真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜   作:パラレル・ゲーマー

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第22話 真祖吸血鬼、偽物の石鹸に本物の帳簿をぶつける

 ボストンでの凄惨な事件と、重苦しい裁判の日々を終え、ようやく本来の拠点であるフィラデルフィアへ帰還した翌朝。

 

 俺は久しぶりに、本店にある自分の大きなマホガニー製の机へ座っていた。

 

 机の右側には、ボストンから持ち帰った分厚い裁判記録。

 

 左側には、ジェフリーズ医師から押しつけられた、三十一問にも及ぶ医学的質問状。

 

 正面には、俺が留守にしていた数か月の間に山積みとなった商会案件の書類の塔。

 

 そして机の端にぽつんと置かれ、不気味な存在感を放っているのが、ハンター支部から届いた報告書だった。

 

【人間かどうか確認できない遺体について】

 

 俺はその報告書を容赦なく裏返し、視界から消した。

 

 代わりに正面の書類の山から、【石鹸模倣品に関する苦情】と書かれた束を引っ張り出し、一番上へ置く。

 

「よし。今日はこれだけを片づける」

 

 俺が宣言すると、背後に控えていたアーサーが、控えめながらも咎めるような口調で言った。

 

「……旦那様。不審な遺体の件は、よろしいのですか」

 

「保管状態は?」

 

「ハンター支部の地下保管室にて、銀線と聖別塩を使用して厳重に封印しております。現在のところ、腐敗の進行、体温の変化、自発的な動きなどは一切確認されておりません」

 

「じゃあ後回しだ」

 

「人間ではない存在である可能性もありますが」

 

「ピクリとも動かない、人間じゃないかもしれない遺体の調査より、今まさに怒り狂って生活に困ってる、生きた客の苦情処理の方が優先だろ!」

 

 俺が机を叩くと、窓辺で通りを監視していたギデオンが、呆れたように鼻を鳴らした。

 

「ずいぶん普通の商人らしい判断だな。吸血鬼のくせに」

 

「今日は絶対に、普通の商人をやるんだよ!」

 

 俺は固く決意した。

 

 ボストンでは、散々血と政治と法廷に振り回されたのだ。

 

 今日くらいは、帳簿と市場と顧客に向き合う、真っ当な石鹸屋として平和な一日を過ごしたかった。

 

 記念すべき、普通の商人としての最初の訪問者は、商会へ多額の利益をもたらす富裕な上客ではなかった。

 

 フィラデルフィア市内で洗濯仕事を請け負い、日銭を稼いで暮らしている初老の女性だった。

 

 マーサ・ヘイルと名乗った彼女は、夫を早くに亡くし、十代の娘と二人で、安宿や船員、小商人たちの衣服を洗って暮らしているという。

 

 応接室の椅子へ座った彼女の両手は、痛ましいほど赤くひび割れ、指の節々には無数の水疱ができていた。

 

「ヴァレンタインの石鹸なら、汚れは落ちるのに手が荒れにくいと聞いて、少し無理をして買ったんです。それなのに……」

 

 マーサは、怒りと悲しみが入り交じった声で訴えながら、ハンカチに包んだ石鹸の塊を俺の机へ置いた。

 

「うちの商品を、どの店で買われましたか?」

 

 俺は石鹸を手に取り、慎重に観察した。

 

 見た目は、確かにうちの商会が製造している廉価な洗濯用石鹸に似ている。

 

 長方形。

 

 淡い灰白色。

 

 表面には、ヴァレンタイン商会を示す大きな『V』の印まで押されている。

 

 だが、製造工程を知り尽くしている俺の目には、一目でいくつもの違和感が飛び込んできた。

 

 色が不均一で、中心へ向かうほど妙に黄色がかっている。

 

 獣脂の処理が甘く、獣特有の生臭い臭いが残っている。

 

 表面に浮き出ている白い粉は、強すぎるアルカリ成分が固まったものだ。

 

 切断面には、溶け残った灰や砂らしき細かな粒が混ざっている。

 

 大きさのわりに軽く、表面の『V』も彫りが浅く、輪郭が崩れていた。

 

「奥さん。これは、うちの商会が作った石鹸じゃありません」

 

 俺が静かに告げると、マーサは顔を強張らせた。

 

「でも、あなたのところの印が押してあります!」

 

「印だけを勝手に真似されてるんです。中身はまったくの別物です」

 

「私に、そんな違いが分かると思いますか!?」

 

 その悲痛な叫びに、俺は言葉を失った。

 

 彼女の指摘は、残酷なほど正しい。

 

 商会の人間からすれば、うちの正規品は品質が高いのだから、見比べれば分かると思ってしまう。

 

 しかし、毎日冷たい泥水へ手を入れて働く客からすれば、どちらも白く四角い石鹸だ。

 

