忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました   作:おいかぜ

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第十四話 元忌み子令嬢の名前を呼んだら、■■されました

 

 名籍審理から七日後、エルゼはリディアを解放した。

 北へ伸びた分家紋は、片翼の鷲の形で安定している。

 

 本家の幹から生まれたことは消えない。

 それでも、もう中央へ戻ろうとはしていなかった。

 

 王立命名院の確認を終えたアーヴィンは、机へ二枚の書面を置いた。

 一枚は、保証関係の継続承認。

 もう一枚は、保証者解放への同意書。

 

「分家紋のみで、エルゼ様の名を支えられる状態になりました」

 

 アーヴィンが説明する。

 

「どちらを選んでも、回復した名籍は失われません」

 

 リディアは右腕を見る。

 赤い文字のように残っていた痕は、今では細い影にすぎない。

 向かいの席で、エルゼは二枚の書面を見比べていた。

 

「保証関係を残す場合は、双方の署名が必要です。解除する場合は、エルゼ様お一人の署名で足ります」

「私が決められるのですね」

「リディア・クロウを、保証から解放することについては」

「承知しました」

 

 エルゼは羽根ペンを取った。

 迷わず、解放同意書へ名を書く。

 エルゼ・フォン・ヴァレンシュタイン。

 

 新しい当主印を黒い蝋へ押す。

 片翼の鷲が、紙の上に翼を残した。

 

「確認しなくてよろしいのですか」

 

 リディアが尋ねる。

 

「何をでしょう」

「私が、保証を残したいと思っている可能性を」

「残したいのは、私です」

 

 エルゼは即座に答えた。

 

「でしたら、なぜ解除を?」

「残したいからこそ、先に外します」

 

 解放同意書をリディアの前へ置く。

 

「先生を私の名へ結びつけたまま、選んでいただきたくありません」

「私は元から、あなたの所有物ではありません」

「はい」

「あなたが私へ自由を与えるわけでもない」

「それも、わかっております」

 

 エルゼは書面へ視線を落とした。

 

「ですが、私の名から伸びた糸だけは、私の手で切れます」

「私が切ってほしくないと思っていても?」

 

 膝の上で、エルゼの指がわずかに重なる。

 それでも書面を取り戻そうとはしなかった。

 

「その場合は」

 

 一度、言葉を選ぶ。

 

「先生が、ご自分で新しいものを結んでください」

「新しいもの?」

「保証ではなく、先生がご自分で解ける契約を」

 

 アーヴィンが解放同意書を受け取った。

 

「受理します」

 

 銀章が光る。

 リディアの腕に残っていた最後の痕が、一瞬だけ熱を持った。

 次の瞬間には消えている。

 

 胸の奥から、細い糸を抜かれたような感覚だけが残った。

 

 エルゼの名が遠ざかったのではない。

 呼ばなくても続いていた道が、閉じただけだ。

 

「保証関係の終了を確認しました」

 

 アーヴィンが宣言する。

 エルゼはリディアを見なかった。

 解放した直後に、戻る約束を求めないためだろう。

 

「続いて、北方旧命名庫の調査官任用についてです」

 

 アーヴィンは新たな書類を開いた。

 

「王立命名院は、リディア・クロウを三年間の臨時調査官として任用します。報酬は王立院から支給。公爵家および北方分家から独立した職務です」

「お受けします」

 

 リディアは署名した。

 エルゼの眉が、わずかに動く。

 

「三年なのですね」

「更新制度があります」

「必ず更新されますか」

「仕事の成果次第です」

「短いです」

「私の任期を、あなたが決めないでください」

 

 エルゼは不満を飲み込み、頷いた。

 

「はい」

 

 これで、リディアにはエルゼの雇用がなくても収入がある。

 クロウ家の借金を返すため、北方分家へ仕える必要はない。

 北へ行く理由も、王立命名院の仕事だけで成立する。

 

「先生」

「何でしょう」

「北方では、調査官としてだけ働くおつもりですか」

「領地を確認してから考えます」

「私の命名官には?」

「契約条件によります」

 

 灰色の瞳へ、細い光が戻った。

 

