京香の背中が教室の奥の扉に消えた。
残されたのは、冷たい空気と、床に落ちた教科書の跡と、三人の黙り込んだ男たちだけだった。
「…帰ろう」
戦兎が静かに言った。その声には感情がない。無じゃなくて、有るものを意識的にゼロにしている。そんな響きだ。
俺は何も言えなかった。
親友の母親だ。会いたかった。でも会って何を言う? 「お宅の息子は俺の親友でした」? ロボットが? 道具が? そんな言葉、息子を失った母親に向けられるわけがない。
(でも…帰りたくない。まだ何も聞いてない。博士のことを、佐藤太郎のことを、何も)
俺の動力炉が、不規則なリズムを刻んでいた。リミッターの警告灯は点いていない。これは自爆の予兆じゃない。ただの、無力感だ。
龍我も黙っている。彼は壁に背を預けたまま、何かを噛み締めるように唇を結んでいる。京香に通報されるリスクがあるのに、彼はまだここにいた。
三人は無言で階段を降りた。
古い木の床がギシギシと鳴る。その音だけが校舎に響いていた。
出口の扉に手をかけた、その時だ。
――カッ、カッ、カッ。
蹄の音だ。
雪の上を、何かが高速で駆けている。一つじゃない。いや、一つだ。だが足音が重い。大型の何かが、全力で地面を叩いている。
「え…?」
戦兎が扉を半開きにしたまま止まった。
次の瞬間。
「キャアアアッ!」
子どもの悲鳴が、外から響き渡った。
俺のセンサーが瞬時に起動する。音源解析、南東方向、距離約六十メートル。移動速度、時速四十キロ以上。加速中。
「子どもだ!」
龍我が叫ぶ。
戦兎が扉を叩き開けた。
校庭の雪の上に、さっきまで授業を受けていた子どもたちがいた。数人が逃げ惑い、転び、泣き叫んでいる。
その向こう。
白と黒の縞模様。
雪煙を巻き上げながら、馬を連想させる長い顔の怪物が突進してきていた。額から一本の角が天を突くように伸びている。肩と太腿の装甲が異様に張り出し、蹄のような足先が凍った土を砕きながら疾走する。
(スマッシュ…! 北都でなんで…!)
だが俺の思考は、怪物の名前より先に別のものを弾き出した。
(子どもの位置。四人。校庭の南側に二人、東側に一人、校舎入口付近に一人。逃げ遅れてる。次に火元。暖房小屋が——)
ズシャアアッ!!
一角獣のスマッシュが、校庭の隅にあった小さな木造の小屋に突っ込んだ。暖房用のストーブを置いていた小屋だ。壁が紙みたいに弾け飛び、中から転がり出たストーブが雪の上に倒れる。
ガシャン!
ストーブから火が漏れた。薪の燃え殻が散乱し、雪の上に落ちた木材に着火する。白い煙と橙色の炎が、冷たい空気の中で一気に広がり始めた。
(火元確保。暖房小屋の崩壊。火勢拡大中。風向きは北。校舎へ燃え移るまで十分以内か。いや五分以内だ)
「避難させろ! 子どもを校舎へ!」
俺は叫んだ。
迷いはなかった。京香に拒絶されたこと、戦兎が言葉を失っていたこと、全部がこの瞬間だけは棚上げだ。
目の前で子どもが逃げ惑っている。火が広がっている。あの角の怪物が、まだ突進を続けている。
やることは一つだ。
「龍我! 避難誘導を頼む! 子どもを校舎の中へ!」
「おう!」
龍我が校庭へ飛び出した。筋肉の塊みたいな男が雪煙の中を走り、転んだ子どもの腕を掴んで引き起こす。
「立て! 立てよ、ほら! 校舎に入るんだ!」
龍我の声が響く。粗暴だが、子どもの手を握る強さは控えめだ。この男の不器用な優しさが、今は頼もしい。
「京香さん!」
戦兎が教室の奥に向かって叫んだ。
「子どもたちの人数を確認してください! 全員避難させないと!」
京香が奥の扉から飛び出してきた。さっきまでの拒絶した表情は消えていた。母親の顔だ。教師の顔だ。
「…五人。今日来ていた子は五人です」
京香が素早く校庭の子どもたちを見渡す。