 どちらにも同じ『V』の文字が刻まれている。

 

 工房の釜の中を見られない客へ、製造品質の違いを見抜けと言うのは、無理な話だった。

 

 さらに深刻なのは、マーサが被った被害が、手が荒れたことだけではなかったことだ。

 

「この石鹸で、小間物屋の主人から預かった上等なシャツを洗ったら、生地の色がひどく抜けてしまったんです。布もぼろぼろになって、弁償しろと怒鳴られました。手が痛くて、いつもの半分も洗えません。昨日は見かねた娘が、代わりに冷たい水へ手を入れて洗ってくれました」

 

 一個の粗悪な石鹸が生んだ損失は、石鹸一個分の代金では済んでいない。

 

 顧客からの信用。

 

 衣服を弁償するための借金。

 

 労働力の喪失。

 

 娘へのしわ寄せ。

 

 マーサの生活基盤そのものが、壊れかけていた。

 

 俺は羽ペンを取り、彼女の訴えを細かく項目へ分けて聞き取っていった。

 

「買った日はいつですか。店の名前と場所は? 値段は? 何個買いました? 使い始めたのはいつからですか。最初に手の異常を感じたのは? 色落ちした布の種類も分かりますか?」

 

 矢継ぎ早に質問する俺を見て、マーサが怪訝そうな顔をした。

 

「……まるで病院の先生みたいに聞くんですね」

 

「すみません。最近、口うるさい医者から毎日質問攻めにされたせいで、悪い癖が移ったんですよ」

 

 背後でギデオンがぼそりと呟く。

 

「お前が、その面倒な医者へ事細かに記録する方法を教え込んだのだろうが」

 

「今はもう、どっちが原因だったか分からなくなってるんだよ!」

 

 状況の深刻さを察した本店の番頭が、俺の耳元へ顔を寄せた。

 

「旦那様。当商会の『V』の名が使われている以上、ここは穏便に、損害をすべて補償して口を閉ざしていただいた方がよいのでは?」

 

 俺も、彼女の荒れた手と生活の惨状を見て、即座に金庫から金を出し、すべて補償してやりたい衝動に駆られた。

 

 だが、アーサーが静かに止めた。

 

「旦那様。この商品を製造したのは、当商会ではありません」

 

「でも、彼女はうちの商品だと信じて買ったんだぞ。生活がかかってる」

 

「だからこそ、何を誰が補償するのかを、明確に分ける必要があります」

 

 アーサーの言葉に、俺はボストンでの裁判を思い出した。

 

 名前を使われた。

 

 客が信じた。

 

 被害が出た。

 

 だからといって、それらすべてが、

 

『ヴァレンタイン商会が粗悪な石鹸を製造した』

 

 という一つの事実になるわけではない。

 

 俺はマーサへ向き直った。

 

「奥さん。手の手当てにかかる費用と、今日仕事を休んだ分については、俺の判断で助けます。でも、傷んだ衣服の損害や、この石鹸が売られた経緯については、どこの店が売って、どこの工房が作ったのかを調べてから、誰がどれだけ払うかを決めたいんです」

 

「……責任から逃げるおつもりですか」

 

 マーサが疑いの目を向ける。

 

「逃げません。逆です。誰が何をしたのか分からないまま、適当に金を払って『これで終わり』にするような真似はしたくないんです」

 

 善意で俺が全額を払ってしまえば、目の前のマーサは助かる。

 

 だが、粗悪品を作った者も、それを正規品として流した者も、偽りを知りながら売り続けた者も、そのまま逃げる。

 

 責任の所在が、金と一緒に曖昧な泥水へ沈んでしまう。

 

 俺は工房から正規品の洗濯用石鹸を一個持ってこさせ、マーサが持参した偽物と、机の上へ並べた。

 

「見た目は似てる。でも、中身は別物です」

 

 人間の手をこれ以上傷つけるわけにはいかない。

 

 俺たちは、豚肉から削ぎ落とした皮の切れ端と、油で汚れた布、同じ量の水を入れた桶を二つ用意し、簡単な比較試験を行った。

 

 同じ重さの石鹸。

 

 同じ大きさの布。

 

 同じ量の水。

 

 同じ時間。

 

 同じ回数だけかき混ぜる。

 

 正規品は水の中へ入れてもゆっくりと溶け、穏やかな泡立ちで汚れを落とした。洗った後の布にも、強い刺激臭は残らない。

 

 一方、偽物は水へ入れると表面が急速に崩れ、異常なほど泡立った。

 

 汚れは確かに落ちる。

 

 だが洗い終わった布からは鼻を突くような臭いがし、豚皮の表面は強いアルカリ成分によって荒れ、変色していた。

 

「汚れが落ちるのは、事実なんだな」

 

