ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 二十六節
『深い入り江は、遠い国の旗を映しても、底の泥までは映さない。』
2378- バクフェ 羽黒承視点
辞令とは別に、もう一枚の紙が届いていた。
北部第三中継点から後方へ三日。船に半日。着いた先の名前を、僕は地図でしか知らなかった。
バクフェ。
連合王国が、グラダナ連邦共和国へ半世紀以上前に貸した入り江だと、船の中で書記官が教えてくれた。今も名目上は連合王国の土地で、実際に旗を立てて動かしているのはグラダナだという、ねじれた場所らしい。
桟橋に降りた瞬間、匂いが変わった。
泥と油ではない。潮と、焼けた金属と、乾いた塗料の匂い。
前線では見ない色の航空機が、滑走路の端に何機も並んでいた。双発、単発、翼の下に丸い増槽。機体の腹に、見たことのない紋章が入っている。
入り江の奥に、灰色の艦影があった。
最初は、島かと思った。
違う。船だ。それも一隻ではない。手前の一隻は、甲板がまっすぐ平らで、その上に小さな機影が何十とひしめいている。翼を畳んだもの、エレベーターらしき四角い穴の脇に並べられたもの。数えようとして、途中でやめた。ここからでは数字にならない。
奥にもう一隻、砲塔をいくつも背負った船体が錨を下ろしている。主砲の口径だけで、こちらの野戦砲の何倍あるのか見当がつかない。
船体そのものは、鋼と、エンジンと、同じ形の穴が等間隔に並んだ装甲板でできていた。船を動かす芯の部分に、魔法はいらないらしい。
ただ、艦橋の上に見覚えのある薄い板が立っている。連合王国式の結界板だった。近づいてみると、対空砲の脇にも小さな術式標識が一つ、埋め込まれている。
全部が科学というわけでもないらしい。船を動かす芯は自前で、防御と観測の一部は、こちらから買っている。
それだけの鉄を、自前の技術だけで海に浮かべて、その上に何十もの飛行機を並べている。
それだけで、僕は少し息を呑んだ。
「羽黒閣下、ですね」
出迎えの士官は、連合王国式の敬礼とは少し違う角度で手を上げた。
「グラダナ連邦共和国海軍、連絡将校のカセルです。長旅、お疲れさまでした」
「閣下、というほどの階級ではまだありません」
「書類にはそう書いてありましたが」
「書類の方が、いつも僕より少し急いでいるんです」
カセルは小さく笑った。
「こちらの書類も似たようなものですよ。予算より先に、機体だけ増えてしまうので」
案内された格納庫は、王城の工房よりも整然としていた。ここはグラダナ海軍の前線工廠だとカセルが言った。整備兵たちの動きに、迷いがない。同じ型の機体が並び、同じ手順で整備されている。階級章のついた作業服。工具の並べ方まで揃っていた。
列の端で、一人だけ違う恰好の男が機体の腹を覗き込んでいた。作業服ではなく、丸い社章のついた背広。
「あちらは」
「本国の民間工場から来た技師です。新型の冷却系統に不具合が出て、原因を見に来ています。設計と製造は向こうの民間工場、前線でこれを維持するのはうちの工廠。線引きは、いつもそこです」
「混ざらないんですか」
「混ぜると、どちらの責任か分からなくなります。技師は原因を見つけるだけ。直すのはうちの整備兵。民間工場が前線で直接手を出すのは、量産前の試験機くらいです」
量産、という言葉が頭に浮かんだ。魔法での一点物とは違う速度で、同じものが並んでいる。作る場所と、戦場で維持する場所は、はっきり分かれているらしい。
「対岸まで飛べば、帝国の補給線が見えます」
カセルが滑走路の先を指した。
「あの空母、機体を何機積んでいるんですか」
僕が聞くと、カセルは振り返らずに答えた。
「満載で九十を超えます。今日は演習帰りなので、少し少ないですが」
「魔法は使っていないんですよね」
「船の芯には使いませんね。うちは天然の魔力資源に恵まれていないので、鉄と燃料と計算で戦うんです。ただ、結界板と観測の一部はそちらから買っていますよ。防御と目だけは、質のいいものに頼った方が早いので」
「輸入品、ということですか」
「その通りです。芯は自前、飾りは輸入。もっとも、飾りと呼ぶと連合王国の商会に怒られますけどね」
装甲厚と射撃管制表が、鋼の芯を支えている。数が多い分だけ、間違いも多いはずだ。それでも、間違いごと直せるだけの数を、最初から用意しているらしい。
直せる。
その言葉が、妙に重く残った。こちらの世界では、術式は覚える。あちらの世界では、機構は直す。似ているようで、違う。
「本国の議会は、まだ迷っていましてね。海の向こうの戦争に、どこまで工廠を回すか」
「迷っている理由は」
