止まった針は時の終わりに未来を見る   作:ドレットノータス

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第48刻 聖女を堕とす悪魔

私たちの前に立っていたのは、左右に二人の『僧侶』を従え、その中央に『女王』を置いた三人の悪魔だった。

 第一関門で相手にした者たちとは、立っているだけでも伝わってくる魔力の質が明らかに違う。特に中央の女性から感じる圧力は強く、まだ攻撃を始めてもいないというのに身体の周囲には陽炎のような熱気が漂い、その熱が広い神殿の中へじわじわと広がっていた。

 私は反射的にアストラノヴァを構え直したけれど、その横からリアス先輩と朱乃先輩が一歩前へ出る。

 

「リアス先輩、私も入った方がいいですか?」

 

「いいえ。ここは私と朱乃で十分よ。あなたはさっきから何度も攻撃を受け止めているでしょう? まだ腕に痺れが残っているなら、今は少し休んで次に備えてちょうだい」

 

「……少しだけです。戦えないほどではありません」

 

「分かっているわ。でも、戦えることと、今ここで前に出る必要があることは別でしょう?」

 

 そう言われると返す言葉がなくなった。

 改めて腕へ意識を向けてみれば、第一関門で何度も攻撃を受け止めたせいで、肩から先にはまだ鈍い重さが残っている。必要ならすぐにでも戦えるけれど、だからといって無理をしてまで私が前に出る必要もなかった。

 

「ミライさんには、また必要になる時が来ますわ。それまでは少しだけ、私たちに任せてくださいな」

 

 朱乃先輩まで柔らかく笑いながらそう言うので、私はようやくアストラノヴァを下げた。

 

「……分かりました。それでは、ここはお願いします」

 

「ええ、任せなさい」

 

 私たちが少し後ろへ下がると、一誠は落ち着かない様子で何度も神殿の奥へ目を向けていたものの、今回は何も言わなかった。

 リアス先輩と朱乃先輩なら長くはかからないと分かっているのだろうし、それ以上に、今は焦って全員で前へ出るより、確実に目の前の敵を倒して進んだ方が結果的には早いことくらい、一誠自身も理解しているはずだった。

 

「来るわよ」

 

 リアス先輩の声とほとんど同時に、中央の『女王』から凄まじい勢いで炎が噴き上がった。

 神殿の天井近くまで伸びた火柱が途中で弾け、無数の炎となって二人へ降り注ぐ。

 けれど、リアス先輩が正面から放った滅びの魔力がそれらをまとめて押し返した。直後には左右の『僧侶』が補助魔法を重ね、それを受けた『女王』の炎が再び勢いを取り戻す。

 

「なるほど。二人の『僧侶』で『女王』を支えているのですね」

 

「ええ。なら、先に補助を崩した方が早そうね」

 

「でしたら、そちらは私が引き受けますわ」

 

 朱乃先輩がそう答えた直後、神殿内部に雷鳴が轟いた。

 周囲を走った雷光が一条の雷となって『僧侶』の一人へ落ちる。

 相手もすぐに防御魔法を展開したものの完全には受け止められず、身体ごと後方へ大きく押し戻された。その隙を逃さず、リアス先輩の滅びの魔力が中央の『女王』へ向かう。

 赤い炎と、黒に近い滅びの魔力が正面から衝突した。

 その余波だけで床や壁の一部が砕け、こちらにまで破片が飛んできたため、私はアストラノヴァを前へ出して一誠たちの前を覆う。

 

「助かった、ミライ!」

 

「これくらいなら問題ありません。それより、前を見ていてください!」

 

 一誠へ答えながら、再び戦況へ視線を戻す。

 相手の『女王』が強いことは私にも分かったし、そこへ『僧侶』二人の支援まで加われば、普通ならかなり厄介な相手なのだろう。

 それでも、戦況そのものは明らかにこちらが優勢だった。

 

「……押していますね」

 

「当然です。部長と副部長ですから」

 

 隣にいた小猫さんが淡々と答える。

 実際、その言葉通りだった。

 朱乃先輩が雷撃で『僧侶』たちの支援を崩し、リアス先輩が生まれた隙へ滅びの魔力を叩き込む。その流れに、敵側はほとんどついていけていない。

 そこまでは、何もおかしくなかった。

 