 俺が呟くと、番頭が言った。

 

「ならば、偽物でも一応は商品として成立しているのではありませんか?」

 

「床の汚れを削り落とすとか、油まみれの鉄鍋を洗うとかなら使えるかもしれない。でも、これを手洗いや繊細な衣服へ使えば、手と布を傷める。用途の違う物を、うちの石鹸と同じ名前で売ってるのが問題なんだよ」

 

 偽物は、完全に無価値なごみではなかった。

 

 だからこそ、客は騙され、使い続けてしまう。

 

 俺は、一件の苦情だけで全体を判断するのをやめた。

 

「留守中に届いた、石鹸に関する苦情の記録を全部持ってこい!」

 

 集められた記録には、似たような訴えがいくつもあった。

 

 手が荒れた洗濯女。

 

 色物の染料が抜けてしまった仕立屋。

 

 食器へ生臭い獣脂の臭いが残り、客から苦情を受けた宿屋。

 

 傷口へ石鹸を塗ったところ、激痛が走り、化膿した港湾労働者。

 

 偽物を正規品だと思い込み仕入れた小売店。

 

 本物と偽物を混ぜて売っていた行商人。

 

 俺は大きな羊皮紙を広げ、それらを項目ごとに並べた。

 

【購入場所】

 

【購入日】

 

【価格】

 

【石鹸の外見】

 

【刻印の有無】

 

【使用した用途】

 

【発生した問題】

 

【残品の有無】

 

「同じ偽物だからって、全部が同じ工房の仕業とは限らない。一つずつ分けるぞ」

 

 ボストンの裁判で学んだやり方を、今度は商業調査へ転用する。

 

 苦情品を並べて分析した結果、市場に出回っている偽物には、少なくとも三種類の系統があると判明した。

 

 第一種。

 

 ヴァレンタイン商会の四角い形と、白い色だけを真似た安物。

 

 『V』の印はない。

 

 品質は粗いが、販売者も客に対し、名もない安価な洗濯石鹸として売っている。

 

 これは便乗した模倣品ではあるが、うちの商品だと偽ってはいない。

 

 第二種。

 

 『V』の印が押されている。

 

 商会特有の包装紙や広告はない。

 

 見た目だけを商会品へ近づけ、正規品だと思わせて売ることを目的としている可能性が高い。

 

 マーサが買わされたのは、これだった。

 

 そして第三種。

 

 商品に、ご丁寧な紙片まで巻かれている。

 

 俺は紙片に印刷された文字を読み、全身が凍りついた。

 

【ボストンでの恐るべき銃創を完治させた、ヴァレンタイン式衛生石鹸】

 

【名医も認めた奇跡の洗浄法】

 

【すべての傷、熱、腐敗に効く魔法の薬石鹸】

 

 完全な虚偽広告だった。

 

 しかも、俺がパトリック・カーを救ったというボストンの噂を、最悪の形で利用している。

 

「……誰が、こんな文句を書いたんだ?」

 

 俺の声が低く沈む。

 

 アーサーが、調べた情報を報告した。

 

「ボストンで銃撃を受けた負傷者が、旦那様の出張施設で治療され、生還したという噂が、船乗りの口を通じてフィラデルフィアへ広まったようです。そこへ尾鰭がつき、このような惹句へ変わったものかと」

 

「俺は石鹸で銃創を治したわけじゃない! ただ手と器具を洗って、清潔にしただけだぞ!」

 

「ですが、手を洗い、布や器具を清潔にしたことが生存へ寄与したのであれば、まったく無関係とも言い切れまい」

 

 ギデオンが腕を組んで言う。

 

「一番たちの悪い、事実を細かく切り刻んでつなぎ合わせた嘘じゃないか!」

 

 俺は第三種の広告文を、ペンで一つずつ分解した。

 

【事実】

 

 カーはボストンの銃撃で負傷した。

 

 ヴァレンタイン商会の仮施設で治療された。

 

 商会の石鹸が、手洗いと器具の洗浄に使われた。

 

 カーは生存した。

 

 医師が経過を記録した。

 

【証明されていないこと】

 

 石鹸そのものが銃創を治した。

 

 石鹸を傷口へ直接塗った。

 

 石鹸が発熱や腐敗を直接治療した。

 

 医師が、この偽物を推奨した。

 

 この偽物が、商会の正規品と同じ品質である。

 

「全部、本当に起きた断片的な出来事を並べてる。でも、その並べ方と光の当て方で、石鹸という商品が銃創を奇跡的に治したっていう、まったく別の物語を作ってるんだ」

 

 ボストンで散々見た構造が、今度は俺の商品広告へ姿を変えて現れた。

 

 ポール・リヴィアの版画。

 

 サミュエル・アダムズによる、事実の強調と切り取り。

 

