Duskbloodsのネットワークテスト決定しました。
皆さんも楽しみですよね、私も非常に楽しみです。
魔法の森は、人間にとって死地である。
地を這う泥濘からは五感を狂わせる極彩色の胞子が絶え間なく湧き上がり、大気そのものがねっとりとした毒の味を帯びている。頭上を覆う巨木の枝葉は陽の光を一片たりとも通さぬ意志の盾となり、永久の薄闇を地上に縛り付けていた。並の人間であれば、足を踏み入れて数歩で肺腑を焼かれ、狂気と幻覚の果てに森の苗床となる。
しかし、その死地を「庭」と呼ぶ魔女がいた。
七色の魔法使い、アリス・マーガトロイド。
五体の人形たちは、今日も主人の周囲を静かに舞っていた。森の毒も妖怪も、日々の雑事程度にしか扱わない。アリスは、開いた厚手の
アリスの周囲を浮遊する人形たちが、一糸乱れぬ調和でそれぞれの役目を完璧にこなしていく。周囲の様子を鋭く見分けるように索敵し、行く手を阻む怪しい発光胞子を小さな風圧で払い、死角となる背後を油断ない警戒で護り、編み籠を静かに小脇に抱え、そして最後の一体が、アリスの好むお茶の素材となる薬草を、小さな刃で丁寧に摘み取っていく。
アリス自身は、迫り来る妖怪や危険に視線すら向けない。戦うという意思すら必要とせず、すべての脅威が、彼女に近付くよりも前に音もなく処理されていく。森は彼女を拒まない。妖怪さえも、その歩みを乱そうとしなかった。まるで、人形たちを従えたその魔女の歩みに道を譲っているようですらあった。その超然とした歩みこそが、「七色の魔法使い」と呼ばれる所以であった。
ふと、アリスは本を閉じ、人形の一体が摘み取ろうとしていた薬草に目を向けた。木々の根元、妖しく発光する茸の群生に隠れるようにして、泥に塗れた一画がある。そこは、かつて鋭利な刃物で抉り取られたかのように、薬草の群生地が激しく荒らされた痕跡だった。すでに新しい苔が傷口を覆おうとしているが、その不自然な空白は、アリスの記憶を鮮明に呼び覚ます。
──あの日から、もうすぐ一年が経とうとしていた。
常人にとっては一歩で命を落とすこの死地へ、ボロボロになりながら何度も足を踏み入れ、黙々とこの森の資源を貪り尽くしていった、あの始まりの日から。
◇
思い返すのは、妖獣さえも忌避する森の最奥での出来事だ。あの日、アリスが見つけたのは、ただの「肉塊」になりかけている人間の男だった。
身に纏う銀鎧には、無数の刃傷が走っていた。隙間から露出した肌は魔法の森の濃厚な瘴気によって紫色に変色している。肺腑は焼かれ、全身の毛穴、精巧な銀鎧の継ぎ目から血を流して倒れている絶望的な状況。アリスは冷徹な眼差しで、その哀れな闖入者を見下ろした。
──助ける理由などなかった。
森の理に従い、そのまま土に還るのを見届けるのが、魔女としての正しい作法のはずだった。
それでも気づけば、人形たちは男を運んでいた。
死に瀕してなお、その男の生き抜かんとする姿勢だけは折れていなかった。自宅へ連れ帰り、重い銀鎧を外して看病をしている間も、アリス自身なぜそんな気まぐれを起こしたのか分からなかった。ただ、あの時確かに、銀兜に潜む瞳の奥に宿っていたものだけが、アリスの指先を、人形の糸を動かしていた。
それから半日ほどが経った頃、男は辛うじて目を覚ました。男は礼も名も告げなかった。己の崩壊しかけた身体を省みることもなく、再び重い銀鎧をその身に締め直すと、ただ無言で立ち上がった。包帯から血を滲ませながら、一言の感謝も言い訳も口にせず、ただ恐ろしく強固な足取りで、再び外へと歩み去ろうとする。アリスはその無骨な背中に向けて、冷淡極まりない警告を突きつけた。
