(魔界の)神様(に)転生!そして伝説へ… 作:ぶーく・ぶくぶく
天界に、沈黙が落ちていた。
雲海よりなお高く、星々よりなお遠い場所。
地上の王たちが祈り、精霊たちが帰り、竜の魂が眠る領域。
そこに、三つの座があった。
人の神。
竜の神。
魔の神。
本来ならば、交わることの少ない三柱である。
人は地上を歩み、竜は空と理を司り、魔は闇と深淵に根差す。
それぞれの領分は違い、抱えるものも違う。
だが、その日ばかりは違った。
魔界の大陸が、一つ消えた。
冥竜王ヴェルザーが、禁じられた黒の核晶を使った。
竜の騎士バランを葬るため、己の領域も、眷属も、城も、大地もまとめて吹き飛ばした。
その破壊は、天界からも見えた。
黒の核晶の光は、単なる爆発ではない。
世界の理そのものを裂く、呪われた火である。
そして、その余波で地上と魔界を隔てる岩盤が抜けた。
地上の海底に、大穴が開いた。
ギアガの大穴。
本来ならば、その瞬間に地上の海は魔界へ落ちていた。
地上は水を失い、干上がる。
魔界は流れ込む海に呑まれ、水没する。
二つの世界は、同時に死ぬはずだった。
だが、そうはならなかった。
大魔王バーンが、海に大結界を張ったからである。
地上の海を支え、魔界へ落ちる水を制御し、魔界の水没を防ぎ、地上の渇死を防いだ。
天界の精霊たちは、ギアガの大穴へ集まった。
水の精霊は、渦巻く海の縁で震えた。
流れは異常。
圧は世界を砕くほど。
だが、崩壊していない。
水は落ちている。
しかし、落ちすぎていない。
大結界が、海を支えている。
風の精霊は、海上に生まれた気流と魔界から上る蒸気を読み、困惑した。
ただ塞いでいるのではない。
流している。
逃がしている。
循環させている。
これは封印ではなく、制御だ。
大地の精霊は、裂けた岩盤の縁で怒りに震えた。
世界の骨が折られた。
地上と魔界の境が傷つけられた。
だが、折った者はバーンではない。
黒の核晶を使ったヴェルザーだ。
光の精霊は、魔界へ落ちる水の柱を見た。
その水に混じって、地上の光が魔界へ差し込んでいる。
光なき世界へ、光が届いている。
それは祝福に似ていた。
だが、その道を開いたのは大魔王だった。
精霊たちは、答えを出せなかった。
そして三柱の神々もまた、すぐには言葉を持てなかった。
最初に口を開いたのは、人の神だった。
「人の世は、竜の騎士を殺そうとした」
その声には、重い疲労があった。
アルキード王国。
人間の王が治める国。
その国は、地上を守るため天界より遣わされた竜の騎士バランを、恐怖と偏見によって処刑しようとした。
王女ソアラは、夫を庇って死ぬはずだった。
その死が起きれば、バランの怒りは止まらなかっただろう。
アルキード王国は滅びた。
その炎は周辺へ広がったかもしれない。
竜の騎士は人間に絶望し、地上そのものを裁こうとしたかもしれない。
だが、それもまた防がれた。
マホカンタがソアラを守った。
大魔王バーンが現れ、バランとソアラ、そして幼いディーノを保護した。
人間の国が守護者を殺そうとし、魔界の王がそれを救った。
人の神は、その事実から目を逸らせなかった。
「我が子らは、己を守った剣を化け物と呼んだ」
人の神の声は低かった。
「その剣を拾ったのは、大魔王であった」
竜の神は沈黙していた。
その沈黙は、怒りにも似ていた。
竜の騎士は、竜の神にとって特別な存在である。
人でもあり、竜でもあり、魔の理にも触れる者。
三つの力を合わせ、世界の均衡を守るための孤高の刃。
その刃が、人間に処刑されようとした。
しかも、救ったのは天界ではない。
大魔王バーンである。
「バランは、囚われているのか」
竜の神が問う。
天界の水鏡が揺れた。
そこに映るのは、バーンパレス。
白亜の不死鳥を象った、空に浮かぶ大魔宮。
その一角で、バランはソアラとディーノの傍らにいた。
鎖はない。
牢もない。
武器を取り上げられてもいない。
バランは、自由であった。
ただ、自らそこに留まっている。
竜の神は、しばらくその姿を見ていた。
「辱められてはいない」
低く、竜の神は言った。
「利用されてはいる。だが、貶められてはいない」
その評価は、重かった。
バーンはバランを手駒として扱っている。
それは間違いない。
だが同時に、バランの功績を認め、その妻子を守り、竜の騎士としての尊厳を地上へ示した。
アルキードが化け物と呼んだ男を、魔界は守護者として扱った。
竜の神は、それを否定できなかった。
最後に、魔の神が笑った。
それは歓喜ではない。
嘲笑でもない。
苦々しい笑いだった。
「魔界を救ったのは、我ではなかったか」
誰も答えなかった。
魔界。
光に乏しく、水に乏しく、飢えと瘴気に満ちた世界。
本来ならば、魔の神こそがその民を見守るべきだった。
その苦しみに応えるべきだった。
だが、実際に魔界へ水を導いたのはバーンだった。
ヴェルザーの破滅を利用したとはいえ、黒の核晶の災厄を世界救済へ変えた。
地上の海を奪い尽くさず、魔界を沈めもせず、両方を繋ぐ大結界を張った。
魔の神は、バーンを憎める。
