忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました 作:おいかぜ
北の離れへ行かない一日目、リディアは三つの書類を机へ並べた。
北棟の結界に関する報告書。
別名登録の草案。
クロウ家の債務再編案。
どれも整った文章で、必要な欄と署名の場所を備えている。
代わりに、選択肢の置き方まで公爵に決められている。
昨日、エルゼが作った部屋と似ていた。
片方は壁と幻影で。
もう片方は紙と制度で。
どちらも、答えが一つへ流れるように道を狭めていた。
窓を開ける。
冷たい風が書類の角を持ち上げた。
庭の向こうに、北棟の屋根が見える。
旧命名机は再び床下へ封じられ、窓にも補助紋が加えられたという。
エルゼは抵抗しなかった。
影も使わず。リディアの名も呼ばなかった。
「本日は、本当に授業へ行かれないのですね」
開いた扉の向こうで、グレアムが尋ねた。
「ええ」
「北の方には、休講とお伝えしました」
「ご様子は?」
問いが、考えるより先に出た。
「距離を置かれるのであれば、お尋ねにならない方がよろしいのでは」
「状態を確認しているだけです」
「その状態を知れば、行く理由になさるでしょう」
グレアムの言葉は、鍵が落ちる音に似ていた。
不快だが、誤ってはいない。
「朝食は召し上がりましたか」
「はい」
「それだけで結構です」
グレアムは一礼し、扉を閉じた。
食事を取ったと知って安堵する。その安堵を理由に、今日も行かずに済むと思う。エルゼを自分から離すために、エルゼの無事を必要としている。
矛盾は、紙の間へ挟んでも薄くならなかった。
リディアは結界報告を閉じる。
今日は行かない。それだけを決めた。
二日目、授業開始の鐘が鳴る時刻に、リディアは立ち上がっていた。
机の脇には、いつもの鞄がある。
中には契約法の教本。
だが、銀鈴草の植物誌は入っていない。
エルゼへ渡したままだ。
続きを読んだだろうか。
そう考えた時には、鞄の取っ手を握っていた。
行かない理由を並べながら、行く口実を探している。
指を離す。昼前、クラリッサが客室を訪れた。
腕に、古い布包みを抱えている。
「お時間をいただけますか」
「遺品庫のものですか」
「外箱に残されていたものだけです」
包みを解くと、焼けた白布が現れた。
縁には、銀糸で施された出生紋。
大半は焦げ落ちているが、端に一文字だけ残っている。
E。
「産着でしょうか」
「おそらくは」
クラリッサは断定しなかった。
「母上は、三人分の産着を別々に保管していたそうです。私と次女のものには名札があります。こちらだけには、記録がありません」
「第三出産時記録箱から?」
「箱の外側へ挟まれていました。内部は、まだ父上の印で閉じられています」
「乳母日誌と書簡も?」
「中にあるはずです」
焼けた文字が、布の端でかろうじて形を保っている。
名前そのものではない。
だが、消された場所に何かがあったことは示していた。
「王立命名院へ保全を申請します」
クラリッサが言う。
「北方封印領の記録についても、照会を」
「公爵閣下には?」
「知らせておりません」
「知られれば、止められるでしょう」
「その前に提出します」
声は穏やかだった。
布を包み直す指だけが、焦げた端を折らないよう慎重に動く。
「エルゼ様へ、この布のことは?」
「まだ、お伝えしておりません」
「なぜですか」
「無関係な品であった時、期待だけを残すことになります」
「期待させないために、存在を隠すのですか」
クラリッサの手が止まる。
「似ていますね、私たちは」
「何がでしょう」
「本人のためだと言いながら、自分が正しいと思う順序で物事を進めています」
リディアは答えなかった。
エルゼへ知らせないまま別名を準備した公爵。
知らせないまま証拠を集めようとするクラリッサ。
そして、何も説明せず北棟を離れた自分。
並べれば、違いは思うほど大きくない。
「調べることと、決めることは別です」
リディアは言った。
「ですが、調べていること自体は本人へ伝えるべきでしょう」
「ええ」
クラリッサは認めた。
