真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜   作:パラレル・ゲーマー

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第17話 真祖吸血鬼、敵兵の弁護士になった男を見る

 ポール・リヴィアの工房から持ち帰った「四人しかいない虐殺画」が、仮出張所の机の上で冷たいインクの匂いを放っている。

 

 三月下旬。

 

 俺は、その版画の歪んだ構図を眺めながら、向かいに座る男の顔を信じられない思いで見つめていた。

 

「……翌朝って。事件の次の日の朝ってこと?」

 

 俺の問いに、ジョン・アダムズは手元の分厚い書類から目を離さず、淡々と頷いた。

 

「ええ。私の記憶に間違いがなければ、三月六日の朝です」

 

「キング・ストリートの石畳にへばりついた血も、マーヴェリックの身体も冷たくなりきってない頃だぞ!?」

 

 俺は思わず身を乗り出した。

 

「街の誰も、あの夜に何があったか正確に整理できてない。証言も集まってない。プレストン大尉が本当に発砲を命じたのかどうかも分かってない。そんな大混乱の状態で、あんたは赤服たちの弁護を引き受けたっていうのか?」

 

「事実関係がすべて明白に分かっているのなら、そもそも裁判も弁護人も必要ありませんからね」

 

「いや、でもさ……あんたは彼らが無実だと確信したから、引き受けたんだろう?」

 

 ジョンは羽ペンをインク壺に浸し、俺の目を真っ直ぐに見返した。

 

「違います」

 

 予想外の即答に、俺は言葉を止めた。

 

「私はまだ、彼らが無実かどうか知りません」

 

「……知らない人間を、しかもこの街の全員から憎まれてる連中を、弁護するの?」

 

「知らないから、弁護するのです」

 

 その一言の底に横たわる、彼特有の狂気的なまでの理屈っぽさと、法への執着。

 

 俺は彼がどのような経緯でその決断を下したのか、その翌朝の光景を想像せずにはいられなかった。

 

 *

 

 事件翌日の、一七七〇年三月六日。

 

 ボストンの街は、前夜の凄惨な流血の余熱で完全に沸騰していた。

 

 サミュエル・マーヴェリックが息を引き取り、死者が四人へ増えたという報せが風に乗って広がる。

 

 酒場でも、港でも、路地裏でも、怒号が響き渡っていた。

 

「人殺しの赤服どもを全員吊るせ!」

 

「プレストンを牢獄から引きずり出して、同じように鉛玉を撃ち込んでやれ!」

 

「裁判など必要ない! 奴らが何をしたかは、この街の全員が知っている!」

 

 そんな狂乱の空気が支配する中、オールド・ステート・ハウス近くにあるジョン・アダムズの事務所の扉を、一人の男が震える手で叩いた。

 

 ロイヤリストの商人、ジェームズ・フォレストだった。

 

 普段の身なりの良さは見る影もなく、衣服は乱れ、目は恐怖と疲労で赤く腫れ上がっている。

 

 フォレストは、勧められた椅子に座ることもせずに訴えかけた。

 

「アダムズ先生。どうかお願いです。プレストン大尉と兵士たちは、牢獄に繋がれております。私は今朝から法律家たちのもとを回りました。クインシー氏は、あなたが協力するなら引き受けると申しております。オークムティ氏も同じです。ですが、誰もあなた抜きで、この街の怒りの矢面に立とうとはしないのです!」

 

 ジョンは机の上の書物を閉じ、静かに答えた。

 

「無理もありません。今、彼らの弁護を引き受ければ、その法律家自身が、怒り狂った群衆の次の標的になることは火を見るより明らかですからね」

 

「彼らは、この街で裁かれるのですよ! 本国の法廷ではなく、このボストンの法廷で!」

 

「当然です。事件はこのボストンの石畳の上で起きたのですから」

 

「ですが、この街はすでに彼らを冷酷な殺人者だと決めています! 弁護人もなしに彼らを法廷へ引きずり出すのは、裁判ではなく、ただの合法的な公開処刑です!」

 

 フォレストは、プレストン大尉から託されたという弁護依頼の書状を、震える手でジョンの机の上に差し出した。

 

 ジョサイア・クインシー・ジュニアも、ロバート・オークムティも、ジョン・アダムズが弁護団に加わるなら協力する意向を示している。

 

 反英派の急先鋒であるサミュエル・アダムズの従兄弟であり、植民地側の論客として名高いジョンが加わるなら、他の法律家たちも、この街の怒りに耐えられると考えていたのだろう。

 

「プレストン大尉は、神に誓って自分は発砲の命令を下していないと主張しています」

 

 フォレストがすがるように言うと、ジョンは冷淡に返した。

 

「彼がそう言っているということと、それが事実であるということは、法的には全く別の問題です」

 

「それでも……話だけでも、聞いていただけませんか」

 

 ジョンは、手元の書状を見つめたまま、深い沈黙に落ちた。

 

 それは、依頼を断る口実を探すための迷いではない。

 

 この紙を受け取った瞬間から、自分の人生に何が降りかかるのかを、一つずつ冷徹に計算している沈黙だった。

 

 長年の顧客の大半が離れるだろう。

 

 従兄弟のサミュエルや、反英派の同志たちとの関係も悪化する。

 

 窓に石を投げ込まれ、家族が危険に晒される。

 

