魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
『監視一号より統制。対象宅、消灯を確認。周辺、異常なし』
『監視二号、異常なし』
『三号、異常なし。……ああ、また流れ星だ。この世界、星が多すぎる』
第61管理世界。旧い名を〈星見〉というこの世界の夜空は、監視任務には少々、綺麗すぎた。
張り込みは、四夜目に入っていた。
根拠は、エイミィ・リミエッタの着任初日の仕事だった。被害者十四名の共通項——高ランク、退役または非番、独居、深夜——から次の標的候補を確率順に並べた一覧表。その最上位が、この家だった。観測都市の外れ、隠居した老教導官。退役時ランク、AA。
リョウは邸の屋根の上で、夜露に湿った瓦に張り付いていた。
『トリガーより各機。定時報告。俺の眼下、異常なし。ヴァレル1、そっちはどうだ』
『高度六〇〇〇、射線良好です。……星、綺麗ですね』
『ヴァレル2は』
『中距離、即応位置。……あの、リョウさん。仮に出た場合ですが、交戦規定は』
『人型でも、まず俺が視る。三秒くれ。クリアを出すまで撃つな。——出なけりゃそれが一番だ』
配置は教本通りだった。至近に観測手、中距離に迎撃手、高高度に主砲。ゼロイチの「本気」は、いつだってこの形をしている。
異変は、午前二時五十八分に来た。
警報は、鳴らなかった。
邸の周囲に張った警戒線が、鳴る前に——消えたのだ。破られたのではない。術式ごと、記述を消しゴムで撫でたように、静かに存在をやめた。
「——っ、統制、警戒線消失! 全機、起きろ!」
リョウは屋根の天窓に取り付き、寝室を見下ろした。
いた。
月明かりの寝室、ベッドの傍ら。全高二メートルの、甲冑の形をした影。監視網のどこも横切らずに、そいつは部屋の影から、生えていた。
三秒。ミニットマンの索敵桁が走る。生体反応、なし。魔力反応——計測不能。熱もなく、呼吸もなく、ただ輪郭だけがそこにある。
『クリア、あれは「物」だ! ただし屋内、保護対象至近——射撃禁止! 俺が出る!』
天窓を蹴り破って、リョウは寝室に降った。着地と同時、義手に雷をまとわせ、影の肩口へ最短の一撃——
突きこんだ雷が、消えた。
痛打の手応えも、弾かれた反動もない。影の表面が水面のように一度だけ波打って、リョウの雷を、飲んだ。
(——飲んだ、だと?)
影は、リョウを見なかった。顔のない頭部は微動もせず、その右手は既に、眠る老婦人の胸の中へ、手首まで沈んでいた。
胸から、光が立ちのぼっていた。
淡く発光する紙片の群れが、頁を繰るような衣擦れの音を立てて、老婦人の胸から影の掌へと吸い上げられていく。紙片の表面には、文字のようなものが流れていた。リョウの知らない、古い、几帳面な文字が。
「させる、かよ……!」
リョウは考えるのをやめ、ベッドごと老婦人を抱えて、窓へ跳んだ。
ガラスを背中で割って、夜気の中へ。腕の中の老婦人と影の掌の間で、光の糸が一本、細く伸びて——切れない。距離をとってなお、紙片は糸を伝って、ぽつ、ぽつと吸われ続けている。
『トリガー、保護対象確保、庭へ出た! だが繋がってやがる——吸引が切れねえ!』
『ヴァレル2、迎撃に入ります!』
金色の閃光が夜を裂いた。壁を——影は、壁を通らなかった。壁の影から染み出るように庭へ現れ、糸を手繰りながら、歩いてくる。フェイトの雷刃が横薙ぎに走る。
手応えは、深い水を斬ったようだった、と後に彼女は報告している。刃は確かに影を通過し、影は分かたれず、そして刃の魔力光が、触れた断面から一枚、薄くなった。
『……っ、斬った側が、削れる……!?』
『バインド!』
金色の光帯が影の四肢に絡みつく。影は抗わなかった。抗わずに——飲み始めた。拘束の光帯が、根本から急速に細っていく。フェイトの顔から血の気が引いた。術式線を通じて、自分の魔力が、向こうへ流れ出している。
『切ります——飲まれる! 線ごと、こっちが……!』
バインドを自切して、フェイトが後方へ跳ぶ。よろけた。数秒の接続で、持っていかれた量が分かる、そういうよろけ方だった。