「証拠であると断定せず、そのままお伝えください」
「ご自身でお話しには?」
「まだ、北棟の扉まで行く勇気がございません」
言い訳はしなかった。
代わりに、一通の封書を差し出す。
王立命名院地方記録部
北方旧命名庫および第三出生記録に関する保全照会
「次期当主名義だけでは、父上の家印を求められます」
「クロウ家の血統閲覧申請へ添えるおつもりですか」
「可能であれば」
「内容は確認いたします」
「当然です」
リディアは封書を受け取った。
「私も、旧命名院へ参ります」
「別名について?」
「別名と、消された名の復元。それから、主紋から名を分ける方法について」
クラリッサは焼けた布を包み終える。
「父上には秘密に?」
「今は」
「やはり、似ておりますね」
「結果をエルゼ様へ隠すつもりはございません」
「私もです」
二人の違いがどこにあるかは、その言葉を守った後にしかわからない。
旧命名院は、城下の外れに残っていた。
灰色の石壁には蔦が這い、王都へ権限が集められてから使われなくなった儀式室が、書庫として残されている。
受付の老司書は、リディアの証札を長く眺めた。
「クロウ家の札を見るのは久しぶりです」
「閲覧権は残っていますか」
「家産は失っても、名の権限は簡単には消えません」
皮肉な言葉だった。
「何をお探しで?」
「幼名の置換。削除された既存名の復元。家系主紋からの分離です」
老司書の眉がわずかに上がる。
「ヴァレンシュタイン家の?」
「ええ」
「最後のものは、こちらの資料だけでは足りません」
「北方旧命名庫に?」
「原簿が残っている可能性はあります。ただし、現在は本家の封印下です」
「王立命名院の監査が入れば、開けられますか」
「理由が認められれば」
司書は申請書へ印を押した。
「第三書庫です。火気はお使いにならないように」
地下書庫には、名を変えた人々の記録が眠っていた。
養子縁組。家名の剝奪。戦時の偽名。本人の希望で選び直した名。
事情は異なっても、紙の中では皆、同じ細い文字になっている。
置換事例の一冊を開く。
幼名が本人の自己認識および魔術系統と強く結びついている場合、別名の強制定着は推奨しない。
新名と旧名の間に、認識の分裂を生じるおそれがある。
続く頁には、さらに注意があった。
新名を定着させた術者への過度な依存。
旧名を想起させる者への拒絶。
記憶および自己認識の混乱。
セレネという名は、主紋にとって安全かもしれない。
エルゼ本人にとって安全だとは、どこにも書かれていなかった。
本人の同意を欠く置換は、法的登録としての効力を持つ。
ただし、本人による名の受容および応答を保証しない。
登録はできる。
名籍へ書くこともできる。
だが、それを命名と呼べるかは別だった。
リディアは、既存名の復元記録へ移る。
回復に必要なもの。
原記録、またはそれに準ずる物証。
血縁者もしくは命名立会人の証言。
本人の応答。
命名官による確認。
焼けた産着。母の書簡と乳母日誌。クラリッサ。エルゼ自身。
足りないものは多い。
それでも、空欄ではなかった。
頁の末尾に、細い追記がある。
家系主紋へ過剰接続する名を回復する場合、分離紋または保証名を要する。
保証名の項目を開く。
復元名が安定するまで、名に生じる反動と責任を一時的に分有する命名官の名。
分離紋の定着後、本人の意思により仮接続を解除できる。
双方が望む場合に限り、相互誓約へ移行する。
解除できる。
保証名を差し出した者が、永久に相手を縛る制度ではない。
また、保証された側も、命名官へ永遠に従う必要はない。
名が安定した後には、切り離せる。
その一文を、リディアは二度写した。
「その頁を開く方がいるとは思いませんでした」
背後から声がした。弾かれたように振り返る。
濃紺の外套をまとった男が、書庫の入口に立っている。
胸元には、王立命名院の銀章があった。
「アーヴィン・ローデと申します」
男は軽く礼をする。
「リディア・クロウ嬢ですね」
「ええ」
「ヴァレンシュタイン公爵家から提出された名籍申請を監督しております」
「別名置換の?」