「二度と、この森へ来ては駄目よ」
次は必ず死ぬ。魔女の忠告は絶対だった。
だが、男は立ち止まり、銀鎧の鉄を軋ませながらも振り返ることはなく、ただ一度だけ、深く静かに無言で頷いた。言葉で思想を語るのではない。その、傷口を開きながらも一歩を踏み出す行動そのものが、男の宿す底知れぬ覚悟の表明だった。男はそのまま、霧の彼方へと消えていった。
それから何度も、彼は薬草を求めて銀鎧をボロボロに傷めながら森へ現れ、アリスは出会うその度に冷言を浴びせながらも、彼に手を貸し続けてしまったのだった。
◇
季節が巡り、あの過酷な出会いから長い月日が流れた頃。
アリスは、妖精たちが囁き合っていた「人里の人間が妖怪を弾き返した」という奇妙な噂を確かめるべく、人間の里へと向かっていた。
大門を潜ったアリスは、瞬時に息を呑んだ。
広大な薬草畑、森でしか育たぬ植物、妖怪を祓う大盾。呪符の焼き付けられた壺。空間に響く鉄槌。その全てを見た瞬間一人の銀兜を思い出す。
まさしくそれは独りの人間の足跡だった。
かつての人里に漂っていた陰鬱な諦観は消え失せ、人々は自らの足で抗おうとする開拓者の顔をしていた。
あの日、森の泥を舐めていたあの男の「行動」が、数ヶ月という血の滲むような歳月を経て、本当にこの世界の理を、内側から変えつつある。その圧倒的な現実の積層を前にして、アリスはただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
◇
夕暮れ時、茜色の光が里を包み込む頃、アリスは銀兜の作業場を訪ねた。寺子屋の一角。男の身体には深い疲労が刻まれていたが、鈍く光る銀鎧を纏うその奥の瞳の光だけは、出会ったあの時と変わらず鋭かった。男はアリスの姿を見ても、作業の手を止めることなく、ただ淡々と武具の手入れを続けた。一区切りがつくと、無言で部屋の奥から一つの包みを持ってきた。
男は何も語らず、ただその上質な道具だけを差し出した。差し出された包みをアリスが開くと、そこには思わず息を呑むほど美しい、深い藍色の布地が収められていた。人里の織師たちが持てる限りの技術を注ぎ込んで織り上げた、絹よりも滑らかな極上の布。そしてその傍らには、鈍い銀色の光を放つ、重厚な裁縫道具が一揃い並んでいる。
かつて自分が運ばれた館で、アリスの指先が、人形たちが何をしていたか。男の行動の理由は、ただそれだけだった。そこに感情の介在する余地はない。
何を言うかではなく、何をするか。アリスは理由も聞かず、それを無言で受け取った。余計な言葉を削ぎ落としたその物品の重みこそが、目の前の男という存在そのものであると、彼女の心が瞬時に悟ったからだ。指先から伝わる金属の冷たさと、そこに込められた男の「選択」に、彼女の胸の奥が、静かに、しかし深く突き刺さるように震えた。
◇
その日から、アリスの足は何度も人間の里へと向くようになった。
再び季節が巡り、雪が解け、青葉が芽吹くほどの時間をかけて、彼女は何かと理由をつけては魔法の森を抜け出し、男のいる作業場へと通い詰めた。
最初のうちは、男が森で毟り取っていった薬草の対価を確認するためという、魔女としての理屈があった。だが、いつしか人里の雑踏を抜け、寺子屋の一角にあるその静かな部屋の戸を叩くこと自体が、アリスのなかで確かな習慣へと変わっていった。幾度も重ねられた密やかな訪問が、二人の間にある見えない境界線を、少しずつ、しかし確実に融かしていったのだ。
