凍える天体 ――あるいはシンオウ神話とヒスイ地方に関する哲学的・民俗学的考察   作:加藤ブドウ糖液糖

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2. コトブキ空港

 

 

 

 

 

 ――旅よ、お前がわれわれに真っ先に見せてくれるものは、人類の顔に投げつけられたわれわれの汚物なのだ。

 

 

 

 

 

 

2.コトブキ空港

 

 コトブキ空港の到着ロビーは、私の記憶にあるそれよりも遥かに広く、そして明るかった。自動ドアが開くと、暖房の効いた湿った熱気が、まるで生きた動物のように顔に飛びかかってくる。それはタマムシの乾いた冬の空気とはまったく異なる、重く甘く、いくぶん腐敗めいた熱気であった。アナウンスの機械的な女の声。車輪が床を軋ませる音。そしてどこからか、コリンクの甲高い鳴き声。私はしばらくその場に立ち止まって、それらを聞いていた。

 

 奇妙なことに、私はこの音を、まるで初めて聞くもののように感じたのである。この土地には若い時分から数えきれぬほど足を運んできた。この匂いも、この喧噪も、私が初めてこの土地を踏んだ朝から、一日も欠かさずここにあったに違いない。ただ私が、それを聞いていなかっただけなのだ。急ぐ者の耳には、音は聞こえない。

 

 タクシーに乗り込み、窓の外を眺めながら、私はその単純な事実について考えていた。

 

 私はこの都市を何度も訪れた。学位を取るまでの数年間、私は毎年のようにこの土地へ来ていた。夏には発掘の現場に立ち、冬にはミオの図書館の書庫に籠り、時にはカンナギの旧家を訪ねて古老の話を聞いた。渡航の回数を数えれば、二十を下るまい。学位を得て以後は足が遠のいたが、それでもこの土地は、私にとって他のどの場所よりも馴染みの深いはずであった。

 

 それにもかかわらず、私はこの都市を知らなかった。

 

 いま思えば、私の来訪はいつも一本の線であった。港から宿へ、宿から遺跡へ、遺跡から図書館へ、そしてまた港へ。私が見ていたのは、その線の上に載っているものだけであった。線の外側には都市があった。人が住み、飯を炊き、喧嘩をし、ポケモンを飼い、死んでゆく都市が。私はそれを一度も見ていなかった。学者というものは、しばしばこのようにして土地を訪れる。彼は地図の上に自分の目的地を幾つか打ち、それらを最短距離で結び、その線分の上だけを往復して帰ってゆく。そして帰国後、その土地について一冊の本を書くのである。私もまた、そうやって幾つかの論文を書いた。

 

 窓の外を、コトブキシティが流れてゆく。手前には近代的なビル群。ガラスと鉄とコンクリートでできた無機質な直方体。その壁面に、シルフカンパニーの新型端末の広告と、シンオウリーグのチャンピオンを讃えるポスターとが並んで貼られている。いずれも、この土地で作られたものではなかった。看板の文字はどれも、他所の地方の言葉遣いで書かれていた。それらの広告のあいだから、時折古い建物の屋根が覗いている。黒い瓦、白い漆喰の壁、そしてその上に、まるで寄生植物のように絡みついた電線とアンテナ。さらに奥には工場の煙突。ソノオタウン方面から吹きつける風に乗って、硫黄と鉄の匂いが断続的に、しかし執拗に鼻孔を刺激する。

 

 これは一枚の絵ではない。何層もの絵が、互いに矛盾したまま、同じ画面の上に重ね塗りされた重層写本である。中世の都市について記したある歴史家は、かつてこう書いた。あの時代には、あらゆるものがより鮮明な輪郭を持っていた、と。苦しみと喜びの対比、不幸と幸福の対比は、より強烈であった、と。この都市にもまた、中間というものがない。ただしそれは、彼の言う意味においてではない。ここでは、新しいものと古いものとが、どちらも輪郭を失わぬまま、隣り合って並んでいるのである。互いに溶け合うことなく、互いを打ち消すこともなく。

