お昼休みの薔薇の館。
江利子はサンドイッチを食べながら、蓉子に話しかけた。
「聖も顔を出さなくなったし。」
「そうね。」
おにぎりを食べながら蓉子が答えた。視線を中庭の窓に向けて呟いた。此処にいない蕾はベンチでひとり、購買で買ったパンを食べているのだろうか。
「後悔しているの?」
「なにをかしら。」
「桜ちゃんに腹をくくれと言ったことよ。」
痛いところをつかれて、蓉子は食べようとしていたプチトマトをお弁当箱に戻した。
「……そうね。余計なことしたと思うわ。」
お互いに思いあっているのに、なかなかくっつかない2人が焦れったかった。だから、蓉子は発破をかけるつもりで桜ちゃんに言ったのだ。
「そこまで落ち込まなくてもいいのではなくて。蓉子のお節介は今に始まったことでもないし。」
「あのねぇ。」
「私は必要なことだったと思うわよ。」
「え。」
きょとんと蓉子は江利子を見つめた。
「聖は姉妹制度に拘っていないようだし、白薔薇さまもせっつくようなことはしないし。だから、だれかが言わなきゃいけなかったのよ。」
そういって黄薔薇の蕾はにっこり微笑んだ。つられて蓉子の表情も和らいだ。
「ありがとう。」
「蓉子が貧乏くじを引いてくれてよかったわ。」
「あら、私は貧乏くじを引いたとは思っていないわよ。」
花が咲くように蓉子は笑った。
「友達はそういうワリをくうものでしょう。」
今度は江利子が変な顔をした。
「貴女のそういうところ、尊敬するわ。私までそうなりたいとは思わないけれど。」
階段を登る音が聞こえると蓉子と江利子は顔を見合わせた。軽やかな足音と静かな軋みが重なるように近づいてくる。
「ごきげんよう。」
「ごきげんよう。」
部屋に入ってきたのは二人の妹たちだった。お弁当はすでに食べ終わったようで、令も祥子も手ぶらだ。
「2人で揃ってどうしたの?」
「今日は会合はないわよ。」
不思議がって尋ねるお姉さまを相手に妹たちは可笑しそうに笑った。
「ただ会いたくなったんです。」
「私もお姉さまの顔を見たくなりました。」
そういって、それぞれの姉の向かい側に座る。蓉子と祥子は狐につままれたような気持ちだけれど、悪い気はしない。あまのじゃくな江利子だって、慕ってくれる妹は可愛いものだ。
「どういう風の吹きまわしかしら。」
江利子が尋ねても、ふたりの蕾の妹たちはただ微笑むだけだった。まるで、もうすぐ良いことがおきると知っているかのように。
昼休み。
古びた温室に聖はいた。
梅雨が明ける瞬間はある。
雨音が途絶えて、あたりが静かになり。ふと頭上から照らす光に導かれて顔をあげると、そこには清んだ青空が広がっている。
「マリアさまの心。それは……。」
自然と口から歌がこぼれた。幼少期にさんざん歌わされた聖母を讃える詩。
今よりも甲高い自分の声が、繰り返し繰り返し。壊れたカセットテープのようにリピートされる。
もしも、本当にこの青空がマリアさまの心なら、なんて広大な心なのだろう。あの青の濃い一点を見つめていると吸い込まれそうで怖くなる。
以前ならそのまま空に溶けて消えてしまいたいと思っていた。今でも、時折そう思う。けれど、ある少女の面影が私を地上にとどめる。
目を閉じると、あの子のことを思い出す。
別に青空でなくたって、いつでもふとしたときに考えてしまうのだけど。
花が似合う純粋な少女の姿に、大人のような不思議な落ち着きを身につけた下級生。彼女に出会ってから、聖は変わった。
勉強が出きれば何も言わない学校、理由なくいい子だと信じている両親にたいする反発なようなものは未だにある。そして、そんな自分が幼く思えて、いっそのこと何者でもなければいいと思っていた。
何をしたいのかわからない。
何をしていいのかわからない。
乾いた砂漠をさ迷う旅人の心細さを持って、毎日を漠然と過ごしていた。けれど、モーディーと出会ってから聖は変わった。
どうせいつかは1人で生きていく。それが早いか遅いかの違いだけ。そう言ったモーディーの突き放すような冷たさに、私は初めての感情を抱いた。
この子を癒したい、守りたい、慈しみたい。
私は初めて、誰かに何かを与えたいと思った。旅人が長い旅の果てにひとところに腰をすえるように、私の揺れてばかりの心が定まった。
お弁当をもらえなくなった日。
他の子からお菓子をもらったらモーディーはどんな表情をするだろう。魔が差した聖は知らない下級生からプレゼントを受け取った。
(どんな表情をするだろう)
当てつけのように見せびらかしても、モーディーはちっとも気にする素振りを見せなかった。強がりでもなくただ「よかったですね」と。
正直、ショックだった。
聖は桜が焼きもちをやいてくれるのを期待してた。