気づけば今日も、二人は言葉を交わすことなく、同じ作業台に向かい合っていた。
夕闇が迫り、室内に灯された一本の蝋燭が、二人の影を壁に長く、昏く映し出している。
室内には、針が頑強な厚布を穿ち、吸い込まれていく硬質な擦過音だけが、不気味なほど等間隔に響いていた。
アリスの手つきは流麗だった。
糸を操り、人形の衣装を仕立てるその指先は、まるで魔術そのものの美しさを持っている。
対する男の手つきは、武骨で、しかし恐ろしいほどに正確だった。無駄な動きを一切排除し、ただ一つの狂いもなく、布と布を強固に繋ぎ合わせていく。
かつて「狼の戦鬼」と呼ばれた男が、血煙の舞う過酷な戦場で、その身に纏う銀鎧の肌着や衣を自ら直してきたかのような、極限の洗練と無駄のない所作がそこにあった。
会話はほとんどない。
男はただ黙々と、一心不乱に手を動かしている。だが、アリスはこの男と並び、静寂を二人で分け合いながら針を動かすこの時間に、どうしようもない居心地の良さを覚え、少しずつこの時間が楽しみになっている自分に気づく。何度もここへ通い詰め、時間を共有してきたからこその、無自覚な歩み寄り。しかし、彼女はそれを「同じ技を極める者同士の静かな共鳴」であると理屈づけ、決してその感情に別の名前を与えようとはしなかった。
「──お邪魔してもよろしいでしょうか」
静謐な空間を破り、引き戸が開いた。そこに立っていたのは、上白沢慧音だった。里の守護者であり、歴史を紡ぎ出す者。彼女は手にした未処理の書類を机に置きながら、作業台に並ぶ二人を見つめた。その涼やかな瞳が、アリスの隣に置かれた裁縫箱へと向けられる。ほんの一瞬だけ、微かな沈黙が室内に落ちる。
だが、慧音はすぐにいつもの穏やかな教師の笑みを浮かべ、アリスへと視線を戻した。
「今の彼には
アリスは針を動かす手を止め、小さく首を傾げた。言葉の裏にあるかすかな熱量を察し、面白そうに目を細める。
「
慧音の牽制は、直接的な境界線ではなく、男を見つめる視線の深さと、ほんの緊密な言葉の間の「沈黙」にこそ上品に滲んでいた。アリスは人形の糸を操るように、その意図を飄々と受け流し、悪戯っぽく笑みを返す。
二人の美貌の女性は、お互いに柔らかな笑顔を交わし合う。表面上はどこまでも穏やかで、しかし確かな牽制が潜む、視線のみの応酬。
当の「狼の戦鬼」だけは、二人の間に流れる密やかな空気の機微など微塵も気づいておらず、銀鎧の肩をかすかに軋ませながら、職人の冷徹な眼差しでひたすら布の継ぎ目を見つめて黙々と手を動かし続けている。自らの行動のみに集中するその徹底した朴念仁ぶりに、アリスと慧音は互いに視線を合わせ、今度は本物の苦笑を静かに分け合うしかなかった。
◇
魔法の森の奥深く、人形の館。
人間たちの羽ばたきから遠く離れたその場所は、いつも通りの静寂と、冷たいお茶の香りに満ちていた。アリスは自室の椅子に腰掛け、男から贈られた藍色の布を机のうえへ置いた。
銀の月明かりを浴びた布地は、まるで夜の湖面のように深く、静かに輝いている。アリスはその滑らかな表面を、自らの指先で、壊れ物を触るかのように優しく、愛おしそうに何度も、何度も撫でていた。
彼女は立ち上がり、部屋の最も奥まった場所にある、重厚な棚を開いた。そこは、彼女が他人に決して触れられたくない、最も大切な
その様子を、周囲に佇む人形たちが、不思議そうに首を傾げながら眺めている。いつもなら無機質に片付けをこなす主が、これほどまでに一つの物品を特別に扱っているのが奇妙だったのだ。