 そして、奇跡の石鹸。

 

「政治的な宣伝の版画と、商品を売る石鹸の広告は、根本の構造がよく似ているな」

 

 ギデオンが皮肉を言う。

 

「一緒にしたくないけど、似てる! 似すぎてて腹が立つ!」

 

 俺は、マーサが偽物を購入したという、市場近くの小さな雑貨店へ向かった。

 

 店主のサイラス・ブーンは、善人でも巨悪でもない。

 

 油、蝋燭、紙、針、糸、保存食などを売り、その日その日の利益を積み重ねて暮らしている小商人だった。

 

 店の軒先には、堂々と【ヴァレンタイン式石鹸】と書かれた札が下がっていた。

 

「これ、誰の許可で書いたんだ?」

 

 俺が尋ねると、店主は目を丸くした。

 

「卸売商が、お宅の商会から新しく出た廉価品だと言って持ち込んできたんです」

 

「中身を確認しなかったのか」

 

「立派な『V』の印がありました。包み紙にもお宅の名前が書いてある。値段も本物より少し安い程度だった。偽物だと疑う理由がありませんよ!」

 

 店主自身も、卸商に騙されていた。

 

 だが、マーサのような苦情が何件も出た後も、

 

「仕入れてしまったから」

 

 という理由で販売を続けていた。

 

「最初に騙されて仕入れたことと、客の手が荒れたと聞いてからも、利益のために売り続けたことは別の責任だぞ」

 

 店主は黙り込んだ。

 

 同じ人物の行為でも、何も知らなかった時と、問題を知った後では意味が違う。

 

「仕入れの帳簿を見せてくれ」

 

 店主が渋々差し出した帳簿は、極めて簡素なものだった。

 

【石鹸 二十個】

 

【売主 ジョサイア・プラット】

 

【支払い 現金半分、残り翌月】

 

 製造した工房の名前は、どこにもない。

 

「どこで作った商品か、聞かなかったのか?」

 

「卸商が持ち込む品を、毎回工房の釜まで確かめに行く店なんてありませんよ」

 

 これも、この時代の商売としては間違っていない。

 

 商品の品質を統一して保証する仕組みがない以上、商売は、

 

『誰から買ったか』

 

 という人間同士の信用へ強く依存する。

 

 だが、ジョサイア・プラットという卸商は、最近市場へ出入りし始めた新参者だった。

 

 店主は確かな信用を確認せず、目先の利益と『V』の印だけを信じたのだ。

 

 俺は店先の木箱を確認した。

 

 中には、うちの正規品、第二種の偽物、第三種の紙巻き石鹸が、区別もなく混ざっていた。

 

「これ、どれを誰へ売ったか追跡できるか?」

 

「分かるわけがないでしょう」

 

「だから問題なんだよ!」

 

 俺は役人ではない。

 

 法的な強制力で店を閉鎖したり、店主を逮捕したりはできない。

 

 だから、商会として持つ信用を使った。

 

「今すぐ、この木箱の偽物の販売を停止しろ。従わないなら、今後ヴァレンタイン商会から正規品を供給しない。この店との取引を打ち切った事実も、他の商人へ知らせる。素直に従うなら、苦情の出た偽物は、調査用としてうちが買い戻す」

 

 店主は抵抗した。

 

 だが、ヴァレンタイン商会との取引を失えば、石鹸以外の商品にも影響が出る。

 

 最終的に、青ざめた顔で頷き、偽物を引き渡した。

 

 次に帳簿の記載を追い、卸商ジョサイア・プラットを探し出した。

 

 プラットは、自分では製造設備を持たず、複数の工房から商品を仕入れて市場へ流す、小規模な仲買人だった。

 

 俺たちの姿を見るなり裏路地へ逃げようとしたが、アーサーの人間離れした足捌きと、ギデオンの巨大な体躯に挟まれ、あっさり商会の応接室へ連れてこられた。

 

「安心しろ。今日は、ただの普通の商談だ」

 

 俺が笑顔で言うと、プラットは引き攣った顔で後ろを見た。

 

「後ろに立ってる二人は、どう見ても普通の商人じゃありませんがね!」

 

「安心しろ。私は、すでに食事を済ませている」

 

 ギデオンが低い声で言う。

 

「冗談でもそういう脅し方をするな!」

 

 プラットは全面否認しなかった。

 

「あの石鹸を店へ売ったのは、確かに私です」

 

 だが、見事なまでに責任を細かく分散させ始めた。

 

「製造したのは私じゃない。郊外の工房です。『V』の印を押したのも工房の主だ。紙を印刷したのは印刷屋。ボストンの銃創の噂は港の酒場で船員から聞きました。医者が認めたという文句だって、工房主が効果があると言ったのを使っただけです」

 

