◆
かつて英雄と呼ばれるに相応しい実力を持っていたハンター、レイン=アルバート。
しかし仲間を失った今の彼は、夢も熱も失い、生活のためだけに依頼をこなすソロハンターになっていた。
そんなある日、ギルドから一年がかりの長期調査依頼を持ちかけられたレインは、年齢や一人であることを理由に辞退しようとする。
そこへ現れたのは、銀髪褐色の女ハンター――エル=アルバート。
十五年前、レインが拾い、名を与え、そして置いていった少女だった。
「じゃあな。またどこかで会えるさ」
かつてレインが何気なく残した言葉を胸に、エルは十五年間、彼の隣に立つためだけに生きてきた。
これは、置いていった男と、置いていかれないために強くなった少女が、十五年越しに再会する話。
◆
◆
ハンターギルドの大広間は、朝から騒がしかった。
掲示板の前には各国から集められた腕利きたちが群がり、受付には見慣れない紋章をつけた者たちが列を作っている。
鎧の擦れる音。
剣の鍔が鳴る音。
地図を広げた職員が声を張り上げ、運搬係が木箱を抱えて奥へ駆けていく。
大規模調査。
新大陸。
未踏破領域――そんな言葉が、朝の空気に混じっていた。
レイン=アルバートは、受付の前で依頼書を眺めながら、ひどく面倒そうに眉を寄せていた。
「……これを俺に?」
低く呟いた声に、受付奥に立つギルド支部長が頷く。
「新大陸北東部、ラグナ辺境域の長期調査だ」
支部長は受付台に広げた地図の一点を指で叩いた。
「軽く見積もって一年。現地に拠点を作って、周辺の地形、魔物の生態、魔力濃度、遺跡反応の有無を継続的に記録してもらう」
「一年?」
レインは露骨に顔をしかめた。
「それはもう依頼っていうより移住だろ」
「……まぁ。そうとも言うな」
「言い方を変えても面倒なのは変わらねぇよ」
支部長は苦笑しながら、地図の周辺に置かれた資料を数枚めくった。
「今のところ、大きな事故や事件は起きていない。ただ、異常はある。魔力濃度の乱れ、既存種と違う魔物の痕跡、方位魔導具の不具合、夜間の発光現象。放置するには気味が悪い」
「だったら学者を送れ」
「送る。だが学者だけで行ける場所じゃない。辺境域の周辺は決して安全とは言えんし、何が起こるかも分からない。だから腕のいいハンターを数回に分けて派遣して、慎重に調査を進める」
レインは依頼書を指で弾いた。
次いで、大きなため息を吐く。
「聞けば聞くほど、俺向きじゃねぇな」
紙には細かな文字で、危険性と必要物資、推奨人数が書き込まれている。
最低でも上級ハンター二名以上。
加えて、調査技能を持つ者の同行を強く推奨。
読み上げるまでもなく、面倒な仕事だった。
ただ魔物を斬ればいいだけではない。地形を調べ、遺跡を読み、異常魔力の原因を探り、場合によっては帰還を最優先にする。そういう仕事だ。
レインは、自分の背にある大剣の柄へ視線だけを寄せた。
無骨な大剣だった。
飾り気はない。見た目だけなら、鍛冶屋の隅にでも置かれていそうなただの大剣だ。
だが近くで見れば、刃には何度も研ぎ直された跡があり、柄の革は丁寧に巻き直されている。使い古されてはいるが、決して放置されてはいないことが分かる、そんな剣。
レインはその剣で、ずっと食ってきた。
あと十年早ければ、ソロだろうがなんだろうがきっと問答無用でクエストを受けていたに違いない。
しかし、今と昔は違う。
昔は旅や冒険のために、生きていた。
今は、生活のために剣を振っている。
その違いを、三十二になった今のレインは嫌というほど知っていた。
「悪いが、他を当たってくれ。俺は調査屋じゃない。斬るしか能がない男を新大陸に放り込んでどうする」
「斬るしか能がない男が必要な場面もある」
「そういう場面だけならな」
レインは依頼書を受付台に置いた。
「それに、俺はもう若くない。遠出も御免だ。こういうのは、夢と体力が余ってる若いやつに回せ」
支部長が何か言いかける。
だがレインは、それより先に肩を竦めた。
「悪いが、若いやつのお守りをする歳でもない」
その時だった。
「年だの、1人だの。言い訳ばかりでみっともないですね」
すっと、騒がしい広間の中に一本の糸が張られたようだった。
レインの眉が、ぴくりと動く。
大広間のざわめきは変わらない。誰かが笑い、誰かが怒鳴り、受付の鐘が鳴る。けれど、レインの耳にはその声だけが妙に鮮明に残った。
若い女の声だった。
静かで、落ち着いている。怒鳴っているわけでも、煽っているわけでもない。ただ事実を言っただけのような声。
だからこそ、余計に腹が立った。
レインはゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、見知らぬ女ハンターだった。
長い銀髪。褐色の肌。表情は落ち着いていて、背筋はまっすぐに伸びている。細身ではあるが、立ち姿に弱さはない。余計な飾りを削ぎ落とした装備は、上級ハンターのものだと一目で分かった。
腰には、古びた短剣。
銀の髪の一部を結んでいるのは、装備に似合わないほど古い髪紐だった。
知らない女だった。
だが、その立ち方には見覚えがあるような気がした。
いや、気のせいだろう。
そう思い直し、レインは薄く笑った。
「威勢がいいなぁ、若いハンター。その若さは、いつか身を滅ぼすぜ」
声を荒げるつもりはなかった。
若い頃なら、きっと噛みついていた。なんだと、と声を張り、売られた喧嘩を買っていただろう。
だが今のレインは、もうそういう年ではなかった。
若さが怖いもの知らずを連れてくることも、その先に何が待っているかも、嫌というほど知っている。
だから、諭すように言った。
しかし、銀髪の女は引かなかった。
「若さで身を滅ぼす人もいるでしょうね。ですが、年齢を言い訳にして立ち止まる人よりは、まだ前に進めます」
「言うねぇ」
「言います。言わなければ、届きませんから」