 これまでに築き上げた政治的な将来を失うかもしれない。

 

 無罪を勝ち取れば、同胞を殺した虐殺者を逃がした悪魔と呼ばれる。

 

 有罪となれば、金を受け取っておきながら役に立たなかった裏切り者と嘲笑われる。

 

 どちらに転んでも、彼個人の人生に得など何一つない。

 

 完全な破滅の片道切符だ。

 

 そのすべてを天秤に乗せた上で、ジョンは顔を上げ、静かに言った。

 

「私は、彼らの無罪をお約束することはできません」

 

「……もちろんです」

 

「被告人たちに都合のよい、同情を誘うような嘘の物語を作ることも、お約束しない」

 

「はい」

 

「証拠を徹底的に調べた結果、彼らが有罪であるとしか考えられない状況に陥ったとしても、法の許す範囲で手続きを尽くすだけです」

 

「それで……それで構いません。彼らに、法の光を与えてやってください」

 

「ならば、お引き受けしましょう」

 

 フォレストは、その場で安堵のあまり泣き崩れた。

 

 だが、ジョンは彼を感動的に抱き起こしたりはしなかった。

 

 ただ事務的に依頼書を手元へ引き寄せると、即座に告げた。

 

「泣いている暇はありませんよ、フォレスト氏。まず、被告人全員から個別に話を聞きます。絶対に、同じ部屋で証言を合わせるような真似はさせないでください。不自然に話が一致すれば、それ自体が疑いになります」

 

 冷徹な実務が始まった。

 

 フォレストが帰った後、ジョンの事務所で働く若い事務員が、顔を青ざめさせながら恐る恐る尋ねてきた。

 

「先生……先生は、あの赤服の兵士たちの味方をするのですか?」

 

「違います」

 

「では……亡くなった市民たちの味方なのですか?」

 

「その質問の前提が間違っているのですよ」

 

 ジョンは真っ白な紙を机の中央へ置き、羽ペンを指先で転がした。

 

「私は、彼らのあの夜の行為が合法だったと決めたわけではありません。違法だったと決めたわけでもない。私が守り、味方をするのは……その結論を、怒り狂った群衆の叫び声ではなく、法廷の証拠が決めるという手順そのものです」

 

 彼の中では、被告人も、被害者も、本国の王権も、反英派の怒りも、街の熱狂も、どれ一つとして法そのものとは同一ではなかった。

 

 この時のジョン・アダムズは、不当に弾圧される兵士を救おうとする心優しい英雄などではない。

 

 裁判が始まる前に結論を押しつけてくる世界そのものを拒絶した、最高に面倒な法律家だった。

 

 *

 

 その夜、ジョンは重い足取りで自宅へ帰った。

 

 妻のアビゲイルは、昼間から続く街の騒ぎと不穏な空気を察知し、子供たちを家の中から一歩も出さずに待っていた。

 

 彼女は、帰宅した夫の顔を見ただけで、彼が何かとてつもなく厄介なものを背負い込んできたことを察した。

 

「……何を引き受けたのですか?」

 

「まだ、何も話していませんが」

 

「あなたがその顔をして帰ってくる時は、だいたい最悪な決断をしたと決まっています」

 

 ジョンは暖炉の前へ座り、プレストン大尉と兵士たちの弁護団に加わったことを静かに告げた。

 

 アビゲイルは、すぐには立派ですなどと手放しで賛成しなかった。

 

 彼女は聡明な女性であり、この街の現実を誰よりもよく知っていた。

 

「……明日から、この家の窓へ石や泥が投げ込まれるかもしれませんね」

 

「ええ。十分にあり得ます」

 

「子供たちが、学校や通りで赤服の犬の子とからかわれ、石を投げられるかもしれない」

 

「……ええ」

 

「あなたは多くの顧客を失い、仕事がなくなるかもしれない」

 

「その可能性もあります」

 

「あなた自身が、夜道で暴漢に襲われるかもしれない」

 

「ありますね」

 

 アビゲイルは、組んだ両手をきつく握り締めた。

 

「……そこまでの破滅を理解して、それでも引き受けたのですね」

 

「はい」

 

「あなたは、彼らが本当に無実だと信じているのですか?」

 

「分かりません」

 

「分からないのに、私たち家族の安全を天秤にかけるのですか?」

 

 ジョンは、アビゲイルの目を真っ直ぐに見つめ返した。

 

「分からないまま、憎悪だけで彼らが処刑されないために、裁判というものがあるのです」

 

 暖炉の薪が爆ぜる音が、静かな部屋へ響いた。

 

 長い、本当に長い沈黙の後、アビゲイルは深く息を吐いた。

 

「……私は、あなたが兵士たちを弁護することよりも、このボストンの街の人々が、その違いを理解してくれないことの方が、よほど怖いのです」

 

「私もです、アビゲイル」

 

「ならば……私までがあなたの決断を理解しなければ、この家の中に、あなたを理解する人間が一人もいなくなってしまいますね」

 

 彼女は、恐怖を完全に拭い去ったわけではない。

 

 現実的な恐怖をすべて抱え込んだまま、それでも夫の原則を理解する側に立つことを選んだのだ。

 

 *

 

 三月下旬の仮出張所。

 

 ジョンから事の顛末を聞かされた俺は、思わずため息をついた。

 

