舗装道路はボロボロだ。アスファルトが剥げ落ちて土が顔を出している場所もあれば、大小の穴が開いて水たまりになっている場所もある。俺の足裏アクチュエータが衝撃吸収に忙しい。
「道、ひでぇな」
龍我が毒づく。
「東都なら一週間で修復されるレベルだぞ。ここ放置かよ」
「北都の政府にはインフラ整備の予算がないんだろう。スカイウォールの惨劇以降、三都の経済格差は広がる一方だって聞いたことがある」
戦兎が静かに答える。その声に、いつもの軽さはない。
建物も同じだ。ガラスが割れたまま板で塞がれている店铺。外壁が剥離して鉄骨が剥き出しになったマンション。どの建物も長くメンテナンスされていない印象を受ける。
そして匂い。
俺の嗅覚センサーが拾ったのは、石炭と古い木材が燃える匂いだった。暖房だろう。東都なら電気やガスで済むところを、ここでは薪やら何やらを燃やして凌いでいる。
(エネルギーインフラも違う。ここは東都よりワンランク、いやツーランク落ちる生活環境だ)
「おい、あれ見ろ」
龍我が顎でしゃくる。
路地の隅に、数人の子どもたちがいた。
古いコートを何枚も重ね着し、色あせた毛糸の帽子を目深に被っている。彼らは廃材の鉄パイプを棒にして、雪の上で何かの遊びをしていた。
東都なら、この時間は学校にいるはずの年頃だ。
「学校…行ってねぇのかな」
龍我が呟く。その声が、妙に沈んでいる。
彼もまた、満足に教育を受けられない人間の気持ちを知っているのかもしれない。冤罪で捕まり、社会の底辺を這いずり回った男だから。
「聞いてみるか」
俺が提案した。
「ああ。京香さんって人、どこにいるか知ってるかもしれない」
戦兎が頷く。
龍我が子どもたちの方へ歩み寄る。無骨な大男が近づいてきたのに気づき、子どもたちがビクリと身を固くした。警戒心が強い。見知らぬ大人は、彼らにとって敵かもしれない存在だ。
「お、おいら何もしてねぇぞ!」
リーダー格の少年が、鉄パイプを構えながら声を上げた。
「違う違う。俺は悪さしに来たんじゃねぇ」
龍我が慌てて両手を挙げる。その仕草が、意外なほど不器用で、でも誠実で。子どもたちの緊張が少しだけ解けた。
「なぁ、あんたたち。葛城京香って人知らねぇか? 北都に住んでるはずなんだが」
「京香…先生?」
少年が首を傾げる。
「先生?」
「ああ。お前ら、学校行ってねぇの?」
龍我の問いに、少年はバツが悪そうに視線を逸らした。
「行けるわけねぇだろ。親父も母さんも仕事なくてさ。学費なんて出せるわけねぇよ」
その言葉に、龍我の眉が寄る。拳が握りしめられ、また緩む。
「京香先生はな、学校へ行けねぇ子どもたちに勉強を教えてくれてるんだよ」
少年がぽつりと言った。
「この近くの古い校舎を使ってさ。毎日みたいに来てるぜ」
「学校へ行けねぇ子に、勉強を…」
龍我が呟く。その瞳の奥で、何かが揺れている。怒りか、それとも共感か。
「京香先生のとこ、教えてくれねぇか」
戦兎が一歩前に出る。彼の声は穏やかだ。
「俺たち、京香さんに会いたいんだ」
少年は戦兎の顔をじっと見た。そして、フードの下の見知らぬ男を値踏みするように。
「…あっちだ。三つ目の角を曲がって、一番奥の古い校舎」
少年が指差す方角には、雪を被った古い煉瓦造りの建物が見えた。
「サンキュ」
龍我が小さく手を挙げる。
「お前らも、気をつけろよ」
少年は返事の代わりに、また鉄パイプで雪の上に線を引き始めた。
* * *
三つ目の角を曲がる。
建物は、少年が言った通り古い校舎だった。
かつては立派な学校だったのだろう。煉瓦造りの壁面には蔦が絡みつき、窓ガラスのいくつかは割れて木板が打たれている。入口の扉は半開きで、風が吹き込むたびにギイィと錆びた音を立てた。
校庭には雪が積もっている。ブランコが風に揺れ、軋む音が寂しげに響く。
「ここか」
戦兎が校舎を見上げる。
「京香さんは中にいるはずだ」
龍我が扉に手をかける。
「待て」
俺は二人を制止した。
「いきなり入るのは得策じゃない。俺たちが何者かもわからないのに、警戒されるぞ」
「どうすんだ?」
「まずは俺がセンサーで中の様子を探る。人間の数、位置、健康状態。それから入るべきだ」
俺は校舎の壁に手を当てた。振動センサーと熱源探知を同時に起動する。
(反応あり。二階の教室…三つ。いや四つか。子供の反応が複数。そして大人の反応が一人)
「子供たちがいる。そして大人が一人。京香さんだろう」
「よし、行くぞ」
戦兎が頷く。
俺たちは雪の積もる校庭を横切り、古い校舎の入口へと歩みを進めた。
風が吹き抜け、廃材を燃やす匂いと雪の冷たさが混じり合う。
北都の空気は、東都とは違う痛みを教えてくれる。
俺たちが探す答えは、この古い校舎の中で待っているはずだ。
赤いスカーフが、冷たい風に強く吹かれた。
古い校舎の扉を開けると冷たい空気の奥から、かすかな声が聞こえてきた。
「では、この文を読んでみましょう」