女は一歩、近づいた。
レインはそこで初めて、彼女の腰の短剣をはっきり見た。
古い。実用に耐えないほどではないが、上級ハンターが好んで使う品ではない。柄には細かな傷があり、革紐の一部が黒く焦げている。
……やはり、どこかで見たことがあるような。
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
昔の旅どこかで出会ったことがあるのだろうか。
「俺を焚きつけたところで無駄だ。新大陸調査なんざ、命知らずの仕事だ。まして異常魔力が絡んでる。生きて帰れねぇ可能性の方が高い」
「だから行かないんですか」
「生き残るには、退くことも覚えろって話だ」
「それは退く判断ですか。それとも逃げるための理屈ですか」
空気が、わずかに重くなった。
受付台の向こうで、支部長が口を閉ざす。周囲にいた数人のハンターが、ちらりとこちらを見た。
レインは女を見下ろした。
怒りはあった。けれど、それ以上に引っかかるものがあった。
なぜ、こうも自分に突っかかってくるのか、それが分からない。
「若いハンター」
レインは低く言った。
「俺が何を見てきたかも知らずに、よく言う」
「知りません」
女は即答した。
「でも、」
「でも、なんだ」
レインの指が、受付台の上で止まった。
ここで綺麗ごとを並べようものなら、もう無視して帰る――そのつもりだった。
しかし、女の口から発せられた言葉は、レインの想像を超えるものだった。
女は静かに息を吸う。
表情は落ち着いているのに、その目の奥だけがわずかに揺れていた。
「『強くなれ。言い訳のために、弱くあるな』――そう教えてくれたのは、あなたじゃないですか」
その瞬間、世界の音が遠のいた。
驚きに目を見開いて、レインは女を見る。
昔。もう何年も前の旅の記憶が、レインの脳裏をよぎる。
騒がしいギルドの大広間が、雪混じりの風の音に変わった。
小さな手。
泥だらけの膝。
泣き腫らした目。
短い銀の髪。
そして、こちらを睨むように見上げていた、八歳の子供。
――強くなれ、エル。
自分の声が、記憶の中で響いた。
――言い訳のために、弱くあるな。
胸の奥が、ぐっと掴まれたように痛んだ。
――弱いままでいることに、甘えるな。
レインは目の前の女を見た。
「まさ、か」
銀髪。褐色の肌。腰の古い短剣。髪紐。落ち着いた表情の奥に残る、泣きそうなほど真っ直ぐな目。
まさか。
そんなはずがない。
「うそ、だろ」
「……やっと、気づいてくれましたか?」
十五年だ。
あれから、十五年も経っている。
レインの喉が、からからに乾いた。
ぷるぷると、上げた指先が震える。
「まさかお前……エル、か?」
女は、ほんの少しだけ表情を緩めた。
笑ったのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「はい」
彼女は、背筋を伸ばしたまま答えた。
「お久しぶりです、レインさん」
記憶の中の少女が、今の女と重なる。
小さかった手。泣き声。必死に剣を握ろうとしていた姿。何かができるようになるたび、自慢げにこちらへ走ってきた顔。
レインは言葉を失った。
エル。
エル=アルバート。
それはかつて、15年前にとある町の少女に自分が付けた、名前だった。。
◆
十五年前、レインは十七歳だった。
我が強く、怖いもの知らずで、自分の剣が届く範囲なら大抵のものはどうにかできると思っていた。
自分でいうのもなんだが、実際、どうにかできるだけの力もあった。
その頃のレインは、四人のパーティーで旅をしていた。
大剣を振るうレイン。
斥候兼魔法剣士のシェラ。
魔力解析を得意とするオルド。
治癒と支援を担うミラ。
役割はばらばらだったが、不思議と噛み合っていた。
レインらのパーティーがその町に滞在したのは、周辺で起こっていた異変を調査するためだった。
家畜が怯え、森の魔物が移動し、井戸の水に魔力の濁りが混じる。
小さな異常がいくつも重なり、やがてそれは大きな災厄の予兆だと分かった。
復活しかけていた災厄。
それを解決するために、二年がかかった。
……まぁ。結局災厄は未然に防ぐことは出来ずに、レインたちが討伐したのだが、それはまた、別のお話し。
しかして。
レインがエルと出会ったのは、その最初の頃だった。
彼女は孤児だった。
名前を聞いても答えなかった。答えられなかったのか、答えたくなかったのか、今となっては分からない。
ただ、痩せた体でこちらを睨んでいた。
「名前くらいないと不便だろ」
レインはしゃがみ込み、彼女と目線を合わせた。
少女は警戒したまま、唇を結んでいる。
レインはしばらく考えた。考えたと言っても、たいした時間ではない。
「じゃあ、エルだ」
少女が瞬きをする。
「エル=アルバート。今日からそれでいい」
背後でシェラが吹き出した。
「ちょっと、あんたの名字まであげるの?」
「名前がないよりマシだろ」
「雑だねぇ」
「文句があるなら、後から自分で変えりゃいい」
少女は、何も言わなかった。
けれどその日から、彼女はエル=アルバートになった。
エルは、よくレインの後ろをついて回った。
最初は邪魔だった。小さくて、非力で、すぐ転ぶ。剣を持たせても振れない。荷物を持たせても遅れる。
それでも、彼女はついてきた。
そしてある日、言った。
「レインさん。私に戦い方を教えてください」
木剣を両手で抱えるように持って、必死な顔をしていた。
レインは面倒そうに頭をかいた。
「細かいことは俺には分からん」
「でも、レインさんは強いです」
「俺は斬ってるだけだ」
「斬り方を教えてください」
「斬ったら斬れる。それだけだ」
エルは唇を噛んだ。
その時、横からシェラが軽く手を上げた。
「あーエル。そいつには何を言って無駄よ、脳みそまで筋肉でできてるから」
「んな!?おいシェラ、人を脳筋扱いすんなよ」