お菓子に添えられた丸みを帯びた文字で書かれたカードには名前と「ファンです!」の一文。好かれているのに、嬉しくない。これがモーディーからだったらどんなに幸せだったろう。
「マリアさまの心、それは山百合。私たちもほしい、白い山百合。」
ほしい。桜の心がほしい。
子どもっぽく気を引こうとする自分は滑稽だと思うけど、嫌いではない。だって、私はまだ子どもなのだから。馬鹿なことをして当然なのだから。
同級生を穿った眼差しでみるよりも、わがままでも心に正直でいるほうがよほど健康だ。
「マリアさまの心、それは……、」
目を閉じて歌っていると、入り口のほうで物音がした。
「歌がお上手ですね。白薔薇のつぼみ。」
空気の読めない乱入者はニコニコ笑いながら近づいてくる。
「あなたほどではないでしょう。静さん。」
「……白薔薇のつぼみが私の名前を知っているなんて光栄ですわ。」
紅薔薇さまと合唱部の部長は仲いい友達だ。だから、会話の流れで知っていただけ。それなのに、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「たまたまよ。」
「私が桜と一緒にいたからですか。」
立ち上がろうとして、腰が不自然な位置で止まる。
「白薔薇のつぼみにご執心の下級生がいるのは周知の事実ですもの。」
「……桜は関係ないわ。」
嘘はついていない。
実際、静さんのことは音楽室で会う前から知っていた。けれど、もしもあの時、知らなかったら。
「そのほうが私も嬉しいです。」
静さんは聖の心を見透かしたように呟いた。
「桜はピアノが好きなんですって。それこそ、生まれる前から好きだったと冗談をいうほどに。」
「そうなの?」
初耳だ。
桜は聖と一緒にいる間、ピアノのことなんて1度も話題にしなかった。
「私も知ったのは偶然なんです。たまたま練習室の扉が開いていて。隙間から音が聞こえてきて……。」
陶然と語る静の耳には、今もそのピアノの音が流れているようだった。
「なにを弾いていたの?」
と尋ねてから思い直して、
「やっぱりいい。本人に聞くわ。」
「……私もそのほうがいいと思います。」
はっきりした声だった。
「桜にとってもそのほうがいいですから。」
なぜ、と聞くよりも早く静さんは失礼しましたと温室を出ていった。
私も教室に戻ろうと温室を出たあたりで、背後から声をかけられた。
「聖さま。」
雲雀のように美しい声。
聖にとっては温かい日だまりにいるような心地よい心にさせてくれる声。振り返ると奇跡のように彼女がいた。
「モーディー!」
衝動のままに、私はモーディーを抱きしめた。小さな腕も控えめに抱きしめ返してくれた。
「……聖さま。」
私を呼ぶ声は震えていた。次の一言で私たちの関係は変わるのだろうという重大な予感がした。
「なあに。」
モーディーは腕の中から顔をあげ、真っ直ぐ私の目をみて言った。
「私には秘密があります。それは友達にも家族にも話せないことです。……きっと、聖さまにも打ち明けないでしょう。」
モーディーは静かに涙を流していた。
「そんな隠し事をした私でも……聖さまは、妹にしたいと思いますか。」
私は答えるよりも先に強く強く抱きしめた。胸に轟く複雑な感情が、言葉を介さずに直接相手に、熱い体温と一緒に伝わってしまえばいいと思った。
「馬鹿ね。」
ずっと前から、モーディーは普通の子とは違うと思っていた。いずれ、その違いが私から離れていく原因になるのではないかとも。
「たかが隠し事のひとつで何。」
そんなのは拒絶する理由にならない。
「え。」
そのとき、自分でも驚くほど自然に、私はモーディーの頭にキスを落とした。
「桜、私はあなたをモーディーと呼びはじめるよりも前からあなたが好きよ。」
「す、好き!?」
驚きで目を丸くするモーディーに畳み掛けるように尋ねる。
「私の言葉を疑うの?」
「そういうわけではありませんが。」
小さな手が聖の制服をギュッと握りしめた。溺れる者が流木に縋りつくような、必死さを感じる力のこもった握りしめ方だった。
「この気持ちは迷惑?」
いつかと同じように尋ねる。
モーディーは視線をさ迷わせて、小さな声で呟いた。
「……嬉しい。」
私はそのまま桜を抱きしめて連れ去りたかった。高鳴る鼓動を感じながら、小さな両肩を握りしめて身を離した。
震える手で自分の首からロザリオを外した。
私はイエスを信じない。
けれどお姉さまから貰ったものだから、この銀色の十字架は誓いを立てるのに相応しい。
「私の妹になりなさい。」
「はい……。」
泣きじゃくりながら、モーディーは頭を下げた。白い細い項をみると、ぞくりとした気持ちになったけれど、聖はそれを押し殺してチェーンを首に通した。
モーディーは十字架を恭しく掌にのせると両手で握りしめた。