「そういえば、リアス。一誠君のことですけれど、最近また随分と仲良くしているようではありませんか」

 

 朱乃先輩が雷撃を放ちながら、唐突にそんなことを言い出すまでは。

 

「……それが何か問題でもあるの?」

 

 リアス先輩の声色が、ほんの僅かに変わった。

 

「いいえ。ただ、私も少しくらい一誠君とお話しする時間が欲しいと思いまして」

 

「朱乃、今その話をする必要があるのかしら?」

 

「あら。でしたら、リアスも気にしなければよろしいのでは?」

 

「気にしてないわよ」

 

「そうですか?」

 

「ええ、まったく」

 

 言葉だけ聞けば、どう考えても戦闘中にするような話ではない。

 なのに二人とも、敵の攻撃を避け、反撃を続けながら普通に会話している。

 私は思わず、隣にいた一誠へ視線を向けた。

 一誠も、何とも言えない困った顔で二人を見ている。

 

「なあ、ミライ。俺、こういう時どうすればいいと思う?」

 

「私に聞かれても困ります。たぶん今は、何を言っても余計に話がややこしくなるだけだと思いますよ」

 

「……だよな」

 

 そんなやり取りをしている間にも、リアス先輩は迫ってきた炎を滅びの魔力で消し飛ばし、朱乃先輩はその横から次々と雷を落としている。

 戦闘そのものには、まるで支障が出ていない。

 むしろ、さっきより攻撃が激しくなっているようにさえ見えた。

 

「リアス、この前も一誠君と二人で――」

 

「朱乃、それ以上はあとにしてもらえる?」

 

「あら。そこまで言われると、余計に気になってしまいますわ」

 

「……あの、リアス先輩、朱乃先輩」

 

 さすがに気になって、私も口を挟んだ。

 

「今、それを話す必要ってありますか?」

 

 二人はほとんど同時にこちらを振り返った。

 

「大丈夫よ。戦いには集中しているから」

 

「私も問題ありませんわ。手も止まっていませんでしょう?」

 

「確かにそうですけど……そういう問題なのでしょうか」

 

 私にはよく分からなかったけれど、実際に二人は敵を完全に押しているので、それ以上何も言えなかった。

 

「ふざけるなァッ!」

 

 代わりに怒鳴ったのは、敵の『女王』だった。

 

「我々との戦闘中に、そんなくだらない話をしているとは……どこまでこちらを馬鹿にすれば気が済む!」

 

 その叫びとともに、周囲の炎が一気に膨れ上がる。

 私は少しだけ相手に同情した。

 たぶん、私でも同じ立場なら怒る。

 

「……そうね。朱乃、そろそろ終わらせましょう」

 

「ええ、リアス。そうしましょうか」

 

 先ほどまでの会話が嘘だったかのように、二人の表情が切り替わる。

 リアス先輩の手には濃密な滅びの魔力が集まり、同時に朱乃先輩の周囲でも激しい雷光が走り始めた。

 敵側も危険を察したらしく、『僧侶』二人が全力で防御魔法を展開し、その中央では『女王』が巨大な炎を作り上げ、正面から迎え撃つ態勢を取る。

 

「まとめて――」

 

「終わりですわ」

 

 二人の攻撃が、ほとんど同時に放たれた。

 雷光と滅びの魔力が正面から巨大な炎へ突き刺さり、一瞬だけ三つの力が拮抗する。

 けれど、それも長くは続かなかった。

 炎が押し潰されると同時に『僧侶』たちの防御魔法までまとめて砕け、そのまま二人の攻撃が三人を飲み込んだ。

 轟音が神殿全体を揺らし、光が収まった時には、『女王』も二人の『僧侶』も床へ倒れていた。

 

「……本当に、私が入る必要はありませんでしたね」

 

「言ったでしょう? ここは任せてって」

 

「はい。よく分かりました」

 

 リアス先輩がこちらへ戻ってくる。

 朱乃先輩も、先ほどまで一誠のことで張り合っていたとは思えないほど、いつもの穏やかな表情に戻っていた。

 

「あのさ、さっきの話なんだけど――」

 