 

 そして、そのすべての上にテンガン山。雲に覆われた巨大な、沈黙した質量。

 

 私がこの都市を、目的を持たずに歩いたことがあるのは、後にも先にも、たった三日間だけであった。しかもそれは、私がまだ学生であった、十五年もむかしのことである。

 

 

 私はいかにして神話学者になったのか。この問いに、私はいまだに満足のいく答えを持っていない。答えを持たないということは、おそらく、この問いがそもそも問いの形をなしていないということであろう。人は自らの来し方を、あたかも一本の道を振り返るかのように語る。しかし実際には、道は一本ではなかった。道は分岐し、交差し、時に断崖で途切れ、時に地中で繋がっていた。私はただ、いくつかの断片的な記憶を持っている。それらは、古い教会の床に散らばったモザイクの欠片のように、かつて一つの大きな絵をなしていたはずのものだが、いまやその絵の全体像を思い出せる者は、この世に一人としていない。それらをここに記しておくことは、無益なことではあるまい。無益であるからこそ、記す価値があるのかもしれぬ。

 

 私はタマムシ大学の人文学部に在籍していた。哲学を専攻していた、と言ってよいのだろう。ただし、それは私に何の確信も与えなかった。いや、むしろこう言うべきであろう。確信を与えないことこそが、哲学の私に対する唯一の確実な贈り物であった。哲学の講義は、私にある種の知的な体操を教えた。それは、あらゆる問題を二つの対立する命題に還元し、その両方を順番に肯定し、否定し、最後に第三のより高次の総合に到達するという、あの退屈な、しかし奇妙に中毒性のある手続きであった。まず正題を掲げる。次に反題でそれを打ち砕く。最後に、まるで手品師が帽子から鳩を取り出すかのように、総合が提示される。聴衆は感嘆する。教授は満足する。そして次の週、同じ手続きが、別の主題について、寸分違わず繰り返される。私はこの手続きを完璧に身につけた。身につけたがゆえに、私はこの手続きが何一つ現実の問題を解決しないことを知った。それは、雨とは何かを完璧に定義した後で、傘を持たずに外へ出てゆかねばならないときのあの憂鬱な気持ちに似ていた。

 

 哲学が私に与えなかったもの。それは対象であった。哲学は私に思考の方法を与えた。しかし、思考すべき、具体的な――肉を持った、匂いのある、触れることのできる、時間の重みによって磨耗し、風化し、それでもなおそこに在り続ける――対象を、何ひとつ与えなかった。私は抽象のなかで窒息しかけていた。それは、窓のない部屋に閉じ込められた者の窒息に似ていた。空気はある。しかしその空気には、何の匂いも、何の味も、何の手触りもない。私はその無臭の空気を吸い込み、吐き出し、再び吸い込み、そして徐々に、自分が生きているのか死んでいるのかの区別がつかなくなっていった。

 

 当時、哲学専攻の学生たちのあいだには、ある種の奇妙な倦怠が蔓延していた。私たちは、かつて中世の学者たちが神学において経験したのと同じ種類の疲弊を、神なき、いわば世俗化された形式のなかで経験していた。あらゆる概念はすでに考え尽くされていた。あらゆる反論はすでに反論されていた。私たちは、もはや誰のものでもない知の残骸のなかで、それを自分のものだと主張することもできず、しかしそれを捨てることもできず、ただ手持ち無沙汰に弄び続けていたのであった。

 

 そのとき、私は理学部のある講義に迷い込んだ。それはまったくの偶然であった。あるいは、偶然というものが、後から振り返ったときに初めて必然の形をとる、というだけのことであったのかもしれない。冬の初めであった。講堂の窓から、イチョウの黄色い葉が、まるで古い金貨のように散っていた。講義の題目は「シンオウ地方の地層と古代文明の痕跡」であった。聴講者はまばらであった。五、六人の学生が、暖房の効きすぎた講堂のなかで、外套に顔を埋めて眠っていた。講師は年老いた無名の教授であった。彼の名前は、いまとなっては思い出せない。思い出せないということは、おそらく、彼が何の名声も残さずにこの世を去ったということであろう。しかし、名声のない者の言葉が、時に最も深いところに届くことがある。

