金髪の美しさに碧眼の輝きは銀手の響き。
彼女——ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、C.H郵便社から与えられた仕事に就いていた。
ライデンシャフトリヒから見て東の方角に位置する、『グニゼン諸侯国』の名家からの依頼である。
「ノエル・エルガード……」
ヴァイオレットは雇い主の名を、目的地であるエルガード領の屋敷の門を前に、そっと呟いた。
■ ■ ■
コンコン、とドアが心地よくノックされる。
「入って、どうぞ」
「失礼します」
執務室に、一人の偉く綺麗な少女が入ってきた。
「お初にお目にかかります。お客様がお望みなら、どこでも駆けつけます。自動手記人形サービス、ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」
これが噂のヴァイオレット嬢のようだ。
すらりとした肢体に、麗しき容姿。
まさに、目玉商品とはこのことを示すのだろう。
カーテシーの姿勢は恐ろしく似合っている。
「俺の名前はノエル・エルガード。ここグニゼン諸侯国における懐刀、エルガード家の当主だ。よろしく」
「はい……よろしく、お願いします?」
こちらの名乗りに、ヴァイオレットはつぶらな瞳をパチクリと不思議そうに瞬かせていた。
そして、ふと疑問を投げかけてきた。
「失礼ながら……エルガード様が、今回の依頼主でいらっしゃるのでしょうか?」
「ふふふ、驚いているようだね? そうだ、俺が依頼主で間違いない。気軽にノエルと呼んでくれたまえ」
目の前の少女は驚いたような表情をみせる。
なんてったって——。
「その、失礼ながら申し上げます。ご年齢はおいくつなのでしょうか?」
「十六といったところだ」
この俺——ノエル・エルガードは、なんとまさか十六歳の若造なのだから。
「私と……同い年でありますか」
俺は何も言わず、にこやかに頷いて見せる。
すると姿勢を正したヴァイオレットは頭をこちらに深く下げ、鈴のような声で言った。
「それでは本日より一ヶ月、依頼内容にありました通り。私、ヴァイオレット・エヴァーガーデンは——『メイド任務』を遂行させていただきます」
——メイド任務。
身の回りの整備から、従者としての行動。
なーんて……色々な言葉で着飾ってはいるが、それは完全なる俺の趣味趣向!
「実に結構。よろしく頼む」
遠くライデンシャフトリヒの地にて、偉く美人なドールが働いているという情報があったのだ。
モノは試しにと、C.H郵便社なる私営会社にそこそこの色をつけた金額と、名家としての紋章のついた手紙を送ってみたところ、OKの返事がきたのである。
「それで……エルガード様。メイド任務とは、何をすればよろしいのでしょうか?」
「ノエルで構わない。そうだな……考えてなかった」
「え、ええ? ノエル様、ではメイド任務とは一体」
ヴァイオレットの困惑した表情が可愛らしい。
大人しい姿にも、まだ少女としての幼さがある。
とはいえいじわるもここらへんにしておこう。
「まあ、とりあえずは『着替えて』から考えよう」
「は、はあ……」
「さっ! 早う着替えてきてくれ。そこにいるセバスチャンが君を案内をしてくれる」
どこか不安げな様子のヴァイオレットの背中を見送りながら、俺はゆっくりと考える。
——さて、どんなもんかな?