「一誠。今はアーシアが先よ。続きは全部終わってからにしなさい」

 

「……はい」

 

 一誠はまだ何か言いたそうだったけれど、確かに今はアーシアさんの方が先だ。

 それ以上口にすることなく、私たちは倒れた三人を残し、さらに神殿の奥へ向かった。

 

     ◇

 

 それからしばらく進むと、さっきまでとは反対に、周囲が不自然なほど静かになった。

 長い通路には私たちの足音だけが響き、敵が待ち構えている気配すら感じられない。

 

「……妙だな。さっきまではあれだけ敵がいたのに、今度は誰もいない」

 

 裕斗が前方を警戒しながら呟く。

 

「全部倒したってことじゃないのか?」

 

「そうならいいけど、この静けさは少し不自然だ。気を抜かない方がいいと思う」

 

「私もそう思います」

 

 静かだから安全とは限らない。

 むしろ、こういう時の方が何か待ち構えているような気がして、私はアストラノヴァを構え直した。

 

「――ヒャハッ!」

 

 通路の奥から甲高い声が響いた瞬間、一誠と裕斗がほとんど同時に足を止めた。

 

「……この声」

 

「まさか」

 

 二人の表情が険しくなる。

 やがて、通路の奥から一人の男が姿を現した。

 白い髪に神父服。

 見た目だけなら、少なくとも普通の人間に見える。

 けれど、一誠たちの反応を見る限り、ただの神父ではないことだけはすぐに分かった。

 

「よぉぉぉぉ! 久しぶりだなァ!」

 

「フリード……!」

 

 一誠が、その名前を吐き捨てる。

 

「……この人がフリードなんですか?」

 

「ああ。前に何度か戦った奴だ」

 

 名前なら聞いたことがある。

 アーシアさんがまだ教会側にいた頃から関わっていた、はぐれエクソシスト。

 ただ、私が直接顔を見るのはこれが初めてだった。

 

「いやぁ、懐かしいじゃねぇの! イッセーくんも木場ちゃんも元気そうで何より何より!」

 

「お前……まだ生きてたのかよ」

 

「ヒャハッ! 相変わらず失礼だねぇ、イッセーくん!」

 

 一誠は露骨に嫌そうな顔をしたけれど、裕斗はフリードではなく、その周囲へ視線を走らせていた。

 

「……おかしい」

 

「裕斗?」

 

「ここには、ディオドラの『騎士』が二人いるはずなんだ」

 

 その言葉に、私も改めて周囲を見る。

 確かに敵の姿はない。

 いるのは、目の前のフリードだけだった。

 

「ヒャハッ!」

 

 フリードが、その疑問を待っていたかのように口元を歪める。

 

「もしかしてぇ、『騎士』のお二人をお探しで?」

 

「……お前、何をした」

 

 一誠の声が低くなる。

 

「何をしたって?」

 

 フリードはわざとらしく首を傾げると、突然口をもごもごと動かした。

 そして。

 

「ペッ!」

 

 何かを床へ吐き出した。

 

「……?」

 

 足元へ転がった小さなものを見て、一瞬それが何なのか分からなかった。

 けれど、形を認識した途端、身体が僅かに強張る。

 

「……指?」

 

 人の指だった。

 

「俺さまが食ったよ」

 

「……は?」

 

 フリードは、まるで大したことでもないように笑っている。

 

「だからぁ、ここにいた『騎士』のお二人。俺さまが食っちまったって言ってんの!」

 

「お前……!」

 

 一誠の顔が歪んだ。

 私も何を言えばいいのか分からなかった。

 その横で、小猫さんが鼻元を僅かに押さえ、フリードを睨む。

 

「……変な匂いがします」

 

「小猫さん?」

 

「この人……もう、人間じゃありません」

 

「ヒャハハハハハハハッ!」

 

 その言葉を待っていたかのように、フリードが大声で笑った。

 

「せぇぇぇいかぁぁぁい!」

 

 次の瞬間。

 

 ぼこり、と嫌な音がした。

 

「……っ!」

 