女性の声だ。落ち着いた、柔らかな声。教えることに慣れたゆっくりとした発音。
俺たちは足音を殺して廊下を進んだ。古い木の床がギシギシ鳴るのを、俺の足裏センサーが拾うたびに俺は慎重に体重を分散させた。
(壊すなよ俺。ここは学校だ。今も勉強してる子がいる)
二階へ上がる階段の手前で、戦兎が手を挙げて止まった。
教室の扉は半分開いている。中を覗くと十人ほどの子どもたちが机に向かっていた。机も椅子も年代物だ。ところどころ脚が折れて、煉瓦で支えられている。
そして教壇に立つ女性が一人。
彼女は白髪交じりの黒髪を後ろで束ね、質素なカーディガンを羽織っていた。背筋はピンと伸びている。年齢は六十前後だろうか。顔のしわは深いが、目は澄んでいた。
葛城京香。
博士の母親だ。
俺の光学センサーがその姿を捉えた瞬間、動力炉の回転が一瞬だけ乱れた。
(博士に似てる。目の形が。それと、姿勢。教壇に立つ姿が博士がホワイトボードの前に立つ姿と重なる)
「ビリー」
戦兎が小さく呼びかけた。
「どうする」
「どうするって…」
「今、入るわけにはいかないだろ」
戦兎の声が、いつもの軽さを失っている。天才物理学者の仮面が、この場所では剥がれかけていた。
「授業が終わるまで待とう」
俺は頷いた。教室の中では、子どもたちが教科書を音読している。たどたどしい声だ。でも真剣だ。
(この子たち、学校に行けないって言ってたな。ここで勉強してるんだ)
龍我も黙って壁に背を預けている。彼は手配中の身だ。京香に見つかれば通報されるかもしれない。でも今は逃げるわけにはいかない。それだけの理由がある。
* * *
三十分ほど経っただろうか。
「今日はここまでにしましょう」
京香の声がして、教室の中がざわめき始めた。
「先生、さようなら」
「さようなら。気をつけて帰るのよ」
子どもたちが次々と教室を出ていく。俺たちは壁の影に隠れて彼らを見送った。古いコートに毛糸の帽子。みんな、薄着だ。
(北都の冬は寒い。でもこの子たちには厚着する余裕もないんだろうな)
最後の一人が廊下を走り去った後、教室の中は静かになった。
「…入るぞ」
戦兎が小さく言って、扉を開けた。
教室の中は、外と同じくらい冷えていた。窓ガラスが一枚割れていて、そこから冷気が入り込んでいる。
京香は教壇の後ろで、教科書を整理していた。こちらに背を向けている。
「誰?」
彼女は振り返らずに問いかけた。声は落ち着いている。でも、どこか警戒の色がある。
「すみません、突然お邪魔して」
戦兎が一歩前に出る。
京香が振り返った。その目が、戦兎の顔を捉える。
瞬間。
彼女の手が止まった。
持っていた教科書が指先から滑り落ちた。
パサリ。
乾いた音が、静かな教室に響く。
京香は動かなかった。ただ、戦兎の顔を見つめていた。その瞳に浮かんだのは、困惑か驚愕か、それとも。
「…あなた」
声が、震えている。
「誰?」
戦兎が口を開こうとして、止まった。
(言えない。この人に『佐藤太郎です』とも『葛城巧です』とも言えない。桐生戦兎だと名乗るには、この人の息子と顔が同じすぎる)
俺は隣で戦兎の様子を見ていた。彼の指先が、微かに震えている。拳を握りしめても震えは収まらない。
(戦兎、無理に話さなくていい。俺が代わりに——)
「俺は…」
戦兎が、絞り出すように言った。
「葛城巧さんについて、お聞きしたいことがあります」
その名前を聞いた瞬間。
京香の表情が、凍りついた。
さっきまでの困惑が一瞬で別のものに変わる。悲しみと、怒りとそれから。拒絶。
「…帰ってください」
京香は、床に落ちた教科書を拾い上げた。手がまだ震えている。
「帰ってください。ここは、あなたたちが来る場所じゃない」
「お願いします。俺たちは——」
「帰れと言っています」
京香の声が、鋭くなった。その瞳に涙はない。でも、その奥に深い深い喪失があるのが、俺にはわかった。
(息子を失った母親。その傷は、俺たちが踏み込んでいいものじゃない。でも——)
「京香さん」
俺は、口を開いた。戦兎が止めるより先に俺の声が出ていた。
京香の視線が、俺に向く。機械の顔。赤い識別灯。人型マスク。
「あなたは」
「俺は…」
言いかけて、詰まった。
(博士の親友だったなんて言えるわけがない。だって俺はロボットだ。博士が作った、道具だ。友達なんて言える立場じゃない)
「俺は、ビリーと言います」
俺は、それだけを言った。
京香は、俺を見つめていた。その目が一瞬だけ揺れた気がした。でも、すぐに元に戻る。
「帰ってください」
彼女は、三度言った。
「ここには、もう何もありません」
そして、教科書を抱えたまま教室の奥の扉へと歩き出した。
その後ろ姿を見送ることしか、俺たちにはできなかった。
戦兎は、何も言わなかった。
龍我も、何も言わなかった。
俺も。
古い校舎に、冷たい風が吹き抜けた。
赤いスカーフが、風に揺れた。