■ ■ ■
待つこと十数分。
コンコン、と先ほどと同じように控えめで心地よいノックの音が響いた。
「坊ちゃん、お着替えが完了いたしました」
扉の向こうから聞こえるのは、我が家の有能なる老執事、セバスチャンの声だ。
俺は心臓の鼓動が早くなるのを自覚しながら、なるべく平静を装った声色を作った。
「入ってよし」
ゆっくりと重厚な扉が開かれる。
そして、一歩踏み出してきたその姿を見た瞬間——俺は天を仰ぎ、この世界の神に圧倒的感謝を捧げた。
「ノエル様。ご指示の通り、着替えてまいりました」
そこに立っていたのは、まさに理想を体現したかのような『完璧なメイド』だった。
豪奢な金糸の髪はそのままに、彼女のすらりとした身体を包むのは、漆黒のロングスカートと純白のエプロンが織りなす伝統的なメイド服。
裾や袖口にあしらわれたフリルが、彼女の冷涼で端正な顔立ちをより一層引き立てている。
そして何より——彼女の頭頂部には、俺がセバスチャンに命じて特注させていた『白黒の猫耳』が、ぴょこんと鎮座していたのである。
クールな表情と、愛らしい猫耳のギャップ。
おまけに、手袋越しに見え隠れする銀の義手が、なんとも退廃的な美しさを醸し出しているではないか。
「うむ……素晴らしい。実に素晴らしいぞ、ヴァイオレット!」
俺はパチパチと立ち上がって称賛した。
すると、ヴァイオレットは首を傾げた。
頭の上の猫耳も、それに合わせてわずかに傾く。
おおん、破壊力がすごい。
「お褒めいただき光栄です。ですが……ノエル様」
「なんだい? サイズが合わなかったかな?」
「いえ、衣服の寸法は全く問題ありません。ただ、一つ疑問点がございまして」
ヴァイオレットは真剣な眼差しで俺を見つめると、自身の頭部に生えた猫耳を、銀の義手で指し示した。
「この頭部の装飾品には、いかなる実用性があるのでしょうか? 形状から推測するに、周辺の音を拾い上げるための集音装置の類かと考えたのですが……」
「くっ」
大真面目な顔で放たれた軍事的な推測に、俺は思わず吹き出しそうになった。
「いや、違うんだヴァイオレット。それは『ネコミミ』といってね。集音装置でもない。ただの飾りだ」
「ただの、飾り……?」
「そう。言うなれば、『可愛い』という概念を具現化した、メイドにおける最終兵器なのだよ」
「最終兵器……!」
俺の言葉を聞いた途端、ヴァイオレットの碧眼にスッと鋭い光が宿った。
「なるほど、理解いたしました。直接的な兵器ではなく、視覚情報から相手の精神に揺さぶりをかける、特殊な概念兵装というわけですね。恐るべき戦術です」
大真面目でそんなことを言って見せている。
「いや、うん、まあ……魅了するという意味ではあながち間違っていない、のかな?」
「どうやら、メイド任務は奥が深いようです」
一人納得したよう、深く頷いた。
真面目すぎるがゆえのポンコツ具合。
しかし、そこがたまらなくイイ。
審美眼に狂いはなかったようだ。
俺は一つ咳払いをして、十六歳の若き領主としての威厳を取り戻す。
「さて、それではさっそく、我が専属メイドとしての初仕事を頼もうか」
「はい、お申し付けください。周辺地域の哨戒でしょうか。それとも、政敵の排除でしょうか」
「物騒な選択肢は捨ててくれ。平和な領地なんだ」
「……冗談でございます」
「おおっ、一本取られた!」
俺は苦笑しながら、執務机の横にあるティーセットをさっと指差した。
「まずは、俺に美味しい紅茶を淹れてほしい。それが君の、最初の任務だ」
「——了解いたしました。ノエル様」
ヴァイオレットはスカートの裾を優雅につまみ、非の打ち所のない完璧なカーテシーを披露する。
ちょっとくらい……イタズラしても構わないか。
「猫の鳴き真似はしてくれないのかい?」
「…………にゃあ」
紫羅蘭少女から、ジト目を向けられた——。
■ ■ ■
さて、我が専属猫耳メイドの初仕事なのだが。
「ノエル様……。ご指定の茶葉を用いた抽出作業、完了いたしました。こちらをどうぞ」
カチャリ、と。
寸分の狂いもない正確な動作で、俺の執務机の端にティーカップが置かれた。
立ち上る湯気からは、甘く爽やかな香りが。
「……うん、完璧だ。香りも温度も申し分ない」
俺は一口啜り、小さく息を吐いた。
セバスチャンが淹れる熟練の味とはまた違う、一切の無駄を省いた「究極の最適解」のような味がする。
ちらり視線を上げると、そこには両手を横に揃え、直立不動で待機するヴァイオレットの姿があった。
メイド服のフリル、艶やかなる銀の義手。
そして、頭部にピンと立つ白黒の猫耳。
俺の執務室の景色に、これほどまでに彩りとフェティシズムが加わるとは。
うーむ、これはこの一ヶ月間、仕事のモチベーションはうなぎ登りになること間違いなしだ。
「それで、ノエル様。次のメイド任務をご指示ください。窓の清掃でしょうか。それとも、他の何かを?」
「そうだね……」
俺は頬を指で撫でてから、机の上に山積みになっている書類の束をポンポンと叩いた。
「俺はこれから、少々退屈だが『領主の仕事』をする。だから君には、そのサポートをお願いしたい」
「サポート、ですか」
「そう。この手元にある書類の束から、『予算案』と『嘆願書』を仕分けてほしい。文字は読めるね?」
「はい。読み書きは問題ありません」
「ならばよし。じゃあ、こっちの赤いトレイに予算案、青いトレイに嘆願書だ。よろしく頼むよ」
ヴァイオレットは「了解いたしました」と頷くと、書類の束に向き直った。
——シュタタタタタタタタッ!