 フリードの身体が、内側から押し広げられるように膨れ上がっていく。

 腕が異常な太さまで膨張して神父服を破り、背中からは巨大な翼が突き出す。その反対側からは腕とも脚ともつかない異形の器官が生え、さらに頭部まで形を変えていくと、口元には人間のものとは思えない鋭い牙が並んだ。

 ついさっきまで人間にしか見えなかったものが、目の前で別の生き物へ作り替えられていく。

 

「ヒャハハハハッ! どうよぉ、この身体!」

 

 フリードだったものが、異形の巨体を揺らしながら笑った。

 

「前にてめぇらにやられたあと、ヴァーリの野郎に拾われてさぁ! そこから色々と弄くってもらったってわけよ! 今の俺ちゃんは、前とはぜんっぜん違うぜぇ!」

 

「……自分から、人間を辞めたんですか」

 

「強くなれるなら何だっていいんだよ!」

 

 私はその姿を見上げた。

 さっき吐き出した指。

 食べられたという二人の『騎士』。

 そして、人間だった面影すらほとんど残していない身体。

 胸の奥へ、強い嫌悪感が広がった。

 

「それよりさぁ」

 

 フリードが急に声の調子を変えた。

 

「お前ら、さっきディオドラちゃんとこの女どもと戦ってきただろ?」

 

「……それがどうした」

 

 一誠が警戒を解かないまま問い返す。

 

「知ってる? あいつらさぁ、元はシスターだったり、教会にいた女だったりするんだぜ?」

 

「……え?」

 

 思わず声が漏れた。

 

「教会に……?」

 

「そーいうこと! ディオドラちゃんってさぁ、そういう女が大好きなんだよ!」

 

 嫌な予感がした。

 一誠も同じだったらしい。

 

「……ちょっと待て」

 

 声が低くなる。

 

「じゃあ、アーシアは――」

 

「ヒャハハハハッ!」

 

 一誠が最後まで言い終えるより先に、フリードが大声で笑った。

 

「やっと気づいたぁ? あのシスターちゃんが教会追い出されたのも、元を辿ればディオドラちゃんの仕込みなんだぜ!」

 

「……何?」

 

 一誠の表情が固まった。

 私も、すぐには意味を理解できなかった。

 

「仕込みって……どういうことですか」

 

「簡単な話だって! ディオドラちゃんは最初からあの子に目ぇ付けてたんだよ。でも、教会にいる聖女様を、そのまま悪魔が連れてくなんて難しいだろ?」

 

 フリードは楽しそうに続ける。

 

「だから、自分が傷ついた悪魔になって、あの子の前に現れた。あのシスターちゃん、目の前で怪我してる奴がいたら、相手が悪魔でも放っておけねぇからなぁ!」

 

「……まさか」

 

「そーいうこと! 治療させて、それを教会の連中に見つけさせる。悪魔を治した聖女様なんて、あいつらからすりゃ立派な異端だろ?」

 

 そこでようやく、アーシアさんから聞いた過去と、目の前で語られている話が一つに繋がった。

 傷ついた悪魔を治したこと。

 それを理由に異端とされ、教会から追放されたこと。

 信じていたものも、居場所も失い、自分にはもう帰る場所がないと思ってしまったこと。

 その始まりとなった出来事そのものが、偶然ではなかった。

 アーシアさんが優しかったからこそ、傷ついている相手を放っておけないと分かった上で、その優しさを利用し、最初から追放されるように仕組まれていた。

 

「教会から追い出されて、信じてたもんまで失って、どこにも行く場所がなくなったところをディオドラちゃんが拾う! そうすりゃ、あとは自分のもんにしやすいって寸法よ!」

 

「……最低ですね」

 

「あ?」

 

「最低だと言ったんです」

 

 自分でも驚くほど、静かな声が出た。

 アストラノヴァを握る手には、いつの間にか力が入っている。

 

「アーシアさんが、どんな気持ちであの時のことを抱えてきたと思っているんですか。それすら全部、最初から利用するつもりだったなんて」

 

「俺ちゃんに怒んなよ。やったのはディオドラちゃんだぜ?」

 

「ええ」

 

 私はフリードを真っ直ぐ見た。

 

「なら、本人に直接言います」

 

 その横で、一誠は私のように抑えてはいられなかった。

 

「テメェ……!」

 

