銀架城。
そこは白一色だ。
静まり返った回廊に、不均一な、そして粘り気のある駆動音が這い寄る。
ず。
ず。
床から数十センチメートル。浮遊する赤黒い太縄の塊が、そこにある冷たい空気を削り取っていく。その椅子の中心に収まるのは、身長百四十六センチメートルの肉塊。
ペペ・ワキャブラーダ。
丸々と肥大した浅黒い肉体は、純白の制服を内側から引き千切らんばかりに膨れている。毛髪の一本すら存在しない禿頭。その中央を乱暴に占拠する、黒いサングラス。サングラスの下から胸元へかけて、波打つように白い髭が垂れ下がっていた。全く手入れをされていないその髭の隙間、あるいはサングラスの脇からは、縮れた鼻毛が突き出ている。衣服の隙間から覗く黒い毛が、彼の存在を生々しく仕立て上げていた。
そして、その下半身にはズボンがない。
オムツとも、ふんどしともつかない、不格好極まりない白い布切れが一枚きり。そこから剥き出しになった浅黒い太ももが、ロープの塊の側面にだらしなく乗せられ、震える。
短い両腕が抱くのは、一本の杖『ベシャヌル』。先端に鎮座する巨大な目玉の、その瞳孔の奥で、滅却十字がぎょろぎょろと脈動していた。
「おやおや、おやおやぁ……」
サングラスの奥の視線が、回廊の先にある質量を捉える。
ジェラルド・ヴァルキリー。
黄金の髪をなびかせ、真紅の外套を羽織った巨躯。彼は窓の外、氷結した街並みをただ黙って見下ろしている。
ず。
ず。
ペペを乗せたロープの塊が、ジェラルドの背後へと滑り込んでいく。ジェラルドは振り返らない。黄金の髪が、ペペの放つ不快な霊圧を拒絶するように、わずかに逆立っただけだ。
「偉大なるジェラルド」
ペペはロープの上で、短い脚を組み替えた。パチ、と皮膚が擦れる音が、静寂に冷たく突き刺さる。
「そんなに険しい顔をして、凍える街を眺めていては……愛が逃げてしまうよぉ?」
ジェラルドの背中は、微動だにしない。ただ、回廊の温度が劇的に低下した。ジェラルドの纏う霊圧の密度が、静かに、しかし暴力的に膨れ上がっていく。
「失せろ、ペペ」
地鳴りのような声。
「陛下の御前を汚すな。貴様の如き悍ましい肉塊を斬る刃など、我が希望の剣には無い」
「ケケケッ……」
ペペは喉を鳴らした。サングラスが、ジェラルドの横顔をなめ回すように動く。
ず、とロープが前進する。ペペはジェラルドの真横、その巨大な腕のすぐ傍まで自らの浮遊椅子を寄せた。ベシャヌルの巨大な目玉が、じぃ、とジェラルドの顎のラインを見つめる。瞳孔の中の滅却十字が、細かく回転を始めた。
「手厳しいねぇ。本当に、君はいつも手厳しい。だがね、ジェラルド。そうやって私を拒絶するその言葉の端々にも、私は感じてしまうのだよ。君の中にある、激しい『熱』をねぇ」
ペペはふんどしめいた白い布の端を、短い指先で不躾につまんだ。浅黒く、油じんだ太ももが不必要に露出する。
「この白。陛下の御色。私はね、すべてを捧げているのだよ。ズボンなどという、肉体を隠し、心を偽るための布など、私には必要ない。ありのままの私。ありのままの愛。それを君に差し出しているのに……君はまだ、その立派な甲冑の中に引き籠もるつもりかい?」
ジェラルドの視線が、初めて動いた。ゆっくりと、首だけがペペの方を向く。その黄金の瞳には、軽蔑すら浮かんでいなかった。
ミ…
ジェラルドの右手が、腰に帯びた大剣の柄に触れた。ただ、触れただけだった。
パキィン!!!