義手の指先が目にも留まらぬ速さで書類をめくり、内容を目で瞬時にスキャンし、左右のトレイへと正確に放り込んでいく。
その光景は、もはや有能なメイドという次元を超え、高度に訓練された仕分けマシーンだった。
「……は、速い。さすがはドールといったところか」
「お褒めいただき光栄です。ですが、情報の選別と処理は、代筆業においては基礎的な技能に過ぎません」
「いや、多分違うんじゃないかな……?」
ともかく。
彼女の恐るべき事務処理能力のおかげで、俺の仕事もいつもの三倍のペースで進んでいく。
領地の税収報告、隣接する街との関税交渉の進捗、そして、新しく開拓する鉱山の権利書。
「…………」
俺——ノエル・エルガードは、十六歳という年齢でありながら、ここ諸侯国において一目置かれている。
それは単に家柄が良いからではない。
金と権力が渦巻くこの領地経営において、誰よりも狡猾に、かつ合理的に利益を追求し、国に莫大な富をもたらしているからだ。
この執務室の机の上では、常に血の流れない戦争が毎日のように行われている。
ペンを走らせながら、俺はふと口を開いた。
「ヴァイオレット。自動手記人形というのは、依頼主の言葉を代筆するのが主な仕事なんだろう?」
「はい。お客様が伝えたい想いをすくい上げ、言葉にするのが私の本来の任務です」
「ならば。相手の『嘘』や『隠し事』を見抜くのは、得意……いや、可能かい?」
ヴァイオレットの手が、ピタリと止まる。
彼女は振り返り、その透き通るような碧眼で俺をじっと観察するように見つめた。
「……言葉の裏に隠された意図を読み取ることは、代筆業において時に必要となります。ですが、私は『人の心』を完全に理解できているわけではありません」
「心なんてわからなくていい。事実と、矛盾だけを見つけてくれればそれでいいんだ」
俺は机の引き出しをがさがさと漁る。
そして、一通の仰々しい封筒を取り出した。
「今日の午後、ちょっと厄介なお客さんが来る。領内の流通経路を独占しようと企んでいる、タヌキ親父とその取り巻きだ」
「それは、敵対勢力の襲来ということですね?」
「物騒な言い方をすればね。まあ、彼らは巧みな言葉と分厚い契約書で、うちの領地の利益を合法的に吸い上げようとしてくるだろう」
俺は口角を上げ、不敵に笑う。
「ヴァイオレット、午後からの君のメイド任務は『お茶出し』と『俺の後ろでの待機』だ。そして——」
「……そして?」
「タイプライターはあるだろう? 君のタイピングと記憶力で、連中の発言をすべて記録し、矛盾点があれば即座に指摘してやってほしい。できるかい?」
自動手記人形としてのスキルと、猫耳メイドとしての破壊的な視覚情報。
この二つを掛け合わせれば、強欲な商人どものペースなど一瞬で崩し去ることができる。
ヴァイオレットは少しだけ考える素振りを見せた後、静かに、しかし力強く頷いた。
「——ええ、承知しました。ノエル様」
猫耳が、可愛らしくぴくりと傾いていた。
■ ■ ■
結論から言おう——。
タヌキ親父との会談は、ものの十分で終了した。
「……ふう。あっけない幕切れだったな」
「はい。先方は私がタイプライターを打ち込むたびに目を白黒させ、早々に退散していきました。記録するまでもなく、主張の矛盾は明白でした」
静かにタイプライターのキャリッジを戻しながら、ヴァイオレットが淡々と報告する。
だが、俺にはわかっていた。
あのタヌキ親父が早々に白旗を上げた最大の理由は、彼女のタイピング速度でも論破でもない。
背後に佇む無表情な絶世の美女と、その頭上でぴこぴこと揺れる『白黒の猫耳』という、情報過多な空間に精神が耐えきれなくなったからだ!
