ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 十章 十三節
『軍を束ねし紐は、束ねる手首にも結ばれる』
2378- 魔力溜まり外縁前進指揮所―作戦準備区域 羽黒承視点
迎えに来たのは、伝令ではなかった。
夜明けの前進指揮所へ、指揮車が一両上がってきた。アルゴより背が高く、屋根に通信用の細い柱を二本立てている。車体の側面では、泥の下から師団の標識が覗いていた。
操縦手は降りてこない。助手席の兵だけが扉を半分開けて、敬礼した。
「羽黒少将殿。師団長が、作戦準備区域でお待ちです」
「呼び出しなら、通信で済みます」
「通信では渡せない物だそうです」
物。紙ではなく。
地図台の上では、昨夜の戦果報告が裏返しのまま、中央低地の札の横に置いてあった。
「昼まで、前進指揮所は次席へ渡します。北壕は保持しなくていい。東路は開けたまま」
通信兵が命令簿へ時刻を書いた。
「昨日と同じだな」
山崎さんは弾薬表から目を上げなかった。
「昨日と同じです」
「同じ命令を二回出すのは、疲れてる時だぞ」
ルセリナが下書きの束へ時刻を書き足す。ミネナは地図の中央低地へ、小石を一つ置いた。僕がいない間の、指揮所の位置らしい。
指揮車の中は暖かかった。
座席は革張りで、地図卓の縁に真鍮の留め金がついている。大型の魔導通信器が前後に二台。後ろの一台だけが低く唸り続け、どこかの部隊の弾薬報告を途切れ途切れに流していた。
知らない部隊番号だった。
旧採石道を戻る間、助手席の兵が一度だけ振り返った。
「酔いますか」
「アルゴよりは揺れません」
「師団長も、最初はこの車で酔われました」
「それは、僕が聞いていい話ですか」
「揺れるのは車のせいだ、と伝えるよう言われています」
笑うところなのか分からなかった。兵も笑っていなかった。
✶
作戦準備区域の丘の下に、師団司令部の前方天幕が張られていた。僕が最初に指揮所を置いた場所の、すぐ下だった。
天幕は二張りを横腹で繋いである。中央に長机が三つ。壁の杭には、北部第三戦域の地図ではなく、その外まで描いた大きな図が掛かっていた。北部第四戦域の端。海岸線。後方集結地を囲む、鉛筆の区画。
長机の奥に、背の低い男が立っていた。
白髪を短く刈り、老眼鏡を紐で首から下げている。左手の小指と薬指がない。残った三本で、地図の上の文鎮を押さえていた。
「羽黒少将」
声で分かった。
怒鳴らないのに、周りが黙る声。南低地の戦闘の後、司令部回線の向こうで戦果を読み上げた声だった。
「師団長」
「顔を合わせるのは初めてだな。青杭六番の残量欄に、再照会を重ねたのは私だ。暫定採用と書いたのも」
「三枚目の返事は、書くのに一晩かかりました」
「読む方にも一晩かかった」
師団長は文鎮から手を離した。
長机に置かれたのは、紙ではなく木箱だった。封蝋が三つ。師団司令部、軍務局、第二王子近衛会議。
僕が手を伸ばす前に、横に立っていた将校が一歩前へ出た。外套が新しい。長靴の縁に泥がついていなかった。
「軍務局より。読み上げます」
将校は封を切り、一枚目を胸の高さへ上げた。
「北部第三戦域所在の諸部隊を統合し、北部第三戦域軍を編成する。羽黒承臨時少将を同戦域軍司令官に補し、臨時中将に任ず」
中将。
長机の端にいた書記が、筆を持ったまま待っていた。
「臨時階級は、司令官職に付随する。戦域軍の解隊をもって解く」
将校は紙を下ろした。
「戦時の通例です。職が終われば、階級も戻ります」
「職のために、階級を作るんですね」
「逆の順番では、間に合いませんので」
木箱の中には、命令範囲の紙束と、細長い布袋が入っていた。
布袋を開ける。空だった。
「階級章は」
「前線の補給に、中将の在庫がありません。王都から追送します」
「それまでは」