「ええ」
アーヴィンは机上の記録へ目を落とした。
「申請対象者は、置換に同意していますか」
「拒否しております」
男の眉がわずかに寄る。
「申請書には、その記載がありません」
「公爵家の依頼どおり、進めるのではないのですか」
「私は公爵家の命名官ではございません」
銀章へ指を触れる。
「制度上登録が可能であっても、本人の応答がなければ、その事実を記録します」
味方とは限らない。
だが、公爵の意志だけを法とする者でもない。
「別名置換は、安全なのでしょうか」
「主紋に対しては、よく設計されています」
「本人には?」
「会わなければ判断できません」
アーヴィンは資料の写しを見る。
「既存名の復元をお考えですか」
「可能性を調べております」
「保証名まで?」
「まだ、何も決めておりません」
「でしたら、決める前に本人へ説明なさってください」
先ほどクラリッサへ向けた言葉が、形を変えて返ってきた。
「そのつもりです」
「結構です」
アーヴィンは別の薄い記録簿を棚から抜く。
「北方旧命名庫の照会も、クロウ嬢ですね」
「クラリッサ様の書状を添えております」
「本家後継者の照会があるなら、王立院が保全監査を行える可能性があります」
「北方の分離紋は、現在も使えるのでしょうか」
「原簿を確認するまでは断定できません」
頁をめくる。
「ただ、廃止を命じた記録は見当たりません。使われていないだけです」
公爵は、実行できないと言った。
「監査には、本人の意思と物証が必要です」
アーヴィンは、リディアの表情を読んだように言った。
「どちらも、これから揃えます」
「では、申請を受理する理由はございます」
道が見つかったわけではない。
だが、閉じられていた頁の端が少し持ち上がった。
「置換儀礼について、伺いたいことがあります」
リディアは言った。
「立会人は、本人へどのように接するのですか」
「事前説明の後、同意があれば額と喉へ確認紋を描きます。髪を一房いただくこともあります」
「同意しなければ?」
「家長権限による法的登録は可能です。ただし、私は強制定着を行いません」
「別の命名官を雇うことは?」
「公爵家が私的に依頼する可能性はございます」
額。喉。髪。
エルゼを知らない者が触れ、別の名を呼ぶ。
想像した途端、胸の内側を冷たい指で撫でられた。
「何か問題が?」
「彼女を知らない者へ、別の名を定着させるべきではありません」
「通常の命名に、長い親交は必要とされません」
「今回は必要です」
「なぜでしょう」
命名官としての倫理。本人の同意。自己認識の分裂。答えはいくつもある。
それでも、最初に浮かんだのは別の感情だった。
知らない人間が、エルゼの名へ触れることが嫌だ。
「すでに、ご本人が自分の名を選んでいるからです」
「それだけですか」
アーヴィンの問いは静かだった。
「それ以上は、まだ説明できません」
「承知しました」
彼は追及せず、一枚の申請書を差し出した。
「北方旧命名庫の監査が認められれば、古式文書を読める調査員が必要になります」
「クロウ家へ?」
「リディア・クロウ個人へ、王立命名院の臨時調査官として」
報酬額は、公爵の提示より低い。
だが、北棟の家庭教師を辞めても続けられる仕事だった。
公爵家へ従属せず。
エルゼに必要とされなくても。
クロウ家の借金を、働いて返す道になる。
「すぐに返答する必要はございません」
「持ち帰ります」
リディアは申請書を鞄へ入れた。紙一枚が増えた。
だが今度の紙には、ほかの誰かを捨てる条件が書かれていない。
借金という取っ手が、リディアを北棟へ引く力は弱くなった。
だからこそ、次に戻る理由を誤魔化せなくなる。
三日目の夕方。
ようやくリディアは北の離れへ向かった。
授業用の鞄は持っていない。
代わりに、資料の写しと王立命名院の申請書を抱えている。
廊下はもう折り返さなかった。
窓の外には、灰色の庭がある。
「授業ではございませんね」
白い扉の前で、グレアムが言った。
「本人への説明です」
三つの鍵が開く。部屋は、元の形へ戻っていた。
旧命名机も。偽りの食卓もない。