「先ほど、ノエル様がおっしゃっていた『視覚情報から相手の精神に揺さぶりをかける』という言葉の意味が、少しだけ理解できた気がします」
「それは何より。さて、退屈な仕事はもう終わりだ! ヴァイオレット、午後の『本番』といこうか」
「本番、ですか? まだ未処理の決裁書が残っているようですが……?」
「そんなものは明日でいい。君を雇った最大の目的は『メイド任務』なんだからなっ!」
俺は執務机から立ち上がり、胸を張って宣言した。
■ ■ ■
場所を移し、屋敷の豪奢なダイニングテーブル。
俺の目の前には、専属料理長が腕によりをかけた、黄金色に輝く美しいオムライスが置かれている。
「よし、ヴァイオレット。メイドたるもの、ご主人様の食事を美味しくするための『魔法』を使えなくてはならない。ケチャップを渡すから、そこに何かメッセージを書いてくれ」
「メッセージ、ですね。承知いたしました」
ヴァイオレットは真剣な面持ちで赤いケチャップの容器を受け取ると、オムライスを見据えた。
「本来、メイドというのは『美味しくなーれ』などと唱えながら、愛らしいハートマークを描くのが定番でね。まあ、君なりに考えて——」
俺が言い終わる前に。
彼女の銀の指先が滑らかに動き始めた。
「…………」
迷いのない、流れるような筆致。
まるで高級な万年筆で羊皮紙に文字を綴るかのような、優雅で洗練された動作だ。
「……完成しました、ノエル様。いかがでしょう?」
「お、おお……」
俺は目の前のオムライスを見て、言葉を失った。
黄金色の卵の上にケチャップで描かれていたのは、ただのハートマークではない——。
『拝啓 ノエル様。日々の領地経営、誠にお疲れ様でございます。この食事が、午後の活力となりますよう心を込めて。——ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
「——いや、達筆すぎるだろ‼︎ しかも長文! いやどうやってこんな繊細に書いたんだ⁉︎ 逆に凄いよ‼︎」
シュン、と猫耳が寂しげに下を向く。
「申し訳ありません。ご要望の意図を汲み違えたでしょうか? 代筆の癖で、つい時候の挨拶から入りそうになるのを抑え、極力簡潔にまとめたのですが……」
「簡潔ってレベルじゃないよ! オムライスの上のケチャップ文字で『拝啓』って初めて見たよ⁉︎」
シュン、とさらに猫耳が下を向いた。
いかんいかん!
この真面目すぎるポンコツ具合が良いってもんよ。
「いや、いいんだ。文句なしに素晴らしいよ。文字のバランスも完璧だし、何より君の『心』がこもっている。これは芸術作品だ。ありがたくいただこう」
「……ありがとうございます。ノエル様にそう言っていただけて、安堵いたしました」
ほっと胸をなでおろす彼女の表情は、どこか柔らかく、一人の少女らしい温かみを帯びていた。
自動手記人形として様々な人の想いに触れ、成長してきた彼女だからこその、不器用だが優しい気遣い。
ケチャップは、いつもよりずっと甘く感じられた。
■ ■ ■
そして食後。
満腹感と共に心地よい眠気が襲ってきた俺は、執務室の長椅子——ソファへと移動した。
「ヴァイオレット。次の任務を与える」
「はい。何なりとお申し付けください」
「少し仮眠を取るから……『膝枕』を要求する」
「膝、枕……ですか?」
ヴァイオレットはふち飾りのついた純白のエプロンを見下ろし、小さく首を傾げた。
「私の大腿部を、頭部を支えるための寝具として代用する、という解釈でよろしいでしょうか?」
「うん、表現は硬いがおおまかに正解だ」
「理解いたしました。では、こちらへどうぞ」
彼女はソファの端に浅く腰掛け、背筋をピンと伸ばして両手を膝の上に添えた。
……か、完璧な姿勢だ。
俺はドキドキする心臓を落ち着かせながら、ゆっくりと彼女の膝の上へと頭を預けた。
「——っ」
スカート越しに伝わってくる、柔らかさと温もり。
見上げれば、整った美しい顎のラインと、こちらを真剣に見下ろす碧眼があった。
そしてその上には、ぴんと張った二つの白黒猫耳。
絶景かな、絶景かな。
俺は前世でどれほどの徳を積んだのだろうか?
