忌み子令嬢の名前を呼んだら、私の影まで離してくれなくなりました 作:おいかぜ
隔日での投稿を目指します。
第十五話 口づけと求婚のあいだ
翌朝、北方館の食卓には二人分の皿が並んでいた。
黒パン、薄い燻製肉、乾燥豆のスープ。どれも質素だが、昨夜の一人分よりは、はっきりと歓迎の形をしている。
向かいに座るエルゼは、リディアの皿、右手、予定表へ順に視線を移した。最後に唇を見て、あわててスープへ戻る。
昨夜の口づけを忘れたふりはできないらしい。かといって、自分から持ち出す度胸もない。
「本日のご予定には、返答のお時間がございますか」
匙を持ったまま、エルゼが尋ねた。そわそわと指先が交差しては離れる。
「何への返答でしょう」
「……先生」
「意地悪ではなく、確認です」
リディアが茶器を置くと、エルゼは一度、唇を結んだ。
「昨夜の求婚に、お返事をいただけますか」
「では、順にお答えします。……まず、口づけを後悔しておりません」
匙が皿へ当たり、思いのほか大きな音を立てた。
「本当ですか」
「二度言わせないでください」
「はい。……でも、二度聞きたいです」
返事だけは見事に早い。
「あの時、あなたに触れたいと思いました。親しさもございますし、あなたをほかの方へ渡したくない気持ちも、否定はいたしません」
エルゼの頬へ淡く色が差した。
「喜んでも?」
「最後までお聞きください」
「努力します」
手持ち無沙汰になった指が、黒パンを細かくちぎっていく。
「ですが、あれは求婚への受諾ではございません。一度の口づけに、その先の年月まで背負わせるつもりはありませんから」
パンを裂く手が止まった。
「では、何も進んでいないのでしょうか」
「なぜ、零か百で考えるのです。まだ受けない、と申しました」
エルゼが顔を上げる。
「求愛は、お断りしません」
「求愛。具体的には、何をすればよろしいでしょう」
「それを私へ尋ねる時点で、あまり上手ではありませんね」
「学びます」
「私を教材にしないでください」
「先生なのに」
真顔で言われ、リディアはとうとう笑いそうになった。堪えたのは、ここから先を曖昧にしたくなかったためである。
「領地をよくすることを、私の返事の点数にしないでください」
「まだ何も申し上げておりません」
「お顔に書いてあります」
エルゼは頬へ触れた。
「文字はございません」
「そういう意味ではありません。橋一本、穀物百袋、善行一つを足し上げても、愛情の合格点にはなりません」
「努力しても、愛されるとは限らない」
「ええ」
「正しい人間になっても?」
「正しさは、誰かの心を請求する証文ではございません」
エルゼは目を伏せた。怒りもせず、条件を変えてくれとも言わなかった。
「それでも、求愛することは許されるのですね」
「許可します」
「恋人になる可能性は?」
「ございます」
「婚姻は」
「いまは答えません」
「いつ、お答えになりますか」
「私が、自分の気持ちを理解した時に」
親しさと独占欲を恋と呼んでよいのか。エルゼと生きたいのか、ただ失いたくないだけなのか。それを他人に先回りして名づけさせるつもりはなかった。
「では、待ちます」
エルゼは言い、少ししてから付け足した。
「あまり得意ではありませんが」
「存じています」
「進捗を伺う頻度は、毎朝で」
「却下します」
「三日に一度」
「交渉を始めないでください」
扉が叩かれたのは、その時だった。
館の管理人が、二つの銀色の封蝋を載せた盆を運んでくる。王立命名院と財務院。二本の紐は一つに結ばれていた。
エルゼはちぎったパンから手を離し、当主印を引き寄せた。食卓の空気が、昨夜の続きから領政へ切り替わる。
合同監査状には、北方分家の設立を認める代わりに、領政を三年間の暫定監査下へ置くとあった。
期限までに求められるのは、冬季食糧、封印塔の管理、本家に頼らない収入、公開会計、領民の異議申立て制度。
達成できなくてもエルゼの名籍と分家は残るが、財政、封印塔、交易契約の執行権は王立代官へ移る。
当主の名だけを持ち、自分の家を治められなくなる。
「三年」
エルゼが呟いた。