 俺は怒鳴りつけそうになったが、深呼吸して堪えた。

 

 ただの言い逃れかもしれない。

 

 だが、本当に複数人がばらばらに関わり、誰も自分を主犯だと思っていない可能性もある。

 

 ボストンの法廷でも見た光景だった。

 

 プラットの帳簿を調べる。

 

 店主のものよりは詳しい。

 

 仕入れた工房名。

 

 数量。

 

 仕入価格。

 

 納品先。

 

 売値。

 

 だが、致命的な欠陥があった。

 

『どの工房で作られた石鹸を、どの店へ売ったか』

 

 という、製造元と販売先の結びつきが残されていない。

 

「お前、一日に複数の工房から仕入れた石鹸を、区別せず同じ荷車へ放り込んだな?」

 

「石鹸は石鹸でしょう。数が合えば問題ない」

 

「品質が違うから、今こうして問題になってるんだよ!」

 

 広告を作った経緯も問いただした。

 

「見栄えがよくて、売れるように紙を巻いただけですよ」

 

 文章の原案は、プラットが作っていた。

 

 だが、彼は悪びれずに言った。

 

「【ヴァレンタイン式】という名前は、工房主が先に使っていた。【医師も認めた】は、船員の噂話を少し膨らませただけです。そして【銃創を治した】という文句は、印刷屋の親父が、短くして目立たせるために勝手に言い換えたんです」

 

「……全員、自分は少しだけ話を盛っただけで、悪気はなかったと言うわけか」

 

「売るための広告なんて、そういうものでしょう」

 

「違う。誇張していいことと、悪いことがある。少なくとも、人が傷口へ直接塗る可能性のある商品でやるな」

 

 プラットは、後世の悪徳企業家のような巨大な悪人ではない。

 

 彼にとっては、街で当たり前に見かける万能薬の大げさな宣伝文句と、大差のない商売だったのだろう。

 

 だが、その小さな誇張が積み重なり、商品の用途を変え、現実の被害を生んだ。

 

 広告を刷った印刷屋へも足を運んだ。

 

 インクにまみれた親父は、面倒くさそうに答えた。

 

「私は、依頼された文章を紙の大きさへ合わせて整えただけです」

 

「『銃創を治した』と書き換えたのは、あんただろ」

 

「元の文章には、『ボストンの銃撃の凄惨な現場を生き延びた負傷者へ使用された』と、だらだら長く書いてあった。意味を分かりやすく、短くしただけですよ」

 

「意味が完全に変わってるんだよ!」

 

「短くしなければ、紙代が増えて依頼人に怒られるんです」

 

 広告としての目立ちやすさと、事実の精度が、紙面の狭さという物理的な制約で衝突していた。

 

 俺は羽ペンを借り、訂正文を書き始めた。

 

【当商会の石鹸は、適切な洗浄によって汚れを落とすことを目的とし、銃創、発熱、腐敗その他の疾病を単独で治療するものではなく、あくまで衛生環境を保つための補助的な――】

 

「長すぎます」

 

 印刷屋が即座に却下した。

 

「これくらい書かないと誤解されるだろ!」

 

「この長さでは、広告ではなく退屈な小冊子です。誰も石鹸一個を買うために、小冊子なんて読みませんよ」

 

 俺は頭を抱えた。

 

 調査を続け、ついに偽物を作った製造工房へ辿り着いた。

 

 フィラデルフィア郊外。

 

 くすんだ煙を吐き出す、小さな工房。

 

 工房主エフライム・ベルは、廃油脂の悪臭が立ち込める中、家族と二人の徒弟へ指示を飛ばしながら、石鹸を煮込んでいた。

 

 ベルは俺を見ると、逃げるどころか開き直った。

 

「石鹸は、あんたの商会だけが作っていい発明品じゃないはずだ」

 

「ああ、そうだよ」

 

 俺が素直に認めると、ベルは逆に驚いた。

 

「俺は、お前が石鹸を作るなとは言わない。白くて四角い形にするなとも言わない。問題は、うちの名前と『V』の印を勝手に使ったことだ」

 

「客が、あんたのところの石鹸ばかり求めるからだ!」

 

「だからって、中身の違う物へ同じ名前をつけていい理由にはならない」

 

 ベルの工房を詳しく調べると、ヴァレンタイン商会が抱える影も見えてきた。

 

 この工房はもともと、地域の宿屋や洗濯屋、船、工房などへ、洗浄力の強い安価な石鹸を卸して生計を立てていた。

 

 だが、俺の商会が、

 

 臭いが弱い。

 

 品質が安定している。

 

 手が荒れにくい。

 

 そんな石鹸を大量に供給し始めたことで、ベルの得意先は次々と離れた。

 

 注文が減り、徒弟の給金すら危うくなった。

 