「だって事実じゃない」
そういうと、エルの元へ歩いてしゃがむシェラ。
「だか、あたしが見てあげる」
「シェラさんが?」
「不満?」
「でも……」
そういうと、二人は小さい声で耳打ちをしていた。
何を話しているのか、レインには分からなかったし、分かりたいとも思わなかった。
ただ、そのあとに元気よくエルが
「お願いします!」
というもんだから、シェラの口のうまさには舌を巻いた。
シェラは笑いながら、エルの持っていた木剣を取り上げた。
「レインの隣に立ちたいなら、レインと同じことをしちゃ駄目だよ。あいつができないことを、あんたができるようになりな」
それから、エルはシェラに師事した。
魔力の流し方。足音の消し方。視線の配り方。罠の見方。短い刃の扱い方。敵を倒すだけではなく、敵に気づき、仲間を届かせるための動き。
エルは必死だった。
なぜそんなに必死なのか、当時のレインは深く考えなかった。
興味もなかった。
しかし、何かができるようになるたび、エルはレインのところへ来た。
「見てください」
そう言って、覚えたばかりの身のこなしを見せる。
レインは大抵、適当に頷いた。
「前よりマシになったな」
エルはそれだけで、顔を輝かせた。
組手をすれば、当然のように転がされた。尻もちをつき、手のひらを擦りむき、それでも立ち上がった。
「ちょっと、もう少し手加減してあげなさいよ」
「なら、俺に挑んでくるなとこいつに言ってくれ」
心配そうに、エルを見るシェラ。
エルは、真剣な目つきでレインを見上げた。
「もう一回お願いします」
「しつこいな、お前」
「もう一回です」
「……足の置き方が甘い。踏み込む前に死ぬぞ」
「はい!」
――そんな日々が、二年続いた。
そして、町の異変は解決した。
災厄は討たれ、町は救われた。人々はレインたちを英雄のように扱った。
だが、旅は終わらなかった。
当たり前だ。レイン達の旅の目的は、ここではない。
そして、そんな終わりも見えないような旅に、子供を連れていくなど、論外だった。
少なくとも、レインはそう思っていた。
だから。
レインは、仲間たちにエルを置いていくと話した。
シェラは少しだけ黙った後、頷いた。
「……あの子、泣くよ」
「分かってる」
「縋るよ」
「分かってる」
「それでも?」
「連れていけねぇ」
別れの当日。
エルは、やはり泣いた。
喚いた。
置いていかないでと叫んだ。
もっと強くなるからと縋った。
役に立つからと、震える手でレインの外套を掴んだ。
レインは、その手を外した。
今思えば、ひどいことをした。
だがあの時のレインにとって、それは正しい判断だった。危険な目的地に、八歳の子供を連れていくわけにはいかない。
エルは泣きすぎて声を枯らし、それでも最後にはレインを見上げた。
レインは、彼女の前にしゃがんだ。
「強くなれ、エル。言い訳のために、弱くあるな」
エルの肩が震える。
「欲しいものがあるなら掴み取れ。届かないなら、届くまで努力しろ」
それは、慰めだった。
半分は本気で、半分は別れを丸めるための言葉だった。
けれど、エルは一言も聞き逃さなかった。
レインは立ち上がり、最後に笑った。
「じゃあな、エル。お前と居た二年間、悪くなかったぜ。運が悪きゃ、またどこかで会おうぜ」
エルは涙でぐしゃぐしゃになった顔で言った。
「約束だから」
レインは、軽く手を振った。
それがどれほど重い約束になるのかも知らずに。
◆
ギルドの裏手にある小さな中庭は、大広間の喧騒が嘘のように静かだった。
レインとエルは、石造りのベンチを挟むように立っていた。
再会の直後、ギルド内では話にならないと判断した支部長が、二人をここへ通したのだ。
エルは落ち着いていた。
少なくとも、表面上は。
背筋は伸び、声も乱れていない。けれど、その指先は時折、腰の古い短剣に触れた。確かめるように。あるいは、心を落ち着けるように。
レインはしばらく黙っていた。
「……生きてたんだな」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
言ってから、自分でも間抜けだと思った。
目の前に立っているのだから、生きているに決まっている。
それでも、それ以外に言葉が見つからなかった。
エルは小さく笑った。
「はい。レインさんも、ご無事なようで、安心しました」
「ご無事、ね」
レインは目を伏せた。
十五年。
何かあるには、十分すぎる時間。それは、彼女にとっても。
そして、自分にとっても。
「お前、今はハンターなのか」
「はい」
「その装備を見る限り、ただの駆け出しじゃなさそうだな」
「レインさんの隣に立つために、必要でしたから」
あまりにも真っ直ぐな答えに、レインは少し言葉に詰まった。
「……隣ってのは、あれか。そういう意味か?」
「そ、そういう意味とはどういう意味ですか」
エルの落ち着いた表情が、一瞬で崩れた。
頬に薄く赤みが差す。視線が泳ぎ、指が髪紐に触れて、すぐに離れる。
「私はただ、レインさんと共に行動できるだけの実力を得るために努力をしてきたという意味であって、決して、その、恋仲とか、伴侶とか、そういう不純な意図ではなく」
「不純って」
「笑わないでください!」
レインは思わず笑いかけて、やめた。
エルの必死さが、あまりにも昔と同じだったからだ。
背は伸びた。
声も変わった。
装備も、立ち姿も、目つきも違う。
だが、褒められたくて必死だったあの子供の面影が、確かにそこにあった。
エルは息を整え、再びレインを見る。
その前は、真剣そのものだった。
気圧されるほどに、真っすぐ。
「私は、あなたと共にあるために生きてきました」
言葉は静かだった。
恐ろしいまでに、純粋な想いだった。
「あなたがくれた名前で生きました。あなたがくれた言葉を守りました。シェラさんに教わったことを、忘れないように鍛え続けました。あなたが置いていった私では、もうありません」