「つまり、あんたは彼らが無実だから守るんじゃない」

 

「はい」

 

「彼らが本音では良い人間だと思ってるからでもない」

 

「個人の性格の良し悪しは、殺人罪の成立要件ではありませんからね」

 

「英国軍の駐留政策を支持してるわけでもない」

 

「私は、平時の街に常備軍を置く本国の政策には、断固として反対しています」

 

「それでも弁護するのか」

 

「それでも、ではありません。ヴァレンタイン氏。だからこそ、なのです」

 

 俺は首を傾げた。

 

「どういう意味だよ」

 

「我々植民地人が、本国の議会に求めているものは何ですか。恣意的な権力による支配ではなく、法による統治のはずです。自分たちが怒った時、憎い相手を殺したい時だけ法を窓から投げ捨てるなら、我々がこれまで唱えてきた自由とは、単に自分たちに都合のよい権力を欲しがっているだけの、ただの野蛮な暴力に成り下がります」

 

 俺は、彼の言葉の重みに殴られたような気がした。

 

 ジョン・アダムズが守ろうとしているものは、プレストンという個人でも、八人の兵士の命だけでもない。

 

 この怒り狂う植民地が、将来、ただの暴徒の集まりではなく、法を守る国家になれる可能性。

 

 その細い糸を、今ここで自分の手で繋ごうとしているのだ。

 

 *

 

 ジョンが弁護を引き受けたという噂は、新聞で正式に報じられるよりも早く、街の血管を駆け巡った。

 

 酒場、市場、印刷所、教会の入口。

 

 至る所で彼の名が囁かれる。

 

「おい、聞いたか。あのジョン・アダムズが、人殺しの赤服どもの弁護士になったらしいぞ」

 

「従兄弟のサミュエルを裏切って、ついに本国へ魂を売ったんだ」

 

「どれほどの裏金を積まれたか知らんが、四人の犠牲者の遺族の前でも、同じ台詞が言えるのかね」

 

 群衆が松明を持ってジョンの家へ押し寄せるような、露骨な暴動にはならなかった。

 

 彼への制裁は、もっと陰湿で、生活の隙間へ染み込む形で行われた。

 

 古い付き合いの依頼人が、気まずそうな顔をして法律相談を取り下げに来る。

 

 市場で会った知人が、目が合うと視線を逸らす。

 

 夜、家の外壁へ泥が投げつけられる。

 

 以前は愛想よく挨拶してきた商人が、彼が歩いてくるのを見ると、わざわざ道の反対側へ渡っていく。

 

 俺は、商会に出入りする情報屋からその話を聞き、見過ごせなくなってジョンへ申し出た。

 

「なあ、アダムズ先生。弁護を引き受けたせいで減った依頼の分、うちの商会からの法律顧問料を三倍に増やすよ。金貨で払う」

 

「不要です」

 

 ジョンは書類から目を上げずに即答した。

 

「でも、家族を養わなきゃいけないだろ」

 

「だからこそ、受け取れません」

 

「なんでさ! 俺のポケットマネーだぞ」

 

「私が英国兵の弁護を引き受けた直後に、軍へ石鹸を大量に納入している商人から多額の金を受け取ったとなれば、どうなりますか。街で流れている、金で本国へ魂を売ったという噂を、私自身が証明することになります」

 

「うちは軍だけじゃなくて、市民にも港湾にも格安で売ってるだろ!」

 

「世間が、そこまで細部を確認してくれると思いますか。彼らは見たい結論に合わせて事実を切り取る。あなたが一番よくご存じのはずです」

 

 ポール・リヴィアの版画を見せられた時の教訓が、まさかこんな形で現実の刃となって返ってくるとは思わなかった。

 

 俺は悔しそうに引き下がり、代わりに妥協案を出した。

 

「じゃあ、金は出さない。その代わり、あんたの家の周辺の夜間監視、割られた窓の補修手配、子供たちの安全な送迎、それから通常価格での正式な法律顧問契約。これだけは受け取れ。これ以上は絶対に引かないからな」

 

 ジョンは露骨な護衛を嫌がった。

 

 だが、同席していたアビゲイルが、

 

「子供たちに罪はありません」

 

 と静かに言い放ったことで、最低限の見守りだけは受け入れざるを得なくなった。

 

 *

 

 数日後。

 

 ジョンの事務所に、最も厄介で、しかし避けては通れない人物が訪ねてきた。

 

 サミュエル・アダムズだった。

 

 俺も商会の書類の確認で同席していたが、その場の空気は氷のように張り詰めていた。

 

 だが、二人の間に感情的な罵倒や絶縁の言葉は飛び交わなかった。

 

 互いの根底にある思想の深さを理解しているからこそ、対話は静かで、鋭い刃物のように交差した。

 

「弁護をやめろとは言いませんよ、ジョン」

 

 サミュエルが静かに口火を切る。

 

「……意外ですね、サミュエル」

 

「あの被告人たちが、弁護人すら得られないまま裁かれるような野蛮な裁判を、本国側に見せるわけにはいきませんからね。それでは、彼らが主張する、ボストンは無政府状態の暴徒の街であるという報告を、我々自身が証明することになります」

 

「なら、何を言いに来たのです」

 

「彼らを弁護するために、亡くなった四人の死者と、このボストンの街全体を被告席へ座らせるような真似はしないでいただきたい」

 