人形たちの無垢な視線に気づき、アリスは少し頬を赤らめながら、ふいと顔を背けた。
「……なによ。綺麗な布だから、ただの素材として価値があると言ったのよ。それ以上の意味なんてないわ」
誰もいない部屋で、人形たちに向けて、聞こえがよい言い訳を口にするアリス。
その感情に、まだ名前はなかった。
生涯にわたって、彼女が自らその名をつけることは決してないだろう。
だが、口元だけは、ほんの少し綻んでいた。
◇
夜。
幻想郷の最深部、虚無と現実の狭間に位置する「境界の隙間」
無数の瞳が蠢き、赤と紫の境界線が交錯する不条理な空間のなかで、二人の妖怪が静かに人里を見下ろしていた。
「───人里の変革スピードが、想定の限界値を超えつつあります。人間たちが、あの魔法の森の植物を飼い慣らし、妖怪の力を模倣し、抗う術を持ち始めております」
「このままでは幻想郷の大結界のパワーバランスが完全に瓦解します。あの異邦人は、幻想郷の理を壊しかねないです」
八雲の式──八雲藍の危惧は、幻想郷の管理者として当然の正論だった。だが、境界の上に腰掛けた八雲紫は、楽しげに瞳を細めるだけだった。
「何故、今まで頑なに接触しなかったのですか?このような事態になる前に、異邦人を摘み取ることも出来たはずです」
藍の重ねての問いに、紫はふっと笑みを消し、静かに目を伏せた。
「……まだ、資格がなかったもの」
少しの間を置いて。紫の声は、世界の理そのもののような重みを帯びていく。
「彼にも」
さらに静かに。まるで自らの胸の内にある、誰にも見せたことのない感情を確かめるように。
「私にも」
紫は静かに呟いた。
人は、救われ続ければ歩くことを忘れる。だから男は、人が歩くための道だけを遺した。
ただ生かされるだけの人間は家畜に過ぎない。
けれど、彼は違う。自らの足掻きと、人里に植え付けた牙によって、ついに世界と対等に交渉する権利を勝ち取ったのだ。人間が、ただの被捕食者から、対等な契約の相手へと昇格した。
紫はゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、藍は見た。常に絶対の余裕を崩さない主の、扇子を持つ白皙の指先が、ほんの僅かに、硬く強張っているのを。
彼が幻想郷に来てから、ずっと観察し続けてきた。かつて神を殺し、律を掲げ、戦場を統べた「狼の戦鬼」の前に、ついに一人の妖怪として、対等に向き合わねばならないという現実に。
彼女の胸の奥で、無自覚な緊張の糸が、ピンと張り詰めていた。
だが──紫は笑った。
久方ぶりだった。契約というものを、これほど楽しみに思えたのは。ずっと、ずっと特等席から見つめ続けたその男と、ようやく同じ地平で、言葉なき交渉の席につくことができる。
紫はパチンと音を立てて扇子を閉じた。その冷徹な音が、静寂を切り裂く。
彼女が袖を振ると、夜の闇のなかで、境界が静かに、しかし重々しく開いていく。その割れ目の奥からは、静かに揺れる闇が口を開いていた。
「さて──契約を結びに行きましょうか」
「仰せのままに」
紫の言葉と共に、妖狐は跪き、彼女達の姿は境界の闇へと消えていく。その横顔には、妖怪賢者らしからぬ、少女のような笑みが浮かんでいた。
アイテム: 魔女への贈布
上質な麻糸を一本一本、丁寧に織り込んだ布。
魔法の宿る品ではない。
ただ、人の手が紡いだ温もりだけが残されている。
森の魔女アリスへ贈られた数少ない品のひとつ。
彼女はこの布を使うことなく傍らへ置き続け、
ときおり静かに指先で撫でていたという。