 

 彼は黒板に、一枚の地層の断面図を描いた。チョークが黒板を擦る乾いた音が、眠っている学生たちの呼吸の音と混ざり合っていた。彼は、その断面図のある層を指で叩いた。叩く、という動作が、妙に私の記憶に残っている。それは、何かを呼び起こすための動作であった。眠っている者を起こすための、あるいは、長いあいだ土の下に埋もれていたものを、もう一度光のなかに引き出すための。

 

 「この層」と彼は言った。彼の声は、講堂の隅々まで届くものではなかった。しかし、それはかえって、聞く者の注意を、その声の届く範囲のなかに、ぎゅっと凝縮させる効果を持っていた。「この層から、ヒスイ時代の土器の破片が出土する。この層からは、アルセウスの石板の断片が出土する。この層から我々は知る。この土地にかつて、我々とはまったく異なる思考の形式が存在したことを」

 

 異なる思考の形式。この言葉が、私のなかで何かを動かした。それは、哲学が私に与えようとして、結局与えられなかったものであった。哲学は、思考の形式を、思考そのものから切り離して提示しようとした。しかしそれは不可能であった。思考は、常に、何らかの物質のなかに、何らかの時代のなかに、何らかの土地のなかに、刻まれていなければならなかった。地層。土器。石板。それらは抽象ではなかった。それらは触れることができた。匂いを嗅ぐことができた。何千年もの雨と風と、何世代もの人間の手の油とを吸い込んだ、あの独特の、土と石の匂い。それらは私に思考すべき何かを与えた。いや、より正確に言えば、それらは、思考とは常に何かに触れることであり、何かの重みを担うことであり、何かの表面を指先でなぞることであったのだ、ということを、私に思い出させたのであった。

 

 私はその日のうちに人文学部の神話学研究室のドアを叩いた。そこにはウドノ教授がいた。彼のことは、すでに第一章に記した。ここでは別のことを記したい。それは、彼が私に与えた最初の課題のことである。

 

 

 研究室は、タマムシ大学の古い建物の三階の奥にあった。廊下の突き当たりの、薄暗い部屋であった。ウドノ教授がハナダの自然史協会へ月に幾度か足を運び、あの寒い小部屋で講演をしていたのも、この研究室から出向いてのことであった。両者のあいだには汽車で一時間ほどの距離があったが、教授はそれを苦にする様子もなく、むしろ移動そのものを一種の儀礼のように扱っていた節がある。壁という壁は、黄ばんだ地図と、ポケモンの骨格標本と、分類のつかない資料の束で覆われていた。窓の外には、大学の裏庭の、手入れのされていない庭木が見えた。その庭木の枝に、一匹のオニスズメが止まっていた。それは、この研究室の風景のなかで、唯一、生きているものであった。ウドノ教授は、窓の外をちらりと見て、それから私を見た。彼の目は、しゃがれた声とは裏腹に、驚くほど明晰であった。それは、長いあいだ暗いところで仕事をしてきた者の目であった。すなわち、わずかな光の差異を見分けることに、全生涯を費やしてきた者の目。

 

 「トクジ君」と彼は言った。彼の声はしゃがれていたが、そのしゃがれのなかには一種の音楽的な抑揚があった。それは古い楽器の、調律の狂った弦の音に似ていた。狂っているがゆえに、正しい音には出せないある種の響きを持っている。

 

 「君に一つ課題を出そう。コトブキシティの旧市街を歩いてきなさい。そして、君が見つけたすべてのポケモンの痕跡を記録してきなさい。ただし、生きたポケモンは除く。痕跡だけだ。足跡。糞。羽根。爪痕。食べ残し。巣の跡。それだけを記録してきなさい」