「すでに草案がございます」

「私信の開封、追跡、無期限任用が含まれていた場合は破棄します」

「まだご覧になっていないのに」

「含まれているのですね」

 

 エルゼは黙った。

 アーヴィンが書面をまとめながら言う。

 

「契約交渉には、王立命名院の立会いを推奨します」

「必要ございません」

「必要です」

 

 エルゼとリディアの声が重なった。

 エルゼが不満そうにリディアを見る。

 

「私を信用なさらないのですか」

「信用と監査は両立します」

 

 アーヴィンが淡々と答えた。

 

「よい命名官を選びましたね」

「私が選びました」

 

 エルゼが、少し誇らしげに言う。

 

「任命を受けるか決めるのは私です」

 

 リディアが訂正する。

 エルゼは一瞬だけ口を閉じた後、頷いた。

 

「はい」

 

     

 

 二月後。

 北方封印領には、まだ雪が残っていた。

 

 馬車を降りたエルゼは、錆びた鉄門を見上げた。

 片方の門柱は傾き、本家の鷲と冠は苔に覆われている。

 その下へ、新しい片翼の鷲が刻まれていた。

 

 門の奥には、荒れた並木道。屋根の沈んだ館。遠くには、先端の欠けた封印塔が立っている。

 

 歓迎の花も、旗もない。

 道の両側には領民が集まっていたが、拍手をする者はいなかった。

 

 消されていた公爵令嬢。

 北棟へ閉じ込められていた女。

 名を呼ばれただけで、本邸の主紋を揺らした忌み子。

 噂は、新しい当主より先に領地へ入っていた。

 

 エルゼは愛想のよい笑みを作らなかった。

 門へ白い手を置く。

 

「私の名は、エルゼ・フォン・ヴァレンシュタイン」

 

 古い鉄が、低く鳴る。

 

「北方分家の初代当主として、この土地の管理を引き受けます」

 

 片翼の鷲が淡く光った。

 

「門を開きます」

 

 鉄柵が、錆を落としながら内側へ動く。

 エルゼは一人で、最初の一歩を踏み出した。

 家臣と使用人が後へ続く。リディアは、さらにその後ろから門をくぐった。

 

 分家の一員としてではない。

 胸元にあるのは、片翼の鷲ではなく、王立命名院の銀章だった。

 エルゼは振り返らない。

 リディアが来ていることは知っている。

 それでも、自分の家へ入る最初の一歩を、誰かに支えさせなかった。

 

     

 

 館は、外観以上に傷んでいた。

 玄関の天井から水が落ち、西廊下の窓は板で塞がれている。

 地下記録庫へ続く階段には、焼けた封印の痕が残っていた。

 当主室の扉には、内鍵と外鍵が一つずつある。

 

「外鍵を外してください」

 

 エルゼは、管理人へ最初に命じた。

 

「しかし、封印事故の際には、外部から閉鎖する必要がございます」

「人を閉じ込めるためだけの鍵は要りません」

「扉そのものを外しますか」

「それでは冬を越せません」

 

 リディアが口を挟んだ。

 

「内外のどちらからも開けられる非常錠へ交換してください。使用者と時刻も記録します」

 

 エルゼが、わずかに不満そうな目を向ける。

 

「先生は、褒めてくださらないのですか」

「方向は適切です。扉をなくせばよいわけではありません」

 

 エルゼは管理人へ向き直った。

 

「すべての居室を確認してください」

 

 少し考え、言葉を足す。

 

「必要な扉は残します。ただし、誰かを閉じ込めるためだけの鍵は交換してください」

「承知しました」

「記録簿も」

「そちらは、調査官の提案でしょうか」

 

 管理人が尋ねる。

 

「私が領主として採用します」

 

 エルゼが答えた。

 北方分家で最初に改められたのは、扉の数ではなかった。

 

 誰が鍵を持ち。

 誰が閉め。

 内側から開けられるか。

 その記録だった。

 

     

 

 

 北方領には、壊れたものが多すぎた。

 十二基ある封印塔のうち、四基が停止。三基が不安定。

 

 領都へ続く橋は、次の冬まで持たない。

 閉鎖鉱山の名義は本家と北方領の間で曖昧なまま。

 旧命名庫には、百年以上整理されていない記録が積まれている。

 

