喫茶店『二道』は、今日も相変わらず静かだ。
駅から極端に離れているわけでもなく、店構えが古臭いわけでもない。
木目を基調とした落ち着いた内装に、朝の陽射しが窓から柔らかく差し込み、コーヒーの香ばしい香りが店内を満たしている。
店主の人柄も悪くない。
むしろ常連からの評判だけなら、もっと繁盛していてもおかしくない店だ。
それでも客足は伸びない、理由は単純明快、コーラを飲んだらゲップが出るほど。
料理が『そこそこ』なのである。
決して不味くはない、だが、『また食べたい』と思わせるほどでもない。
唯一平均点を越えれる商品はコーヒーのみ。
そのためわざわざこの店を目的地にする理由がなく、それが客入りへと繋がっていた。
そんな店内に窓際の席へ腰掛ける、一人の男。
百八十センチを優に超える長身に、スーツ越しでも分かる鍛え抜かれた体躯。
整えられた金髪と細い眼鏡。
その鋭い眼差しと体格は、初対面の人間ならまず堅気には見ないだろう、いうならばインテリヤクザといったほうが正しい。
「ふぅ……」
湯気とともに立ち上る苦い香りを一度だけ楽しみ、小さく口をつける。
貴族の食卓と聞けば、案外こんな光景なのかもしれない、そう思えるほど優雅な飲み方。
店内にいるのはマスターと、男の正面へ座る少女だけだった。
「東山さん、少しがっつきすぎですよ」
「んがっ……アムッ!…んくッ、はぁ…こんな美味しいごはんはじめて食べたので…!」
なぜ、こうして昼食を共にしているのか。
理由は単純、稽古のためである。
昨日、コベニは兄を大学へ通わせるためにデビルハンターになったと言っていた。
となれば、稼いだ金の大半は家計へ入れているのだろう。
失礼ながら、彼女の様子を見る限り、自炊に慣れているようにも見えない。生活に余裕があるとも考えにくく、栄養のある食事を満足に摂れていなかったとしても不思議ではなかった。
事実、昨日の稽古で身体つきは十分に理解できた。
二十歳の女性にしては小柄で、腕や脚には筋肉らしい筋肉がほとんどついていない。
見る限り力任せの動きはできず、持久力も人並み以下。
幼少期から十分な食事を摂れていなかったのか、それとも別の事情があるのか。理由までは分からない。
だが、栄養状態が万全とは言い難いことだけは一目で見て取れた。
体力がなければ稽古には耐えられず、悪魔と戦う以前に身体を壊してしまう、それでは本末転倒だ。
もっとも、ここまで夢中になって食事を頬張る姿だけは、さすがの彼も予想していなかったが。
「食事は逃げませんよ」
男は呆れたように言うものの、咎める口調ではない。
その時、入口のベルが軽快な音を鳴らす。
チャリン。
静かな店内へ響いた音に、男は自然と視線を向けた
「こんにちは~!! って、おじさん!」
勢いよく扉を開けて入ってきたのは、一人の少女だった。
肩口で切り揃えられた濃い紫色のショートヘア。
胸元へ大きな向日葵が描かれたTシャツに、色落ちした青いジーンズという飾り気のない格好。
それでも持ち前の整った顔立ちと明るい笑顔が、店内の空気を一瞬で賑やかなものへ変えてしまう。
「遅刻だよ、それも三時間」
「ごめんなさぁ~い」
少女は可愛げに舌をぺろりと出して笑う。
謝罪の言葉こそ口にしているものの、反省している様子は欠片も見当たらない。
軽い足取りで店内を横切ると、そのまま男とコベニの席へ近付いてくる。
そして二人を交互に見比べるなり、目を丸くした。
「……おじさんの彼女?」
「引っぱたきますよ、彼女は新人のデビルハンターです」
男は即座に否定し、訂正する。
どんな間違いをしているんだ、と内心で大きくため息をつきながら。
これ以上話が妙な方向へ転がる前に済ませてしまおうと、スーツの内ポケットから財布を取り出した。
一方、レゼはそんな空気など気にも留めない。
近くの椅子を引き寄せると、コベニの隣へ当然のように腰を下ろした。
「よろしくね、私はレゼ!」
「…東山コベニです」
おずおずと頭を下げるコベニとは対照的に、レゼは人懐っこい笑みを崩さない。
初対面の距離感とは思えないほど自然に話しかける姿は、人見知りという言葉とは無縁だった。
「行きますよ」
「えぇ!? も、もうですか!?」
昨日の稽古中ですらここまで大きな声は出していなかった。
コベニは食べかけのサンドイッチを見つめ、男を見つめ、もう一度皿を見つめる。
露骨に名残惜しそうだった。
その様子にレゼは小さく首を傾げる。
「そんなにココの料理おいしい?」
「は、はい! 私が今まで食べたもので一番です!」
「そっかぁ……」
「うぅ、そんなお客さんが来るなんて、この店を開いて良かったよ」
カウンターの向こうでは、マスターが目頭を押さえていた。
料理の腕を褒められることなど滅多にないのか、そう思うと、今後はもう少しこの店へ足を運ぶ回数を増やそうか、と静かに考えた。
コベニは照れくさそうにはにかみ、レゼはそんな彼女を微笑ましいものを見るような目で眺めている。
「なら、あなたはここに。荒井くんの件は私だけでなんとかなるでしょうから。マスター会計を」
穏やかな空気が流れる店内で、男は静かに立ち上がった。
「コベニちゃん、何歳?」