 ジョンの目が細められる。

 

「そしてあなたも、大英帝国を告発するために、あの九人の被告人を帝国そのものへ仕立て上げないでいただきたい」

 

 ここから、アダムズ家の従兄弟同士による、妥協なき思想の対決が始まった。

 

「彼らがあの夜、銃剣を持ってこの街へ来なければ、四人の市民は死ななかったのです」

 

「それは政治的な因果関係です。法廷で問われるのは、プレストン大尉が実際に発砲を命じたのか、各兵士がどのような危険に直面し、どのような意思で引き金を引いたのかという、個人の行為です」

 

「帝国の占領政策から切り離して、兵士たちをただの可哀想な個人としてだけ見れば、我々が受けてきた占領そのものの罪が消える」

 

「占領政策を裁きたいのなら、議会と世論の場で裁いてください。殺人裁判の中で、被告人以外の罪を背負わせて処罰することはできない」

 

 サミュエルが一歩踏み込む。

 

「四人の死者は、血を流した現実です。あなたの言う法理論ではありません」

 

 ジョンも一歩も引かない。

 

「九人の被告人も、血の通った人間です。帝国を告発するための便利な駒ではありません」

 

「彼らは我々へ銃を向けた」

 

「だからこそ、私は調べるのです。誰が撃ち、誰の弾が誰へ当たり、その瞬間にどの程度の危険が迫っていたのかを」

 

「……全員を無罪にするおつもりですか?」

 

「無罪にするつもりも、有罪にするつもりもありません。検察側に、彼らの罪を証明させるつもりです」

 

 俺は、二人の会話を聞きながら、一つのことに気づいていた。

 

 二人とも、あの夜の四人の死を少しも軽視していない。

 

 そして二人とも、この植民地の自由を本気で守ろうとしている。

 

 ただ、守ろうとしている単位が違うのだ。

 

 サミュエルは、社会と植民地の未来を守るために、事件を大きな物語にする。

 

 ジョンは、個人と法の手続きを守るために、事件を小さな事実へ分解する。

 

 どちらかが悪人なのではない。

 

 二人が見ている世界が、交わらないだけだった。

 

 *

 

 弁護団と検察側の陣容が固まり、顔合わせが行われた。

 

 プレストン大尉の弁護側には、年長者のロバート・オークムティ、ジョン・アダムズ、若き俊英ジョサイア・クインシー・ジュニアが並ぶ。

 

 対する検察側には、ロバート・トリート・ペインと、サミュエル・クインシーが立つことになった。

 

 俺はその顔ぶれを見て、思わず頭を抱えた。

 

「……おい。弁護側のジョサイアと、検察側のサミュエル・クインシーって、実の兄弟だろ? それで、弁護側のジョンと、反英派の親玉のサミュエル・アダムズは従兄弟。この街、親族一組につき、両陣営へ一人ずつ配置しないと気が済まない呪いでもかかってるの?」

 

 通りかかったジョサイアが、苦笑しながら答えた。

 

「家族であることと、法廷で果たすべき役割は別ですから」

 

「思想の冗長化システムとしては優秀だけど、食卓の空気が地獄になりそうだな……」

 

 弁護団の最初の方針会議。

 

 オークムティが年長者として場を整理し、決定的な戦術を一つ確認した。

 

「プレストン大尉と八人の兵士たちを、同じ審理で一括して扱うべきではない。裁判を分離するのだ」

 

 プレストンの争点は、発砲命令を出したか、兵士の配置を統制していたか、発砲を止めようとしたか。

 

 一方、兵士側の争点は、誰が実際に発砲したか、誰の弾が被害者へ当たったか、群衆からどの程度の攻撃を受けたか、正当防衛か、故殺か。

 

 プレストンが命令を出したか否かで、兵士たちの責任構造は大きく変わる。

 

 そのため、プレストンの裁判を先に行うことになった。

 

「同じ場所で起きた同じ事件なのに、裁判を分けるの?」

 

 俺の素朴な疑問に、ジョンが答える。

 

「同じ場所にいたからといって、同じ罪になるわけではありません。群衆全体や英国軍全体を一括して語るあの版画とは違い、法廷は一人一人の行為を個別に切り分ける場所なのです」

 

 会議の合間、書記が用意した起訴関連の書類の束が机へ置かれた。

 

 俺はそれを横目で見て、あることに気づいた。

 

 本来の未来の歴史であれば、死亡した五人の名が、法的な記録に並ぶはずだ。

 

 だが、この世界の書類には、クリスパス・アタックス、サミュエル・グレイ、ジェームズ・コールドウェル、サミュエル・マーヴェリックの四人の名前しかない。

 

 パトリック・カーの殺人についての起訴記録は存在していなかった。

 

 代わりに、彼は重傷を負った生存証人として、別の供述一覧の中へ組み込まれている。

 

「……ここにも、いない」

 

「誰がです?」

 

 ジョンが書類から顔を上げる。

 

「死ななかった人だよ」

 

 ジョンには、俺の言葉の意味が分からない。

 

 俺だけが、この分厚い書類の束から一人分の死が消えていることの重さを噛み締めていた。

 

 *

 

 数日後。

 

 ジョンたちは、冷たく湿った牢獄を訪れ、拘置されているトーマス・プレストン大尉と面会した。

 