『ヴァレル1より各機。射線、確保しています』
高度六〇〇〇から、声が降ってきた。いつも通りの、落ち着いた声。
『クリアは、出ています。——撃ちます』
夜空に桜が咲いた。収束された精密射が三連、寸分の狂いなく影の胸部を撃ち抜き——撃ち抜いたはずの光が、着弾点で渦を巻いて、影の中へ吸い込まれた。
影の輪郭が、一段、濃くなった。
ぼやけていた甲冑の縁が、飲んだぶんだけ、くっきりと世界に描き直されていく。
『撃ち方止め! ヴァレル1、止め! ——太らせてるだけだ!』
三秒の、沈黙。
『……了解』
声は、平坦だった。リョウは腕の中の老婦人と、迫る影と、上空の桜色を等分に視界へ入れたまま、脳を回した。
(魔力は喰われる。刃も喰われる。拘束は逆に吸い口になる。物理は——実体がねえ。詰みか? いや——)
さっきの着弾。吸い込む渦が巻き終わるまで、影の足は、半歩だけ止まっていた。
(——飲み込むのに、時間が要る)
『各機、聞け! あいつは喰う、だが喰い切るまで一瞬止まる! ヴァレル1、当てるな、喰わせろ! 進路上に散らせ、飯で足止めだ! ヴァレル2は俺の退路の影を潰せ、照明弾でいい、影から影へ渡ってきやがる!』
『りょ、了解!』
『——了解です!』
夜が、忙しくなった。
桜色の弾幕が、狙いを外して、外して、外し続けながら影の進路にばら撒かれる。影は律儀に、進路上のそれを一つずつ飲んだ。飲むたびに半歩、止まる。金色の照明術が庭の影という影を焼き払い、渡り口を消していく。その間隙を、リョウは老婦人を抱えて走った。走って、走って——胸と掌を繋ぐ光の糸が、限界まで張り詰めて。
ふ、と。
糸が、影の側から、解けた。
影は掌を閉じ、立ち止まった。取り込みかけの紙片が数枚、宙で行き場を失い、老婦人の胸へ、力なく舞い戻っていく。
顔のない頭部が、初めて、動いた。
リョウを見た。次にフェイトを見た。それから、高度六〇〇〇の桜色を——
見上げたまま、動かなくなった。
一秒。二秒。三秒。計ったように長いその凝視の意味を、誰も測れなかった。やがて影は視線を——視線と呼べるのなら——外し、自分自身の足元の影の中へ、水に沈むように、消えた。
照明術に焼かれた庭に、渡るべき影は残っていなかったはずだった。それでも、消えた。
リョウは腕の時計を見た。
現地時間、午前三時十一分。
(…………三時、十一分)
どこかで聞いた数字だった。どこで聞いたかを、体のほうが先に思い出して、うなじが冷えた。
老婦人は、生きていた。
昏睡。ただし、コアは残っていた。欠けて、断面を開いたままではあったが——十四人の被害者の中で、いや、十五人目にして初めて、「途中」の状態が保全された。医療班は夜明け前の回収艇の中で、既に興奮を隠していなかった。切り口が生きているなら、読める情報の桁が違う、と。
回収艇の隅で、なのはは窓の外を見ていた。
影が沈んだ庭の一点を、まだ、見ている。膝の上の右手は、とうに射撃を終えたのに、人差し指だけが引き金の形のまま、解けていなかった。
「……ヴァレル1。手ぇ、休め」
「——あ」
指が、解けた。なのはは自分の手を見下ろして、少し困ったように笑った。いつもの笑い方より、二割ほど、燃費の悪い笑い方だった。
「……次は、削れる撃ち方を考えます」
「おう。宿題な。……俺も考える」
それきり、なのはは何も言わなかった。リョウも、何も聞かなかった。聞かない代わりに、覚えておくことにした。あの三秒の平坦な「了解」と、解け忘れた引き金の指を。
(……で、だ)
揺れる回収艇の天井を見上げて、リョウは名鑑を開いた。頭の中の、あのページを。
甲冑の形。魔力を喰う守り。コアの蒐集。夜。
(似てる、なんてもんじゃねえ。あれは——守護騎士と、防御プログラムを、混ぜて煮詰めた影だ)
だが、騎士は死んだ。五年前、全員。主と共に、あの夜に。それは記録にも、名鑑にも、リョウ自身の記憶にも刻まれた、動かない事実で。
(死んだ騎士の、型だけが歩いてる。……誰の意志で?)
