チュン、チュン、チュン……。
のどかな小鳥たちの声の聞こえる森の中の村。一人の老爺が、長身の男に声をかけた。
「やあ、シグルどん。どうしたんだい? 浮かない顔して」
「村長……。シグルどんはやめてください」
村のあぜ道をとぼとぼと歩いていたシグルドは、精霊の村の村長にそう返した。
シグルド+どんで”シグルドどん”。言いにくいので、縮めてシグルどん。この村の一員になってから、村長の自分に対する呼び名は変わらない。
「妻に……ディアドラに叱られてしまいまして」
頭を掻きながら言ったシグルドの言葉に、村長は目を丸くした。
「村一番のおしどり夫婦のあんたらが喧嘩とは珍しい。あんた、いったい何したんだい?」
「セリナに剣を教えようと思ったのですが……」
やりすぎて、泣かせてしまったのだ。
セリナは、シグルドとディアドラの間に産まれた娘である。もうすぐ四歳になる。
「あんたの気持ちも分かるが……。セリナちゃんには、まだ早いんじゃないのか?」
「ディアドラにもそう言われました。あと、『この子は女の子なんですから』とも……」
セリナがまだ幼いことは承知している。
だが、年齢的に戦士としての肉体的なピークが去りつつある頃に産まれた子供だ。どうしても、「自分の身体が満足に動くうちに」という気持ちが先走ってしまった。
「女の子だから、剣が不必要とも思えないのです。エスリンだって、剣を使えますし……」
エスリンは、シグルドの妹の名前だ。
先の聖戦で夫のキュアンと共に戦死した彼女だが、聖者ヘイムの救済によって復活し、いまはシグルドを頼ってキュアンと共にこの村に移り住んでいた。
「あんたのとこは、代々、剣の使い手の家系だったなあ……」
であれば、セリナにも剣の才能があるのかも知れぬ。
「だども、ディアドラちゃんのとこは、あそこは代々、巫女の家系だから」
ディアドラはこの精霊の村の出身だ。シグルドが連れ出すまでは、彼女はここで森の巫女をしていた。
彼女は暗黒神ロプトウスの一族でありながら、人間に味方して追放された聖者マイラの血を引いている。そもそも、彼女たちのその家系を守るために、この村は作られたのだ。
マイラは聖者であると同時に、ロプトウスの血も受け継いでいた。彼の血が残ることは、ロプトウスの血が濃くなることも意味する。
だから精霊の森の村の先祖はマイラの血を守り、同時に迂闊に拡散してしまわぬよう、代々その子孫を村で匿い、守ってきた。
だがロプトウスは滅び、もうマイラの血の拡散に注意を払う必要もなくなった。外界との交わりを過度に禁じる必要もない。
だから、村長はエスリンたちの移住も認めてくれた。
この村も、変わっていく──
目を細めた村長が、シグルドに訊いてきた。
「で? ディアドラちゃんは今、どうしてるんだい?」
「エーディンとお茶をしているはずです」
「あの二人は、本当に仲がいいのう」
エーディンも、しばらく前に夫と共にこの村に移住してきた。
今ごろ、ディアドラのほうも友人に夫のことを愚痴り、エーディンが黙ってその話を聞いているのかもしれない。
「まあ、シグルどんは夫婦げんかなど初めてだろうから、落ち込むのも無理はないが……」
白いものが交ざりはじめた髭をさすりつつ、村長が言った。
「お前さんが考えているほど、ディアドラちゃんはたぶん怒ってはおらんよ。ただ、セリナちゃんが泣いているのが哀しかっただけだろう。
なあに、儂なんて嫁に怒鳴られることなんてしょっちゅうだ。慣れたもんよ」
カハハと笑い飛ばして見せた後、話題を変えるように村長は言った。
「ところでシグルどん。あの話は考えてくれたかい?」
「はあ……」
シグルドは頭を掻いた。
しばらく前から、彼は村長やその他の村の者たちから、新たな村長になってくれないかと頼まれている。
彼はこの村の象徴であり、存在意義そのものであったディアドラの夫だ。もとは貴族の出自で、新たに移住してきた者たちからの信頼も篤い。新旧の住人をつなぐ架け橋として、期待されている。
その期待は本当に有り難いと思うのだが、しかしシグルドは少し迷ってもいた。
大陸の情勢もだいぶ落ち着いてきたとはいえ、まだまだ迫害されている者、虐げられている者たちは各地に存在している。
セリナがもう少し大きくなったら、家族で人々を救うための旅に出たいという気持ちが、シグルドにはある。
娘に剣を教えようとしたのも、そのためだ。
ただ、そのような行動は妻と娘を危険に晒すことになりかねないことも、彼は承知している。
だから、迷っている。
このままこの村に骨を埋めるか、人々のために再び剣を持つか──
「もう少し、考えさせて下さい」
「ああ、いいよ。時間はたっぷりあるからね。儂の寿命が尽きるまでに決めとくれ」
「それは……何十年先の話ですか?」
「何十年ということはないじゃろう」
言って、二人は笑い合った。
そんな二人に、道の向こうから走り寄ってくる者たちがいた。
「あ、いたいた。シグルド様!」
「村長もいるのか、ちょうどいい!」
かつてシグルドの部下であった、
彼らもまた、ヘイムの救済を受けた後、シアルフィには戻らずにシグルドを慕ってこの村にやって来ていた。それぞれ、村で子供も授かっている。
「どうしたんだ?」
そう聞くシグルドに、アレクが言った。
「ティルテュとシルヴィアをなんとかして下さい!」
ノイッシュが続きを説明する。
「もうすぐ、セリス様たちがやって来るでしょう? 歓迎のために広場に櫓を組んで、回りに屋台を出して……と、大騒ぎなんです!」
「ああ……」
なんだか目に浮かんでくるようだ。
セリスをはじめとする成長したシグルドの子供たちは、年に一度、両親に会うためにこの村にやって来てくれる。
若くしてそれぞれの国の国王や重臣となった身ではあるが、「外交会議」と称して国を出て、お忍びで精霊の森に集まってくるのだ。
「久しぶりに子供たちに会えるから、二人ともはしゃいでおるんじゃろうなぁ……」
腕を組んで何やらうなずきつつ呟いた村長に、シグルドは言った。
「いまシレジアにいるフュリーとマーニャ、アグストリアにいるエルトシャンやラケシスも、セリスたちの到着に間に合うようにやって来る、と言っていて……」
「そりゃ、歓迎に力が入るじゃろうなあ……」
「それでも、あれはやりすぎですよ!」
「羽目を外しすぎです!」
「なんとか言ってやって下さい!」
「ブリギッド様もその気になって『それなら大物を仕留めてくる』なんて、アイラや村の男たちを連れて狩りに出かけちゃいましたし!」
「
言いつのる彼らを「分かった、分かった」と宥めながら、村長が広場の方に歩き出した。
「一度、皆で話し合おうじゃないか」
苦笑しながらその後を追って歩き出したシグルドは、
(こんなに楽しくて、幸せでいいんだろうか……)
と、そう考えていた。
愛する妻と娘、信頼する仲間たちに囲まれ、一度は死に別れた息子も定期的に会いに来てくれる。
毎日を楽しく、幸福に過ごしている。
思えば彼の半生は苦しく、不幸の連続だった。
だがディアドラと再会し、この村にやって来てからは、それまでの苦難が嘘のような穏やかで幸せな日々を送れている。
(神よ……この日々を与えてくれたあなたに、感謝します)
いまも見守ってくれているであろう天上の大いなる者に心の中で祈りながら、シグルドは広場に向けて歩いて行った。