「長いですか」
「短いです。ですが、整えます」
書面を読み終える頃には、もう心が仕事へ走り出していた。
一刻後、北方館で最初の領政会議が開かれた。旧管理官ハンネス、封印技師ベルタ、館の執事、会計書記、そして王立調査官としてのリディアが席につく。
監査状を読み上げたエルゼは、きっぱりと言った。
「三年で、すべて整えます」
誰も拍手をしなかった。
白髪混じりのハンネスだけが、机に並べた八枚の紙を裏返していく。穀物、石橋、封印塔、水車、診療所、北方館、冬道、穀物庫。
「では最初に、何を諦めるかお決めください」
「諦めません」
「資金は銀貨八百六十七枚。雪で南街道が閉じるまで九十日。動かせる常雇い四十三人、石工六人、封印技師二人。橋へ人を出せば塔へ出せず、館を直せば穀物庫の屋根が残ります」
「本家へ追加請求を」
「届く頃には初雪です」
「私の宝飾を売ります」
「買い手が着く頃には馬車道が閉じます」
ハンネスは口角をほんの少し動かした。表情未満の感情を、リディアは無表情のまま眺めていた。エルゼの提案が悉く切り捨てられてゆく。
「私が塔へ魔力を供給すれば──」
「当主様の魔力で、割れた石は積めません」
口を挟んだベルタの低い声に、エルゼが口を閉じた。
「何も捨てない領主は、最後に人を捨てます」
ハンネスは最後の紙を返した。
「終わらなかった仕事の代金を、凍えた者に払わせるからです」
エルゼは八枚を見渡した。選ばないという決定にも、選択を受け取る者がいる。
「現状を、すべて出してください」
会計書記が穀物台帳を開いた。帳簿上は五千七百大袋。実地確認では、五千四百しかない。
「三百袋、足りません」
出庫記録の末尾には、現行台帳にない村名があった。
──北端村。
「ハンネス」
「私が送りました」
「存在しない村へ?」
「帳簿には存在しません」
男は、平然と答えた。罪悪感のひとつも滲ませず、臆することもなく。
「人はおります」
エルゼは言い返せない。北方へ渡ってきたばかりのエルゼには、地図に存在しない村の存在を判断することなどできなかった。
会議は次回に持ち越された。監査状を抱えたエルゼが廊下で足を止めた。
「求婚のお返事は、三年後までお待ちいただかなくても」
「監査期限を、私の返事へ流用しないでください」
エルゼは不満そうに黙った。
リディアは彼女の手から監査状を抜き取り、北端村の受取印を示す。
「まず、帳簿にいない人々の話を聞きましょう」
「場所はわかっております」
「では、なぜいないことにされたのかを」
眠らなければ、一日を増やせる。
エルゼは本気でそう考え、夜明けまでに二十三枚の計画書を作った。封印塔、水車、仮設橋へ色の違う線を引き、同じ職人が同時に二か所へ必要にならないよう配置する。足りない資金には家財の売却額を当てた。
不足を別の欄へ移すたび、紙の上では問題が消えた。
「以上が、冬までの第一案です」
翌朝の会議室には、昨日の五人に道路役人と倉庫役人を加えてある。必要な実務を知る者は揃えたつもりだった。
壁際では、リディアが出席者一覧へ何かを書いている。
「異論はございますか」
最初に口を開いたのは、職人を預かる役人だった。
「水車の軸は、春に測った寸法です。いまの歪みを見なければ、鉄輪を注文できません」
「明日までに測り直してください」
「橋材を先に運べば、倉庫の荷下ろしが二日遅れます」
「第八日から第十日へ変更します」
細部は直せる。エルゼは筆を走らせた。反対がないのは、計画そのものが認められたからだと思った。
「北端村については、簿外配給を当主命令の緊急支出へ切り替えます。村名と土地台帳を十日以内に回復し、過去三年分の未納税は冬後から分割徴収。塔の利用契約も再接続します」
順序まで整えてから、もう一度尋ねた。
「異論は?」
返事がない。
「クロウ調査官。先ほどから何をお書きになっているのです」
「いらっしゃらない方々です」
「欠席者ですか」
「招かれていない方を、欠席とは呼びません」
差し出された一覧には、四つの村、北端村、職人、商人、荷運び人、農夫──いずれも出席者なし、とあった。