 強く握り締められた拳が震えている。

 

「ディオドラの野郎……アーシアにそんなことして……!」

 

「一誠」

 

 その前へ、裕斗が静かに出た。

 

「どけよ、裕斗!」

 

「駄目だ」

 

「でも、こいつも全部知ってて――!」

 

「分かってるよ」

 

 裕斗の声は静かだった。

 けれど、怒っていないわけではない。

 むしろフリードを見る目には、普段の裕斗からは想像しにくいほど冷たいものが宿っていた。

 

「でも、その怒りをここで使う必要はない。君が本当に殴らなきゃいけない相手は、この先にいるだろう?」

 

「……」

 

「ディオドラまで取っておいて」

 

 一誠の拳から、ほんの少しだけ力が抜ける。

 

「こいつは僕がやる」

 

「……裕斗」

 

「大丈夫だよ。ここは任せて」

 

 以前、聖剣のことで苦しんでいた頃とは違う。

 怒りを抱えてはいる。

 それでも、その怒りに振り回されてはいない。

 裕斗は自分が何をするべきなのか、きちんと分かっているように見えた。

 

「ヒャハハハハッ! 誰が相手でも一緒だっつーの!」

 

 フリードが異形の腕を大きく広げる。

 

「前の俺ちゃんと同じだと思ってんじゃねぇぞ! 力も速さも全部桁違い! 今の俺ちゃんは無敵の超絶モンスターなんだよォォォッ!」

 

 その身体の各所が蠢き、肉の中から生えてきたような生物的な刃が次々と姿を現した。

 

「裕斗」

 

 私が名前を呼ぶ。

 裕斗はこちらを一瞬だけ見て、小さく頷いた。

 

「大丈夫」

 

 それだけだった。

 少なくとも、その瞬間までは。

 

「……?」

 

 最初に異変へ気づいたのは、裕斗の身体を赤い光が走った時だった。

 

「裕斗?」

 

 気づいた時には、もうそうなっていた。

 何かが起こる前触れはなかった。

 大きな魔力が膨れ上がったわけでも、空気が震えたわけでもない。

 私自身にも、何の違和感もなかった。

 本当に、何も。

 ただ、目を向けた時には、裕斗の身体の周囲を細い赤い光が走り、その全身を包むように広がり始めていた。

 

「……これは」

 

 裕斗自身も、自分の腕を見て僅かに目を見開いている。

 本人にも心当たりがない。

 そう見えた。

 

「何だそりゃァ! 今さら何しようが遅ぇんだよォ!」

 

 フリードが笑い、全身から生えた刃をこちらへ向ける。

 裕斗は答えなかった。

 ただ、自分でも分からないものを見るように一度だけ手元へ視線を落とし――そのまま、ゆっくりと聖魔剣を構えた。

 その動きには、不思議なくらい迷いがなかった。

 そして。

 

「――スタートアップ」

 

 裕斗が、小さく呟いた。

 

「……え?」

 

 聞き間違いではない。

 けれど、呟いた本人も一瞬だけ戸惑ったように目を見開いた。

 まるで、自分がなぜその言葉を知っていたのか、本人にも分かっていないような。 「後悔すんなよォォォォッ!」

 

 フリードが床を蹴り、全身から生えた無数の刃が一斉に裕斗へ襲いかかった。

 その瞬間だった。

 裕斗の姿が、私の視界から消えた。

 

「――ッ!?」

 

 いや、消えたわけではない。

 神殿の床を一本の赤い閃光が走り、フリードのすぐ横を通り抜けたかと思えば、次に目を向けた時にはもう背後へ回り込んでいる。そこからさらに正面、右、左と赤い光が次々に走り、私がその動きを追おうとした頃には、裕斗はすでに別の場所へ移っていた。

 

「なっ――なんだァ!? どこにいやがる!」

 

 フリードが叫びながら刃を振るう。

 けれど、そのどれも裕斗を捉えることはできない。

 刃が振り下ろされるよりも先に赤い閃光が通り抜け、そのたびに異形の身体へ細い斬線が刻まれていった。

 