「一人、二人、三人…あと二人! あっちに!」
校庭の南側。まだ二人の子どもが立ち尽くしていた。火と怪物の間に挟まれている。
「ビリー!」
戦兎が叫ぶ。
俺は既に動いていた。
プロトトランスチームガンを二丁構え、校庭の南側へ滑り込む。雪の上をスライド移動しながら、子ども二人の前に立ちはだかる。
「う、うわぁぁ…」
子どもが泣いている。俺の機械の顔を見て、また泣きそうになる。
「怖がらないで。俺は味方だ。後ろに下がって」
俺は振り返らずに言う。目の前の一角獣が、蹄で雪を削りながらこちらを向いている。縞模様の装甲が、赤いスカイウォールの光に照らされて不気味に明滅していた。
一角獣が角を振り上げた。
(来るか)
だが、来なかった。一角獣は額の角を——取り外した。
手に持っている。槍みたいに構えている。
(角が外れるのかよ。ていうか槍になってる)
一角獣が角の槍を構えた瞬間、動きが一瞬止まった。構えるのに重心を固定する。数秒の静止。そこが隙だ。
だが今は攻撃してる場合じゃない。子どもを逃がすのが先だ。
「今だ! 走れ!」
俺は子どもたちの背中を押した。二人がよろめながら校舎の方へ走り出す。龍我と京香が受け止めてくれる。
一角獣が動き出した。角の槍を振りかぶり、子どもたちの背中を狙う。
「させるかよ!」
俺は二丁のガンを連射した。パンパンパンッ! 光弾が一角獣の進路上の雪を爆ぜさせ、視界を奪う。直撃じゃない。だが一角獣の突進角度が逸れた。
「グガァッ!」
一角獣が雪煙の中で方向転換を試みる。だが突進中の急旋回は苦手らしい。蹄が滑り、体勢が崩れる。角の槍が空を切り、雪の地面に突き刺さる。
(突進中の方向転換が下手。角を構える時に一瞬止まる。弱点は二つ。覚えた)
一角獣が角を引き抜き、再び突進体勢に入る。
その時、火が広がっていた。
暖房小屋から出た炎が、校舎の木造部分に燃え移り始めている。煙が濃くなり、パチパチという燃焼音が響く。子どもたちは校舎の中に避難したが、校舎自体が燃え始めている。
(火を消さないと。でもガンじゃ火は消せない。どうする)
俺のボディには消火機能なんてついてない。プロトトランスチームガンは射撃管制用だ。蒸気は噴けるが、あれはむしろ火を強めるかもしれない。
(水がいる。大量の水。どこかに——)
その時、俺の記憶領域がフラッシュした。
『ビリー、これを受け取っておけ』
回想。nascitaの地下基地。出発前夜。美空が俺に小さなボトルを手渡した時のことだ。
『何だこれ』
『消防車ボトル。前回のスマッシュから採取した成分を浄化したやつ。戦兎が言ってたでしょ、予備を持っておけって』
『でもこれ、ビルドドライバーに装填するもんだろ。俺のガンにどうやって——』
『戦兎が改造してくれたの。ビリーのガンにも装填できるように。一応』
『一応って何だよ』
『失敗したら爆発するかもしれないって』
『爆発!?』
『冗談。たぶん』
『たぶんって何だよ!』
(あの時の美空の笑顔が腹立つほど思い出せるな)
俺はボディのサイドポケットから消防車ボトルを取り出した。赤いボトル。中央に消防車のマークが浮かんでいる。
「戦兎!」
俺はボトルを掲げた。
戦兎が振り返る。その目が、ボトルを認識した瞬間、光った。
髪の毛がフワッと跳ねる。
「あれを試すぞ!」
戦兎の声が弾んだ。不安も迷いも、天才物理学者のスイッチが入った瞬間に吹き飛んだ。
「やれるか?」
「美空が言ってた。戦兎が改造してくれたって。一応な!」
「一応は余計だ! やれ!」
俺は右側のプロトトランスチームガンの装填スロットを開いた。ボトルを嵌め込む。
カチッ。
ロック音が響く。
(ここで爆発したら美空の『たぶん』が墓石になるな)
祈るような気持ちで、俺は装填を完了させた。
プシュウウウッ!