レインの表情がわずかに曇る。
シェラの名が出ると、胸の奥に古傷が疼いた。
エルも、それに気づいたのだろう。少しだけ声を落とした。
「……最後の大遠征の話は、聞きました」
「どこまで」
「レインさん以外、戻らなかったと」
風が中庭を抜けた。
レインは大剣の柄に触れた。無意識だった。
「死んだとは限らない」
「はい」
「だが、生きてるとも言えない」
「はい」
「そういう話だ」
レインは短く吐き捨てるように言った。
小さな国の調査だった。
新大陸ほど大規模ではない。だが、異常魔力が観測され、古い遺跡が見つかり、調査隊が組まれた。
そして、レイン以外は帰らなかった。
何が起きたのか、今でも分からない。
あの時から、レインは誰かと組むことを避けるようになった。大きな依頼も、長い旅も、調査の名がつく仕事も。
生活のために剣は振るう。
だが、もう夢を見ることはやめた。
「今回の新大陸の魔力反応は、あの時と似ているそうですね」
エルの言葉に、レインは目を細めた。
「知ってたのか」
「そのために来ましたから」
「新大陸調査のために?」
「それもあります」
エルは少しだけ俯いた。
古い髪紐が、銀の髪の中で揺れる。
「でも、本当は、この規模の依頼ならレインさんにも声がかかるかもしれないと思いました」
「俺を探しに来たのか」
「探し、続けていましたから」
あっさりと頷かれ、レインは困ったように口元を歪めた。
「十五年も?」
「十五年です」
「……重いな」
「重いですよ」
エルは否定しなかった。
むしろ、当然のように受け入れていた。
「あなたは、私の人生なので」
怖いくらいに、真っすぐで。
恐ろしいほどに、純粋に。
彼女は言う。
「だから。あんなにも輝いていたあなたが、今こんな場所で、そんな目で!……生きていることが私は許せません」
「だがな、エル」
「だがなじゃないもん!」
部屋に響き渡る怒号にも近い声。
思わず、レインは目を丸める。
そんなレインを見て、少し恥ずかしそうにエルは言葉を続ける。
「だから、行きましょう、レインさん。あなたの仲間の手がかりを探しに、あなたの新たな冒険の始まりを、また私に見せてくださいよ」
今にも泣きだしそうな声。
縋るようにも聞こえるその音は、確かに15年前のあの少女のものであった。
レインは、大きく深呼吸を吐く。
吐いてしばらく空を見上げた。
中庭の上には、四角く切り取られた空がある。雲がゆっくり流れていた。
何を言うべきか。
何を言わないべきか。
自分はどう動くべきか……これまで俺は何をしてきたのか。
そんな選択肢が、レインの頭をぐるぐる、ぐるぐると廻った。
しかし、それはそこまで時間はかからない。
「エル」
「はい」
気づけば、言葉は口に出ていた。
「一日でいい。時間をくれ」
エルの瞳が揺れた。
「……逃げませんか」
「逃げねぇよ」
「約束ですよ」
その言葉に、レインは十五年前の別れを思い出した。
約束だから。
泣き腫らした顔でそう言った少女。
あの時のレインは、その重さを知らなかった。
今は、少しだけ分かる。
「あぁ。明日、この時間、この場所で」
エルはまっすぐにレインを見た。
そして、静かに頷く。
「――分かりました」
◆
その夜、レインは宿の部屋で大剣を手入れしていた。
窓の外では、遅くまでギルドの灯りが揺れている。新大陸調査の準備で、町全体が落ち着かない。
砥石を滑らせる音だけが、部屋に響いていた。
レインは剣の刃を見つめる。
無数の傷。研ぎ直した跡。長い年月を共にした重み。
捨て時を逃しただけだ、と誰かに言えばそう返すだろう。
だが、捨てるつもりならとっくに捨てている。
夢は薄れた。
希望も熱も、どこかへ置いてきた。
それでも剣だけは手入れしている。
終わった男にしては、未練がましい。
「……言い訳のために、弱くあるな、か」
レインは苦笑した。
どの口が言っているのだろう。
あの言葉を、八歳の子供に投げたのは自分だ。
その子供は十五年かけて、言葉の通りに強くなった。
それなのに、言った本人が年齢だの、一人だの、向いていないだのと言い訳を並べていた。
みっともない。
そう言われて、腹が立った。
腹が立ったのは、きっと図星だったからだ。
レインは剣を持ち上げる。
重い。
昔よりも、少しだけ重く感じる。体が衰えたのか、背負うものが増えたのかは分からない。
けれど、持てない重さではなかった。
目を閉じると、仲間たちの顔が浮かんだ。
軽口を叩くシェラ。
眉間に皺を寄せる魔術師。
呆れながらも治癒魔法をかけてくれた仲間。
そして、小さなエル。
置いていった少女。
今、その少女は自分を追いかけてきた。
置いていかれないために。
「俺は――」
レインは大剣を鞘に収めた。
翌朝まで、眠れる気はしなかった。
◆
翌日、同じ時間、同じ場所。
エルはギルドの中庭で待っていた。
早く来すぎたことは分かっていた。けれど、宿でじっとしていることなどできなかった。
指が何度も髪紐に触れる。
これはシェラにもらったものだった。
髪が邪魔なら結びな、と笑いながら渡された古い髪紐。剣より先に視界を守るのが斥候の基本だよ、と軽口を叩かれた。
そのシェラは、今も行方が分からない。
レインも、長い間見つからなかった。
けれど、昨日、見つけた。
エルは息を吐く。
足音が聞こえた。
約束通り、来てくれた。そう思って、ギルドの入り口へと振り返り。
振り返って、思わず口を両手で抑えた。
出ないと、いけない何かを口走ってしまいそうだったから。
(レイン、さん)
胸の奥が熱くなった。
レインがそこにいた。
昨日と同じ男のはずだった。年齢も、傷も、くたびれた外套も変わらない。けれど、背筋が違った。目が違った。
(レインさん。レインさん。レインさん、レインさん!)