 リディアは王立調査官として、毎日埃にまみれた。

 エルゼは当主として、家臣と領民の陳情を受けた。

 最初の一週間、二人が顔を合わせるのは、ほとんど夕食の時だけだった。

 

「本日の案件は?」

 

 リディアが尋ねる。

 

「橋の修繕費。家畜の病気。鉱山の権利。領地境界が二件です」

「すべて決めたのですか」

「半分だけ」

「残りは?」

「わからなかったので、明日また話します」

 

 エルゼは疲れた顔でスープを口へ運ぶ。

 以前なら、わからないことを悟られまいと、すべてを知っているふりをしただろう。

 今は、保留にする。

 専門家を呼ぶ。

 自分が知らないと認める。

 

「よい当主ですね」

 

 リディアが言うと、エルゼの匙が止まった。

 

「今、褒めてくださいましたか」

「ええ」

「もう一度お願いしても?」

「一度で十分です」

「覚えておきます」

「黒い帳面へは書かないでください」

「頭の中だけに」

「それは禁じません」

 

 エルゼは少し笑った。

 回数を数えるとは言わなかった。

 

     

 

 北方館へ到着して十日後。

 エルゼはリディアを書斎へ呼んだ。

 机上には、五枚の契約書が並んでいる。

 

「北方分家専属命名官の任命契約です」

「五枚も必要ですか」

「必要なことを書いたら増えました」

 

 最初の頁を読む。

 

任期は、当主または被任命者の死亡まで

 

「却下します」

「まだ一行目です」

「任期は一年。双方の合意がある場合のみ更新です」

「十年では?」

「一年です」

「五年」

「一年」

 

 リディアは赤いインクで書き直した。

 次の条項。

 

被任命者は北方館に居住し、当主の求めに応じて常に所在を明らかにする

 

「『常に』を削ります」

「封印事故へ備えるためです」

「公務上必要な予定だけ共有します。私的な外出と通信は本人の管理です」

「どこにいらっしゃるかわからないと、不安です」

「その不安を、私の監視で処理しないでください」

「毎朝の予定だけでも?」

「必要な範囲なら」

 

 さらに頁をめくる。

 

他家および王立命名院からの依頼には、当主の許可を要する

 

「削除します」

「他家の令嬢に名を呼ばせる仕事も?」

「職務です」

「嫌です」

「感情は契約の根拠になりません」

「同行することは?」

「領主の仕事をなさってください」

 

 リディアは条項を書き換えた。

 

北方分家以外の職務を自由に受任できる

北方領の緊急案件と重なる場合のみ、優先順位を協議する

 

 次の頁には、私信の開封と、所有物への位置確認印。

 どちらも線を引いて消した。

 

「災害時にも?」

「本人が、その都度同意した場合のみです」

「事前に同意したものとみなすことは?」

「認めません」

 

 代わりに、新しい条項を加える。

 

本人の許可なく、名、所有物、影または通信へ干渉した場合、契約を一時停止する

重大または反復する違反には、王立命名院の監査を入れる

 

「監査まで必要ですか」

「必要です」

「先生が判断すれば」

「私が当事者になった時、私だけでは判断できません」

 

 リディアは赤いインクを置いた。

 

「あなたが間違えた時に、二人だけで隠さないためです」

 

 公爵家の内部で起きたことは、公爵家の内部だけで処理された。

 その結果、エルゼの名は消えた。

 同じ家を作らないためには、外から見る者が要る。

 エルゼは、監査条項をしばらく見つめた。

 

「わかりました」

 

 最後の頁には、退任規定があった。

 

重大な病気を除き退任できない

婚姻を退任理由として認めない

 

「改めて問いますが、なぜ、ここへ婚姻が出てくるのですか」

「重要です」

「誰との婚姻を想定しているのでしょう」

「私以外の方です」

「任命契約へ書く内容ではありません」

「先生が、ほかの家へ行ってしまいます」

「それを契約で防ごうとしないでください」

「では、何で防げば?」

「私へ尋ねてください」

 

 エルゼが黙る。

 