「ノエル様。心地はどうでしょうか?」
「うーむ、完璧も完璧だ。最高の寝心地だよ……」
「それは良かったです」
ヴァイオレットは安心したように瞬きをした。
そして、少し躊躇うように銀の義手をゆっくりと持ち上げると、俺の頭へとそっと伸ばしてきた。
「ノエル様。以前読んだ大衆小説に『メイドは主人の髪を優しく撫で、安眠へと誘う』という記述がありました。……実践してみてもよろしいでしょうか?」
「……ぜひ、お願いします!」
ひんやりとした金属の指先が、俺の髪を梳くように優しく触れる。
しかし裏腹に、彼女の撫で方には壊れ物を扱うような、とても丁寧で温かな気遣いがこもっていた。
規則正しいそのリズムに、俺の意識は心地よく微睡みへと落ちていきそうになり……。
「ヴァイオレット」
「はい」
「もう一回だけ……『アレ』お願いしてもいいかな」
俺の我が儘な要求。
それに、彼女は撫でる手を一瞬だけ止めた。
「…………」
少しだけ困ったように眉を下げている。
対して、こちらもキュルルンと目を潤ませてみた。
ヴァイオレットはすると、微笑みを浮かべた。
それは、人形のような無機質さからは程遠い、年相応の可愛らしい表情だった。
「仕方ありませんね」
彼女はそっと身を屈め、俺の耳元で、鈴を転がすような優しい声で囁いた。
「……にゃあ。おやすみなさいませ、ご主人様」
それはきっと、母性の塊であった。
■ ■ ■
——夢の一ヶ月はあっという間に過ぎ去った。
その間、我がグニゼン諸侯国のエルガード領は、かつてないほどの平和と繁栄を謳歌していた。
なんせ、最強の猫耳メイドが控えているのだ。
強欲な商人たちは、彼女のタイピング音と無表情な猫耳の圧に耐えきれずに、次々とこちらに有利な契約にサインをして逃げ帰っていった。
おまけに俺の書類仕事は彼女の神業のような処理能力によって瞬殺され、空いた時間はすべて、優雅なティータイムや癒やしの膝枕へと変換されたのである。
まさに、至れり尽くせりの理想郷!
しかし、どんな極上の時間にも。
いつか必ず、終わりはやってくる。
「ノエル様。ご指定の茶葉を用いた抽出作業、完了いたしました。こちらをどうぞ」
カチャリ、と。
契約最終日となる今日の午後。
執務机に置かれたティーカップからは、俺が一番好きな、少し甘みを立たせた香りが漂ってきた。
初日の『究極の最適解』だった紅茶とは違う。
この一ヶ月で彼女が好みを完全に把握し、俺のためだけに淹れてくれた『世界で一番美味しい紅茶』だ。
「……うう。ありがとう、ヴァイオレット。今日も最高に最高級に美味しいよ。うう……」
「お褒めいただき光栄です、ノエル様」
一口啜り、俺は小さく息を吐き出した。
視線を上げると、そこには初日と変わらぬ、漆黒のメイド服姿に身を包んだヴァイオレットの姿がある。
頭の上にはもちろん、ぴんと張った白黒の猫耳。
違うのは、その表情だ。
彼女の美しい碧眼には、ほんのりとした温かみと、穏やかな光が宿っていた。
たった一ヶ月、されど一ヶ月。
「早いものだね、君の『仕事』も今日で終わりだ」
「はい。……とても平和で、穏やかな日々でした」
「ははっ、そう言ってもらえると嬉しいよ」
俺は微笑みながら、カップをソーサーに戻した。
「ヴァイオレット。自動手記人形である君に、こんな個人的な趣味の依頼を押し付けてしまって悪かったね……。退屈だったんじゃないかい?」
俺がそう尋ねると、彼女は静かに首を横に振った。
「いいえ。私はこれまで、お客様の『言葉にできない想い』を手紙にする仕事をしてきました。ですが、この一ヶ月間で……言葉や手紙を使わなくても、美味しい紅茶を淹れたり、オムライスに文字を書いたり、ただ傍で髪を撫でたりすることなどでも、誰かの心を温かくできるのだと学びました」
「うう……。ヴァイオレット……」
「十六歳という若さで、多くの領民の生活を背負い、常に戦い続けているノエル様。あなたが心から安らげる空間を作ること。それが、私に与えられた本当の『メイド任務』だったのですね」
——ああ、ダメだ。
そんなふうに、真っ直ぐな瞳で言わないでほしい。
思わず泣きそうになってしまうじゃないか。
「……うわーん!‼︎」
いや、俺は泣いた——大きな雫を頬に流した。
でも! でも! 男たるもの強くあれっ‼︎
俺は照れ隠しの咳払いをして、立ち上がった。
「君は、本当に素晴らしいメイドだった。C.H郵便社には、莫大な色をつけた契約金を送っておく。ついでに、思い出としてこの金貨を持っていくといい」
俺は純度の高い黄金をヴァイオレットに渡した。