大剣を背負った姿に、鈍く沈んでいた火が戻っている。
完全に昔のままではない。
十七歳の頃の、傲慢で、我が強く、怖いもの知らずだったレインではない。
それでも、エルがあの頃見ていた光が、確かにそこにあった。
かつて自分が見ていた。
かつて、私が憧れた姿が、そこにはあった。
(あぁ……レインさん。そうです。そうですよ、あなたはやっぱり、そうでないと)
自分の中の自分が、おかしくなっていることには気づいている。
けどもはや、止めることはできなかった。
「レイン、さん」
レインは短く言った。
後頭部を掻きむしりながら、少し照れくささそうに。
「やるよ」
それだけだった。
エルの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
(これだ)
背筋がぞくぞくした。
脳みそから、明らかに分泌してはいけないナニカが大量に出ている。
(私があの頃見ていた、レインさんは……っ)
何か言わなければと思うのに、言葉が出ない。
興奮のあまり、口から涎がこぼれていることなどエルは気づくはずもなく。
レインはそんなエルの内心など知る由もなく、中庭を出ていく。
「行くぞ。受付する」
「は、はい!」
エルは慌てて後を追った。涎を拭って・
大広間は今日も騒がしかった。新大陸調査の受付は専用窓口に移され、職員たちが書類をさばいている。
レインは迷いなく受付台へ向かい、依頼書を指で押さえた。
「レイン=アルバート。新大陸北東部先行調査、受ける」
受付職員が驚いた顔をした後、慌てて書類を用意する。
その顔はどこか、誇らしげに見える。
「承知しました。では、こちらにサインを。登録人数は――」
「一名でいい」
「え」
エルは固まった。
聞き間違いかと思った。
しかしレインは、ごく自然に書類へ名前を書いている。
エルは目を瞬かせ、それから慌てて受付台に身を乗り出した。
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待ってくださいよ!なんで登録人数、一名になってるんですか!」
レインは本気で不思議そうに振り返った。
「なんでって、俺はソロだからな。メンバーも今はいないし」
「だから!」
エルの声が、少しだけ裏返った。
周囲のハンターたちが何事かと振り返る。
エルは顔を赤くしながらも、引かなかった。
「私が行きます!私がどうして、何年、この日のために努力してきたと思ってるんですか!」
レインは数秒、エルを見た。
そして、口元を少しだけ吊り上げる。
昨日までのくたびれた笑みではない。
どこか挑発的な、昔のレインに近い笑みだった。
「やれんのか?」
エルの瞳が、きらりと光った。
「やれます」
「足手まといは連れていかねぇぞ」
「足手まといかどうかは、これを見てから言ってください」
エルは懐からギルドカードを取り出し、レインの前に差し出した。
レインは片眉を上げながら、それを受け取る。
最初は面倒そうだった。
だが、次の瞬間、指が止まった。
カードに刻まれた文字を、レインの目が追う。
名前。
エル=アルバート。
等級――白金級。
「……おい」
レインは低く呟いた。
「お前、これ……」
エルは背筋を伸ばした。
顔は赤いままだったが、視線だけは逸らさなかった。
十五年前、置いていかれた少女ではない。
レインの隣に立つために、死ぬ気で努力してきたハンターとして、そこに立っていた。
「十五年です」
エルは言った。
銀の髪を結ぶ古い髪紐が、小さく揺れる。
レインは言葉を失ったまま、カードを見つめている。
エルは少しだけ笑った。
「よく、ここまで……」
レインが、掠れた声でそう漏らした。
エルの胸に、柔らかな熱が広がる。
ずっと欲しかった言葉に、少しだけ近いものだった。
だから彼女は、真っ直ぐに返した。
「『欲しいものがあるなら掴み取れ。届かないなら、届くまで努力しろ』――こう教えてくれたのも、レインさんでしたから」
レインはしばらく黙っていた。
やがて、困ったように笑う。
それは昨日までのくたびれた笑みではなかった。
「……置いていく理由が、なくなっちまったな」
「はい」
エルは笑った。
十五年前、泣きながら交わした約束を、ようやく果たした子供みたいに。
「十五年かけて、なくしました」
◆
【後日譚】
調査に向かって、少し経った二人の話です。
微エロ注意。
『手の置き場』
◆
レインさんは、私が思っていたよりも、ずっと体温のある人だった。
そんな当たり前のことを知ったのは、新大陸に来て七日目の夜だった。
現地拠点と呼ばれている場所は、拠点というには少し頼りなかった。
木材と石材を組み合わせた簡素な小屋が三つ。
保存食と調査器具を詰め込んだ倉庫が一つ。外周には魔除けの杭と鳴子が張られているが、森の奥から聞こえる獣の声までは防いでくれない。
こんな場所で、一年はここで暮らすことになる。
だというのに私の気持ちはと言えば……不思議と悪くなかった。