学習机の向かいには、空の椅子が一つ。
紙と鉛筆だけが、授業の続きを待っている。
エルゼは窓辺で、銀鈴草の植物誌を読んでいた。
リディアを見ても、駆け寄らない。
「先生」
「ええ」
「三日でした」
責めるのではなく、日付を読み上げるような声だった。
「数えていらしたのですか」
「日付を数えることは、いけないとは言われておりません」
「そうですね」
エルゼは本を閉じる。
「本日は、授業でしょうか」
「違います」
灰色の瞳へ影が落ちる。
「名前について、お話しに参りました」
影は、その場所で止まった。
「別名の?」
「エルゼという名のことです」
エルゼは立ち上がらず、続きを待った。
リディアは机へ資料を置く。
「別名を無理に定着させた場合、主紋が安定しても、あなた自身の認識が損なわれる可能性があります」
「別の名を呼んだ方へ、縛られることも?」
「その例もあります」
「父上は、ご存じなのでしょうか」
「少なくとも、草案には記されておりません」
エルゼの指が、本の表紙をなぞる。
「王立命名院から、立会人が来ています」
「その方が、私へ別の名を?」
「強制定着はしないとおっしゃいました。ただ、公爵閣下が別の者を雇う可能性はございます」
「その方は、私へ触れますか」
「儀礼では、額や喉へ紋を描き、髪を使う場合があります」
エルゼはリディアを見る。
「先生は、そのお話を聞いた時、嫌でしたか」
問いの先にある答えを、無理に引き寄せようとはしていない。
ただ、置いて待っている。
「嫌でした」
リディアは答えた。
「何がでしょう」
「あなたを知らない者が、あなたへ別の名を与えることが」
「触れることも?」
逃げ道はあった。
命名儀礼の安全性についてだけ答えることもできる。
「ええ」
リディアは言った。
「あなたの髪や喉へ、そのために触れることも」
エルゼの瞳へ、明るいものが浮かぶ。
すぐに、名前をつけようとはしなかった。
「先生は、私をほかの方へ渡したくないのですか」
「私にも、まだ理由を分けられておりません」
今度は、話を逸らさなかった。
「命名官としての責任もあります。公爵閣下の方法への反発も。もっと個人的な理由も、あるのかもしれません」
「調べてくださったのですね」
「ええ」
「ご自分の理由も?」
「そちらは、まだ途中です」
エルゼは、それ以上尋ねなかった。
リディアは復元の条件を説明する。
物証。血縁者の証言。本人の応答。命名官による確認。
「お母上の産着と思われる布も見つかりました」
「私のものですか」
「まだ断定はできません。焼けた端に、Eの刺繡が残っています」
「姉上が見つけてくださったのですか?」
「クラリッサ様が見つけ、王立命名院へ保全を申請しています」
「本人のためと言って、私へ黙っていたのですね」
声は穏やかだった。
「私も同じでした」
リディアは認める。
「この三日間、調べていることをお伝えしませんでした」
「なぜでしょう」
「離れて考えなければ、ご自分で戻ると決めたのか、あなたに引かれただけなのかわからなくなると思いました」
「わかりましたか」
「まだです」
エルゼの口元に、かすかな苦笑が生まれる。
「先生も、わからないことが多いのですね」
「ございます」
「少し、安心しました」
「なぜですか」
「私だけが、正しい答えを知らないのではないからです」
リディアは保証名と分離紋について話した。
復元した名が安定するまで、命名官が反動を一時的に分け持つこと。
分離紋が定着すれば、保証を解除できること。
望むなら相互誓約へ変えられるが、必須ではないこと。
「保証した方が、私を所有するのではないのですね」
「ええ」
「私も、その方へ従い続けなくてよい?」
「解除後は、名による義務は残りません」
「先生が保証するのですか」
「まだ決めておりません」
「ほかの方でも?」
「制度上は」
「嫌です」
即答だった。
だが、影は動かない。
「私の名を、知らない方と結びたくありません」
「その希望は、手続きの中で伝えるべきです」
「先生は、ほかの方が保証しても平気ですか」
リディアは答えなかった。