「今でしょうか」

「今は任命契約の話です」

 

 明らかに不満そうだったが、婚姻条項を書き戻そうとはしなかった。

 

「退任は、三か月前の書面通知で可能」

 

 リディアが書く。

 

「生命または尊厳へ重大な危険がある場合は、即時退任を認めます」

「退任を申し出られた場合」

 

 エルゼは慎重に尋ねる。

 

「一度だけ、撤回をお願いしてもよろしいですか」

「一度だけなら」

「理由も説明して?」

「ええ」

「二度目は」

「ありません」

「承知しました」

 

 署名欄を二つ作る。

 エルゼはすぐ、自分の名を書いた。

 

「先生も」

「まだ署名いたしません」

「なぜですか」

「明日、クロウ家へ帰ります」

 

 エルゼの羽根ペンが止まった。

 

「いつまででしょう」

「十日ほどです。母と弟たちへ、仕事と返済計画を説明します」

 

 王立命名院の報酬。

 債権者との再交渉。

 北方記録庫の修復計画。

 家族に関わることを、もう一人では決めない。

 

「その後、王立命名院の地方支部へ報告に参ります」

「北方へ戻るのは――」

 

 エルゼは途中で口を閉じた。

 

「申し訳ございません。戻ることを前提にしました」

「戻らない可能性もあります」

 

 リディアは正直に答えた。

 灰色の瞳から、ゆっくりと色が引いていく。

 

「王立調査官の仕事は、ここへ住まなくても続けられます」

「はい」

「記録を王都へ移す案もあります」

「はい」

「私は、この契約を受ける義務がありません」

「はい」

 

 一つずつ、エルゼは聞いた。

 契約書のリディアの欄は、空白のままだ。

 

「署名は、戻ってから考えます」

「戻られた場合に?」

「先回りしないでください」

「はい」

 

 エルゼは契約書を自分の前へ戻した。

 

「お持ちになりますか」

「こちらへ置いておきます」

 

 顔に影が差す。

 

「契約書を持っていくことと、戻ることを結びつけないでください」

「難しいです」

「練習なさってください」

「はい」

 

 エルゼは引き出しから、新しい鍵を取り出した。

 

「北方館の門と、旧命名庫の外扉に使えます」

「私が受け取ってよいのですか」

「調査官として必要です。私と管理人、警備長が持っております。こちらは四本目です」

 

 机へ鍵を置く。

 

「使うかどうかは、先生がお決めください」

 

 帰るための鍵とは言わなかった。戻る約束にも変えない。

 リディアは鍵を取った。もどかしげに、エルゼは眉を動かした。

 

「お預かりします」

 

 エルゼの指が、わずかに動く。

 それでも、リディアの手を握ろうとはしなかった。

 

     

 

 翌朝、リディアは北方館を出た。

 門まで見送りに来たのは、管理人だけだった。

 

 エルゼは来ない。

 来れば、引き止めたくなるからだろう。

 

 門には、内側と外側の両方に鍵穴がある。

 リディアは一度だけ館を振り返った。

 当主室の窓に人影はない。

 影も伸びてこない。

 青いリボンにも、何の印も戻らなかった。

 

 リディアは自由だった。

 

     

 

 クロウ家の屋敷は、以前より小さく見えた。

 母はリディアの顔を見るなり、抱き締めるより先に腕を確かめた。

 

「また危険な仕事をしたのですね」

「否定はできません」

「公爵家の令嬢のために?」

「その方の名前のために」

「同じことではないのですか」

「少し違います」

 

 母は納得しなかったが、それ以上は責めなかった。

 弟たちは、北方領の地図を机へ広げる。

 

「姉上は、ここへ住むのですか」

「まだ決めていません」

「仕事は?」

「王立命名院から受けています」

「では、その方へ仕えなくても大丈夫なのですね」

「ええ」

 

 口にすると、紙の上の事実が、ようやく実感へ変わった。

 大丈夫なのだ。

 エルゼの家へ仕えなくても。

 北方館へ戻らなくても。

 

 クロウ家を見捨てずに済む。

 借金は消えていない。

 

 だが、王立院の収入を基準に返済計画を組み、債権者と交渉できる。

 公爵家へ未来を買われる必要はない。

 