 プレストンは軍人としての姿勢を辛うじて保っていたが、長引く拘置と、版画によって虐殺の首謀者として街中に顔を知られた精神的疲労で、明らかに消耗していた。

 

 ジョンは儀礼的な挨拶を早々に切り上げ、同情を見せずに質問を始めた。

 

「あの日、発砲命令を出しましたか」

 

「出していない。神に誓って」

 

「兵士たちへ、銃に弾を込めるよう命じましたか」

 

「暴徒に囲まれた歩哨の救援へ向かう前に、武器を携行させるのは軍として当然の処置だった」

 

「発砲直前、あなたは兵士の前にいましたか。それとも後ろにいましたか」

 

「前にいた」

 

「全員の顔が見える位置でしたか」

 

「……見えない者もいた」

 

「最初の銃声の後、何と叫びましたか」

 

「撃つな、止めろと叫んだ!」

 

「誰が、それを聞いていますか」

 

 プレストンは答えに詰まった。

 

「大尉。私は、あなたを信じて慰めるためにここへ来たのではありません。あなたの言葉のうち、法廷で扱える部分を探しに来たのです」

 

「私を嘘つきだと思っているのか!」

 

「あなたが真実を話していても、裏づけがなければ陪審には届きません。ただそれだけです」

 

 プレストンは、自分が大英帝国の士官ではなく、ただの一人の被告人として、冷たい法理の刃で分解されていく感覚を覚えただろう。

 

 ジョンは、階級へ必要以上の敬意を払わない。

 

 裁判において、英国軍大尉も一人の人間にすぎないのだ。

 

「私は命令していない。なら、無罪になるはずだ」

 

 プレストンがすがるように言う。

 

「その“はず”という希望的観測を捨ててください」

 

「何?」

 

「あなたが命令していないことを、こちらが証明する必要はありません」

 

「では、何をする」

 

「検察が、あなたが命令したと証明するために提出する証言を、一つずつ調べます。証言に矛盾があれば示す。証人の位置から本当に声が聞こえたのかを確かめる。あなたが兵士の前に立っていたのなら、その状況で自分の背中へ向けて発砲を命じることが自然だったのかを陪審へ問う」

 

 ジョンは、机の上の聞き取り記録へ指を置いた。

 

「検察の物語へ、合理的な疑いを残すのです」

 

 次に、ジョンは起訴された八人の兵士たちとも、一人ずつ個別に面会した。

 

 ウィリアム・ウェムズ。

 

 ジェームズ・ハーティガン。

 

 ウィリアム・マコーリー。

 

 ヒュー・ホワイト。

 

 マシュー・キルロイ。

 

 ウィリアム・ウォーレン。

 

 ジョン・キャロル。

 

 ヒュー・モンゴメリー。

 

 同じ夜、同じ場所にいたはずなのに、彼らの話は見事なまでに一致しなかった。

 

 最初に発砲したのは自分ではない。

 

 命令を聞いた。

 

 命令など聞いていない。

 

 氷で殴られた。

 

 あれは棍棒だった。

 

 プレストン大尉は前にいた。

 

 横にいた。

 

 誰かが撃てと叫んだ。

 

 群衆の挑発の声だった。

 

 混乱する兵士たちに、ジョンは決して話を合わせろとは言わなかった。

 

「違えば、不利になるでしょう!」

 

 兵士が焦って言う。

 

「不自然に証言が一致する方が、口裏合わせを疑われます。自分が見た範囲だけを話してください。見えなかったものを、仲間の話で埋めようとしないことです」

 

 最初の発砲者と見られているモンゴメリーは、面会室で震えていた。

 

「俺は、飛んできた氷で雪の上に倒されたんだ! 奴らが笑った。次には踏み潰されると思った!」

 

「それで、撃ったのですか?」

 

「気づいた時には撃っていたんだよ!」

 

「誰かの命令を聞きましたか」

 

「分からない!」

 

「殺すつもりでしたか」

 

「俺は……ただ死にたくなかったんだ!」

 

 ジョンは、モンゴメリーの恐怖そのものを否定しなかった。

 

 だが、恐怖だけで発砲を正当化することも許さなかった。

 

「法廷では、怖かったという感情だけで、他人へ向けた発砲が正当化されるとは限りません。具体的に何を見たのか。どの距離から、何を投げつけられたのか。起き上がった時、誰がどこまで近づいていたのか。それを話してください」

 

「本当に、本当に怖かったんだ!」

 

「その恐怖を法廷へ運ぶには、恐怖という言葉だけでは足りないのです。あなたの感情が偽物だからではありません。その恐怖が、人を撃つ行為を正当化できるほど現実的な危険に基づいていたのかを、法廷が判断するためです」

 

 俺は、版画から削り取られていた兵士側の恐怖が、法廷では具体的な事実へ変換されなければ、発砲を正当化する根拠にはならないことを知った。

 

 法廷は感情を存在しないものとして捨てるのではない。

 

 感情だけで、他人の死を正当化しないのだ。

 

 *

 

 一方で、あの夜、俺に発砲を止められた若い兵士トマスも、別室で事情を聞かれていた。

 

 彼は、プレストンたちとともにメイン・ガードを出た。

 

 だが、正式に税関前へ配置された八人の中には入っていなかった。

 

 途中の通りから流れ込む群衆を抑えるよう命じられ、銃列から離れた位置に残されていたからだ。

 