彼女は困惑した様子で、返そうとしてくるが、俺は首を断固として振って、その手に押し戻す。
そしてヴァイオレットは呆れたように、でも優しく微笑むと、それを大事そうに仕舞った。
「ありがとうございます。ノエル様からのお気持ち、確かに受け取りました」
スカートの裾を優雅につまみ、この一ヶ月で最も深く、そして最も美しいカーテシーを披露する。
「それでは、着替えてまいります。出発の時間が近づいておりますので」
「ああ……。あ、そうだヴァイオレット」
「はい?」
「その頭の『ネコミミ』。記念に持って帰ってくれ」
「……これを、ですか?」
「ああそうだ。いつか君が、誰か想い人を見つけ、その運命の人を、魅了したくなった時のために。ね」
冗談めかしてウインクをすると、やがて「大切にいたします」と小さく真剣な表情で了承した。
■ ■ ■
数十分後。
屋敷の玄関ホールには、プルシアンブルーのジャケットと、白いフリルが印象的なドレスに身を包んだヴァイオレットが立っていた。
革製のトランクケースを持ち、パラソルを携えたその姿は、メイドではなく、ライデンシャフトリヒが誇る名自動手記人形そのものだ。
「馬車の準備はできている。気をつけて帰るんだよ」
「はい。一ヶ月間、本当にお世話になりました」
彼女は深くお辞儀をする。
そして、踵を返して馬車へと向かおうとした。
——その時だった。
ふと足を止めたヴァイオレットが、くるりとこちらを振り返った。
彼女は自分のトランクを地面に置くと、両手を猫のように可愛らしく丸めてみせた。
そして、少しだけ悪戯っぽく目を細め、あの花が咲くような笑みを浮かべて、こう言ったのだ。
「——また、いつでもお呼びください……にゃあ」
「っ——‼︎」
俺は心臓を撃ち抜かれ、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
青いドレスでの「にゃあ」だと⁉︎
そんなの、聞いてない! 反則だ、破壊力がメイド服の時より跳ね上がっているじゃないかッ‼︎
驚愕して固まる俺を見て、ヴァイオレットは満足そうにクスリと笑うと、今度こそ馬車へと乗り込んだ。
「…………あっ」
やがて、カラカラと車輪の音を立てて、馬車が遠ざかっていく。
俺は、遠ざかる馬車をいつまでも見送っていた。
胸の中にあるのは、不思議と喪失感ではない。
極上のスイーツを最後の一口まで味わい尽くしたような、圧倒的な満足感。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンという存在。
紫羅蘭の猫耳メイド。
口の中に残る、甘い紅茶の余韻。
俺は大きく伸びをすると、気合を入れるように自分の頬を両手で叩いた。
「彼女に、祝福があらんことを——」
■ ■ ■
——それから、幾つもの季節が巡った後のこと。
海風が心地よく吹き抜ける、とある島での夜。
ランプの灯りの下で村の仕事に目を落としていたギルベルト・ブーゲンビリアは、背後にふわりとした気配を感じて振り返った。
「どうかしたかい、ヴァイオレット……?」
言葉の途中で、ギルベルトは息を呑んで固まった。
寝香水がほのかに香る、ゆったりとした寝間着姿。
そこまではいつもの穏やかな夜の風景だ。
しかし今日に限っては、彼女の美しい金髪の頭頂部に、『白黒の猫耳』がぴょこんと鎮座していた。
「あの……ギルベルト少佐」
ヴァイオレットは少し恥ずかしそうに頬を桜色に染めながら、もじもじと指先を絡ませた。
「かつて、とある方がこう言っていました。これは『運命の人を魅了する、最終兵器』なのだと」
「さ、最終兵器……?」
「はい。……私にとっての運命の人は、少佐です。ですから、これで魅了してもよろしいでしょうか?」
ギルベルトが状況を呑み込むより早く。
彼女はそっと身を屈め、愛する人の耳元で、鈴を転がすような甘い声で囁いた。
「……にゃあ」
ガタンッ! と、ギルベルトが座っていた椅子が派手な音を立てて後ろに倒れた。
顔を限界まで真っ赤にした元陸軍少佐は、言葉にならないうめき声を上げながら、両手で自らの顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。
「少佐? お怪我はありませんか? 少佐!」
「だ、大丈夫だ……。ただ、君がその——ううっ⁉︎」
東の地で託されたネコミミの遺産。
それは、長い年月を経て見事!
「にゃ……にゃあ?」
ヴァイオレットのたった一人の『愛する人』を完膚なきまでに陥落させたのであった——。
—END—