エルゼも二度目を重ねない。
その代わり、植物誌を開いた。
「この三日間、何をなさっていましたか」
リディアが尋ねる。
「食事をして、眠りました。授業の準備も」
「私が来ないのに?」
「紙と鉛筆は、腐りませんから」
挟まれていた一枚を抜き取る。
花は、雪の下で見えなくてもなくならない。
呼ばれない日にも、名前は消えない。
「お書きになったのですか」
「はい」
「私のために?」
エルゼは少し考えた。
「最初は、先生がお戻りになった時にお見せするつもりでした」
「今は?」
「書いておけば、私が読めます」
リディアがいない時にも。誰にも呼ばれない時にも。
紙の上のエルゼは、エルゼ自身へ言葉を返せる。
「名前の残響で、私を探りましたか」
「いいえ」
「邸内にいる気配は、感じられたでしょう」
「銀鈴草を読んでいる間は、そちらを見ないようにできました」
完全に消えたわけではない。
それでも、遠くの鈴より、自分で選んだ頁へ耳を澄ませた。
「よい文章です」
リディアが言う。エルゼは小さく笑った。
好きになったかとは聞かない。
褒め言葉を、次の約束へ縫いつけようともしなかった。
「先生」
「何でしょう」
「本日は、戻ってきてくださったのですか」
問いは慎重だった。
「説明をするために来ました」
「それだけでしょうか」
口にしてから、エルゼは目を伏せる。
「申し訳ありません。答えを急かしました」
机の向かいには、三日間空いていた椅子がある。
「座ってもよろしいですか」
エルゼが顔を上げる。
「はい」
リディアは椅子へ腰を下ろした。
授業をするためではない。
明日を約束するためでもない。
ただ、扉の外ではなく、机の向かいで話すことを選んだ。
「私は、あなたを別の名で呼ぶつもりはございません」
エルゼの指が、頁の端を押さえる。
「公爵閣下に命じられても?」
「本人の同意がない置換へ、協力はいたしません」
「王立命名院の方にも?」
「あなたの意思を無視して、名を固定させることは認めません」
「止めてくださいますか」
「止めるための手続きを調べます」
必ず守るとは約束しない。
だが、誰かの判断へ預けるつもりもなかった。
「それから」
リディアは、植物誌の上に置かれた白い手を見る。
「あなたの名を、あなたを知らない者へ任せたくありません」
エルゼが息を止める。
勝手な意味を足さず、ただ言葉を受け取った。
「今は、それだけです」
「はい」
「解釈なさらないのですか」
「したいです」
「正直ですね」
「ですが、先生がご自分で続きをお話しになるまで待ちます」
エルゼは白紙を一枚取り出し、机の端へ置いた。
「何の紙ですか」
「先生が、理由をお書きになるための余白です」
「提出する予定はございません」
「では、空けておきます」
無理に埋めない。
空白のまま、相手の言葉を待つ。
三日前のエルゼなら、部屋ごと答えを作っていただろう。
「本日は帰ります」
リディアが立ち上がる。
「はい」
「止めたいとは思わないのですか」
「思います」
「では、なぜ」
「先生がお決めになることですから」
エルゼは、両手を机の上へ置いたままだった。
「次にいらっしゃるかも、尋ねません」
「我慢しているのですね」
「はい」
「苦しいですか」
「少し」
飾らない答えだった。
リディアは扉へ向かう。
白い扉は開いたままになっている。
敷居を越える前に、振り返った。
エルゼは、リディアが座っていた椅子ではなく、銀鈴草の頁を見ている。
「エルゼ様」
呼ぶと、顔を上げた。
「はい」
「その植物誌は、あなたが持っていてください」
「先生のものでは?」
「今は、あなたが読むための本です」
エルゼは本を抱き締めなかった。
机の上へ置いたまま、指で頁を押さえる。
「大切にいたします」
リディアは廊下へ出た。
呼び止める声はない。
影も。霜も。足音も追ってこない。
三日前なら、その静けさを距離だと思っただろう。
今は違う。
それは、エルゼがリディアのために埋めずに残した空席だった。
次にそこへ座るかどうか。
その答えだけは、リディア自身が書かなければならなかった。