「その令嬢は、戻ってほしいと言いましたか」

 

 弟の一人が尋ねた。

 

「言いませんでした」

「戻ってほしくないのですか」

「それも違います」

「難しいですね」

「ええ」

 

 母が静かに茶器を置いた。

 

「あなたは、戻りたいのですか」

 

 北方館は、まだリディアの家ではない。

 雨漏りのする屋根。壊れた封印塔。

 不当な条項を五枚も並べた契約書。

 十日ほど滞在しただけの場所だ。

 

 それでも、エルゼが夕食を取っているか。

 領民との話し合いで、わからないと言えているか。

 婚姻条項を書き戻していないか。

 

 考えている。

 

「わかりません」

「なら、戻る義務はありませんね」

「ええ」

「戻らない義務もありません」

 

 母は、それだけを言った。

 

     

 

 

 王立命名院の地方支部では、北方旧命名庫の処理方針が話し合われた。

 

 重要記録を王都へ移す案。

 現地に修復施設を設ける案。

 記録庫自体を閉鎖する案。

 

「クロウ調査官は、どの案を支持しますか」

「記録は北方に残すべきです」

「理由は?」

「土地の封印と切り離せば、文字は残っても機能を失う記録があります」

「維持費が必要です」

「北方分家との共同管理にします。ただし、王立命名院の監査を残してください」

「当主を信用できないのですか」

 

 リディアは少し考えた。

 

「無条件には」

 

 会議室へ、短い沈黙が落ちる。

 

「個人的な関係があると聞いています」

「ございます」

「判断に影響しませんか」

「影響します」

 

 隠す理由はなかった。

 

「影響しないふりをするより、記録し、外部監査を受ける方が安全です」

 

 支部長はしばらくリディアを見た後、頷いた。

 

「現地共同管理案を採用します」

 

 その日のうちに、正式な辞令が出た。

 北方旧命名庫常駐調査官。

 

 任期三年。

 赴任地はヴァレンシュタイン公爵家北方封印領。

 分家への服従義務はない。

 

 北へ戻る理由が一つ増えた。

 仕事である。

 

 エルゼではない。

 

 だからこそ、問いが残る。

 仕事だけなら、領都に部屋を借りればよい。

 北方館へ住む必要はない。

 専属命名官になる必要も。

 エルゼの向かいに座る必要もなかった。

 

 それでも、机の引き出しには北方館の鍵がある。

 

     

 

 

 北方館を離れて十四日目。

 

 一通の書状が届いた。

 差出人は、北方分家執務室。

 エルゼ個人ではない。

 

 内容も、事務的だった。

 西側記録庫の屋根補修が完了したこと。

 棚の移設について、調査官の指示を求めること。

 専属命名官任命契約は、署名のないまま保管していること。

 

 条項は一文字も変更していないこと。

 末尾には、当主としての署名があった。

 

 エルゼ・フォン・ヴァレンシュタイン。

 

 戻ってほしいとは書かれていない。

 

 寂しいとも。

 何日待ったとも。

 余白にも、隠された文字はない。

 

 追跡印もない。

 

 完璧に正しい書状だった。

 

 少し腹が立った。

 来てほしいなら、そう書けばよい。

 だが、そう書くことさえリディアを動かす手になると、エルゼは恐れたのだろう。

 

 リディアは返事を書いた。

 

 棚は東壁から一腕分離すこと。壁面に湿気が残っていること。修復前の記録番号を保存すること。

 最後に、一文を加える。

 

 契約書は、帰着後に確認します。

 

 ──帰着後。

 

 戻ることを、自分で前提にしている。

 

 消すこともできた。

 

 リディアは、そのまま封をした。

 

     

 

 北方館へ戻ったのは、三日後の夕方だった。

 空には雪雲が広がり、門の鉄柵は夜間警備のため閉じられている。

 

 外側には、鍵穴がある。

 

 リディアは預かった鍵を差し込んだ。

 

 回す。

 錠が外れた。

 自分で門を開く。

 

 館へ続く道には、迎えも見張りもいない。

 戻る時刻を知らせた相手もいなかった。

 

