ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 二十節
『重き車は道を覚えぬ。道だけが、重さを覚える。』
2378- 北部前線第三中継点 羽黒承視点
朝の地面は、先に揺れた。
音より先だった。
地図室の机に置いた真鍮の測距尺が、ほんの少し動く。インク壺の水面に細い輪が立ち、消えないうちに次の輪が重なった。
「車列、来ます」
通信兵が入口から言った。昨夜の水筒の人だ。水筒は腰に戻っている。口の歪みはそのままで、革紐だけ新しいものに替わっていた。
「何両ですか」
「先鋒戦車四、守護戦車三、装甲戦闘輸送車二。機構衝撃兵、二」
「装甲戦闘輸送車は」
「後送専任です。前へは出しません」
機構衝撃兵。
書類の上では、そう書かれている。整備兵たちは機甲衝撃兵と呼ぶ。どちらでも、目の前に立てば人より高く、戦車より近い。
「ずいぶん、重い朝ですね」
「少佐待遇の指揮下へ入るそうです」
「待遇、便利な言葉ですね」
「怒りますか」
「いえ。怒る前に、置き場所を考えます」
通信兵は符号板を抱え直した。昨夜より動きが速い。眠っていない人間の速さではなく、眠らないまま体が勝手に軍務へ戻った速さだった。
外へ出ると、霧の向こうに濃緑の列があった。
先頭は低い車体だった。B.I.G-ST-71。先鋒戦車。
守護戦車ほど大きくはない。装甲も厚くない。けれど、前へ出るための形をしている。車体の前面で薄い結界が膜のように揺れ、車体の影へ歩兵が吸い込まれていく。
砲塔の四十ミリ砲は、こちらへ向いていない。それだけで、少し助かる。
次に来たのはGT-72だった。
遅い。
だが、下がらない遅さだ。二人砲塔の側面に泥が跳ね、車体前方機関銃の覆いへ昨日の草が絡んでいる。歩兵がその横を歩くと、車体の高さがそのまま小さな壁になった。
三両目だけ、音が違った。
GT-73。
双発フライホイールの音は、低い唸りの奥で細く鳴る。耳ではなく歯の裏に来る音だ。車体中央の結界発生器が、走るたびに薄く白い脈を打っていた。
あれが動くと、道が変わる。
変わった道を、誰かが戻す。
そう考えたところで、ST-71の車長が砲塔上から身を乗り出した。頬に油の筋が一本ある。敬礼の手袋は片方だけ色が違った。たぶん、昨日どこかで片方を失くしたのだ。
「北部機甲混成分隊、臨時編入を受けに来ました。指揮権者は」
「羽黒承です」
「あなたが」
車長の目が、僕の腰の剣で止まった。
三郷の剣。
昨日から、何人もの目がそこで止まる。剣を見て、僕を見る。剣の持ち主を知っている人も、知らない人も、似た止まり方をする。
「はい。私です」
車長は、言葉を一つ飲み込んだ。かわりに、砲塔の縁を軽く叩く。
「ST-71、四両。結界容量は十分。ただし昨日の行軍で二号車の左側歯車が熱を持っています。急後退は避けたい」
「後退はさせません。前へ出す時は、煙幕と歩兵をつけます」
「助かります」
「助かるかは、まだ分かりません」
言ってから、少し言い方が硬すぎたと思った。
でも車長は笑った。笑い方が明るいというより、油で汚れた顔の上に無理やり線を引いたようだった。
「分かりました。では、助かるように使ってください」
「努力します」
「努力は困ります」
昨夜と同じことを言われた。
僕は小さく息を吐いた。部下になる人間は、なぜか同じ種類の言葉でこちらを刺してくる。
✶
機甲衝撃兵は、車両列の後ろから歩いてきた。
二体。
一体は四メートルを少し超える。右腕に幅広の剣。左腕には機関銃を収めた箱形の覆いがある。濃緑の布が胴の側面に巻かれ、王国式の白線が斜めに一本入っていた。
帝国の機体より、胴の角が丸い。
それでも、人を押し潰すには十分な形だ。