「単純です。うちも今、よそで戦争をしていますから」
「よそ、というと」
「植民地です。帝国とは、そちらでも当たっています。主力はもう叩きました。今は残った連中を山と密林で追う番です」
カセルは、そこだけ少し声を落とした。
「正面の戦は勝ちました。でも、火が消えたわけじゃない。むしろ、消えない火の方が長く人を削ります」
民主主義だから理由を一つに決めるのに時間がかかる、というだけの話ではなかったらしい。
工廠も、船も、機体も、すでに一つの戦争へ回っている。その上でこちらへも回すかどうかという算段のようだった。
皮肉には聞こえなかった。事実として言っているようだった。
「ただ、大陸から帝国を追い出す話になれば、うちの海軍と空軍は前へ出ますよ。そのための足場が、ここです」
足場。
その一言で、地図の上の遠い入り江が、少しだけ手触りを持った。
✶
会議室の机には、連合王国側の書類とグラダナ側の書類が、翻訳札を挟んで両方置かれていた。
補給線の合流点、燃料の規格差、通信符号のすり合わせ。話の半分は、僕にはまだ聞き慣れない単位で進んだ。
「対空砲の口径だけでも三種類、擦り合わせが必要です」
書記官がため息をつく。
「戦うより先に、単位を合わせる仕事があるとは思いませんでした」
「戦場でも同じですよ」とカセルが言った。「弾が届く距離が違うと、味方同士でも撃ち合いになります」
会議の合間、カセルが窓の外を指した。
「休憩中は、あちらへどうぞ。士官食堂です。多少は前線よりましな飯が出ますから」
案内された食堂は、木の匂いがした。前線の炊事天幕とは違う、乾いた木の匂い。
運ばれてきたのは、見慣れない魚の煮つけだった。
「グラダナの魚です。骨が多いので気をつけてください」
「骨のない魚を、僕はまだ見たことがない気がします」
カセルは笑って、自分の皿から骨を一本抜いた。
「本国の海は、もっと骨が少ないんですけどね。ここの魚は、入り江が深い分、身が締まって骨も硬い」
窓の外で、整備兵の一人が口笛を吹いていた。曲は知らない。でも、誰かが手を止めずに鼻歌を続けられる場所があることに、少しだけ息が抜けた。
「連合王国の少将殿は、皆こんなに若いんですか」
「僕だけです、たぶん」
「そうですか」
カセルはそれ以上聞かなかった。聞かない代わりに、皿の上の骨をもう一本、丁寧に抜いた。
✶
会議が終わる頃には、日が落ちていた。
「今夜の便は明日の朝です。せっかくなので、市街を少し」
カセルの車で港の外へ出ると、空気がまた変わった。
湿った石畳に、色が滲んでいる。
看板の光だった。赤、青、黄。文字は連合王国の言葉と、グラダナの言葉と、僕には読めないもう一つ別の言葉が、同じ壁に重なって光っていた。酒の名前らしいものが、瓶の絵と一緒に大きく点滅している。
雨上がりの路面に、その光がもう一度映って、上下に二つ並んだ街になっていた。
軍港の静けさとは、まるで違う。
水兵の白い制服と、商人らしい厚手の外套と、聞いたことのない訛りの物売りの声が、同じ通りに混ざっている。
屋台からは油の匂い。宿の窓からは、知らない楽器の音。
「賑やかですね」
「入り江を貸してから、ずっとこうです。軍港の隣は、たいてい賑やかになります。船が着けば、金も人も一緒に着きますから」
黒い車が一台、水を跳ねさせながら目の前を横切っていった。運転手の帽子の徽章は、また別の国のものだった。
看板の光の下を歩く人の数だけ、頭上に数字はない。ここでは、僕の目も休んでいいらしい。
それだけのことが、少しだけありがたかった。
✶
夜も更けた頃、桟橋へ戻る途中、埠頭の端に古い標識が残っていた。
連合王国の紋章と、グラダナの紋章が、並んで刻まれている。片方は錆び、片方は塗り直された跡があった。
「あの標識、貸与の時のものです。もう百年以上前ですが」
カセルが言う。
「消さないんですか」
「消すと、次に借りる国が不安になります。貸したものは返す、返したものは覚えている。うちの国は、そこだけは律儀です」
律儀。
補給線の擦り合わせも、単位の擦り合わせも、たぶん同じ律儀さの上にある。
「対岸へ渡る日は、遠くないと思います」
カセルは水平線を見たまま言った。
「その時は、うちの空とあなたの地図を、また擦り合わせましょう」
「よろしくお願いします」
船に乗り込む前、僕は手帳に一行だけ書いた。
バクフェ。深い入り江。足場。
次に来る時は、たぶんもう見学ではない。
――――――――
面白かったら、下記のリンクから評価やレビューをいただけると嬉しいです。
https://kakuyomu.jp/works/822139841314440520/reviews