「少将のままお付けください。呼称は本日から中将です」
襟と呼び方が、また別々になった。
✶
命令範囲の一枚目に、編成が並んでいた。
師団。定数九千六百、現員八千九百。
北部第四戦域より転用の歩兵旅団、現員二千七百。明朝までに西翼へ到着。
独立砲兵二個大隊。機甲予備。戦域調整部隊。
合計、現員一万四千百余。
その下に、線で区切った別枠がある。グラダナ海軍艦載航空団先発隊、支援要請および調整。冒険者協会、民間輸送、契約連絡。いずれも指揮権外。
一万四千百。
昨日、中央低地で動かしたのは数百だった。担架の順番まで顔が分かった。車両一両ずつに、履帯の遅れを言えた。
紙の上の一万四千百には、顔がない。頭上の値もない。僕の表示は、まだそこまで届いていなかった。
僕は紙から顔を上げた。この席では、私、と言う方がいい。
「私が司令官である理由を、伺ってもよろしいですか。師団長が上に立つ方が、命令は通りやすいはずです」
師団長は老眼鏡をかけ、編成表の一行目を指でなぞった。自分の師団の行だった。
「少将が三人、同じ机に並んだとする。私と、明朝来る旅団長と、君だ。誰が決める。年の順か、任官の順か、席の近さか。それを決めるだけで、一日かかる」
「一人を上げればいい」
「そうだ。では、私を上げるとどうなる」
「師団を、誰かへ渡すことになります」
「渡せば、私の師団は新しい師団長の癖を覚えるところから始める。敵は、その間に来る」
師団長は編成表を裏返した。裏には、昨日までの週報が綴じてある。中央低地攻略指揮。敵機甲前進阻止。味方負傷者後送成功。僕の名前が三度入った紙だった。
「それに、私の司令部は、君の報告を半日遅れで読んでいる。君は、私の兵の頭の上を今日見る。見える者が決める方が早い」
「全部は見えません」
「知っている。私には一つも見えない」
師団長は老眼鏡を外し、紐の先で揺らした。
「理由はもう一つある。言わなくても済むが」
「伺います」
「責任が一段、上へ移る。私の年では、それは楽だ」
隠さない人だった。楽だと言った人の左手には、指が三本しか残っていない。
「条件が一つある」
「はい」
「私の師団の兵の死亡通知には、私が署名する。司令官欄とは別に、師団長欄を残してくれ。そこだけは渡さない」
書記が、死亡通知の様式を一枚、長机へ置いた。署名欄は一つだった。
「欄を足してください」
書記は定規を当て、司令官欄の下へ線を一本引いた。師団長、と書き入れる。
欄が二つになった。死ぬ人の数は変わらない。
✶
次に決めたのは、僕の場所だった。
「戦域軍司令部は、この天幕を使う。参謀も通信も書記も、私の司令部から出す。司令官の席は、あの地図の前だ」
壁の大きな地図の前に、椅子が一脚置かれていた。背もたれがある。師団司令部の選ぶ椅子は、いつも立派だった。
「前進指揮所に戻ります」
「理由を一つで」
「中央低地の値は、私が見ていないと半刻遅れます」
「半刻のために、一万四千の司令官を砲の届く場所へ置くのか」
「中央が崩れれば、一万四千の全部が崩れます」
師団長は答えなかった。代わりに、書記へ三本指の手を向けた。
「一文、足せ。司令官が前進指揮所にある間、戦域軍司令部の運営は師団長が代行する。司令官が指揮不能となった場合、その時刻をもって指揮権は師団長へ移る」
書記の筆が動く。天幕の外を、弾薬車の車輪が二台続けて通った。
「羽黒中将」
呼ばれ方が、もう変わっていた。
「君が倒れた時刻を、誰が記録するかも決めておけ。記録がなければ、私は一刻遅れて指揮を取る」
「通信兵に」
「一人ではなく、二人に」
僕は代行と継承の欄へ署名した。
臨時中将、羽黒承。
字は、少将の時と同じ幅で書けた。
✶
前進指揮所へ戻ったのは、夕方だった。
指揮車が丘を上がると、通信兵が入口で待っていた。僕の襟を見て、それから顔を見た。