ガンの機関部が唸りを上げ、ボトルの成分が展開されていく。銃身の先端が変形し、円錐状の放水ノズルが展開していく。金属のパーツが開き重なり、口径が広がる。
(動いた。爆発してない。美空、『たぶん』は外れたな)
放水ノズルが完全に展開した。左側のガンは通常のまま。
(いいぜ。やろう)
赤いスカーフが、煙と雪の混じる風にヒラリと舞った。
放水ノズルが完全に展開した瞬間、俺は迷わずトリガーを引いた。
ドシュゥゥゥッ!!
高圧水流がノズルから噴き出す。広角設定だ。扇状に広がった水の幕が、燃える廃材を一気に覆い尽くす。
ジュワワワッ!!
炎と水がぶつかり、白い湯気が爆発のように立ち上った。視界が一瞬で真っ白になる。だが俺のセンサーには問題ない。熱源反応が次々と消えていくのが見える。火は落ちている。
(圧力計安定。残水量百分之八十五。広角で一発消費十五%。あと五発分。無駄撃ちはできない)
炎が小さくなり、焦げた木材からジュクジュクと煙が上がる。広角放水は消火用だ。これ以上は水を撒き散らすだけになる。
「龍我! 小屋の陰にまだ子どもがいるぞ!」
京香の声が校舎の方から響く。
俺が振り返ると、暖房小屋の崩れた壁の影に、小さな影がうずくまっていた。逃げ遅れた子どもだ。
「おうよ!」
龍我が雪を蹴って走る。彼の太い腕が子どもの体を器用に抱え上げた。子どもは龍我の胸にしがみつき、顔を埋めている。
「大丈夫だ。俺が連れてくからよ」
龍我の声が、妙に優しい。暴れん坊のくせに子ども扱いだけは上手い。
龍我が子どもを抱えたまま校舎へ走る。京香が入口で受け止め、中へ引き入れた。
(子ども五人確認。全員避難完了。次は火元の処理と——一角獣だ)
俺は正面に向き直った。
一角獣のスマッシュが、雪煙と湯気の向こうで蹄を打ち鳴らしている。縞模様の装甲が湯気に濡れて光る。馬の顔のような長い頭部。額の角。そして蹄のような足先が雪を砕くたびに、不気味な音が響く。
「一本角の馬……一角獣かよ」
俺は思わず呟いた。
「一角獣? まあいい名前だ。覚えやすい」
戦兎がビルドドライバーに手をかけていた。
「戦兎、あいつの突進力は高いが方向転換が下手だ。それと角を——」
言いかけた瞬間、一角獣の額の角が外れた。
手に持っている。槍のように構えている。
「ああ、やっぱり外れる」
俺は舌打ちした。
「戦兎、気をつけろ。角が槍になってる。間合いが変わる」
「槍の間合いか……了解だ」
戦兎がボトルを装填し直す。忍者とコミック。
『忍びのエンターテイナー!ニンニンコミック!イェーイ!』
赤と青の装甲が、漫画的な効果音と共に展開する。4コマ忍者刀が手元に出現。
「ビリー、お前は消火だ。こいつは俺が引き受ける」
「だが——」
「火を消せ。校舎に燃え移ったら子どもたちが逃げ場なくなる。俺はこいつを人いない場所へ誘導する」
戦兎の声に迷いはない。京香に拒絶された直後だというのに、こいつは既に次の行動に移っている。
(天才物理学者の仮面……じゃない。これは桐生戦兎そのものだ)
「わかった。消火優先。だが長くかかるな」
「三分だ。三分以内に片付ける」
「口だけは達者だな相棒」
ニンニンコミックが4コマ忍者刀を振る。分身の術。四人のビルドが煙と共に出現し、一角獣の周囲を取り囲む。
「こっちだ、一角獣さん。こっちがお宅だ」
分身ビルドたちが、校舎と反対方向の雪原へ一角獣を誘導していく。一角獣は槍を振り回しながら分身に向かって突進するが、分身が「ドカッ!」「バシッ!」という擬音付きでかわしていく。
(あの擬音は何度見ても慣れない。でも実用的だ。あれで敵の視線を分散させてる)
一角獣の注意が戦兎の方へ向いた。今だ。
俺は右側のガンを校舎の木造部分に向けた。炎が壁の下部に這っている。収束放水に切り替える。ノズルの口径が絞られ、水流が鋭い一本の線になる。
ドシュッ!