「聖さま!……聖さま!」
いきなりモーディーが飛びついてきた。
あまりに強く抱きしめられて、聖は息ができなくなるかと思った。
「わ、私、断られるかもと思っていました。何度も何度も誘いを断ったから。だから、愛想を尽かされても可笑しくないって。」
「私のしつこさを甘く見てもらっちゃ困るわね。」
背中を優しくなでてもモーディーは腕の力を弛めなかった。聖をさらに、きつく抱きしめて小さな子供のようにわんわん泣いた。
「モーディーはやっぱり泣き虫ね。」
「だ、だって。突き放したし、冷たい態度もとったから……。」
「仕方がないから泣き止むまで傍にいてあげないと。」
宥めながら、まじまじと顔を見つめると涙でぐしゃぐしゃに歪んでいた。ぬぐってもぬぐってもとめどなく流れる涙。それだけモーディーが不安に思っていたのかと思って、嬉しくなる。
私の気持ちは一方通行ではなかった。
これ以上愛せないと思っていたのに、さらにモーディーのことが愛おしい。心の底から湧く衝動にまかせて、細い顎を持ち上げた。
この気持ちは恋ではない。
けれど、今、世界で一番好きなのはモーディーだ。
「モーディー。」
初めて触れた女の子の唇はやわらかかった。
「……せ、聖さま?」
モーディーは呆けた表情で私を見つめた。
「聖さまではなく、お姉さまよ。」
「お姉さま……。」
唇をおさえたモーディーが真っ赤な顔で見上げる。
もう一度、顔をよせようとしたら熱い掌が口元を覆った。
「も、もう無理です。これ以上は。」
焦るモーディーに聖の頭も冷静になってきた。
(なにやってるのよ、私。)
顔から火が出そうだ。
心臓が激しく打ち出して、今にも胸から突き破ってしまいそうだ。なんとかして落ち着かないと。こんなところを誰かに見られたらと、考えるだけでも猛烈に恥ずかしい。
「そ、そうね。」
嫌だったかと尋ねた。受け取ってもらったばかりなのに、これが原因で断られたらどうしよう。
「……嫌ではないから困ります。」
涙ぐみながらも、モーディーは笑った。
雨上がりの青空のような、晴れ晴れとした、まるで花が咲いたような笑顔だった。
「お姉さまはズルいです。」
ずどんと、胸を撃ち抜かれるような衝撃をくらった。頭の中は真っ白で、ただただ、モーディーの笑顔が輝いていた。夜空に輝くシリウスが、都会の明るい空でもなお強く光り輝くように。
(ああ、この表情がみたかった)
何の憂いもない心からの笑顔。
無邪気なモーディーの自然な笑顔がみたかったのだ。
予鈴が聞こえても、聖はぼんやりとモーディーを眺めていた。
「走れば間に合います!」とモーディーが聖の手を引いて走り出す。
聖は夢見心地で背中を追った。
私に妹ができた。
モーディーが妹になってくれた。
そのことがたまらなく嬉しかった。
午後の授業は二人そろって遅刻してしまった。
けれど、桜のほうは偶然見かけていた令と祥子のとりなしであまり怒られなかったそうだ。
すぐに察してその場を離れたとのことだけど、桜は恥ずかしさで悶絶して、しばらく二人に弄られていた。
私も薔薇様方や、蓉子や江利子に揶揄われたけれどそれよりも正々堂々とモーディーを可愛がれることのほうが嬉しくてむしろ自慢させてもらった。
「やっと落ち着いたわね。」
「まさか聖から惚気を聞かされる日が来るとは思わなかったわ。」
蓉子と江利子は自分の妹たちと仲のよい子が山百合会に入ってほしいと思っていた節もある。
確かに1年生の3人が和気藹々と過ごしている様子は心が和んだ。見た目に反して可愛いもの好きで家庭的な令、小笠原のお嬢様の仮面を外した年相応の素顔をさらす祥子、そして2人に構われて嬉しそうな桜。
後輩とはかくも可愛いものなのかと、新しい発見だった。人嫌いだと自認していたのに、山百合会の仲間と関わるのも悪くないと感じる自分に驚いた。
「ようやく私もおばあちゃんになれるのね。」
「ね。白チビもやるじゃない。」
「これからは聖ちゃんもお姉さまとして桜ちゃんの面倒をみるんですよ。」
お姉さまや薔薇さま方は過保護な親か嫉妬深い恋人のようにあの子に構う私に呆れていたけれど、否定はしなかった。
「またお弁当を作ってもらえないことにならないようにね。」
「大丈夫。もう二度と逃がさないから。」
「こわっ。」
大袈裟に両腕を抱きしめて身を引く江利子。
失礼な態度に眉をしかめると、モーディーがぽつりと呟いた。
「早まったかな。」
早まった?
むしろ遅いぐらいだろう。
私は祥子の後ろに隠れるモーディーを引っ張り出して周りに見せつけるように手をつないだ。歓声があがる。
「今度、久仁子さまにも報告に行こうね。」
「そうですね。」
モーディーは呆れていたけれど、握った手を離すことはしなかった。