隙間風は入るし、雨が降れば屋根の一部から水が滲む。
朝になれば靴の中に小さな虫が入り込んでいることもある。
それでも、私は毎朝、目覚めるたびに少しだけ息を呑む。
同じ拠点に、レインさんがいる。
壁一枚向こうに。
それだけで、十五年分の時間がまだ夢の中にあるような気がした。
今日の調査は、北の森だった。
魔力濃度の揺らぎが数日前から続いている場所で、方位魔導具が何度か狂った。
木々の幹には妙な発光苔が張りつき、地面には既存種とは少し違う小型魔物の足跡が残っていた。
私は痕跡を追い、魔力の流れを記録し、罠になりそうな地形を避けて進路を選んだ。
レインさんは、何も言わずに私の指示に従った。
それが嬉しかった。
十五年前、私はいつも後ろにいた。
追いかけても、追いかけても、あの大きな背中には届かなかった。
でも今日は違った。
私はレインさんの前に立ち、森の空気を読み、手で合図を送り、進むべき道を示した。レインさんはそれに舌打ちもせず、面倒くさがりもせず、ただ短く「あぁ」と返してくれた。
胸がギュッとして。
レインさんが私の言うことを聞いてくれるたびに、脳みそからは危ない物質が出ていた。
憧れのレインさんが。
あの、レインさんが私の言うことに黙ってついてきてくれる。
その事実が、私に甘美な蜜として脳に流れ込んでくるのだ。
なんて。
そんなこと思っているだなんて、レインさんに知られればドン引きはおろか、下手したら嫌われるので、表面上はしっかりと取り繕いながら調査は進めていた。
事件、というほどでもないが、ちょっとしたハプニングが起こったのはそれからそう時間がたたないくらいだった。
途中、茂みの奥から魔物が飛び出しのだ。
大型ではない。けれど、動きが速く、爪に麻痺毒を持つ厄介な種だった。
私は魔力糸を飛ばし、足止めをした。レインさんが踏み込む。
大剣が一閃した。
鈍い音がして、魔物の身体が地面に沈む。
迷いのない一撃だった。
昔よりも派手さはない。
力任せに全部を叩き潰すような無茶もない。
けれど、剣筋は重く、鋭く、無駄がなかった。
私はその背中を見て、息を忘れた。
これだ。
これが、私がずっと追いかけてきた人だ。
そう思った直後、別の魔物が横から飛びかかった。
「レインさん!」
「見えてる」
レインさんは振り返りざまに大剣を立てた。
爪が刃に弾かれる。だが、弾き切れなかった一本が、レインさんの肩から背中にかけて浅く裂いた。
血が散った。
私は頭が真っ白になりかけて、すぐに噛み殺した。
動け。
今、私が乱れてどうする。
私は足を滑らせるように横へ入り、短剣に魔力を流す。魔物の視線がレインさんからこちらへ向いた瞬間、レインさんの大剣がもう一度動いた。
今度こそ、魔物は動かなくなった。
「傷を見せてください」
私がそう言うと、レインさんは面倒そうに肩を回した。
「浅い」
「見せてください」
「帰ってからでいい」
「今ここで上着を脱がされたいんですか」
レインさんが、妙な顔でこちらを見た。
私は言ってから、自分の言葉の意味に気づいた。
「違います。そういう意味ではありません。治療の話です」
「まだ何も言ってねぇだろ」
「言いそうな顔をしていました」
「便利だな、お前の目」
レインさんは呆れたように笑った。
その笑い方が、少しだけ昔に似ていて、胸の奥がきゅっと痛くなる。
結局、傷の処置は拠点に戻ってからになった。
雨が降り出したのは、帰路の途中だった。
新大陸の雨は、冷たい。細かく、肌にまとわりつくように降る。外套の表面を叩いた雨粒が、首筋へ入り込むたびに、体温を奪っていった。
拠点に戻る頃には、二人ともすっかり濡れていた。
私は荷物を下ろすとすぐに火を起こし、薬箱を開いた。乾いた布、消毒薬、縫合糸、包帯。必要なものを並べてから、レインさんを見る。
「脱いでください」
言った瞬間、また言葉が足りなかったことに気づいた。
けれど、今度は訂正する前にレインさんが外套を脱いだ。
濡れた布が床に落ちる。続いて、上着の留め具を外す音がした。
ドク、と自分の心臓が大きく脈打つのが分かる。
本当。
自分で医療行為だと言っておいて情けない。
必死に平静を装う。
私は薬瓶の蓋を開けるふりをして、視線を落とした。
見てはいけない、というわけではない。
治療なのだから、見る必要がある。
私はハンターだ。怪我人の処置など何度もしてきた。血を見ても動揺しない。
傷口の深さを確認し、毒の有無を調べ、必要なら縫う。
それだけだ。
それだけのはず……なのだが。
「どうした。手当てするんじゃなかったのか」
レインさんの声で、私は顔を上げた。
「ひゃい!――ぁ」
そして、固まった。
レインさんは上半身の衣服を脱ぎ、こちらに背中を向けて椅子に座っていた。
肩から背中にかけて、浅い裂傷が走っている。血は止まりかけていた。致命傷ではない。処置も難しくない。
――どくどくと、ありえない速さで心臓が早鐘を打つ。
見るべきは傷だ。
なのに、私は傷よりも先に、その背中を見てしまった。