 

 私は聞き返した。コトブキ、と申しますと。

 

 「シンオウのコトブキだ。ほかにあるかね」

 

 彼はそれ以上何も言わなかった。旅費のことも、日程のことも、どうやって行くのかということも、彼は一言も口にしなかった。窓の外でオニスズメが枝を蹴って飛び去り、その振動で細い枝がしばらく揺れていた。教授はその揺れを、視力の衰えはじめた目で追っているようであった。

 

 いまにして思えば、あれは課題ではなかった。あるいは、課題は二重になっていたのである。表向きの課題は痕跡の採集であった。だが、真の課題は、そこへ辿り着けるかどうかということそのものであった。学問というものは、しばしばこのような形で入門者を試す。すなわち、問いの内容によってではなく、その問いのもとへ赴くために払われる代価によって。中世の巡礼者が、聖遺物そのものによってではなく、そこへ至る道程の苦難によってこそ信仰を計られたのと同じである。教授は私に、単に歩いてこいと言ったのではない。海を渡ってこいと言ったのであった。

 

 当時、カントーからシンオウへ渡る手段は限られていた。空路は開かれてはいたが、学生の身に払える額ではなかった。私はクチバの港へ行き、幾つかの窓口を回ったすえ、貨物と客とを兼ねた小さな定期船の切符を手に入れた。三等の、船倉に近い、窓のない船室であった。値は、私が三ヶ月ぶんの下宿代として貯えていたものの、ほぼすべてに相当した。

 

 出航は夕刻であった。埠頭には見送る者もなく、私は自分の鞄と、綴じたばかりの空白の帳面と、鉛筆を三本だけ携えて乗り込んだ。船が岸を離れるとき、船腹と防舷材とがこすれ合って、獣の呻きに似た低い音を立てた。港の灯りが遠ざかるにつれ、私は自分が何か取り返しのつかないことをしているのではないかという、漠然とした、しかし甘美でもある不安に捉えられた。若さというものは、おそらく、この種の不安を歓びと取り違える能力のことを言うのであろう。

 

 航海は二晩と一日つづいた。船室にはほとんど戻らなかった。空気が悪く、機関の震動が絶えず床を伝ってきて、横になっていると自分の骨まで震えているような心地がしたからである。私は甲板の隅に腰を下ろし、外套にくるまって、海だけを見ていた。

 

 海というものが、あれほど何も語らないものだとは、それまで知らなかった。私は書物のなかで、幾つもの海を読んできた。神話における海。創世における海。原初の混沌としての海。それらはいずれも、意味に満ちた海であった。ところが目の前にあるのは、ただ寒く、ただ暗く、ただ規則的に上下する、灰色の膨大な質量にすぎなかった。私は生まれて初めて、書物のなかの世界と、この世界とが、まったく別の言語で書かれているのかもしれぬということを疑った。そしてこの疑いこそが、後に私を神話学へと繋ぎとめることになったのである。もし両者が同じ言語で書かれているならば、翻訳という仕事は要らない。

 

 二日目の夜、私はミロカロスを見たと思った。舷側から少し離れた海面に、細長い、青白い光の帯が浮かび上がり、しばらく船と並走して、それから沈んだ。乗員の一人に尋ねると、彼は面倒くさそうに、あれは夜光虫の類だと答えた。おそらく彼が正しいのであろう。だが私は、いまでもあれをミロカロスだったと思うことがある。目撃と信仰とを隔てるものは、実のところ、この程度のわずかな傾きでしかない。神話は、こういう夜に生まれるのだ。

 

 三日目の未明、船は入り江に進入した。私は甲板に立っていた。まだ夜の明けきらぬ薄明かりのなかで、繋留作業をする者たちの吐く息が白くけぶり、遠く原野のほうから、コリンクの遠吠えに似た声が聞こえてきた。私が初めてシンオウの土を踏んだのは、その朝のことである。

 