疑似筋束が脚の内側で収縮するたび、濡れた革を引き絞るような音がした。足を置いた場所の泥が少し遅れて沈む。結界は全体を薄く包んでいて、穴も切れ目もない。雨粒が触れると、表面で白く砕けた。
搭乗者は中にいる。
それを忘れると、こちらの命令が軽くなる。
「衝撃兵班、搭乗者名簿は」
整備下士官が油紙の束を出した。背が低く、肩から工具帯を二本掛けている。工具が多すぎて、歩くたびに腰のあたりで金属がぶつかった。
「ここに。ですが、戦闘中は呼称でお願いします。甲一、甲二」
「分かりました。甲一は右手剣、甲二は機銃覆い重視で」
「そうです。甲二は左腕の結界が厚い。ただし厚く張るぶん、六秒後には落ちます。張り直しはできますが、その間に足を止めます」
六秒。
結界は増えた体力ではない。別の薄い水面を前に張るようなものだ。撃たれれば削れる。何もしなくても落ちる。貫通には強い。弾の向きを変えるからだ。爆発や打撃は面全体で受けるから普通に減る。斬撃は、同じ線を押し続けられると濁る。
訓練で聞いた話だ。
聞いた時は、そういうものかと思った。
昨日、人の胸を撃つ時には、その話がずっと手の中に残っていた。
「甲一、甲二は前へ出しません」
整備下士官が、工具帯の留め具を直しながら顔を上げた。
「出さない?」
「最初は、出しません。敵に見せるだけです。敵英雄級が動く道を狭めたい」
「見せるだけで済む相手ですか」
「済まないと思います」
僕は地図へ戻った。
北東の林。水車小屋線。昨日焼けた低地。西側の古い採石道。南の黒杭列。
昨日の敵精鋭集団が消えた場所は、地図の上ではまだ白い。白い場所は、次の敵が使いたがる。
「敵はたぶん、昨日の包囲跡を避けません。避けると、こちらの青杭線へ横を向けます。正面から来るより、斜めに来る」
「工兵班から、偽装標識の張り替えが済んでいます」
整備下士官の横で、地図係が付け加えた。
「北東林手前の青杭は、実物より一列多く見えます。西の採石道も、通れる幅を実際より狭く見せています。旅団規模の全部をここへ呼び込む気はありません。呼び込めるのは、こちらが割ける火力の分だけです」
ST-71の車長が地図の脇へ身を寄せた。油の匂いが近くなる。
「先鋒戦車の出番ですね」
「はい。ただし、突撃ではありません」
「先鋒戦車に突撃するなと」
「暴露してください」
車長は片眉だけ上げた。
「撃たせるんですか」
「撃たせます。北東林から三つ、たぶん機銃座か対戦車班。前線まで一・二キロ。ST-71が前へ出れば、敵は撃つか、位置を変えるしかない」
「こちらは」
「四十ミリで沈黙させるのは一つだけ。残りは位置を出してください。GT-72が受けます」
GT-72の小隊長は黙って聞いていた。丸い眼鏡の片側に細かいひびがある。戦車兵にしては声が小さい人だったが、返事だけは砲声の後でも届きそうだった。
「受けます。二両を水車小屋線、三両目を採石道口へ」
「お願いします。GT-73は動かしません。中央予備です」
GT-73の車長が、少し不満そうに鼻を鳴らした。大きな体に似合わず、喉の音が軽い。
「突破戦車を、置物に」
「置物に見える場所へ置きます。敵が置物だと思ったら、その時だけ動かしてください」
「嫌な使い方をしますね」
「はい」
否定しなかった。
嫌な使い方だ。
でも、昨日の包囲で嫌な使い方をしなかったものは、もうあまり残っていない。
✶
アンテラルは、昼前に来た。
濃緑外套の下に、古い鎧を着ていた。新しい布と古い鋼が合っていない。剣帯だけは王国式で、留め金に使い込まれた傷がある。
療養所から出てきた人間の歩き方ではない。
でも、傷のある人間の歩き方だった。右足を置く時、ほんの少し重さを逃がす。
「羽黒承」
「はい」
「敵の英雄級は、私が止める」