 しかし、怒号と最初の銃声を聞いたトマスは、命じられた持ち場を離れ、装填済みのマスケット銃を抱えたまま、税関前の銃列の外側へ近づいた。

 

 そこで俺に銃を叩き落とされ、発砲には至らなかった。

 

 彼のマスケット銃は装填されたまま。

 

 複数の目撃証言も、彼が正式な射撃列の外側にいたことを裏づけていた。

 

「あなたは発砲していない」

 

 ジョンが確認する。

 

「はい」

 

「ならば、あなたは殺人の被告人ではありません」

 

 だが、トマスの顔に安堵の色はなかった。

 

「俺も……撃っていたかもしれないんです」

 

「可能性は、罪ではありません」

 

「あの夜、ヴァレンタインさんが俺の銃を叩き落としてくれなければ……俺は隣の仲間の銃声を聞いて、パニックになって引き金を引いていたはずです」

 

「でも、引かなかった」

 

「自分で選んで止めたわけじゃないんです!」

 

「法は、人間の心に浮かんだかもしれない行動を罰しません。実際に何をしたかだけを裁きます」

 

 トマスは、救われたとは感じていなかった。

 

 仲間が冷たい牢獄に繋がれ、自分だけが外で太陽の光を浴びていることに、深い罪悪感を抱いている。

 

 俺は、自分が銃を叩き落としたことで、パトリック・カーだけでなく、トマスという青年の人生も僅かに、しかし決定的に変えていた可能性に気づいた。

 

 だが、それを勝利として喜ぶことはできなかった。

 

 運命への介入が、俺の見えない場所で無数の波紋を生み始めている。

 

 その不安の方が強かったからだ。

 

「あなたには、法廷で証言してもらう可能性があります」

 

 ジョンの言葉に、トマスは顔を上げた。

 

「仲間を助けるためなら、何でも話します!」

 

「その考えを、今すぐ捨ててください」

 

「何?」

 

「仲間を助けるための証言ではなく、あなたが見たことだけを話してください」

 

「同じでは?」

 

「違います。仲間を助けようという意図が働けば、見ていないものまで見たことにしてしまう」

 

「もし本当のことを話して、仲間が吊るされたら?」

 

「それでも、本当のことを話してください。虚偽で救われた被告人は、次の矛盾した虚偽で簡単に殺されます」

 

 ジョンは、味方の側にも都合のよい嘘を許さなかった。

 

 *

 

 さらにジョンは、生存したパトリック・カーのもとへも足を運んだ。

 

 カーは、自分を撃った連中の弁護士の訪問を、露骨に警戒した。

 

「俺を殺しかけた連中の弁護士が、何の用だ」

 

「あなたが見た事実を確認したいのです」

 

「兵士たちが怯えていたと言わせたいのか」

 

「あなたがそう見たのなら」

 

「俺は、武器を持たずに撃たれたとも言うぞ」

 

「あなたがそう見たのなら」

 

「俺の話が、どちらの陣営を助けても構わないというのか」

 

 ジョンは頷いた。

 

「証言は、弁護側にも検察側にも所属しません」

 

「綺麗事だな。サミュエル・アダムズは、俺の証言を使う順番を選んだぞ。あんたはどうなんだ?」

 

「私も、質問の順番は選びます」

 

「同じじゃないか」

 

「ですから、あなたには検察側からも反対尋問を受けてもらいます。私の並べ方が偏っていれば、検察が崩すでしょう」

 

 カーは、法廷という場所が、一方が組み立てた物語を、もう一方が質問によって壊す場所なのだと理解したようだった。

 

「あなたは、兵士たちを許していますか」

 

「許していない」

 

「なら、そう話してください」

 

「だが……あの夜の兵士たちが、極限の恐怖に耐えていたとも思う」

 

「それも話してください」

 

「二つを同時に言ったら、俺がどちらの味方か分からなくなるぞ」

 

「それでよいのです。法廷は、分かりやすすぎる答えを疑う場所であるべきですからね」

 

 すべてを単純化した、あの一枚の版画とは対極にあるやり方だった。

 

 *

 

 ジョンは、事件現場にいた俺への聞き取りも行おうとした。

 

 俺は、最初の口論を止めたこと。

 

 鐘楼へ向かったこと。

 

 群衆と兵士の間へ立ったこと。

 

 プレストンへ後退を求めたこと。

 

 明確な発砲命令は聞き取れなかったこと。

 

 群衆側から氷や棍棒が飛んでいたことを話せる。

 

 しかし、致命的な問題があった。

 

「あなたは重要な証人です」

 

 ジョンが記録を取りながら言う。

 

「俺を法廷に立たせたら、別の裁判が始まるかもしれないよ」

 

「どういう意味です?」

 

「俺が人間かどうかを争う裁判さ」

 

 ジョンは冗談だと思ったようだが、俺の後ろに立つアーサーとギデオンは一切笑っていなかった。

 

 なぜ、離れた場所の騒ぎへ何度も間に合ったのか。

 

 なぜ、銃口へ物理的に接近できたのか。

 

 目撃者が見たという赤い残像の正体は何か。

 

 なぜ弾道を察知し、人々を突き飛ばせたのか。

 

 すべて、人間業ではない。

 

 ジョンは、俺の証言を整理している途中で、あることに気づいたように羽ペンを止めた。

 