 速い。

 そう表現するだけでは、到底足りなかった。

 裕斗がどこから斬り込み、いつ剣を振ったのかさえ分からない。目に映るのは、神殿の中を縦横無尽に駆け抜ける赤い光と、それが通り過ぎた後に増えていく傷だけだった。

 

「ふざけんなァァァァッ! 止まりやがれぇぇぇッ!」

 

 フリードは半ば滅茶苦茶に全身の刃を振り回したものの、それさえ赤い閃光は容易くすり抜けていく。

 一度、二度と数えようとした。

 けれど、十を数えるより前に諦めた。

 どれだけ斬ったのか分からない。

 赤い光だけが、フリードの周囲を何度も駆け抜け続ける。

 そして最後に、一瞬だけ裕斗の姿が見えた。

 

 フリードの真正面。

 全身に赤い閃光を纏った裕斗が聖魔剣を構え、そのまま一歩踏み込む。

 剣が振るわれた。

 次に瞬きをした時には、裕斗はもうフリードの背後へ立っていた。

 

「…………は?」

 

 フリードの口から、間の抜けた声が漏れる。

 ほんの一瞬だけ、何も起こっていないように見えた。

 けれど次の瞬間、その全身へ無数の斬線が浮かび上がった。

 

「な――」

 

 最後まで言葉を発することもできない。

 腕が落ち、脚が崩れ、異形の胴体が幾つもの断面に分かれていく。

 ほんの少し前まで巨大な合成獣として立っていたフリードの身体は、その場で一気に四散した。

 

「…………」

 

 誰も、すぐには声を出せなかった。

 もちろん、私も同じだった。

 神殿を駆け巡っていた赤い光が消え、裕斗は聖魔剣を手にしたまま、先ほどまでフリードが立っていた場所の向こう側に静かに立っている。

 けれど、その表情には勝利を確信していた者の余裕などなかった。

 むしろ、自分自身に何が起こったのか理解できていないような、僅かな戸惑いが残っている。

 

「裕斗……今のは?」

 

「……僕にも分からない」

 

 裕斗は自分の手を見つめながら、困惑したように眉を寄せた。

 

「気づいた時には身体が動いていたんだ。どうすればいいのかも、何をすればいいのかも……最初から知っていたみたいに」

 

「じゃあ、さっきの言葉も?」

 

「うん」

 

 少し間を置いてから、裕斗は小さく頷いた。

 

「どうして知っていたのか分からない。でも、あの瞬間だけは……あれを言えばいいって、自然に分かっていたんだ」

 

「…………」

 

 私にも、何が起きたのかは分からなかった。

 裕斗から異常な魔力を感じたわけでもないし、その直前に何か特別な兆候があったわけでもない。

 本当に、気づいた時には裕斗が赤い光を纏っていた。

 それだけだった。

 

「……ひゃ……」

 

 掠れた声が聞こえ、全員の視線が床へ向いた。

 

「……まだ生きてるのかよ」

 

 一誠が顔を顰める。

 床に転がっていたフリードの頭部だけが、大きく目を見開いたままこちらを見ていた。

 あれだけ身体を細かく切り刻まれているのに、それでもまだ生きているらしい。

 

「ひゃ……ひゃは……」

 

 口元が、再び歪む。

 

「お、おまえらじゃ……ディオドラの計画も……その裏にいる奴らも……どうにもできねぇよ……」

 

 裕斗は何も答えず、聖魔剣を手にしたまま静かにフリードの頭部へ歩み寄っていく。

 

「何より……おまえらはまだ知らねぇんだからよ……神滅具持ちの、本当の恐ろしさって奴を……」

 

 身体を失ってなお、フリードは笑っていた。

 

「ひゃ……ひゃははは――」

 

 けれど、裕斗は最後まで笑わせるつもりなどなかったらしい。

 聖魔剣の切っ先が、躊躇なくフリードの頭部を貫いた。

 今度こそ、その声は完全に止まった。

 裕斗は剣を引き抜くと、刀身に付着した血を軽く振って払い落とす。

 

「……終わったよ」

 

 その声は、もういつもの裕斗とほとんど変わらなかった。

 一誠は床へ散らばったフリードの残骸と裕斗を交互に見てから、何とも言えない顔で口を開いた。

 

「お前……また強くなったな」

 

「そうかな?」

 