答えの代わりに、腕の時計の数字が、まだ網膜に貼り付いていた。
午前三時十一分。——五年前、世界が終わり始めた、あの時刻。
ゼルベロスの分析室は、その日、不夜城になった。
「仮識別名『シェイド』として登録します。特性、接触した魔力構成の吸収。実体、確認できず。既知のいかなる位相にも一致せず——フェンリルの虚数潜行とも、別物です」
分析班長の報告に、オーバ老が唸り、そして端末の前のエイミィが、手を挙げた。着任二日目にして、彼女の周りだけ、モニターの数が倍あった。
「保全されたコアの断面から、面白いものが出ました。呪詛痕の波形に——捩れの向きが、あります」
「向き?」
「持ち出された魔力が、どっちへ流れたか、です。切り口が生きていたから読めました。……この捩れ、私、五年間毎朝見てるんです。クロノのコアのは、行き止まりの捩れ。でもこれは、続いてる。糸の切れ端です。だから——手繰れます」
エイミィの指が走り、投影図の上に、細い、細いベクトルが一本、引かれた。第61管理世界の地図を、北へ。過去二件の現場残滓を再計算した補助線が二本、重なって——三本の線は、観測都市の遥か北、高地の一点で、交差した。
「旧・第七天文台。二十年前に放棄された、星見の廃観測所です」
沈黙の中で、班長が付記を読み上げた。
「なお、残滓の微細構造について一点。紙片状発光体の表面に観測された文字様パターンは——古代ベルカ式の術式文字と、構造が一致します」
古代ベルカ式。
リョウは、その一語を、名鑑の付箋に挟んだ。挟んで、まだ、何も言わなかった。
夜明け前、三つの光は高地にいた。
異変は、計器が先に教えた。
『環境魔力、減衰——ゼロ。……ゼロ?』
地図の上、廃天文台を中心とした半径二キロが、綺麗な円形に、白く抜けていた。魔力の索敵図に空いた、白い穴。世界のどこにでも満ちているはずの環境魔力が、その円の内側にだけ、一滴も、なかった。
円に踏み込んだ瞬間、飛行が重くなった。空気が薄い、と感じるのは魔導師の錯覚で、薄いのは空気ではなく、世界のほうだった。
そして——手の中の051改の、待機音が、止まった。
「……相棒?」
返事がない。故障ではない。演算は生きている。生きたまま、鳴くのをやめている。隣でフェイトが、同じ顔でレギンレイヴⅡを見下ろしていた。二機とも、息を、潜めていた。
崩れかけた観測ドームは、天蓋の半分を失って、星空へ開いていた。
三人は、砕けた天窓の縁から、中を覗き込んだ。
大望遠鏡の残骸。降り積もった二十年分の埃と、瓦礫。その中心、鏡筒の残骸が屋根の代わりに差しかかる、ちょうど星の見える一角に——
少女が、眠っていた。
銀色の、短い髪。年の頃は十かそこら。どこの世界の様式とも知れない、白い簡素な服。二十年分の埃の海の中で、その子の周りにだけ、埃が、一粒も積もっていなかった。
胸が、上下している。
呼吸だ。生きている。索敵桁が律儀に告げる。生体反応あり、人間、単一。体温、脈拍、正常値。ただの、眠っている子供。魔力の白い穴のど真ん中で、デバイスが二機とも黙り込む、ただの——
なのはが、一歩、踏み出していた。
命令の前だった。本人も気づいていない足取りで、瓦礫を踏まずに、吸い寄せられるように、一歩。
その足音とも呼べない気配に。
少女の睫毛が、震えて。
目が、開いた。
——赤。
夜明け前の薄闇の中でも見間違えようのない、深い、静かな赤が、二つ。生まれたばかりの目が、ゆっくりと瞬いて、なのはを映し、フェイトを映し、最後にリョウを映した。恐れも、警戒も、何もない。世界の見方をまだ一つも知らない目だった。
リョウは、動けなかった。
(銀の髪。赤い、目)
名鑑が、勝手にめくれていく。あのページで、止まる。
(——闇の書の、意思)
ありえない。あれは大人の女性の姿で、そもそも人ですらなく、何より、五年前にすべてが終わったはずで——目の前の子供は、生体反応のある、体温のある、埃の積もらない、ただの——
喉が、渇いていた。三秒は、とうに過ぎていた。それでもリョウの判定基準は、五ヶ月と一年をかけて叩き込んだ彼自身の教義は、一つしか答えを出さなかった。生きているものは、守る。
「——クリア」
声が、少しだけ掠れた。
「保護対象だ。……子供が、一人」
(頼むから)
白い穴の底で、赤い目が、不思議そうにこちらを見ている。
(——俺の勘違いで、あってくれ)