「……あなたは、あの夜、ただ見ていたのではありませんね」

 

「うん」

 

「歩哨との口論を止め、鐘を止め、兵士を動かし、群衆を押し戻し、発砲後は救護を指揮した」

 

「そうだよ」

 

「つまり、あなたが目撃した事件は、あなた自身が介入し、変化させ続けた事件だということですね」

 

 俺は黙った。

 

 完全に中立な絵が存在しないのと同じように、完全に中立な証人も存在しない。

 

 俺は現場に最も近い観測者だった。

 

 同時に、最も深く現場へ手を入れた当事者でもある。

 

「あなたの証言は重要です。しかし、あなたの行動によって状況がどう変わったのかも、検察は問うでしょう」

 

「俺がいなかった場合の事件を、俺は見てないから答えられないよ」

 

「それでよいのです。見ていないことを答えないでください」

 

 最終的に俺は、予備の証人として供述だけは取るが、軽々しく法廷の矢面には立たせない方針となった。

 

 *

 

 弁護団は、キング・ストリートの詳細な地図を机へ広げた。

 

 証人ごとに、あの夜立っていた位置へ小さな木駒を置いていく。

 

 税関前。

 

 タウン・ハウス。

 

 メイン・ガード。

 

 路地。

 

 鐘楼。

 

 群衆の外周。

 

 兵士の前方。

 

 背後。

 

 同じ、プレストンが命令したのを聞いたという証言でも、十歩先にいた者、建物の窓から見下ろしていた者、銃声の後に到着した者、別人の叫びをプレストンの声だと思い込んだ者が混ざっている。

 

「証言書だけを読んでると、全部同じ大きさの真実に聞こえたけど、こうして地図に置くと、お前の位置からそれが見えるはずないだろって人間が山ほどいるな」

 

 俺が言うと、ジョンが頷いた。

 

「言葉だけでは、証人の視界の限界と、物理的な距離が消えてしまうのです」

 

 複数の証人が、プレストンは兵士の前方にいたと語っている。

 

 本当に兵士たちの前へ立っていたのなら、自分の背中へ向けて一斉射撃を命じるのは、不自然である。

 

 だが一方で、横にいた、後方にいた、剣を上げたのを見た、命令を聞いたという証言もある。

 

「これ、結局どれが本当か分からないままじゃないか。無罪を証明できるのか?」

 

「無罪を証明する必要はありません」

 

「え?」

 

「検察の側が、合理的な疑いを残さず、プレストン大尉が発砲を命じたと証明しなければならないのです」

 

「命令してないと断定できなくても、命令したと断定できなければ、有罪にはできないってこと?」

 

「そうです」

 

 俺は、法廷の判決というものが、真実を完全に再現する正解を出す仕組みではないことを理解した。

 

 国家がこの人間へ刑罰を科してよいほど、罪を合理的な疑いなく証明できたか。

 

 それを判断するための、極めて限定的な仕組みなのだ。

 

「それって、真実が分からないまま無罪になる可能性もあるってことだよな」

 

「あります」

 

「本当は命令してたとしても?」

 

「証明できなければ」

 

「……それでいいのか?」

 

 ジョンは、俺の目を真っ直ぐに見た。

 

「逆を考えてください、ヴァレンタイン氏。証明できなくても、皆がそう思っているという理由だけで、有罪にして命を奪ってよいのですか?」

 

 俺は、あの版画を思い出した。

 

 皆が見た。

 

 皆が信じた。

 

 だからといって、あの絵が法的な証明になるわけではない。

 

「法は、真実を完全に知る神の仕組みではありません。間違える人間が、間違ったまま他人を殺さないための、不完全な手順なのです」

 

 真祖である俺は、人間よりも多くを見聞きできる。

 

 それでもあの夜、すべてを把握し、すべてを救うことはできなかった。

 

 ならば、人間の法はなおさら不完全だ。

 

 完全ではないからこそ、証拠という縛りと、慎重な手続きが必要なのだ。

 

 *

 

 裁判はすぐには始まらなかった。

 

 三月。

 

 四月。

 

 五月。

 

 街の怒りが強く、証言も錯綜を極め、司法側も即座には本格的な審理へ進まなかった。

 

 プレストンと兵士たちは牢に繋がれたまま、裁判は秋まで持ち越されることになった。

 

「半年以上も牢に入れたまま、裁判しないのかよ」

 

 俺が苛立つと、ジョンは疲れた顔で言った。

 

「急げば、怒りに流されて公正を失う。遅らせれば、被告人の自由を奪い続けることになる」

 

「どっちを選んでも問題じゃないか」

 

「だから司法は、完璧な正解を選ぶ仕事ではないのです。害の少ない不完全な手順を選び続ける仕事なのです」

 

 春から夏へ。

 

 ジョンへ冷たい視線を向ける者は多かったが、街全体が彼を見捨てたわけではなかった。

 

 普通に法律相談へ来る市民もいる。

 

「あんたの政治思想には賛成だ」と声をかける職人もいる。

 

 そして六月六日。

 

 ジョン・アダムズは、ボストンから植民地議会の代表へ選出された。

 

「ほら、街の人たちもあんたの覚悟を理解してくれたじゃないか」

 

 俺が言うと、アビゲイルは静かに首を振った。

 