「中将殿」
「襟は少将のままです」
「呼称は本日から、と通達が来ています」
「通達の方が、補給より速いですね」
「紙は軽いので」
地図台には、昼の間の命令が三枚重なっていた。一枚目は次席の字。二枚目はルセリナの下書き。最後の一枚はミネナの丸い字で、北壕の敵が夕方に一度だけ炊事の煙を上げた、とだけ書いてある。
中央低地の小石は、朝と同じ場所にあった。
編成表を広げると、山崎さんが横から覗き込んだ。戦域調整部隊の行の下、さらに小さな字の中から、直轄砲兵の欄を探し当てる。
「俺の砲、ここか」
「そこです」
「昨日より小さくなったな」
「表が大きくなりました」
「同じことだろ」
山崎さんは弾薬表を持ち直した。表の数字は、昨日から一つも増えていなかった。
ルセリナは編成表を一度だけ読み、代行と継承の欄で指を止めた。
「これは、どなたが」
「師団長です」
「そうですか」
何か言いかけて、ルセリナはやめた。帽子の下の耳が、片方だけ前へ倒れた。
「下書きの宛先が増えます。師団長、旅団長、砲兵大隊長二名。今夜から、あなたの名前で出す命令は四つの司令部を通ります」
「四つとも読みます」
「読むのは構いません。直すのは、宛先ごとに一回まで。直しすぎた命令は下の司令部で読み直されて、半日遅れます」
ミネナは編成表の上に地図を重ね、師団の壕と旅団の到着線を、鉛筆で一度ずつなぞった。
「覚えました」
「もうですか」
「箱が増えただけなので。中身は明日からです」
最後に、希望さんが観測図を持ってきた。
中央低地を中心にした図だった。そこへ師団と旅団の配置を重ねると、観測の円が両端まで届かない。
「基準点が要ります」
希望さんは北翼と西翼の端を、鉛筆で二度叩いた。
「師団の壕と、旅団の宿営地に。友好対象がいないと、遅延視界が繋がりません。基準点になってくれる人を、各司令部から一人ずつ」
「手配します。負担は」
「見る範囲が、今の三倍になります」
希望さんは眼鏡を押し上げた。レンズの縁に、指の跡が残った。
「できます」
頭上の`精神`の値が、言葉と一緒に少しだけ沈んだ。僕はそれを見た。見たことは、言わなかった。
✶
夜、師団司令部から回ってきた週報を開いた。
表紙の宛先が、線で消されていた。師団司令部の上に、戦域軍司令部と書き直してある。書記の字だった。
北翼の壕の番号。弾薬の残り。昨日の負傷者、四十一。死者、九。
以前は、束のさらに向こうで積み上がっていた数字だった。僕の命令が直接届かない部隊の戦果と損耗。今夜から、それが僕の署名の下に入る。
左手の奥で、`魂` が開いた。
線が伸びた。前進指揮所の中ではない。旧採石道の方角でもない。北の石切場を越えて師団の壕へ。西の窪地を越えて、夜間行軍で西翼へ入ってくる旅団の列へ。
顔は見えない。
頭上の値も、一つずつは読めない。遠い町の灯のように、`生命` の明るさだけが帯になって並んでいた。
線は、その帯の一本一本へ触れていく。
左手が重くなった。手袋ごと机へ沈んだ気がして、持ち上げるための理由を探した。
四つの束を開いた夜に作った表を、机の引き出しから出す。
直接。命令。武器。補給。生還。その横へ、欄を一つ足した。
指揮。
書くべき数字は、今日の紙にある。一万四千百。
鉛筆を当てると、芯が折れた。
小刀で削る。削っている間も、線は伸びるのをやめなかった。西翼の宿営地へ旅団の列の先頭が入り、帯の端が少し明るくなる。
入口で、通信兵が送話具を持ち上げた。
「中央低地、北壕の外。敵車両の起動音、二両」
「時刻を」
「零時四十分です」
「二人で記録してください」
通信兵が、隣の書記を呼んだ。
僕は削りかけの鉛筆を表の上へ置き、送話具を受け取った。
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