凄まじい高音と共に、回廊の窓ガラスが一斉に、粉々に吹き飛んだ。外からの暴力的な寒風が、一瞬にして回廊を吹き抜ける。しかし、その寒風さえも、ジェラルドの身体から放射される黄金の霊圧によって、彼の周囲だけは完全に遮断されていた。床に、細かな亀裂が走り出す。
「……私の誇りを、その汚れた口で二度と跨ぐな」
ジェラルドの声は、先ほどよりもさらに低く、そして冷徹だった。
だが、その圧倒的な威圧のただ中にあっても、ペペのサングラスは微塵も揺らがなかった。むしろ、彼はその黄金の霊圧の風を心地よさそうに浴び、白い髭を不快に揺らしながら、さらに笑みを深くした。
「ケケケッ! 素晴らしい! 実に素晴らしいよ、ジェラルド! その怒り、その傲慢、それらすべてが君の『生』の証明だ。空間を歪ませるほど強固な君の心が、もしも、私の愛で満たされたとしたら……一体、どんな美しい景色が見られるのだろうねぇ?」
ペペはベシャヌルを、ジェラルドの胸元に向けて突き出した。目玉が、ジェラルドの心臓の位置を正確に捉える。そして、ペペは下半身の白い布をこれ見よがしに手で叩いた。パァンと乾いた音が回廊に響く。
「ねえ、ジェラルド。そんなに肩を怒らせていないでさ。ちょっとこれから、私と一緒に用を足しに行かないかい? 連れション、というやつだよぉ。男同士、並んで排泄の痛快さを分かち合う……それもまた、一つの濃厚な愛の形だとは思わないかい? んん?」
ジェラルドの指が、剣の柄をさらに深く握り込む。ゴ、オ、オ、と、音を立てて回廊全体の空間が歪み始めた。壁の石材が、その霊圧の質量に耐えかねて、粉となって崩れ落ちていく。
ジェラルドは、叫ばない。ただ、その存在そのものが物理的な圧力となって押し寄せていた。ペペの座るロープの塊が、その圧力によって、みしみしと音を立てて数センチメートル後退する。
「おやおや……これ以上は、私のロープが怒りで燃え尽きてしまいそうだ」
ペペはわざとらしく両手を広げ、肩をすくめてみせた。
「今日のところは、このくらいにしておこう。君の愛の熱量で、私の大切な髭が焦げてしまっては堪らないからねぇ」
ず、と、ロープの塊が、滑るように反転する。
「また会おう、ジェラルド。君がその甲冑を脱ぎ捨て、私の愛に溺れるその日まで……私はずっと、君を見つめているよ」
ペペは振り返ることなく、ず、ず、と、あの不快な駆動音を響かせながら、回廊の奥へと消えていった。
残されたのは、窓ガラスを失い、吹き抜ける極寒の風だけが支配する、半壊した回廊。
ジェラルドは、剣の柄からゆっくりと手を離した。周囲の黄金の霊圧が、霧散していく。彼は再び、窓の外の街並みへと視線を戻した。その横顔は、先ほどと変わらず厳格だった。
だが。
ガ、と音がした。
ジェラルドが視線を落とすと、彼が先ほどまで掴んでいた大剣の柄頭に、べっとりと、ひどく油ぎった指紋が遺されていた。
ジェラルドは無言で真紅の外套の端を引き千切ると、柄頭を、へこむほどの力で執拗に拭き上げた。布が摩擦で焦げる臭いが立ち込める。彼は汚れた布を床に捨てると、一瞥もくれずに黄金の霊圧で塵へと変えた。
一方、回廊のさらに奥。ず、ず、と進むペペの前に、長い黒髪の影が立ち塞がっていた。
ニャンゾル・ワイゾル。
「おやおやぁ、そこにいるのはニャンゾルじゃないかぁ……」
ペペはロープを止め、ふんどしの端を指先でくいと持ち上げた。
「ジェラルドは照れ屋でね。どうだい、君なら私の愛が解るだろう? これから一緒に、連れションにでも行かないかい? んん?」
ニャンゾルは二枚の舌をせわしなく覗かせ、うへ、と笑った。
「つれしょん? いかないよぉ。おいのまわりはねぇ、ぜんぶ曲がっちゃうからぁ。おしっこも曲がってペペの顔に当たっちゃうよぉ」
「…………」
ペペのサングラスの奥が、初めて完全に静止した。