 ベルは、生き残るために、

 

『同じような物を、もっと安く作ればいい』

 

 と考えた。

 

 形と色を寄せた。

 

 そこへプラットが、

 

『Vの印をつければ売れる』

 

 と持ちかけた。

 

 最初は職人の意地で拒んだ。

 

 だが借金と、家族と、徒弟の生活のために、最後は印を押すことを受け入れた。

 

 俺の技術改善と商会の拡大は、客と公衆衛生にとっては善だった。

 

 しかし同時に、既存の小工房を圧迫し、不正へ手を出す土壌を作った原因の一つでもあった。

 

「俺がボストンへ行ってる間に、足元でこんなことになってたのか……」

 

 同行した番頭が言う。

 

「品質競争で勝った結果です。商売として、当商会に問題はありません」

 

「問題がないことと、影響がないことは違う」

 

 ベルが不正をした事実は消えない。

 

 だが、

 

『根っからの悪人だから偽物を作った』

 

 のではなく、

 

『生活を圧迫された末に、不正を選んだ』

 

 という順序は、記録しておく必要がある。

 

 同情と免罪は、分けて考えなければならない。

 

 俺はベルの製造工程を確認した。

 

 彼自身は、未来知識を持たないだけで、石鹸作りの経験を積んだ職人だった。

 

 本来なら、マーサの手をここまで荒れさせる危険な品を作る男ではない。

 

 粗悪化した原因は、一つではなかった。

 

 価格を下げるため、質の悪い酸化した獣脂を使った。

 

 灰汁の濃さを確かめず、長年の勘だけで投入した。

 

 プラットの注文を急いでこなすため、十分な熟成期間を置かなかった。

 

 重さを増すため、灰や細かな砂を混ぜた。

 

 冬の低温で、仕上がりが不均一になった。

 

 そして、出来の悪い失敗作まで廃棄せず、販売へ回した。

 

「……一つの原因じゃないな。全部の手抜きが重なってる」

 

「安く、早く、ヴァレンタイン商会みたいに大量に作れと急かされたんだ!」

 

 ベルが怒鳴る。

 

「うちの工房だって、納期と値段だけを優先したら、同じ事故が起きるな……」

 

 これは、偽物工房だけの問題ではない。

 

「うちの工房の製造帳簿を持ってこい!」

 

 番頭が運んできた分厚い帳簿を、ベルの前へ置く。

 

 使用した油脂の種類。

 

 仕入先。

 

 製造日。

 

 鍋を担当した職人。

 

 投入した灰汁の量。

 

 加熱時間。

 

 切り分けた個数。

 

 検品で廃棄した数。

 

 販売先。

 

 一方、ベルの帳簿にあるのは、

 

 原料を買った金額。

 

 完成品の個数。

 

 売上額。

 

 それだけだった。

 

「石鹸を煮込むたびに、こんな細かいことを書いているのか?」

 

「毎回、同じ品質の物を作るためだよ」

 

「職人の腕と勘を信用していないのか」

 

「違う。職人を信用するために、記録するんだ」

 

 俺は帳簿のページを叩いた。

 

「出来が悪かった時に、職人の腕が悪かった、怠けたと感情で決めつけるんじゃない。原料が悪かったのか、火加減の指示が間違っていたのか、気温が低すぎたのかを、後から調べるための記録だ」

 

 偽物へ、本物だと主張する証明書をぶつけても、証明書ごと真似される。

 

 印も、名前も盗める。

 

 だが、

 

 いつ。

 

 どこで。

 

 誰が。

 

 何を使って。

 

 どのように作ったのか。

 

 そこまで遡れる製造記録は、見た目だけを真似た偽物には作れない。

 

 偽物を打ち破る武器は、本物だと叫ぶことではない。

 

 本物が作られた道を残す、帳簿だった。

 

 真祖吸血鬼としての嗅覚や感覚を使えば、俺は成分の違いを一瞬で見抜ける。

 

「お前には、臭いだけで俺の作った物と違うと分かるのか?」

 

 ベルが、不気味なものを見るように尋ねる。

 

「俺には分かる。でも、俺にしか分からない方法じゃ、商会の品質管理としては何の意味もない」

 

「旦那様が不在でも、人間だけで運用できる証拠が必要ですからな」

 

 アーサーが頷いた。

 

 俺は、ベル、プラット、雑貨店主ブーン、印刷屋への処置を、それぞれの責任へ応じて分けた。

 

 エフライム・ベル。

 

 商会印の模倣。

 

 品質の悪い品の販売。

 

 失敗作の未廃棄。

 

 『V』の印を今後使用しない。

 

 残品を回収する。

 

 マーサへの補償を一部負担する。

 

 今後はベル工房の名を明記して販売する。

 

