琴葉姉妹はやさしい二人。
そんな二人には両親がいなかった。
二人は貧困のなかで、それでも健気に協力して生きてきた。
二人は同じ学校に通い、そして卒業した。
卒業後は貧困を理由に就職をした。
しかし、姉の茜はその真面目さが裏目に出たのか、あるいは単に世間知らずであることが災いしたのか、精神を病んで会社を辞めてしまった。
春。そんな茜を支えるために、妹の葵は仕事を増やした。
葵も苦しいのは同じだったが、彼女はその苦しさを表には出さない。
それが小さいころからやってきた、彼女なりの気の使い方だった。
「お姉ちゃん、そろそろ就職とか...」
「葵、ごめんな。うち、いつも葵ばかりに負担を強いてしまって、うち、何にもできんくて...」
「私は大丈夫だけど、お姉ちゃんのほうが心配だよ。会社を辞めてから、薬の数も増えてるんでしょ」
葵の言葉は本心だった。しかし、その言葉が茜を苦しめる。
葵はきっと本心を隠している。本当は自分のことを煩わしく思っているに違いない。
そんな風に考えてしまうのだ。
愚痴一つこぼさない葵のやさしさと期待は、何もできない自分をみじめなものにしていった。
そして、茜は泣きながら葵に謝る。それしかできないのだ。
「ごめんな、うち、何にもできなくて、ごめんな、お姉ちゃんなのに葵に頼りきりで、何もできんくて...」
こんなやり取りを何度繰り返しただろうか。
いつか夢にみた、二人での生活。ずっと一緒にいること。それが今は茜を追い込んでいた。幼いころから妹の期待に応えようと努力してきた茜は、本当のところ自分が妹より劣っていることに気づいていた。それでも、葵は茜を否定しなかったし、常に優しく振舞い、感情を出すことをしなかった。ただ、静かに茜のことを支えているのだ。そんな態度が、また茜を追い込む。何もできない姉と、それを支える妹。自分は葵の人生を壊してしまっているのではないか?本当は葵も自分のことを恨んでいるのではないか?そんなことは絶対にないと思いながらも、また葵に甘えてしまう自分を嫌いになっていった。しかし、頼れるのは葵だけだった。
夏。夜ごはんの時間。
「葵、ごめんな、ご飯もつくれんくて。」
ごめん、という言葉はこの頃、茜の口癖になっていた。
「今はお姉ちゃんも苦しいかもしれないけど、いつかよくなるから。そしたら、また仕事もできるし、生活もよくなっていくよ」
「葵、もう無理なんや。うち、もう限界や、このまま葵に迷惑かけて生きていけへん」
「迷惑だなんて...」
「思ってるんや!いつまで、こんな生活を続けるつもりなんや!」
感情が怒鳴り声に乗って葵をうつ。それまでため込んでいた自分への怒りを、妹に迷惑をかけていることの申し訳なさを。机の上のごはんが床に叩きつけられ、食器が割れる。
「本当は心の中で、うちのことバカにしているんや!なんで愚痴の一つも言わないん!うちのこと見下しているからやろ!自分が面倒みてあげなきゃって見下してるから、そんなことができるんや!葵なんて大っ嫌い!」
茜が頼れる人は葵しかいなかった。彼女が感情をぶつけることができるのも、また葵しかいない。このようなケンカは日常茶飯事だったが、今回ばかりは様子が違った。茜が限界を迎えていたのと同時に、葵も限界だったからだ。
「お姉ちゃん!いい加減にしてよ!私がお姉ちゃんのこと見下してるわけないじゃん!私はお姉ちゃんのために働いて、ご飯も作ってるのに、そんなの酷いよ!」
茜は葵が取り乱したことに驚いた。瞬間、やってしまったと感じた。いつもなら、どれだけ酷いことを言っても、葵は自分を慰めてくれるからだ。申し訳なさが胸を締め付ける。それでも、この日の茜は引き返すことができなかった。「もう、知らん!」と言い外に飛び出す。
茜は走りながら思った。かつては、ずっと二人でいることが夢だった。それが今は苦しい。これまで、葵と一緒に過ごした幸せな時間を思いだしながら、それでも永遠にも思える苦しみの今があった。こんな生活を続けていいわけがない。いなくなってしまいたい!消えてしまいたい!もう、葵に迷惑かけたくない。自分はもう、葵に会う資格がない。お姉ちゃん失格だと...
それでも、茜に帰る場所があるとすれば、葵のいるあの部屋だった。
翌朝、部屋に戻ると食器が片付けられていた。そして、葵が笑顔で迎えてくれた。腫れた目で笑いながら、「お姉ちゃん、帰ってきてくれてよかった」と抱き着いてくる。
こんな調子で日常を続けることは不可能であることは二人ともわかっていた。その日以来、葵は将来のことを話すことはなくなり、茜の病気は深刻さを増し、それどころか、葵も病んでいった。しかし、彼女は仕事を続け、自分の苦しさをひたすら隠していた。そんな葵に茜は「もう、大丈夫やから、大丈夫」と言い聞かせる。
秋。
葵が早番で帰宅する。団地は、嫌に静まり返り、空はどんよりと曇っていた。
「ただいまー」
返事がない。寝ているのだろうか。いやな予感を胸に寝室のドアを開ける。
言葉にならない言葉。胸の中に熱いものが湧き出てくる。それでも葵はすすり泣くことしかできなかった。本当はもっとずっと苦しいのに。
葵はその日以来、出勤することはなかった。
冬。
仕事を辞めてからどれくらいの時間が経過しただろうか。自分がもっと正直になっていたらよかったのか。考えてもしょうがないのに、思考は止まらない。時間は経過し、姉の姿がどんどん遠ざかっていく気がした。かつて姉と過ごした部屋。公園。スーパー。街。すべてが醜く見えた。そんな街の思い出に耐えられず、涙がこぼれた。嗚咽、嗚咽、嗚咽。涙が止まらない。「お姉ちゃん!お姉ちゃんが!」繰り返し、繰り返し、ひたすら泣いた。本当は茜の胸でこんな風に泣いてみたかったのに。もう、それは叶わない。
葵は茜のいる寝床で眠りについた。二人はずっと一緒にいた。やさしい二人の終わらない日々は続く。言葉にできない、微かな苦しみの時間は続く。