夕食後の服薬介助。
「飲みましたよ」
「ありがとうございます。念のため、お口の中だけ見せてくださいね」
利用者さんが口を開く。
舌の上には何もない。
見える範囲の頬の内側にも、薬は残っていなかった。
「大丈夫そうですね」
そう言いかけたところで、隣に立っていた転骨が俺の腕を軽く叩いた。
カタ。
「ん?」
転骨が、自分の頬の辺りを指差す。
正確には頬なんてないけど、位置としてはその辺だ。
「頬の内側?」
カタ。
俺はもう一度、利用者さんへ声を掛けた。
「すみません。こっちの頬を少しだけ広げますね」
口腔内を確認する。
奥歯と頬の間に、白いものが見えた。
小さく割れた錠剤だった。
「あ、本当だ。まだ残ってました」
「飲んだと思ったんだけどねえ」
「ありますよ、こういうこと。もう一口だけお水を飲みましょうか」
水を飲んでもらい、もう一度確認する。
今度は残っていない。
「はい、大丈夫です」
利用者さんがベッドへ戻るのを見届けてから、俺は転骨を見た。
「よく分かったな」
カタ。
転骨の目に灯る青白い光が、わずかに揺れる。
空間感知。
転骨に覚えさせた、Rank1アーツだ。
最初に使った時は、正直かなり微妙だった。
感知できるのは、自分のすぐ周りだけ。
時間も一分ほど。
廊下の角や居室の死角で、誰かが動こうとしていないか分かれば便利だと思った。
けれど、最初の範囲では狭すぎた。
「これ、ほぼ足元確認用じゃん」
思わずそう言ったくらいだ。
それでも、使い道がないわけではなかった。
車椅子の下に何か落ちていないか。
ベッド脇に障害物がないか。
廊下の角から荷物がはみ出していないか。
狭い範囲でも、目だけでは確認しにくい場所なら役に立つ。
服薬後の口の中も、その一つだった。
薬の名前までは分からない。
そもそも薬なのか、食べかすなのかも、転骨だけでは判断できない。
ただ、頬の内側や舌の下に、小さな固形物が残っている。
それくらいなら感じ取れるらしい。
最後は俺が目で確認する必要がある。
でも、見落としそうな場所を教えてくれるだけでも十分助かる。
「便利になってきたな」
カタ。
「いや、最初が狭すぎたんだけど」
カタカタ。
転骨が抗議するように骨を鳴らした。
「悪い悪い。ちゃんと助かってる」
服薬介助を終え、フロアへ戻る。
今夜は骨員に余裕があった。
戦骨は二階フロアの巡回。
癒骨はコール対応の補助。
鑑骨は看護職員の指示を受けて、バイタルや記録前の確認を手伝っている。
人手ならぬ骨手が足りている。
こういう夜にしかできないことがある。
ショートワープを使った練習だ。
空間感知の範囲は、最初より明らかに広がっていた。
壁。
床。
椅子。
大きな障害物。
そこに、人が立てる空間があるかどうか。
細かい形までは分からなくても、周囲の配置をぼんやりと捉えられるようになっている。
そして、それはショートワープにも影響していた。
転骨のショートワープは、最初は目に見える範囲の短い距離しか移動できなかった。
それが今では、少し離れた場所まで届く。
空間感知で着地点を捉えられるようになったことで、見えていない場所への移動も試せるようになっていた。
もちろん、最初からうまくいったわけではない。
◇
試しに、転骨を二階に残して、俺だけ一階へ飛ばしてもらったことがある。
場所は一階の倉庫前。
通路は広い。
人もいない。
転骨も、空間感知で真下の床と周囲の壁を捉えられているらしい。
いける。
そう判断した。
「じゃあ、頼む」
カタ。
転骨が俺の袖を軽くつかんだ。
次の瞬間、視界がぶれた。
足裏に床が来る。
はずだった。
「うおっ」
床より少し高い位置に出た。
ほんの少し。
たぶん数十センチもない。
それでも、あると思っていた床がないだけで十分に怖い。
俺は空を踏み、そのまま前につんのめった。
壁に片手をついて止まろうとしたが、勢いを殺し切れない。
「……うげっ!」
顔面から盛大に壁へ突っ込んだ。
鼻の奥が、じんと痛む。
「……まじで痛い」
顔を押さえながら、周囲を見る。
一階の倉庫前。
移動自体は成功していた。
床にも埋まっていない。
壁の中にも出ていない。
少し高かっただけだ。
「少しだけって言っても、普通に怖いな……」
そこで、ふと気づいた。
静かだ。
「転骨?」
振り返る。
誰もいない。
転骨は、俺を飛ばした二階に残ったままだった。
「…………」
俺は無言で階段へ向かった。
一階から二階へ。
一段ずつ、普通に上る。
自分から頼んだ実験なので、誰にも文句は言えない。
言えないけど、壁に顔をぶつけたうえ、片道だけ送られて階段で戻るのは何か違う気がする。
二階へ戻ると、転骨が何事もなかったように待っていた。
カタ。
「…………」
俺は転骨をじっと見る。
たぶん、かなりジトッとした目になっていたと思う。
転骨が首を傾げた。
「次からピッチ持ってくるか……?」
カタ?