 品質安定化を受け入れるなら、ヴァレンタイン商会が工程管理を教える。

 

 ジョサイア・プラット。

 

 偽広告の作成。

 

 正規品と偽って卸売。

 

 出所の異なる石鹸の混同。

 

 苦情が出た後も販売を継続。

 

 広告の撤回費用を負担する。

 

 被害補償の最大割合を負担する。

 

 今後、製造元が明記されていない商品を、うちの名で扱わない。

 

 再犯した場合は、商会の取引網から排除する。

 

 サイラス・ブーン。

 

 最初は騙されて仕入れた。

 

 だが、苦情が出た後も在庫を売り続けた。

 

 正規品と偽物を混ぜて販売した。

 

 残品を回収する。

 

 購入者へ偽物混入を知らせる。

 

 交換または返金へ応じる。

 

 仕入帳へ、卸商だけでなく製造元も記録する。

 

 印刷屋。

 

 紙面の都合で表現を強め、意味を変えた。

 

 訂正文の印刷費用を一部負担する。

 

 今後、医療効果をうたう広告では、依頼主の署名を記録する。

 

「技術指導という名目で、俺の工房を乗っ取る気か」

 

 ベルが警戒する。

 

「うちの商会へ入れとは言わない。教えるのは、灰汁の濃さを毎回同じ方法で確かめること、原料を分けて記録すること、用途ごとに印を変えること、問題品を捨てる基準を作ることだけだ」

 

 未来の高度な化学知識を丸ごと渡すつもりはない。

 

 ベルと徒弟たちだけで再現できる工程管理だけを教える。

 

「うちと同じ石鹸を作る必要はない。お前の石鹸が、昨日と今日で同じ品質になればいい」

 

 ベルの安価で洗浄力の強い石鹸には、確かな需要がある。

 

 手洗いには向かない。

 

 だが、厨房の鍋、船の甲板、油まみれの作業着を洗うには使える。

 

「身体洗浄用、衣類洗浄用、器物・床用に用途を分ける。ベル工房は、器物や床へ使う安価な石鹸を作ればいい」

 

「安物を作る三流工房になれと?」

 

「違う。用途に合った物を作れって言ってるんだ。価格が安いことと、品質が悪いことは同じじゃない」

 

 既存の単純な『V』印は、誰でも真似できる。

 

 俺は正規印を作り直した。

 

 外周に二重円。

 

 中央に『V』。

 

 下部に小さな水鉢。

 

 さらに、製造時期を示す小さな記号を加える。

 

【P・三・一】

 

 フィラデルフィア工房。

 

 第三鍋。

 

 一月製造分。

 

 一個ずつに異なる番号をつけるのではない。

 

 同じ鍋、同じ原料、同じ条件で作った分へ、同じ製造印を押す。

 

 問題が出た時に、同じ条件で作った品をまとめて調べるためだ。

 

 新しい苦情帳も作った。

 

【客の名前】

 

【購入店】

 

【製造印】

 

【使用した用途】

 

【発生した問題】

 

「苦情は、商会を攻撃してくる敵じゃない。製造工程のどこかに不具合があると教えてくれる報告だ」

 

 一件だけで、製造分すべてに問題があるとは断定しない。

 

 同じ印の商品から複数の苦情が出た場合に、その製造分を重点的に調べる。

 

 ジェフリーズに教えた、

 

『一例だけで結論を出すな』

 

 という言葉を、自分の商売へ戻すことになった。

 

 客向けの交換制度も始めた。

 

 商会名が使われた粗悪品を持参した者には、一定数まで正規品と交換する。

 

「すべて無料交換したら、偽物を安く買い集めて持ってくる者が出ませんか」

 

 番頭の懸念に対し、

 

 一人あたりの交換上限。

 

 購入場所の申告。

 

 繰り返し来る者の記録。

 

 大量持ち込みは別途調査。

 

 という対策を入れた。

 

「不正を完全にゼロにしようとして制度を固くしすぎて、本当に困ってる正直な客まで助けられなくなる方が、俺は嫌だ」

 

 印刷屋と練り直した新聞の訂正文は、最終的にこうなった。

 

【告知】

 

 ヴァレンタイン衛生用品商会は、石鹸によって銃創を治療できるとは主張していない。

 

 当商会の石鹸は、手、布、器具その他を洗浄するための商品である。

 

 正規品は、所定の商会印と製造印を持ち、指定された取扱店で販売される。

 

 商会名を用いた粗悪品を購入した者は、残品と購入場所を本店へ届けられたい。

 

【石鹸は汚れを落とす。奇跡は売らない】

 

「最後の一文が、最も広告らしくて目を引きますね」

 

 印刷屋が満足げに言う。

 

「俺は広告らしくしたくなかったんだけど!」

 

 数週間後。

 