 港の周辺には、まだ市電も通っていなかった。私は人に道を尋ねながら、荷を負って旧市街まで歩いた。初めて見るコトブキシティは、私の想像とは似ても似つかなかった。私が書物のなかで組み立てていたのは、神話の地であった。目の前にあるのは、洗濯物の下がった路地と、魚を焼く匂いと、痩せた野良のポケモンとであった。安宿を見つけ、荷を置き、私は帳面を開いた。

 

 第一日。私は旧市街の北側から始めた。かつての城下町の面影を残す、狭い路地の入り組んだ地区であった。石畳の路地の壁に、ニューラの爪痕が残されていた。二本指の細く鋭い爪の痕。それは壁の漆喰を、まるで紙のように引き裂いていた。私はその痕跡を持参した帳面に、寸法とともに記録した。深さ、約三ミリ。間隔、約八ミリ。方向、下から上へ。この爪痕をつけたニューラは、おそらく壁を登ろうとして失敗したのであろう。あるいは単に、爪を研いでいたのであろう。どちらであるかは、痕跡からはわからない。痕跡は行為の結果を保存するが、行為の意図は保存しない。これが、我々の学問の最初の、そして最も根本的な限界である。

 

 公園のベンチの下に、ムックルの羽根が散らばっていた。茶褐色の小さな羽根。風が吹くたびにそれらはわずかに震え、まるでまだ生きているかのように見えた。私はそれを拾い上げ、光に透かして見た。羽軸のあの繊細な、しかし驚くほど強靭な構造。それは何千年もの進化の記憶を、その一本のなかに凝縮していた。私はそれを帳面に貼り付け、発見の時刻と場所を記した。

 

 第二日。私は川沿いを歩いた。コトブキ川の中州に石が並んでいた。その石の上に、コイキングの鱗が干されていた。おそらく、誰かが食用に捌いた残骸であろう。鱗は午後の陽光のなかでオレンジ色に光っていた。それはまるで誰かがそこに置いた小さな鏡のようであった。私はその鱗を一枚取り、指先で触れた。冷たかった。そしてわずかに、川の水の匂いがした。

 

 廃墟の窓枠に、モンジャラの蔓の枯れた残骸が絡みついていた。それはもう何年も前に枯れたものであろう。蔓は窓枠の木の隙間に、まるで指のように食い込んでいた。枯れていても、それはまだ何かを掴もうとしていた。あるいは何かを掴んだまま、その形で固まってしまったのであろう。私はその蔓の、窓枠に食い込んでいる部分のスケッチを取った。それは痕跡の痕跡であった。すなわち、かつて生きていたものが残した痕跡が、さらに別の物質のなかに刻んだ痕跡。

 

 第三日。私は旧市街の南側、かつての市場の跡を歩いた。そこにはもう市場はなかった。しかし石畳の窪みのなかに、何かの果実の種が残されていた。おそらくタネボーか、あるいはハネッコの運んだ何かの種か。それは石の隙間のわずかな土のなかに根を出そうとして、しかし出せずに、そのまま干からびていた。私はそれを記録した。そしてそのとき、私は初めて気づいた。私が三日間記録してきたものは、すべて不在の証拠である、ということに。ニューラはそこにいない。ムックルはそこにいない。コイキングはそこにいない。モンジャラはそこにいない。そこに在るのは、彼らがかつてそこに在ったことの痕跡だけである。

 

 帰路もまた同じ船であった。帳面は湿気を吸って波打ち、貼り付けたムックルの羽根は、糊がゆるんで幾度も剥がれかけた。私は船室の暗がりで、それを何度も貼り直した。コイキングの鱗は油紙に包んで胸の内側に入れ、体温で乾かないように気をつけた。この道中のことを、私はほとんど覚えていない。覚えているのは、これらの小さな物体を守るということだけに、二晩と一日のすべてを費やしたということである。

 