「そうかな、じゃねぇって。正直、あいつがどれくらい強くなってたのか全然分からなかったぞ。散々自慢してたのに、何もさせてもらえてねぇじゃん」

 

「……私もです。どれくらい強かったのか判断できるような場面が、ほとんどありませんでしたから」

 

 フリードが以前より遥かに強くなっていたこと自体は、おそらく本当なのだろう。

 けれど、その力を見せる時間すら裕斗は与えなかった。

 私たちに分かったのは一つだけ。

 今の裕斗との間には、それほど大きな差があったということだった。

 

 ただ、先ほどの赤い光だけは別だ。

 裕斗本人にも何が起こったのか分からず、私たちにも説明できない。

 普段なら少し気になっただけでも考え込んでしまうところだけれど、今はここで立ち止まっている場合ではなかった。

 

「行こう」

 

 一誠が神殿の奥へ顔を向ける。

 もう、フリードを見てはいない。

 

「今はアーシアだ」

 

「はい」

 

 私たちも頷き、再び走り出した。

 フリードが最後に残した言葉も、気にならないわけではない。

 ディオドラの計画と、その背後にいる何者か。そして、神滅具を持つ者の本当の恐ろしさ。

 けれど、それを考えるのは今ではない。

 まず、アーシアさんを助ける。

 そして、ディオドラ本人にすべての責任を取らせる。

 

     ◇

 

 そこから先の道は、実際にはそれほど長くなかったのかもしれない。

 けれど、私には今までよりもずっと長く感じられた。

 フリードから聞かされた話が、頭から離れない。

 

 ディオドラが最初からすべてを仕組み、アーシアさんが教会から追放されるように仕向け、信じていたものも居場所も失わせた上で、最後には自分のところへ来るようにしようとしていた。

 考えれば考えるほど、胸の奥が冷たくなる。

 自分が怒っていることは、嫌でも分かった。

 

 それでも、今はその怒りに任せて動く時ではない。

 まずアーシアさんを連れて帰る。

 それが先だった。

 

「見えた!」

 

 一誠の声に顔を上げる。

 通路の先には、これまで見てきたものとは明らかに違う大きな扉が立っていた。

 その向こうから伝わってくる魔力も強く、私たちは自然と足を止める。

 

「……この先だ」

 

 一誠が扉を睨むように見つめながら呟いた。

 

「はい。たぶん、ここが最後です」

 

 私もアストラノヴァを握り直す。

 リアス先輩はその場にいる全員を見回し、一人一人の表情を確認してから静かに告げた。

 

「行くわよ。何があっても、アーシアを連れて帰るわ」

 

 反対する人はいなかった。

 大きな扉が、ゆっくりと開いていく。

 その向こうに現れたのは、これまで通ってきた場所よりも遥かに広い神殿だった。

 そして、その最奥。

 拘束されたアーシアさんの姿を見つけた瞬間、一誠の声が神殿中に響き渡った。

 

「アーシア!」

 

「アーシアさん!」

 

 私も思わず、その名前を呼ぶ。

 

「一誠さん……!」

 

 返事があった。

 拘束されてはいる。

 それでもアーシアさんは確かにそこにいて、自分の声で私たちを呼んでいる。

 生きている。

 その事実を確認できただけで、胸の奥にずっと詰まっていたものが、ほんの少しだけほどけた。

 

 けれど、まだ終わってはいない。

 アーシアさんのすぐそばには、私たちがここまで来ることを最初から分かっていたかのように、ディオドラ・アスタロトが笑みを浮かべて立っていた。

ブルアカで一番好きなメインストーリーは? 2026/9/4現在、公開されている範囲でお答えください。

  • Vol.1 対策委員会編 1&2章
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  • Vol.3 エデン条約編 1&2章
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  • Final. あまねく奇跡の始発点 1&2章
  • Final. あまねく奇跡の始発点 3&4章
  • Vol.5 百花繚乱編
  • Vol.6 過ぎ去りし刻のオラトリオ編
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  • 第2部 Vol.EX ロア追跡編
  • 第2部 Vol.1 炎と影編
  • 第2部 Vol.2 オデュッセイア編
  • メインストーリーをほとんど知らない
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