 ベルの工房は、閉鎖されることなく再始動した。

 

 新しい帳面には、まだ粗い字ではあるが、原料、製造日、担当者、用途、廃棄数が記されている。

 

 ベル工房の新商品。

 

【ベル工房・器物洗浄石鹸】

 

 ヴァレンタイン商会の身体用石鹸より安価で、洗浄力が強い。

 

 手洗いには向かない。

 

 だが、床や鍋、船の甲板を洗うには十分に役立つ。

 

 うちの商会でも、用途を明確に分けた上で、少量を取り扱うことになった。

 

「情けをかけたつもりか」

 

 ベルが憎まれ口を叩く。

 

「違う。また生活に困って、裏で偽物を作られたら俺が困る。正面から競争できる場所へ引っ張り出しただけだ」

 

 ベルは礼を言わなかった。

 

 だが帰り際、偽造に使っていた古い『V』の刻印の先を削り落とし、ただの鉄塊へ変えた物を、無言で俺の机へ置いていった。

 

 すべての処理を終え、俺は商会帳簿の最後のページへ、今回の総括を書いた。

 

【偽物対策】

 

 一、正規品の印を明確にする。

 

 二、製造単位を記録する。

 

 三、販売店を記録する。

 

 四、苦情を製造単位へ結びつける。

 

 五、一件だけで全体を断定しない。

 

 六、用途の異なる商品を分ける。

 

 七、商会名を使わない競争商品は妨害しない。

 

 八、医療効果を証明なく宣伝しない。

 

 九、被害者を宣伝の材料にしない。

 

 十、問題が起きた時、犯人を一人にまとめない。

 

「……最後の方は、石鹸の規則というより、裁判の教訓だな」

 

 ギデオンが背後から覗き込む。

 

「裁判で学んだ理屈が、石鹸の品質管理にも使えたんだよ」

 

「石鹸で学んだことも、いずれ国家の運営へ使うのか」

 

「石鹸からいきなり国家運営へ話を飛ばすな! 今日は俺は、ただの普通の商人なんだから!」

 

 夕方。

 

 マーサの手は回復へ向かい、補償も済んだ。

 

 偽物は回収された。

 

 訂正文は印刷された。

 

 ベルの工房も、不正をやめた上で再出発した。

 

 俺は椅子へ深く沈み込み、大きく伸びをした。

 

「終わった……」

 

「旦那様。本日の死者はゼロです」

 

 アーサーが静かに報告する。

 

「……本当に?」

 

「石鹸に関する死者は、確認されておりません」

 

「石鹸に関するって、限定した言い方をするなよ!」

 

「望み通り、普通の商人の平和な一日だったな」

 

 ギデオンが言う。

 

「普通の商人って、偽物の製造経路を追跡して、品質規格を作って、製造単位を管理して、回収と補償の差配までやるものなの?」

 

「不老不死のお前にとっては、普通なのだろう」

 

 俺は、机の端に置かれたままの報告書を見た。

 

【人間かどうか確認できない遺体について】

 

 一瞬、手を伸ばしかける。

 

 だが、すぐに時計へ目を向けた。

 

「……今日は、もう読まない」

 

「よろしいのですか」

 

「明日でいい。どうせ動いてないんだろ?」

 

「現在も、地下の封印状態に変化はありません」

 

 俺は遺体報告書の上へ、新しく作った石鹸の製造帳簿を置いた。

 

「じゃあ今日は、完全な普通の商人として家に帰る」

 

「どこへ帰るのだ?」

 

「二階の寝室だよ! ここが俺の家なんだから!」

 

 偽物の石鹸を一つ潰したところで、次の偽物はいずれ現れる。

 

 印は真似できる。

 

 名前も盗める。

 

 本当に起きた出来事を並べ替え、存在しない奇跡を作る広告を書くこともできる。

 

 だから俺は、偽物を見つけるたびに腕力で殴り込みへ行く代わりに、どこで、いつ、誰が、何を作ったのかを記録することにした。

 

 石鹸一個にも、履歴が要る。

 

 問題が起きた時、原因まで戻るための道が要る。

 

 ボストンから持ち帰ったものは、血生臭い裁判記録だけではなかったらしい。

 

 誰か一人を巨悪へまとめる前に、起きたことを細かく分ける。

 

 誰かの人格を責める前に、どの工程で何が起きたのかを確かめる。

 

 その面倒で泥臭い手続きは、銃撃事件だけでなく、偽物の石鹸にも有効だった。

 

「よし。今日は本当に、誰も死ななかった」

 

 俺が満足して帳簿を閉じようとした、その時。

 

 アーサーが、机の端にある報告書を静かに指差した。

 

「不審な遺体につきましても、死者には数えないのでしょうか」

 

「最後の最後で、また死体の話へ戻すなよ!」

 




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