知るだけだからだ。小さな手はマチルダの手の中にあり、その手は救助者のものでもあり、管理者のものでもあった。
「アマダ少尉」
マチルダは言った。
「これから、あなたは公式報告書に署名することになります。内容は、ミノフスキー粒子濃度異常に起因する地下燃料施設の誘爆事故。敵性小規模部隊との偶発接触。民間人の避難誘導。以上です」
「バベルは」
「存在しません」
「ララァは」
マチルダは唇を結んだ。
「記録上は、確認不能の民間人です」
シローは笑いそうになった。笑えば、喉の奥から血が出る気がした。
「都合のいい記録ですね」
「軍の記録は、たいてい都合でできています」
マチルダの声は苦かった。
「それでも、生き残った人間がいます。今は、その人たちを外へ出すことを優先します」
クスコが小さく言った。
「外って、どこ」
誰も、すぐには答えなかった。
川の上の村は消えた。聖地も、禁忌も、声の守護者の祭壇も、もう戻らない。だが外の世界が自由だとは限らない。空には軍があり、地上には管理区域があり、人間の才能を資源として数える書類がある。
それでも、マチルダはクスコの手を離さなかった。
「少なくとも、今ここではありません」
それが救いなのか、先送りなのか、誰にもわからなかった。
やがて、シローは担架に乗せられた。視界が空へ向く。雲の穴はゆっくり閉じ始めていた。あの向こうに、ララァがいる。そう思った瞬間、頭の奥で微かな水音がした。
――シロー。
幻聴かもしれない。衝撃波の後遺症かもしれない。バベルが残した残響かもしれない。
だがシローは、その声を忘れないと決めた。