地図室の中で、誰もすぐには声を出さなかった。
ST-71の車長が、砲塔帽を胸へ抱えたまま固まっている。GT-72の小隊長は眼鏡を外し、ひびの入った片側を布で拭いた。拭いても、ひびは消えない。
「止める、というのは、釘付けにして、殺せるなら殺す。無理なら動けない場所へ引き留める、という意味ですか」
「そうだ」
「負傷は閉じても、痛みはあるんですね」
「なら、出す理由がありません」
アンテラルは、少し僕を見た。
その目は、最初の訓練場で見たものと似ている。似ているのに、違う。あの時の彼は、僕たちを計っていた。今は、自分がどこへ置かれるべきかを、もう決めている。
「君の機甲戦力を、敵英雄級へ割くな」
「僕の機甲戦力ではありません」
「今日から、そう扱われる」
返す言葉が遅れた。
今日から。
たったそれだけの言葉で、ST-71も、GT-72も、GT-73も、機甲衝撃兵も、地図の上で僕の札になる。
人が乗っている。
車両にも、機体にも。
それでも、札になる。
「敵英雄級は、速いから強いのではない」
アンテラルは地図の北東を指した。
そこには、昨日から残る細い赤線がある。敵の接近候補。林と低地と、古い石壁を繋いだ線。
「速く見える場所まで、周囲が道を作っている。歩兵が火線を消す。戦車がこちらの砲を向けさせる。術式兵が結界を濁らせる。そのあとに来るから、速く見える」
「道を作らせない」
「そうだ。君はそれができる」
できる。
できてしまう。
それを褒め言葉として受け取るには、昨日の死者が近すぎた。
「アンテラル騎士長」
「今は、騎士長ではない」
「では、アンテラルさん」
呼び方を変えると、部屋の空気が少し変わった。ST-71の車長が小さく息を吸う。通信兵が符号板の留め具を確認する。
「あなたが前へ出るなら、戻る線はこちらで作ります。勝手に深追いしないでください」
「命令か」
「お願いです。命令にした方が聞くなら、命令にします」
アンテラルは、ほんの少し口元を緩めた。笑った、とは書きにくい。けれど、第一王城で僕たちへ剣を向けた時にはなかった線だった。
「命令でよい」
「では、命令です。北東林の手前、石壁の切れ目まで。そこから先は、こちらの砲が届きません。届かない場所では戦わないでください」
「了解した」
「敵英雄級を止めたら、白信号を二回。動けない時は赤を一回。通信が切れた時は」
「私がまだ立っているなら、敵もそこにいる」
こういう言い方をするから、兵は前へ出てしまうのだと思った。
でも、今はその言葉が必要だった。
必要な言葉が、いつも安全な言葉とは限らない。
✶
午後、敵の線が動いた。
最初に見えたのは、北東林の手前に低く広がる値だった。歩兵。数は多いが、薄い。密集ではない。散っている。
その上に、濃い値が三つ。
戦車。
さらに後ろへ、細い値が並ぶ。術式兵。通信か、結界攪乱。距離は二キロ弱。水車小屋線までなら、まだ遠い。
その奥に、一つだけ形の違う値があった。
人の形をしているのに、周囲の値がそちらへ向いている。
英雄級。
「敵、北東林から展開。歩兵およそ二個中隊。戦車三。術式兵、後列。英雄級、一。加えて、隣接戦区からも同時展開の報告。全体では、旅団規模の圧力とみられます」
歩兵の薄い値、戦車の濃い値、術式兵の細い値、英雄級だけ形の違う値。四つを同時に持ったまま、地図の上へ置き直す。ひとつずつ見るより速いはずなのに、頭の奥が先に重くなる。
通信兵が符号へ落とす。
ST-71の車長が砲塔からこちらを見た。遠いので、顔は見えない。だが、片手を上げる形は見えた。
「先鋒戦車一、二。北東林の前へ。前進は三百まで。撃たれてください。無理に撃ち返さなくていい」
通信兵が復唱する。