――全身の血液が熱を持ったみたいに、体が熱い。
広い背中だった。
若い頃の記憶の中にある背中より、少しだけ厚みが変わっている。
古い傷跡がいくつもあり、肩口には大きな刃傷の痕もあった。
鍛えられた筋肉は派手ではないが、長い年月を剣と共に過ごしてきたことが分かる硬さを持っていた。
そこに雨の雫が残っている。
火の明かりが、濡れた肌の上で揺れていた。
――やばい。これは、刺激が。
息を吸うのが、少し遅れた。
咄嗟に、私は鼻にてをやる。よかった、鼻血は出ていない。
深呼吸をして、もう一度見る。
この背中を、私はずっと追いかけていた。
十五年前、遠ざかっていくこの背中を見て泣いた。追いつけなかった。呼んでも、叫んでも、子供の足では届かなかった。
その背中が、今は目の前にある。
手を伸ばせば届く場所に。
呼吸が浅い。
ゆっくりとその背に伸ばす手は、自分でも笑ってしまうくらい震えている。
下腹部はキュッと疼き、私は――
「エル?」
「ひゃい!?」
変な声が出てしまった。
は、恥ずかしい。というか、今私、何を。
「だ、大丈夫か?」
「大丈夫って、な、何が」
「いや、まぁそりゃあ、そうなんだが。……まぁ何もないならいいんだが」
レインさんが肩越しにこちらを見る。
私は慌てて布に消毒薬を含ませた。
「だ、ダイジョブです。大丈夫ですから、レインさんは前を見てください」
「お、おう」
解せぬ、といった風にレインさんは前を見てくれる。
よかった。
これ以上、真顔を保つのが難しかったから。
でもおかげで、手の震えはすこし止まった。
「処置します。少し染みます、から」
「おう」
布を傷口に当てる。
レインさんの肩がわずかに動いた。けれど声は出さない。
私は傷だけを見るようにした。
傷だけ。
血の滲み方。皮膚の裂け方。毒の有無。筋肉の動き。処置に必要なことだけを拾う。
………なのだが。
けれど、指先がどうしても余計なものを拾ってしまう。
肌の熱。
呼吸の上下。
背中に刻まれた古い傷跡。
「傷が、多いですね」
気づけば、そんなことを口にしていた。
「ハンターなんざ、こんなもんだ」
「全部、覚えていますか」
「まさか」
レインさんは少し笑った。
「どれがいつの傷かなんて、いちいち覚えてねぇよ」
「……そうですか」
私は指先を止めかけて、慌てて動かした。
覚えていない。
レインさんは、きっとそういう人だ。
痛みも、傷も、過去も、全部を抱えているようで、案外、自分の中では雑に積み上げている。
私とは違う。
私は、覚えている。
レインさんがくれた言葉も。
レインさんが雑に投げてくれた短剣の重さも。
シェラさんが結んでくれた髪紐の感触も。
別れ際の、あのどうしようもない笑顔も。
(レインさんは気づいてくれなかったけど、私は一目で気づいたし!)
全部、覚えている。
忘れられなかった。
だから、苦しかった。だから過去に頓着しないレインさんには少しだけムッとしてしまうけれど、今はいい。
だって、今はすべてが、今、目のまえにあるから。
布を置き、薬草軟膏を取る。
傷の周りに塗るため、私はレインさんの背中へ指を伸ばした。
触れた瞬間、胸の奥が再度跳ねた。
温かかった。
当たり前だ。
でも、その当たり前が私には難しかった。
レインさんは、神様ではなかった。
物語の英雄でも、遠くに消えた約束でもなかった。
手を伸ばせば触れられる、人だった。
肌は熱を持ち、傷は痛み、息をして、時々面倒くさそうに笑う。
そんな人の隣に、私は今いる。
「エル」
「はい」
「そこ、傷じゃない」
私は指を止めた。
軟膏を塗る必要のない場所に、指が触れていた。
慌てて離す。
「す、すみません。手元が」
「手元が?」
「狂いました」
「斥候が手元狂わせるなよ」
「治療中は斥候ではありません」
「猶更狂わせるなよ」
そりゃあそうです。と私が言えば喉の奥でレインさんは笑った。
私はその笑い声を聞きながら、包帯を手に取った。
心臓は一向に鳴りを潜めてくれない。
おかしい。
私は、こんなはずではなかった。
私はただ、レインさんの隣に立ちたかった。
置いていかれない自分になりたかった。
同じ依頼を受けて、同じ景色を見て、同じ危険に向き合って、背中を預けてもらえる存在になりたかった。
それなのに、今は。
この背中に触れているだけで、息が苦しい。
包帯を巻くために、私はレインさんの肩越しに腕を回す。
このまま事故を装って抱き着いてしまおうか、なんて邪な考えが過る。
(レインさんだって、きっと許してくれる)
濡れた髪から落ちた雫が、自分の首筋を伝う。
レインさんの体温が近い。
私の腕が、彼の前を横切る。布を受け取り、背中側へ戻す。そのたびに、距離が近くなる。
呼吸を浅くする。
触れすぎないように。
力を入れすぎないように。
変なことを考えないように。
「終わりました」
「助かった」
そんな治療と欲望でシーソーゲームをしていれば、至福の時間はいつの間にか終わっていた。
レインさんは上着を羽織り直す。