「理解されたわけではありません」

 

「でも、選挙には勝っただろ?」

 

「夫の弁護を評価した人もいるでしょう。政治家として必要だと考えた人もいる。他の候補よりよいと判断した人もいる。兵士の弁護を忘れていた人もいるでしょう。一つの結果にも、理由はいくつもあるのです」

 

 アビゲイルの指摘に、俺は何も言えなかった。

 

 選挙結果という数字も、意味づけ次第で別の物語になる。

 

 その夜。

 

 ジョンは、家族が眠った後も暖炉の前に残っていた。

 

 喜ぶべき選出の日であるはずなのに、表情は暗い。

 

 アビゲイルが隣へ座る。

 

「どうしたのです」

 

 ジョンは長い沈黙の後、弱々しい声を漏らした。

 

「私は、この選出によって、かえって家族を破滅へ近づけたのかもしれない」

 

「弁護を引き受けたことを後悔しているのですか?」

 

「いいえ。ですが、私の正しさを家族へ強制する権利が、本当にあるのかと考えてしまうのです」

 

 アビゲイルの目に、初めて涙が浮かんだ。

 

「危険は分かっています。三月の夜に、すでに全部確認しました」

 

「アビゲイル」

 

「それでも、あなたはするべきことをしたのです」

 

 彼女は、夫の手を握った。

 

「これから何が来ても、私も一緒に受けます。あなた一人に、正しさの代価を払わせるつもりはありません」

 

 三月六日の夜、彼女は恐怖を抱えたまま夫を理解することを選んだ。

 

 六月六日の夜。

 

 その恐怖が消えないままでも、改めて夫とともに背負うことを選んだ。

 

 *

 

 九月。

 

 裁判の準備が大詰めを迎えた。

 

 ジョンの机には、証言の写し、地図、聞き取り記録、英国法の判例集、正当防衛と故殺に関する法書、陪審候補の一覧が山のように積まれていた。

 

 ジョンは自分の記憶だけで法律を語ることを避け、権威ある法書から、一つずつ根拠となる文言を拾い上げている。

 

「あんたの頭なら、全部暗記してるんじゃないの?」

 

「記憶に自信があっても、法廷で私個人の記憶を権威にするわけにはいきません。誰もが確認できる根拠を示さなければ」

 

「……未来知識を持ってる俺に、深く刺さる言葉だな」

 

 タブレットも、ジョンの記憶も、絶対の仕様書ではない。

 

 根拠を外へ出し、他者が確認できる形にして、初めて武器になる。

 

 裁判直前。

 

 サミュエル・アダムズが、最後にジョンのもとを訪れた。

 

「四人の死を、忘れないでください」

 

「忘れてはいません」

 

「兵士たちの恐怖を強調するために、ボストンの市民全員を血に飢えた暴徒として描かないでください」

 

「あなたも、帝国の罪を強調するために、兵士全員を冷酷な殺人者として描かないでください」

 

 サミュエルは目を伏せた。

 

「判決が無罪なら、この街は荒れるかもしれません」

 

「有罪なら、本国は植民地の司法を報復と呼ぶでしょう」

 

「どちらにしても、政治利用される」

 

「裁判所は、政治利用されない判決を探す場所ではありません。証拠に従った判決を出す場所です」

 

「……それで、国が壊れてもですか?」

 

「証拠を捨てた裁判で守られる国なら、初めから守る価値がありません」

 

 二人は最後まで和解しなかった。

 

 だが、互いの超えられない一線を認識したまま、別れた。

 

 *

 

 一七七〇年十月二十四日。

 

 王対トーマス・プレストン大尉の裁判の日。

 

 早朝から裁判所の周囲には、多くの市民が詰めかけていた。

 

 リヴィアの版画を掲げる者。

 

 四人の犠牲者の名前を叫ぶ者。

 

 プレストンを吊るせと叫ぶ者。

 

 ただ結末を見物したい者。

 

 ジョン・アダムズは黒い法服を整え、分厚い書類を抱えて裁判所の入口へ向かった。

 

 俺は少し後ろを歩きながら声をかけた。

 

「怖くないの?」

 

「怖いですよ」

 

「全然そう見えないけど」

 

「怖くないことと、前へ進むことは別ですから」

 

 ジョンは、裁判所の重い扉の前で立ち止まり、背後の熱狂する群衆を振り返った。

 

「ヴァレンタイン氏。今日ここで裁かれるのは、プレストン大尉だけではありません」

 

「じゃあ、英国軍も裁かれるのか?」

 

「違います。裁かれるのは、この街です」

 

 ジョンは、鋭い瞳で群衆を見た。

 

「この街が、最も憎んでいる敵の兵士にも、法を残せる街なのかどうか。それが試されるのです」

 

 裁判所の重い扉が開く。

 

 中には、四人の死者の名前を背負う検察側が待ち構えている。

 

 街中から虐殺の首謀者と呼ばれるプレストン大尉が、青ざめた顔で被告席へ座っている。

 

 ジョン・アダムズは振り返ることなく、最も憎まれている男の隣へ向かって歩いていった。

 

 彼らが善人だからではない。

 

 無実だと信じているからでもない。

 

 法が、人気のある人間だけに与えられる特権ではないことを証明するために。

 

 外の群衆の怒号が響く中、王対トーマス・プレストンの審理が始まった。

 




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