「いや、こっちの話」
とりあえず、上下階への移動自体はできた。
ただし、着地点にはまだ少しずれがある。
それと、転骨が同行しなければ帰りは階段になる。
手帳を開き、二つとも書き留めた。
『上下階へのショートワープは可能』
『高さにずれあり。転骨の同行も必要』
「次は一緒に来てくれや」
カタ。
「本当に分かってる?」
カタ。
返事だけはよかった。
次は、転移先の確認役として戦骨にも付き合ってもらった。
一階の倉庫前に立って、誰も来ないよう見張ってもらう。
床に物がないか。
通路が空いているか。
もし転移位置がずれていたら、すぐに知らせてもらう。
「何度も階段を往復させて悪いな」
カタ。
「助かってる。ありがとう」
戦骨は胸を張るように背筋を伸ばすと、一階へ下りていった。
骨だから疲れない。
そう言って済ませることもできる。
でも、俺の実験に付き合ってくれていることは変わらない。
手伝ってもらったなら、礼を言う。
それくらいは普通だ。
二度目は、俺と転骨が一緒に移動した。
「一階の戦骨の近くまで頼む。今度はお前も一緒にな」
カタ。
転骨が俺の袖をつかむ。
視界がぶれた。
足裏の感触が一瞬だけ消える。
次の瞬間には、一階の床に立っていた。
今度は浮いていない。
隣には転骨もいる。
少し離れた場所で、戦骨がこちらを見ていた。
「成功だな」
カタカタ。
転骨が得意げに胸を張る。
戦骨も、なぜか一緒になって胸を張った。
「戦骨もありがとな。転移先を見ててくれたから安心して試せた」
カタ。
戦骨が嬉しそうに骨を鳴らした。
その後は、軽いリネンの袋や空の物品箱でも試した。
着地点にずれがないか。
荷物が傾かないか。
転骨が一緒に移動できるか。
一つずつ確認する。
できることは増えている。
でも、利用者さん本人を飛ばすつもりはなかった。
転移した瞬間に驚いて、姿勢を崩すかもしれない。
急に場所が変われば、混乱する人もいる。
できることと、現場で使っていいことは違う。
「今のところは、俺と骨たち。それと軽い物までだな」
カタ。
「便利だからって、何にでも使うのはなし」
カタ。
「俺を片道だけ飛ばすのもなし」
カタカタ。
そこは強めに言っておいた。
◇
「転骨、一階の倉庫まで頼む」
カタ。
転骨が俺の袖を軽くつかむ。
視界が一瞬だけぶれる。
足裏に床。
今度はちゃんと床だった。
一階の倉庫前。
隣には転骨もいる。
俺は軽く足踏みして、床の感触を確かめた。
「よし。今のは合格」
転骨が得意げに胸を張る。
倉庫の扉を開け、足りなくなっていたペーパータオルの箱を確認する。
こういう時、転骨のショートワープは本当に助かる。
階段を下りる時間。
戻る時間。
物品を取りに行く手間。
夜勤中の数分は大きい。
その数分で、別のコールに間に合うこともある。
転倒する前に声を掛けられることもある。
だからこそ、使い方を間違えないようにしたい。
便利なものほど、調子に乗ると事故になる。
「よし。これを持って戻るぞ」
カタ。
転骨がペーパータオルの箱へ手を添える。
俺はその横で、小さく息を吐いた。
夜勤はまだ終わらない。
コールも鳴る。
記録も残っている。
腰も痛い。
それでも、転骨ができることは少しずつ増えている。
頬の奥に残った薬。
目では見えない、一階の床。
今まで階段を使って往復していた距離。
最初は地味だと思っていたアーツが、少しずつ仕事の形を変えている。
「……俺、こいつらが来てから楽になったけど、なんだかんだ楽しんでるのかもな」
口に出してから、少しだけ変な気分になった。
転骨が、カタ、と首を傾げる。
「褒めてる。たぶん」
転骨は納得したように、もう一度胸を張った。