「GT-72、一、二。水車小屋線、前進。歩兵は車体の後ろへ入れてください。三号車は採石道口。横を向けない」
復唱。
「甲一、甲二は中央待機。剣を抜かないでください。敵英雄級がこちらの線へ入るまで、見せるだけです」
整備下士官が、機体の足元で手を振った。工具帯が揺れ、金属が鳴る。
「GT-73は」
車長から符号が来る。
待機中の重い車体が、低く唸っている。動きたがっているわけではない。そういう音の機械なのだ。
「中央予備。まだです」
まだ。
その二文字で、何十トンもの鉄と魔法を止める。
僕の手袋の内側が湿っていた。
北東林で、最初の火線が走った。
ST-71一号車の結界面が白く濁る。機関銃弾。次に、重い点。対戦車小銃か、小口径砲。
結界は持った。
六秒後には、半分以下になる。
「先鋒一、煙幕。先鋒二、右へ十。火点、二つ出ました。水車小屋線まで一・一キロ。GT-72、同軸機銃はまだ。主砲、HE一発ずつ。土嚢ではなく、土嚢の後ろ」
砲声。
GT-72の短砲身砲が、低く吠えた。
着弾は火点の後ろ。土が跳ね、隠れていた人影が動く。撃破ではない。移動させた。
移動した先を、ST-71の四十ミリが叩いた。
「敵火点二、移動。先鋒戦車、暴露成功。GT-72、制圧継続。損害なし」
口に出すと、戦闘が少し遠くなる。遠くしてはいけない。でも、近すぎると命令が出ない。
アンテラルが動いた。
濃緑の外套が、北東の石壁へ向かう。足元に王国歩兵が二人つく。ついていける速度ではない。最初から、ついていくためではない。戻る場所を示すための二人だ。
敵英雄級も動いた。
周囲の歩兵が、道を作る。機関銃がこちらのST-71を縛り、戦車三両がGT-72へ砲塔を向ける。術式兵の列が、白い膜を前へ押し出す。
速く見える場所まで、道を作っている。
アンテラルの言葉が、地図の上で形を持った。
「敵は英雄級を通す気です。ST-71は深追いしないで。GT-72、戦車ではなく術式兵列へ榴弾。GT-73、砲塔だけ北東へ。まだ車体は動かさない」
通信兵が復唱する時、声が一度かすれた。
「水を」
「後で」
「今です。符号が乱れます」
彼女は片手で水筒を取り、喉を湿らせた。本当に一口だけ飲んで、すぐ板へ戻る。
「復唱、続けます」
「お願いします」
北東で、二つの光がぶつかった。
アンテラルの剣と、敵英雄級の刃。
結界の面が、斬撃に押されて濁る。弾を弾く時の白さではない。水面へ刃を入れた時の濁りに近い。
その周囲で、歩兵が倒れた。
味方ではない。
敵歩兵だ。
アンテラルの一振りが、結界の薄いところを裂き、三人をまとめて地面へ落とした。剣が人を薙いだ軌道は、金属を弾く動きではなかった。
重い。
沈むように、遅れて曲がる。
僕は、それを符号にしなかった。
「敵歩兵、前列崩れ。敵英雄級、石壁へ固定。アンテラル、交戦中」
それだけを言った。言える形にした。GT-73の車体が、まだ唸っている。
今なら動かせる。
動かせば、敵戦車三両のうち一両は取れる。たぶん二両目も止まる。
でも、動かせば中央が空く。
中央が空けば、昨日白布を拾いかけた人間と同じ場所に、こちらの救護列が置かれる。
「GT-73、まだです」
自分の声は、思ったより明るかった。明るく出した。車長から、短い符号が返る。
了解。
濃緑の列が、僕の命令で止まり、僕の命令で撃ち、僕の命令でまだ動かない。
敵英雄級は、アンテラルに釘付けになっている。
ここから先は、速さではなく、どちらが先に道を失うかだ。
左手の奥が、じわりと熱い。四つの値を同時に持ったまま次を読もうとすると、目の奥に細い針でも刺さったような痛みが遅れて来る。まだ、耐えられる痛みだった。
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