「実務を知る者は呼びました」
「水車を使う方は、実務を知らないのですか」
「全員を呼べば会議になりません」
「何名を選ぶかは、当主の判断です。誰も選ばなかったことも」
廊下で何かが倒れ、警備の制止する声がした。村の出席者に緊張や動揺は薄い。リディアは懐へ伸ばしかけていた腕を下ろした。
「お待ちください、会議中です!」
「だから来たんだよ」
扉を押し開けたのは、泥の乾いた靴を履く年嵩の女だった。灰色の毛織物に、古い木札。片側だけ白くなった髪が、肩で跳ねている。
「お名前を」
執事が進み出る。
「マルタ。北端村のマルタだ。あんたらの紙には、どっちも載ってないだろうけどね」
会計書記が青ざめ、ハンネスだけが目を伏せた。
「警備を下げてください」
エルゼは命じた。
「事情は、会議の後で伺います」
「何を決めたか聞かされるために?」
「いまは計画を確定する場です」
「じゃあ、決めた後で私らに何を聞くんだい」
マルタは机へ寄り、北端村と書かれた箇所を見つけた。
「三百袋を盗んだ村から一人も呼ばず、盗人かどうかだけ先に決めるのか」
「盗人とは申しておりません」
「簿外配給と書けば、腹が立たないとでも?」
十七年前、北端塔で事故が起きた。家屋十二棟と共同炉が壊れ、村人は一冬だけの約束で南へ避難した。翌春から少しずつ戻り、三年後にはほとんどが家を建て直した。
公爵家の台帳だけが、避難中のままだった。
配給と塔の保護契約から外され、土地は一時保留地となった。水路の修繕は申請できない。税を取る時だけ、近隣村の戸数へ足された。
「本家が復帰手続を止めたのですか」
エルゼはハンネスへ向き直った。
「一度目は事故調査中。二度目は補償未確定。三度目からは、提出記録そのものが残っておりません」
「あなたは何をしていたのです」
「穀物を送りました」
「手続の話です」
「通らない手続より、人を生かす方を選びました」
腹の立つ答えだった。けれど三百袋がなければ、ここにいない誰かが飢えたのも事実だ。
「当主命令で、ただちに北端村を戻します」
「どの名を戻すのです」
リディアが問う。
「北端村です」
「旧正式名はヴィンターシルト村。現在呼ばれている北端村と、境界が同じか確認しましたか」
「確認すればよいでしょう」
「死亡者の土地、南へ移った相続人、事故後に耕し始めた者、未納税、未払い補償、水路と塔の利用権は?」
ハンネスが挙げるたび、十日で終わるはずだった線が崩れていく。
「調べて、正しい名を書けば」
「書く前に、私らの請求を聞きな」
マルタの指が計画書を押さえた。
「未納税を取るなら、事故の補償も払ってもらう。昔の村名を戻すなら、いまの名で暮らした年月を消させない。塔へ繋ぐなら、次に事故が起きた時、誰が止めるかも決める。畑だけ戻して、死者の名を置いていくのも御免だ」
「要求書を提出してください」
「字が書けない者は、要求もできないのかい」
書記が聞き取ればよい、と言いかけて、エルゼは止まった。その書記を選ぶのも自分では、また同じである。
壁の時計が半日を刻もうとしていた。今日止めれば、測量も発注も遅れる。続ければ、聞いたふりをした計画が残る。
「この会議を延期します。四村と北端村から各一名。領都の職人、商人、荷運び人、封印技師、館の使用人からも一名ずつ招きます」
「選ぶのは村と組合だ」
「認めます」
暫定諮問評議会。月二回の定例会と緊急招集。発言は記録し、当主が採否と理由を返す。
ただし、採決権はない。決定は、まだエルゼ一人の手に残る。
会議が散った後、空の椅子を見ながらエルゼは言った。
「全員の席を作りました」
「椅子を増やしただけです」
「発言も記録します」
「議題を作り、採る意見を選び、最後に決めるのはあなたです」
「当主ですから」
「ええ。初日からすべて渡せとは申しません。ただ、聞いたことと、決めさせたことを取り違えないでください」
エルゼは反論せず、北端村への穀物だけは、その日から正式な緊急支出へ切り替えた。
冬まで、八十八日。
ほかの者が退出した後、ハンネスが扉を閉めた。
「当主様。帳簿は、一冊ではありません」