「二十歳です」
「二十歳でデビルハンターやってるの!? すごいなぁ!」
そんな会話を耳の端で聞き流しながら、男は紙幣をカウンターへ置く。
するとマスターが周囲をちらりと見回し、小さく手招きをし、男は少しだけ身を屈める。
「七海くん」
「なんですか」
「コベニちゃんだっけ、あの娘また連れてきてほしいんだよ」
「………」
七海は静かにコベニたちへと視線を向けた。
レゼが身振り手振りを交えながら話し、コベニはその勢いに押されるように相槌を打っている。
楽しそう、というよりは半ばレゼのペースへ巻き込まれている状態だったが、それでも先ほどまでより表情は幾分柔らかくなっていた。
彼はマスターの言葉の意図を理解した。
同年代の友人を作ってやりたいのか。
歳が八も違う男と向かい合って食事をするより、年の近い相手がいた方が、二十歳の娘としては気も紛れる。
それはレゼも同じなのかもしれない。
この店で彼女が普段顔を合わせる相手といえば、マスターくらいのものだ。
同年代の人間と他愛のない話をする機会は、それほど多くないだろう。
それに、レゼの人懐っこい性格なら、引っ込み思案なコベニの懐へ土足で踏み込んでくれそうだ。
「我々は公安デビルハンター、最後の会話がいつになるのか分かりません。明日かもしれない、はたまた今日かもしれない」
「ですが、まぁ……彼女もここを気に入ったことですし、また近いうちに来ますよ」
「フッ、ありがとね」
「で、やっぱり狙ってるの」
「引っぱたきますよ」
返答は一拍も置かなかった。
マスターは肩を揺らして笑い、男は呆れたように眼鏡を押し上げる。
この手の勘違いは今日だけで二度目だ。
彼は歩みを進め、店の扉を前にする。
「では、東山さん一時までに昨日と同じ場所に。一分でも遅刻した場合は、分かってますね」
「は、はい…」
少々脅しのように聞こえるが、公安のデビルハンターになるということはそういうことだ。
一分が命の駆け引きになる、後悔をしたときは自分の死か仲間の死の世界。
七海は店の扉を押し開ける。
昼前の陽射しが一気に差し込み、思わず片手で光を遮る。
そのまま外へ出ようとした、その時だった。
「エロ漫画みたいな脅し」
レゼの一言に、男の足がぴたりと止まる。
「
「キャー、怖ーい!」
まるで楽しんでいるかのように笑いながら、レゼはコベニへ抱きついた。
突然のことにコベニは「あっ、あっ」と情けない声を漏らし、身体を硬直させる。
店内にはレゼの笑い声が響き、男は深いため息を一つ吐いてから、静かに店をあとにした。
◆◆◆
「ここにいる、ということは……そういうことでいいんですね」
木々の隙間から朝の陽光が差し込み、昨日と同じ森を淡く照らしていた。
枝葉を揺らす風は涼しく、土の匂いを運んでくる。
その静かな空間に、荒井ヒロカズはいた。
昨日までのような落ち着きのない様子はなく、額に汗も浮かんでおらず、視線が泳ぐこともない。
ただ真っすぐに、目の前の男、七海を見据えていた。
「良い条件だったはずでしょう」
彼は大きく息を吐く。
「昨日、言われたことは全部正しいと思いました。母さんに恩返しをするなら、デビルハンターじゃなくてもできる。父さんを殺した悪魔だって、見当がつかない」
「それでも!!」
「父さんみたいに、大切な人を悪魔に奪われる人を、一人でも減らしたい」
「それに家族が一人減ると、それは連鎖的に身内の不幸へとつながる。それを阻止できるなら、俺は逃げたくありません」
「だから、俺は公安デビルハンターになります!」
その瞳には、迷いはなかった。
「自分ではなく、他人のため……か…」
ポツリと言葉を漏らした男はどこか満更でもなさそうな表情だった。
「いいでしょう。東山さんが来てから、稽古を開始します。しつこいと思いますが、辞めたいときはいつでも」
昨日と変わらない言葉。
何度も繰り返し、念を押すように告げられるその一言。
普通なら突き放されているようにも聞こえる。しかし荒井には、そうは思えなくなっていた。
不意に姫野の言葉が脳裏をよぎる。
『彼の稽古受けた人、半分以上デビルハンター辞めてるんだけどね~』
昨日までの荒井は、その理由を厳しすぎる訓練にあるのだと思っていた。
怒鳴られ、殴られ、精神的に追い詰められ、耐えきれず辞めていく、そんな光景を勝手に想像していた。
実際そうかもしれないが、彼が精神的に追い詰めていくとは到底思えやしない。
就職先まで用意し、本気で別の道を勧めてきた、今もなお、『辞めたいなら辞めていい』と言い続けている。
それは公安デビルハンターという仕事が、覚悟だけでは生き残れない世界だと知っているからこその言葉なのだろう。
稽古はきっと厳しい、容赦なく限界まで追い込まれるはずだ。
それでも、その厳しさは人を壊すためではなく、生きて帰すための厳しさだろう。
荒井は小さく息を吸い、改めて七海を見つめた。
「き、気張っていきます! よろしくお願いします!」
荒井は勢いよく頭を下げ、声を張る。
「いえ、私の場合はそこそこから始めるので」
「…そ、そうですか」
頑張れ、荒井ヒロカズ。
レゼはいつから二道でバイトしたんだろうか?