「クロウ調査官」

 

 玄関の管理人が目を見開く。

 

「こんばんは。エルゼ様は?」

「執務室でございます」

 

 リディアは自分で廊下を進んだ。

 扉は閉じているが、すべて内側から開けられる扉だった。

 

 執務室の前で足を止める。

 紙をめくる音が聞こえた。

 

 扉を叩く。

 

「お入りください」

 

 リディアが開けると、エルゼは机に向かっていた。

 陳情書。修繕計画。冷めかけた夕食。

 北方分家の当主として過ごす、平凡な夕方の中にいる。

 

 顔を上げた。リディアを見る。しばらく、動かなかった。

 

「こんばんは」

「先生」

 

 エルゼは立ち上がる。

 一歩近づく。

 そこで止まった。

 

「戻られたのですか」

「ええ」

「お仕事で?」

「それもあります」

「記録庫のために?」

「ええ」

 

 喜びと警戒が、灰色の瞳で重なっている。

 

「それだけでしょうか」

 

 尋ねた後、口を閉じかける。

 

「続けて構いません」

 

 エルゼは息を整えた。

 

「私のところへ、戻ってくださったのですか」

「ええ」

 

 リディアは答えた。

 灰色の瞳が大きくなる。

 

「あなたに雇われなくても、私は生活できます」

「はい」

「保証関係もありません」

「はい」

「家族も、北方へ行くよう求めていません」

「はい」

「王都で働く道もございました」

 

 エルゼの指が、強く握られる。

 

「その上で、こちらへ戻りました」

「なぜでしょう」

 

 今度は、命名官の責任を持ち出さなかった。

 調査官としての義務も。

 名前を守るためという理由も。

 

「あなたのそばにいたいからです」

 

 部屋が静かになった。

 

「あなたは、怖い方です」

「存じています」

「人の弱い場所を見つけることも、お上手です」

「はい」

「今後も、きっと間違えます」

「しないとは申し上げられません」

「私も、あなたの名をほかの方へ触れさせたくないと思うことがあります」

 

 エルゼの顔が、少しだけ明るくなる。

 

「まだ喜ばないでください」

「難しいです」

「私も、正しい人間ではございません」

 

 リディアは続ける。

 

「あなたを独り占めしたいと思うことがあります」

「それは、喜んでも?」

「少しだけなら」

 

 エルゼは、本当に少しだけ笑った。

 

「ですから」

 

 リディアは机の契約書を取る。

 

「規則が必要です」

「はい」

「欲しいという理由だけで、お互いの扉を塞がないために」

 

 赤い修正は、出発前のまま残っていた。

 

 任期一年。

 外部の仕事は自由。

 私信と私物は本人が管理する。

 名や影への無断干渉は禁止。

 違反時には王立命名院の監査。

 三か月前の通知による退任。

 

 婚姻条項も書き戻されていない。

 

 リディアは署名欄へ名を書く。

 

 リディア・クロウ。

 

「受けてくださるのですか」

「一年間です」

「更新は?」

「一年後に、双方で決めます」

「必ず更新したくなるようにいたします」

「それは構いません」

 

 エルゼが目を瞬く。

 

「よろしいのですか」

「私が選びたくなるよう努力することは禁止しておりません」

「作戦でも?」

「私の道を塞がない限りは」

 

 リディアは契約書を差し出した。

 

「それから、家庭教師契約は終わっています」

「はい」

「私を先生と呼び続けたいなら、個人的な呼び方として許可を求めてください」

 

 エルゼは姿勢を正した。

 

「リディア」

「何でしょう」

「これからも、先生とお呼びしてよろしいですか」

 

 教えた者と、教えられた者。

 家庭教師とその生徒で無くなっても、過去の関係は消えない。

 

「二人だけの時なら」

「はい、先生」

 

 エルゼは満足そうだった。

 机の引き出しから、細長い箱を取り出す。

 中には、二本の青いリボンが入っていた。

 

「いつ用意したのですか」

「北方へ来る途中です」

「私が戻ると決めつけていたのでは?」

「作ることと、渡すことは別です」

「渡す機会は期待していた」

「はい」

 