危険視もできる。
だが、魔界の民を救ったという一点を否定できない。
「大魔王は、魔界の王として正しいことをした」
魔の神は、ゆっくりと言った。
「それが神々の理を出し抜くものであったとしてもな」
三柱の間に、再び沈黙が落ちた。
バーンは危険である。
それは間違いない。
大魔王であり、地上を利用し、魔界を富ませ、ロモスを支配し、ギアガの大穴を世界の楔へ変えた存在。
放置すれば、いずれ神々の秩序そのものに手をかけるかもしれない。
だが、今バーンを討つことはできない。
彼を討てば、海の大結界が消える。
地上の海は魔界へ落ちる。
魔界は水に呑まれ、地上は渇き死ぬ。
そして何より、今この瞬間、世界を支えているのはバーンである。
人の神は、苦い声で言った。
「地上へ神託を下す」
竜の神が目を向ける。
「大魔王を軽々しく討つな、と?」
「そうだ」
人の神は答えた。
「大魔王を善と呼ぶことはできぬ。だが、今あれを討つ者は世界を滅ぼす。人の王たちに、それを知らせねばならぬ」
竜の神は頷いた。
「我はバランへ問う。魔界に囚われているのか。己の意思でそこにいるのか。竜の騎士としての使命を捨てたのか」
「答えは見えていよう」
魔の神が言う。
「バランは囚われてはいない。だが、人間へ戻る気もない。妻子を守り、バーンを見届けるつもりだ」
竜の神は否定しなかった。
人の神は目を伏せた。
「人の世が、自らそうさせた」
その言葉は、天界に重く響いた。
精霊たちはギアガの周囲を巡り続けた。
水は落ちる。
だが落ち尽くさない。
魔界は濡れる。
だが沈まない。
地上は揺れる。
だが乾かない。
光は魔界へ届き、魔界の蒸気は空へ昇り、やがて雨となる兆しを見せていた。
それらすべてを、バーンの大結界が支えている。
天界は結論を出した。
大魔王バーンは危険存在である。
だが、現時点において討伐対象とはできない。
ギアガの大穴と海の大結界が、彼の力に依存しているため。
ヴェルザーの黒の核晶による世界崩壊を、彼が防いだため。
竜の騎士バランとその妻子を保護し、アルキードの滅亡を防いだため。
それは、神々にとって屈辱的な結論だった。
悪を裁けない。
危険を見逃すしかない。
しかもその理由が、悪と呼ぶべき者によって世界が支えられているからである。
その神託は、やがて地上へ降りた。
大魔王を討てば、世界が救われるとは限らぬ。
ギアガの大穴へ不用意に近づくな。
海の大結界を乱す者は、地上と魔界双方の敵となる。
冥竜王ヴェルザーこそ、黒の核晶を用いた大罪人である。
その神託は、地上の王たちをさらに混乱させた。
ロモスの布告は、魔王軍の宣伝ではなかったのか。
バーンが海を支えているという話は、本当だったのか。
神々ですら、大魔王を討てとは言えないのか。
各国の宮廷にざわめきが広がる。
神官たちは青ざめ、賢者たちは古文書を開き、王たちは沈黙した。
そのすべてを、バーンは知った。
白亜の不死鳥、バーンパレスの玉座の間。
老バーンは玉座に座し、悪魔の目玉が映し出す地上各国の反応を眺めていた。
カールの宮廷。
パプニカの神殿。
ベンガーナの商館。
テランの湖畔。
ロモスの王宮。
そして、ギアガの大穴を遠巻きに見張る精霊たち。
神託は降りた。
天界は、バーンを討てとは言わなかった。
いや、言えなかった。
ミストバーンが玉座の傍らに立っている。
「バーン様」
「何だ」
「天界は、動けませぬな」
「動けぬのではない」
老バーンは静かに言った。
「動けば、自らの正義で世界を滅ぼすことになる。それを理解しただけよ」
悪魔の目玉の映像が一つ、また一つと消えていく。
最後に残ったのは、ギアガの大穴だった。
地上の海が、制御された大瀑布となって魔界へ落ちている。
その周囲を、大結界の光が支えている。
水が落ちる。
光が落ちる。
魔界が潤う。
地上は、まだ海を失っていない。
すべてはバーンが生きているからだ。
老バーンは、ゆっくりと玉座の肘掛けに手を置いた。
「神々よ」
その声は低く、しかし玉座の間全体に響いた。
「余を悪と呼ぶがよい」
白亜の大魔宮が、雲の上で静かに揺れる。
「余を危険と断じるがよい」
大魔王の瞳が、暗く輝いた。
「だが、見よ。ヴェルザーが砕いた世界を支えているのは誰だ。人の世が殺そうとした竜の騎士を守ったのは誰だ。地上の海を残し、魔界を沈めず、二つの世界を繋ぎ止めているのは誰だ」
ミストバーンは何も言わない。
玉座の間には、大魔王の声だけがある。
「正義が余を討つというなら、討つがよい」
老バーンは、薄く笑った。
「その瞬間、海は落ち、地上は渇き、魔界は沈む」
静かな笑みだった。
だが、それは勝者の笑みであった。
「ならば問おう、神々よ」
バーンは玉座の上から、見えぬ天界を睨むように見上げた。
「悪を討つ正義が世界を滅ぼすならば――」
一拍。
そして、大魔王は言い放つ。
「その正義に、何の価値がある?」
白亜の不死鳥は、空に翼を広げていた。
その翼の下で、地上と魔界はまだ滅びずに在る。
悪と呼ばれる王の手によって、世界は今日も支えられていた。