その動作を、私は見ないように薬箱を片づけた。これ以上見ていたら、何をしでかすか自分でも分からない。
消毒薬の蓋を閉め、布を畳み、使った包帯の切れ端をまとめる。
視線を逸らすことに必死だった。
「エル」
「はい」
顔を上げると、レインさんがこちらを見ていた。
火の明かりのせいか、その目は少し柔らかく見えた。
「ありだとな。お前がいなきゃ、少し面倒だった」
胸の奥で、何かが壊れたような音がした。
もう限界だった。
下腹部がギュッと、疼く。
「当然です。そのために努力しましたから」
声は、思ったより冷静に出た。
よかった。
ちゃんと返せた。
そしてすぐ、レインさんが部屋を出ていった。
というか私が返した。
寝台の上。布団にくるまりながら、その言葉を何度も復唱する。
ありがとな。
お前がいなきゃ。
お前が。
変な笑いが出てきそうだった。
言葉をぼそりと繰り返す旅、背筋に甘い痺れが走って、私は自分の体をギュッと抱きしめる。
眠れない。
隣の部屋は静かだった。
拠点の小屋は壁が薄い。
火の爆ぜる音も、外の風の音も、木材が軋む音も聞こえる。
時折、レインさんが動く気配がした。大剣を壁に立てかける鈍い音。椅子を引く小さな音。布が擦れる音。
それだけで、体が強張った。
私は毛布を胸元まで引き上げる。
目を閉じる。
こんなこといけない、とどうにか眠ろうとする。
しかし、それはかえって先の光景を鮮明に思い出すだけだった。
レインさんの背中。
肌の熱。
古い傷。
私の指先が触れた場所。
少しだけ笑った声。
心臓が速い。
息が、浅い。
私は手を胸元に置いた。服越しに伝わる鼓動が、自分のものではないみたいに大きかった。
違う。
私は、そんなつもりでレインさんを追いかけてきたわけではない。
私はただ、隣に立ちたかった。
置いていかれないように。
約束を果たせるように。
レインさんがくれた名前に恥じないように。
それだけだった。
それだけだったはずなのに。
毛布の中で、指先がゆっくり動く。
自分の手首を掴んだ。
止めるように。
熱を持った指先が、どこかへ行こうとするのを押さえるように。
私は歯を食いしばる。
違う。
これは違う。
違うはずだ。
「でも」
けれど、何が違うのか分からなかった。
レインさんに触れたいと思うことが、いけないのか。
レインさんの声を思い出すだけで身体が熱くなることが、間違っているのか。
あの背中にもう一度手を伸ばしたいと思うことは、隣に立ちたいという願いとは別のものなのか。
分からない。
私はレインさんの隣にいたかった。
でも、隣というのは、こんなにも近い場所だったのか。
手を伸ばせば届く。
声を潜めても聞こえる。
傷に触れれば、体温が返ってくる。
そんな距離だとは、知らなかった。
私は布団の中で膝を寄せた。
顔が熱い。耳まで熱い。
欲しいものがあるなら掴み取れ。
届かないなら、届くまで努力しろ。
そう言われたから。
だから、努力した。
届いた。
ようやく、届いた。
けれど、届いた手をどこに置けばいいのか、私は知らなかった。
指先が震える。
気づけば毛布の上を、再び指先が滑っていく。
するすると。
さわり、ゆっくりと。
「レイン、さん……っ」
その先にある熱が何なのか、分かっているようで、分かっていない。
分かってしまうのが怖かった。
この気持ちに名前をつけるのが、怖かった。
憧れ。
信頼。
執着。
感謝。
約束。
安心。
それだけでは説明できない何か。
レインさんを神様みたいに思っていた。
人生の軸だった。
追いかける背中だった。
でも今日、私は知ってしまった。
レインさんは、体温のある人だ。
私と同じように傷つき、血を流し、息をする人だ。
そして私は、その人に触れたいと思ってしまった。
「……あっ」
小さく息が漏れた。
私は慌てて口元を押さえる。
その時、壁の向こうから声がした。
「……起きてんのか、エル」
心臓が止まるかと思った。
私は毛布の中で固まった。
返事をしていいのか。しない方がいいのか。寝たふりをするべきか。けれど、今の間は明らかに不自然だった。
「起きていません」
言ってから、私は自分の愚かさを呪った。
壁の向こうで、レインさんが小さく笑う気配がした。
「起きてるやつの返事だろ、それ」
「……ね、寝言です」
「随分はっきりした寝言だな」
「私は寝言も明瞭です」
「そうかよ」
私は毛布を鼻の下まで引き上げた。
聞こえていない。
何も気づかれていない。
そう思いたい。
レインさんは少し黙った後、低い声で言った。
「明日も早い。寝ろよ」
「……はい。お、」
「ん?」
「おやすみ、なさい、レインさん」
「……あぁ。おやすみ、エル」
それだけだった。
たったそれだけ。
なのに、私の胸はまた苦しくなる。
(ごめんなさい、レインさん)
毛布を頭まで被る。
今夜は、この熱を逃がさないまま寝ることなんてできない。
そんな免罪符を言い訳に。
私はもうすっかりと濡れそぼっている布の下へと手を伸ばした。
◆