 正直だった。

 

「以前、先生のリボンへ勝手に印をつけました」

「覚えております」

「今度は、二本へ同じ印をつけたいのです」

「機能は?」

「一方が、相手の名を呼んだ時だけ光ります」

「居場所は?」

「わかりません」

「体調や、誰といるかは?」

「わかりません」

「片方だけで解除できますか」

「自分のリボンにある印は、いつでも外せます。相手から止めることはできません」

 

 片方だけが、もう一方を追う印ではない。

 呼びかけたことだけを伝える。

 応じるかどうかは、呼ばれた側が選ぶ。

 

「許可します」

 

 エルゼの顔が明るくなる。

 

「ただし、双方へ同じ印を」

「もちろんです」

 

 二本のリボンを机へ並べる。

 エルゼが、自分の名を書く。

 リディアも、自分の名を書く。

 どちらか一方では完成しない。

 

 金色と青銀の線が触れた時、初めて淡い光が生まれた。

 リディアは一本を取り上げる。

 

「髪へ触れてもよろしいですか」

「はい」

 

 淡い金髪へ、青い布を結ぶ。

 

「お似合いです」

 

 エルゼは、好きになったかとは尋ねなかった。

 ただ、嬉しそうに目を伏せた。

 

「先生の髪にも、結んでよろしいでしょうか」

「ええ」

 

 エルゼの指が、リディアの髪へ触れる。

 以前、勝手に持ち去ったリボンとは違う。

 強く縛らず。結び目を確認しながら。許された範囲だけへ触れている。

 

「痛くはありませんか」

「大丈夫です」

「逃げられますか」

「リボン一本で止められると思わないでください」

「止めたいとは思っております」

「エルゼ様」

「思うだけです」

 

 指が髪から離れた。

 

「先生」

「何でしょう」

「触れることを、もう一つお願いしてもよろしいですか」

「内容によります」

 

 灰色の瞳が、リディアの唇へ向いた。

 答えを誘導する言葉は重ねない。

 

「口づけてもよろしいでしょうか」

 

 家庭教師契約はない。

 保証関係もない。

 任命契約には、退任のための扉がある。

 館の門は、リディア自身の鍵で開けた。

 

「一度だけ」

「はい」

 

 エルゼが近づく。

 途中で止まる。

 最後の距離を、リディアが詰めた。

 短い口づけだった。

 

 エルゼの手がリディアの腰へ伸びかける。

 空中で止まった。

 

 離れた後、リディアはその手を見る。

 

「よく止まりましたね」

「褒めていただけますか」

「ええ」

「では、次は──」

「一度だけと申し上げました」

「覚えております」

「数えていたのですか」

「忘れる方が難しいです」

 

 エルゼが笑った。

 リディアも、今度は隠さなかった。

 

 書斎の扉は開いている。

 館の門は閉じているが、リディアの手には鍵がある。

 出ていくことを妨げる契約も、名を引く糸もない。

 それでも、リディアはエルゼの向かいへ座った。

 

「明日の予定を確認しましょう」

「今からお仕事ですか」

「夕食を放置している当主がいらっしゃいますので」

 

 エルゼは、机の端で冷えている皿を見る。

 

「先生がお戻りになるとは思っておりませんでした」

「ええ」

「一緒に食事をする準備もございません」

「それでよいのです」

「よろしいのですか」

「私が帰ることを予測して、すべて用意されているよりは」

 

 エルゼは少し考えた。

 

「ですが、次からは準備したいです」

「何をでしょう」

「先生がお出かけになった後も」

 

 髪の青いリボンへ触れる。

 

「戻りたいと思える家にいたします」

 

 リディアは眉を上げた。

 

「また作戦ですか」

 

 エルゼは、片翼の鷲が刻まれた当主印を机へ置いた。

 北方分家の主人として。

 

 それでも、リディアの前では、少し怖いほど正直な顔で答えた。

 

「求婚です」




 
 
第1部完結と致します。お付き合いいただきありがとうございました。
第2部があるとしたら、エルゼを主人公とした北方封印領再建モノ+堅物文官ヒロインリディアとの恋愛攻防戦となります。
反応次第ですね。
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