 クチバに着き、汽車を乗り継ぎ、私がタマムシ大学の三階の奥の部屋に戻ったのは、出発してから十日目の夕刻であった。ウドノ教授は窓際の古い椅子に座っていた。彼の膝の上には、彼のメリープがまるで毛糸の玉のように丸くなって眠っていた。教授は私の顔を見て、行ってきたのかね、とも、ご苦労だった、とも言わなかった。ただ手を差し出して、記録を寄越すよう促しただけであった。

 

「よくできている」と彼は言った。それから一瞬の沈黙があった。その沈黙のなかで、メリープが眠ったままわずかに身じろぎした。

 

「では次の課題だ。今君が記録したすべての痕跡を消去しなさい。そして思い出し、この記録をゼロから完璧に再現してみなさい」

 

彼がそう言うや否や、私が三日間コトブキシティを歩き回って得た記録は、全て彼のメリープの餌となったのであった。メリープは眠たそうな目をわずかに開け、もそもそと帳面のページを、羽根を、スケッチを、ゆっくりとしかし確実に咀嚼していった。それは何の悪意もない、純粋な生物的な行為であった。しかし私には、それがある種の儀礼のように見えた。すなわち、痕跡を消去するための儀礼。記録を無に帰するための儀礼。

 

再現などできようはずがない、と私は思った。三日間の記憶を一字一句、一線一線、完璧に再現することなど不可能だ。私はそう言った。あるいはそう言おうとした。しかしウドノ教授は、私の言葉を遮った。

 

 「不可能だ、と君は思うだろう」と彼は言った。まるで私の思考を先読みしていたかのように。「しかしトクジ君、我々が行おうとしているのは、全てこのような営みなのである。我々の前に在った者たちは、もういない。彼らの声はもう聞こえない。彼らの姿はもう見えない。我々の手元にあるのは痕跡だけだ。地層のなかに埋もれた土器の破片。壁画の剥がれかけた断片。誰のものとも知れぬ口碑の、さらにその断片。我々はそれらから、かつてそこに在ったものを思い起こさねばならない。我々のものではない記憶を。我々が見たことのない景色を。我々が聞いたことのない声を。我々はそれらを、ゼロから再現せねばならない」

 

 彼はメリープの背中をゆっくりと撫でた。メリープは満足そうに目を閉じた。

 

 「完璧に再現する必要はない」と彼は続けた。「完璧に再現することは、原理的に不可能だ。我々にできるのは、断片から、断片のあいだの空隙を想像力で埋めることだけだ。しかしその想像力には、規律がいる。痕跡が語ることと、痕跡が語らないことの境界を見極める規律。境界のこちら側は記録である。境界のあちら側は神話である。我々の仕事は、その境界の上を綱渡りするように歩くことだ。落ちれば、どちらの側にも二度と戻れない」

 

 私はそのとき、何かがわかったような気がした。わかった、というのが正しい表現であるかどうかはわからない。ただ何かが、私のなかで音を立てて所定の位置に嵌まったような気がした。それは哲学の講義では一度も起こらなかったことであった。

 

 そして今日、十五年を経て、私はふたたびこの都市にいる。

 

 宿に荷を置いたあと、私は旧市街へ足を向けた。今度は何も記録しなかった。ただ歩いた。路地裏の壁の、ニューラの爪痕のあった場所を探した。そもそもその路地が、まだそこにあるのかどうかも定かではなかった。私は二度、道を間違えた。三度目にようやく、それらしい角に行き当たった。壁は塗り直されていた。いや、塗り直されたのではなく、建て替えられたのであろう。漆喰ではなく、目地の細かいタイルが貼られていた。当然、そこにはもう何の痕もなかった。

 

 しかし私は、そこに痕跡があったことを知っていた。知っていた、ということだけが、残っていた。

 

 神話学とは、おそらくそのような学問なのである。消えた痕跡を、消える前に見た記憶を、さらにその記憶が消えたあとにもう一度思い起こそうとする営み。それは二度目の喪失を生きることである。一度目は痕跡そのものの喪失。二度目は痕跡を見た記憶の喪失。我々は、その二度目の喪失のなかで仕事をする。二度目の喪失のなかで、なお何かを取り戻そうとする。