狙い澄ました水流が、燃えている壁の下部を正確に打つ。炎がジュッと音を立てて消える。
(残水量100分の71。次。床板だ。床が燃えてると校舎内部に火が回る)
俺は移動しながら次々と火元を撃っていく。左側のガンは通常弾のままだ。こっちは牽制用だ。
一角獣が分身を突き抜けて、雪原の向こうで方向転換を試みた。蹄が滑り、雪が舞う。やはり急旋回は苦手だ。その隙に分身ビルドが背後から斬りかかる。
「ビリー! そっちはまだか!」
「あと二カ所! 待ってろ!」
俺は校舎の裏側に回り、残りの火元を処理した。最後の一カ所を消し終えた時、残水量は百分之五十八まで落ちていた。
(よし消火完了。次は援護に回る)
俺は雪原の方へ向き直った。
戦兎が一角獣を雪原の中央へ誘導していた。校舎から離れている。子どもたちに被害が出る距離じゃない。
一角獣が角の槍を構えた。あの一瞬の静止が来る。
「今だ戦兎! 止まった!」
「見えてる!」
分身ビルドが一斉に斬りかかる。だが一角獣は槍を振り回して分身を弾く。「ドガッ!」「キランッ!」という擬音が雪原に響く。分身が煙と共に消えた。
(分身が全滅したか。だが本体は無傷。位置は——)
一角獣が本体のビルドに向き直った。角の槍を下段に構える。突進体勢だ。
俺は左側のガンを一角獣の足元に向けた。
パンパンパンッ!
雪が爆ぜ、一角獣の蹄が散らされた。突進の軌道が僅かに逸れる。ほんの数度。だがその数度が、ビルドの回避余地を生む。
「ナイスビリー!」
戦兎が跳んで避ける。一角獣が空を切った角の槍を雪に突き立てる。
俺は右側のガンを再び収束モードに切り替えた。放水じゃなく、高圧水流そのものを打撃として使う。
(残水量百分之五十八。あと三発分。無駄には撃てない)
一角獣が雪から角の槍を引き抜き、再び構えた。一瞬の静止。その隙を狙って——
俺は右側のガンを一角獣の脚部に向けた。
ドシュッ!
高圧水流が一角獣の左前脚を直撃。水の衝撃が関節を叩き、体勢が崩れる。突進の軸が完全にずれた。
「ぐガァッ!」
一角獣がよろめき、雪に膝をつく。だが倒れない。装甲が硬い。
(水圧じゃ貫通できないか。でも軸は崩せた。これで戦兎が狙える)
一角獣が体勢を立て直そうとした、その時だ。
槍を構え直した。一瞬の静止。
だが今度は俺の方へ向いた。
(俺かよ!)
一角獣が角の槍を振りかぶり、雪を蹴って突進してくる。速度が上がっている。さっきまでの直線突進とは違う。槍を構えた低速だが重い突進。水の幕を——
俺は反射的に右側のガンを広角に切り替え、正面に放水を放った。
ドシュゥゥッ!
水の幕が一角獣の突進を受け止める。白い湯気が爆発的に立ち上る。視界が白く染まる。
だが。
一角獣は止まらなかった。
水の幕を、角の槍が突き破った。
ズドォォッ!!
白い湯気の中から、縞模様の装甲が迫りくる。角の槍の切っ先が、俺の識別灯のすぐ手前まで迫っていた。
(速い。水圧じゃ止まらない。硬い。重い。来る——)