 

 ウドノ教授が後に、私にこう言ったことがある。「神話学者とは、他人の夢の断片を拾い集めて、そこから他人の見た夢を再構成しようとする者のことだ。しかし他人の夢は、結局のところ再構成できない。できるのは、自分の夢のなかに他人の夢の断片を嵌め込むことだけだ。そして、その嵌め込み方が正しかったかどうかは、永遠にわからない」

 

 私はその言葉を、いまだに完全に理解したとは言えない。しかしあの三日間の、コトブキシティの路地裏の記憶は、いまでも私のなかに残っている。ニューラの爪痕のあの下から上への方向。ムックルの羽根のあの茶褐色。コイキングの鱗のあのオレンジ色の光。モンジャラの蔓の、あの何かを掴んだまま固まってしまった形。それらはもう、私の記憶のなかでしか存在しない。コトブキシティの旧市街は、この十五年のあいだにすっかり様変わりしてしまった。あの路地も、あの公園も、あの川沿いも、もう昔の面影はない。

 

 しかし私は、それらを記録している。この本のなかで。もう一度、ゼロから。

 

 

 黒曜の原野。私はその名を何度口にしたことだろう。タマムシ大学の薄暗い講義室で。ハナダの図書館の埃っぽい書庫の奥で。そして、ウドノ教授があの寒くて薄気味悪い小部屋で語ってくれた、幾つもの断片のなかで。黒曜の原野。それはヒスイの時代、このコトブキシティの東から南にかけて広がっていた、起伏の激しい草原と森の名であった。名の由来は、地表のいたるところに露出していたという黒い硝子質の岩――割れば刃のように鋭く尖る、あの石――にあるとされる。古文書によれば、そこにはオドシシの群れが季節ごとに移動し、林の奥にはストライクが潜み、その鎌のような腕で若木を薙ぎ払っていたという。人々はその原野を恐れ、同時に畏敬していた。原野の奥に森の主がいた。森の主の向こうにテンガン山があった。テンガン山の向こうにアルセウスがいた。あるいは、いなかった。

 

 今、その黒曜の原野はどこにあるのだろう。タクシーは舗装された道路を時速六十キロで走っている。窓の外をコンクリートの壁、駐車場、チェーン店の看板が次々と流れていく。私はオドシシの姿を探した。ストライクの影を探した。見つかったのは、一匹の、ゴミ捨て場のそばに蹲ったムクバードだけであった。それは私を片方の目でじっと見つめていた。その目は、まるでこの都市のすべての汚穢とすべての無関心とを一身に引き受けているかのように、黒く深く、そして奇妙に静かであった。

 

 宿は、コトブキシティの旧市街、かつてのコトブキムラの跡地にほど近い小さな旅館であった。予約の電話を入れたとき、女将は私の名前を聞いて少し間を置いた。「トクジ様でございますね。ウドノ先生からお電話をいただいておりました」

 

 ウドノ教授はすでに視力をほとんど失っていた。クロガネ近郊のあの小さな隠退先から、彼はそれでも私のために電話をかけてくれたのである。用件があったわけではあるまい。おそらく彼は、ただ、私がその宿に着くということ、それだけを確かめておきたかったのであろう。かつて私に寄越されたあの手紙が、犠牲になった者たちへの連帯を確認する以外に何の目的も持たなかったのと同じ種類の行為であった。この人は生涯を通じて、用件のない行為ばかりを積み重ねてきたのだ、と私はそのとき思った。そしておそらく、そのような行為だけが、後の世に何かを残すのである。

 

 畳の上に荷を解き、私は帳面を開いた。明日には、黒曜の原野の際にある集落へ向かうことになっていた。そこに一人の若い猟師がいて、彼の家に幾日か泊めてもらう約束を、出発前に取り付けてあった。彼が何を語ってくれるのか、あるいは何も語ってくれないのか、私にはまだ知る由もなかった。

 

 




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